
図3:花菱鳥松氷裂模様大紋被衣(本館蔵) |
一般にあまり馴染みのない服飾のひとつに、被衣(かずき。かつぎとも呼ぶ)は挙げられよう。被衣とは、頭上からかぶりかけて着用する女性のかぶり物である(図1)。その外形は、小袖や帷子(かたびら)といった小袖型服飾の範疇に入り、“きもの”の形をしている。しかし、袖を通して身に纏(まと)うことはなく、専らかぶるための衣服であった。
衣服をかぶる風習は、既に平安時代には行われていた。鎌倉時代・13世紀制作の「隆房卿艶詞絵巻(たかふさきょうつやことばえまき)」にも描かれているように、かぶる衣服は、はじめは袿(うちき)を通例としていた(図2)。それが室町時代・15世紀中頃になると、小袖型服飾が一般的となる。1453(享徳2)年成立の一条兼良(いちじょうかねら)の『雲井の春(享徳2年晴之御鞠記(はれのおんまりき))』には、「以前はちょっとした薄い衣をかぶっていたが、この頃は今様のこととして、小袖被衣が馴染みの姿となった。昔の面影は絶えたけれども、時代の流れに従った風習で、かつ、中々に見所も多い。」といった内容の記述がある。この記述からすれば、変化は急速であったらしい。15世紀中頃は小袖型服飾が成熟度を高めて歴史の表舞台に立つようになる時期である。かぶり物として小袖型服飾が優勢になったのも、そうした動向の一端と言えよう。そして、小袖型服飾をかぶることの一般化から、やがて特化して被衣という固有の服飾が確立することとなる。
室町時代から江戸時代初期の絵画を見ると、被衣には、白無地や、白地に青系統の色で模様を施したものが多い。恐らく、前者は白の練緯(ねりぬき)(経糸(たていと)に生糸(きいと)、緯糸(よこいと)に精錬した糸を用いた平織の絹)で、後者は藍染めの麻であろう。もっとも、このような特徴は慶長期(1596~1614)頃に顕著となり、大永期(1521~27)頃制作の歴博甲本「洛中洛外図屏風」(本館蔵)ではまだ確かでない。注目されるのは藍染めの麻と見られるものである。それは、後の一見して被衣とわかる定型化したデザインが藍染めを基調としているためである。連続性を鑑みれば、デザインの特化は、慶長期頃には進んでいたと推測されよう。
代表的な定型化したデザインとしては、三つ挙げられる。
一つ目は「花菱鳥松氷裂模様大紋被衣(はなびしとりまつひょうれつもようだいもんかずき)」(図3)のように、頭頂部に大きな菊や梅などの花紋を施したもの。これらは“大紋被衣(だいもんかずき)”と俗称される。
二つ目は「松皮菱花丸模様被衣(まつかわびしはなのまるもようかずき)」(図4)のように、腰のあたりを紺と縹(はなだ)で松皮菱の横縞(よこしま)とし、花の丸文や菱文などを散らしたもの。大抵、生地には絽(ろ)が使われている。これらは“御所被衣(ごしょかずき)”と俗称され、公家・武家方の料であった。
三つ目は「田園風景模様被衣(でんえんふうけいもようかずき)」(図5)のように、熨斗目(のしめ)形式にして腰変部(こしがわりぶ)に様々な模様をあらわしたもの。これらは“町被衣(まちかずき)”と俗称され、町方の料であった。
以上のうちで、大紋被衣の成立は、元禄期(1688~1703)頃と考えられる。住吉具慶(1631-1705)が描く被衣では、額にかかる部分の襟を黒っぽく塗っているが、花紋は見られない。だが、1700(元禄13)年刊の小袖模様雛形本(ひながたぼん)『常盤(ときわ)ひいなかた』の被衣には花紋が施されており、また、西川祐信(にしかわすけのぶ)(1671-1750)が描く絵にも大紋被衣は頻出する。なお、「梅霞模様被衣(うめかすみもようかずき)」(図6)に見る大柄の花模様を詰めたデザインは、『常盤ひいなかた』所載の被衣に通ずるが、花紋を欠いている。大紋出現前のデザインと見られ、遺品としては、こうしたタイプが最古となる。
「御所被衣」なる名称は井原西鶴(いはらさいかく)の『好色五人女』(1686年刊)などの著作に見えるが、当時の具体的なデザインは掴めない。祐信の描く被衣になると、御所被衣や町被衣に近いデザインを見ることができる。しかし、着用者の身分とデザインとの対応関係は未だ看取できない。このことは、1710(宝永7)年の年紀がある「縞木瓜模様裂(しまもっこうもようぎれ)」(図7)からも知られよう。打敷(うちしき)の裏裂(うらぎれ)で、墨書銘にある「可野屋彦兵衛内おきち」なる人物の被衣で仕立てたものと推測される。御所被衣に通ずるデザインだが、着用者は町人クラスの人物である。それが、1781(天明元)年自序の木室卯雲(きむろぼううん)の『見た京物語』に「御所の被(ママ)はだんだら筋、町はもやうなり。」とあり、18世紀後期には御所被衣および町被衣のデザインは着用者の身分と対応して確立を見せた。
ところで、西川祐信が描く絵は被衣研究にとって欠かせない。遺品に見られるデザイン、あるいは、その前段階にあたると目されるデザインなど、多彩な被衣を描き出しており、デザインの展開を辿(たど)るうえで重要な情報を提供してくれる。しかも、彼ほど被衣を多く描いた絵師は他にいない。同じ浮世絵師として相前後して活躍した菱川師宣(ひしかわもろのぶ)(?-1694)や鈴木春信(すずきはるのぶ)(?-1770)ですら、被衣をほとんど描いていない。それは、江戸で活躍した二人とは異なり、祐信が京都の絵師であったことが大きく関係していよう。
享保期(1716~35)成立の新見正朝(しんみまさとも)の『八十翁疇昔話(はちじゅうおうむかしばなし)』に、「万治(1658~60)の比、江戸中かつぎ止む。」とあるように、17世紀後期から、江戸を始めとする多くの地域で被衣は廃れていくことになる。その中にあって、1681(天和元)年刊の師宣の絵本『うき世百人女絵』で被衣を京都の風俗とするように、まずは上方(かみがた)、そして中部・東北などの一部の地方に限り、被衣を永らく受け継ぎ、また、特徴的なデザインを展開させた。
上方の被衣と地方のそれとは、全く無関係にあったわけではなく、デザインには多分に共通するところがある。地方の被衣のデザインは上方の製品を手本としたと考えられるが、写した点と、写しきれなかった(あるいは、写さなかった)点とが、自ずとあらわれている。以下に幾つか例示してみよう。
地方作の「流水片輪車波涛千鳥模様大紋被衣(りゅうすいかたわぐるまはとうちどりもようだいもんかずき)」(図8)は斜めに茶と藍に染め分けているが、このような斜めの染め分けは珍しく、他に類例を見ない。しかし、上方の型染めの製品には、図3のように斜めの区画を取り入れた例がしばしば見られる。こうした作例が源流となっていよう。
「山形模様被衣(やまがたもようかずき)」(図9)は御所被衣に似たデザインだが、縞は紺一色で、松皮菱ではなく山形である。花の文様もない。生地も紬(つむぎ)で御所被衣通有の絽とは異なる。近い作例として、加賀藩の武家・阿岸家に、繻子(しゅす)地に紺と縹二色で山形の縞のみを染めた御所被衣風の遺品が伝来している。この例からすれば、地方の武家の需要を満たした地方作と推測される。
「近江八景模様大紋被衣(おうみはっけいもようだいもんかずき)」(図10)は町被衣のデザインをとる地方作である。上方作と較べて腰変の位置が大きく下方にずれている。デザイン構成は知っていても、位置にまでは気が回らなかったと言えよう。また、大紋が付いているが、上方作の町被衣には大紋はまず付かない。大紋を固守するのも、地方作に見られる傾向である。
地方作は作風によって幾つかにグルーピングできる。同じグループ内の遺品は強い親近性を示す。同一地域の遺品と見做され、ある一つの上方の被衣が手本となり、そこから地域性を示す作風を確立・継承していったさまが窺える。地方作がしばしば作期に比して上方作にとっては古様と言えるデザインを備えていることからも、このような展開の有りようが推測される。見方を変えれば、それぞれの地域で、いつ頃に上方の文化を導入したかが分かる物差しとなり得るのである。
冒頭で述べたように被衣があまり一般的でないのは、研究の中で等閑視されてきたことに拠ろう。そもそも遺品が伝存しにくく絶対数が少ないうえ、そうした遺品も江戸時代中期以降の作とあまり古くに遡らないこと、色目が寒色系で地味なことなどが、関心を呼ばない要因であろう。しかしながら、被衣は、染織史・服飾史のみならず、様々な立場にとって、歴史・文化の諸相をひもとく情報源となり得る興味深い存在なのである。 |