刊行物
歴史系総合誌「歴博」
歴史系総合誌「歴博」 118号
[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介
サーカスの夜明け-軽業芸人の海外交流
早竹虎吉は、幕末最後を飾る見世物のスーパースターであった。虎吉の一座は天保ごろより大坂を拠点として活躍をはじめ、安政4(1857)年には江戸に進出、さらに伊勢・宮島・徳島など全国を巡業して、その人気は一世を風靡した。
虎吉の得意としたのは"曲差し"(きょくざし)と呼ばれる芸であった。長い竹竿を肩や足で支えつつ、その上部で子方が軽業や早替りなどの曲技を披露するというもので、危うい芸を見事に演じきって喝采を浴びたのである(図1)。
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| 図1 『大阪下り軽業太夫 早竹虎吉』 西両国広小路における早竹虎吉の一座の興行。 大規模な作り物の中で、曲差し・行燈渡り・曲独楽などの妙技が物語仕立てで演じられた様子が躍動感豊かに伝えられている。 |
図2 『中天竺舶来之軽業』 アメリカ人・リスリー一座の一場面。曲馬は欧米のサーカスの眼目であった。 |
このころ、見世物史を新たな時代へと導く事件が起こった。元治元(1864)年3月、アメリカ人リズリー一座の来日である。10人の座員と8頭の馬による舶来の芸能は好評を得たものの(図2)、横浜外での興行は許されず、活動はゆきづまる。そうして思いついたのが、日本の軽業芸の欧米への紹介であった。
慶応2(1866)年5月、リズリーは、足芸の濱碇定吉(はまいかりさだきち)一座・手品の隅田川浪五郎一座・曲独楽(きょくごま)の松井菊治郎一座らを「帝国日本芸人一座」として組織し、ともにアメリカに向け出発。翌年、サンフランシスコ(1月7日)、ニューヨーク(5月6日)の劇場にて興行を果たし、大盛況の成功を収めたのであった。
その後、一座は渡欧し、2年もの間にフランス・イギリス・オランダ・スペイン・ポルトガルなど、西欧のほとんどの国を巡業した。

図3 『鉄割一座 口上図』
鉄割一座の舞台口上の図。子役が花形役者として活躍する一座も多かった。
実は、彼らは幕府に申請して認められた最初の渡航者で、彼らによって庶民レベルの"異文化交流"の端緒が切り開かれたといっても過言ではないのである。
一方、虎吉の一座をはじめ、鉄割福松(かねわりふくまつ)一座(図3)、鳥潟小三吉(とりかたこさんきち)一座(図4)など、日本で人気を勝ち得た軽業芸人たちが、時を同じくして競い合うようにして渡航した。ちなみにこの間、ニューヨークでは、この中の鉄割一座の人気若太夫と帝国日本芸人一座の隅田川一座の女三味線弾き登宇(とう)とが密会していたのがばれ、鉄割一座が詫状を入れるという色恋沙汰も起き、見世物史に興を添えている。その後、ロンドンにて登宇と濱碇定吉との間に女子が誕生。『ロンドン・タイムス』は、日本国外で誕生した初めての日本人、と報じた。
図4 『ヨロハ渡り大軽業 座元鳥潟小三吉』(3枚1組)
ヨーロッパ帰りの鳥潟小三吉一座の興行。
洋風のコスチュームや洋傘など随所に欧風の文物を取り込んでいるものの模倣の域を出ず、基本的には近世以来の伝統的軽業を演じていた。
さて、リズリーに続いて欧米からも多くの芸人が来日した。明治5(1872)年7月に来日した、フランス人スーリエ曲馬(きょくば)の一座は明治最初の舶来曲馬団で、京都博覧会にも参加。火の輪くぐりをはじめ、スピード感あふれる馬の妙技を披露した(図5)。さらにスーリエ以上に日本の軽業芸に影響を与えたのは、明治20(1887)年4月、イタリアから来日したチャリニ曲馬団で、馬はもとより、虎・象・牛・猿・狸などの動物・猛獣たちが活躍した。
しかしながら、これより十数年を経、大正時代には日本の軽業芸はさらなる新しい段階を迎える。「東洋技芸大会大竹娘曲馬」(図6)のポスターには、曲差しなどの日本の伝統芸と欧米流の曲技とが混ぜんと描かれているが、加えて注目すべきなのは飛行機の出し物である。すさまじい爆音で場内狭しと頭上を滑空し、衆目(と耳)を驚かせたということであるが、ポスターのそれは、はからずも近代の機械文明が文化として展開をする瞬間を捉えたものとして、興味深い。
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| 図5 『異人大曲馬 太夫元スウリエ』 フランス人・スーリエ一座の興行。 曲馬・空中ブランコ・綱渡りなどスピード感あふれる舞台の様子が描かれる。 |
図6 『東洋技芸大会大竹娘曲馬』(大正5年) 大正期には、近世以来の伝統的な曲芸を継承しつつも、日本の軽業芸はほぼサーカス化していた。 |
本館民俗研究部 松尾 恒一
参考文献
三好一『ニッポン・サーカス物語』白水社、1993年
川添裕『江戸の見世物』岩波新書、2000年、他





























