刊行物刊行物

歴史系総合誌「歴博」歴史系総合誌「歴博」

歴史系総合誌「歴博」 111号

[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介

京都名所図屏風

洛中洛外図屏風という、一双屏風に京都実隆市街とその周縁の名所をパノラミックに描き出す屏風絵が誕生したのは、室町時代後期である。『公記』永正3(1506)年の記事に見える、越前の朝倉氏が宮廷の絵所預であった土佐光信に描かせた「一双画京中」あたりが最初ではないかと推測されているのである。
中世末から近世初頭にかけての洛中洛外図は、たんに都の景観や諸階層の生活を描き出した名所絵や風俗画ではなく、市街地のなかにそのときどきの有力者たちの邸宅を大きく描き込んだ、都を取り巻く政治状況を映し出す鏡であった。『実隆公記』の越前朝倉氏の注文という記事からもうかがえるが、ときに政治的な目的にも使用されたらしい。時代が下り江戸期に入って、京都市街に徳川氏の二条城が出現すると、左隻に二条城、右隻に豊臣氏ゆかりの方広寺大仏殿と内裏を核とする図様が固まってくる。
定型化・量産化の流れのなかで、洛中洛外図屏風も次第に変質してゆく。貞享5(1688)年刊の井原西鶴『日本永代蔵』巻二には、洛中洛外図が嫁入りの調度として富裕な町人層に普及したことをうかがわせる一節さえ見いだせる。物見遊山に浮かれ歩いて家事をないがしろにするから、「洛中尽(の屏風)」は嫁にやる娘にはもたせないという話で、つまるところ、洛中洛外図がたんなる”京都名所図屏風”へと変わっていったわけである。現存作例もこうした変化を裏付けており、たとえば18世紀初頭の作と推定される本館所蔵の歴博E本など、内裏や二条城、町屋などの描写はきわめて矮小化され、参詣客を集める寺社や郊外の行楽地にもっぱら筆が費やされている。

京都名所図屏風右隻

右隻
鴨川と三条大橋を画面左下に配し、東山一帯の春景を俯瞰する。画面中央やや右寄りに大きく描かれるのが祇園社。清水寺、知恩院、吉田社などの堂宇が見える。

江戸末期に松川龍椿(生没年不詳)によって描かれたこの「京都名所図屏風」も、一双屏風に京都の景観を収めており、広い意味での洛中洛外図屏風といえるだろう。龍椿は円山四条派の流れを汲む絵師で、文政5(1822)年、同13(1830)年版の『平安人物志』にその名が見えることから、当時はある程度人気ある絵師の一人であったようだ。寺社の建築や微細な参詣人たちを的確に描き出す筆致や、遠山の見事な量塊表現などに絵師の力量がうかがえ、清新で明澄な色彩は近代京都画壇に通じるものである。
もっとも、そうした描写の質以上に興味深いのは、この屏風の景観のとらえかたである。向かって右隻に鴨川と京都市街の東部、左隻に嵐山を含む市街西部を描き分ける形式は、江戸初期に成立した定型を踏襲するものだが、定型化後の構成要素として欠かせなかった内裏や二条城がついに姿を消し、洛中洛外図の特徴のひとつである町屋の描写もきわめて希薄になっている。そのかわりに有名な社寺は大きく描かれ、景勝の地である嵐山の占める面積も格段に大きい。右隻など、人気のある寺社のある東山一帯を画中に広く描き込むため、従来の洛中洛外図に比べ鴨川の位置をずっと下げているほどである。そして個々の寺社の境内の描写は、名所図会の挿絵を彷彿とさせる描写精度の高さを見せる。物見遊山の寺社参詣が盛んになった時代、洛中洛外図から京都名所図への流れのひとつの終着点を示した屏風といえるだろう。

京都名所図屏風左隻
左隻
都の西北部を描く。季節は秋。右下に北野天神社、その左に塔が見えるのが仁和寺。左上に大堰川と嵐山がひときわ大きく配される。

(本館情報資料研究部・大久保純一)