刊行物
歴史系総合誌「歴博」
歴史系総合誌「歴博」 108号
[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介
炮術伝書は時代の鏡
ここに紹介する炮術伝書はふたつである。ひとつは1585(天正13)年6月に宮崎内蔵人佐が南左京亮にさずけた「たまこしらへ之事」の1巻であり、もうひとつは1615(慶長15)年9月に稲富一夢理斎が大久保藤三郎にさずけた「一返一流之書」と「極意書」の20巻の一部である。ふたつの炮術伝書は、最近、本館の所蔵に帰した炮術資料の一部である。
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宮崎内蔵人佐が南左京亮にさずけた「たまこしらへ之事」。 流派は不詳である。 |
五期の区分
日本の炮術は鉄炮の伝来にはじまり、明治維新をもって終わりを告げた。約3世紀におよぶ炮術の歴史は、その特徴から五期に分けて理解できる。まず一期は鉄炮伝来から江戸時代のはじめまでである。この時期は天下一統の戦乱がつづき、諸大名は領土の拡大をめざして軍拡にしのぎを削った。一期の炮術はこうした戦乱の世相を反映して、実戦的色彩がつよかった。
二期は戦乱の時代から、それが終息して平和が訪れた期間、すなわち江戸幕府の創業期から寛文年間(1661~1673)までの時期にあたる。すでに一期の後半から石火矢(いしびや)・大筒とよばれる大型砲が登場したが、文禄・慶長年間(1592~1615)の対外戦や国内戦の段階になると、さらに大量の大型砲が投入された。二期は一期とかさなる時期もあるが、大型砲の使用がめざましく、これを反映して大砲述が流行した。
三期は江戸の政権が、もっとも安定した平和な時期で、大筒の抱打(かかえうち)、鉄炮ないし火矢筒から棒火矢を放つ射技など、実戦からかけはなれた炮術が主流になった。享保の改革の武芸奨励策によって、この変則的な炮術はさらに勢いをました。
四期は北方に外国勢力の脅威があらわれはじめた寛政以後から明治初年までの時期である。これまでの炮術は個人の射撃術の向上を眼目とし、なおかつ戦いのない世相を反映して実戦からかけはなれた変則的な炮術が幅をきかせていた。しかし対外危機が眼前に迫るやいなや、為政者のあいだで炮術は海防の要術とみなされるようになり、この結果、鉄炮を戦術的に運用する炮術が生まれた。そして五期は天保末年から明治初年までの時期で、高嶋秋帆が提唱した西洋流の炮術が大流行した。
日本の炮術は戦乱の時代には実戦的な、戦いのない時代には実戦からかけはなれた、そして対外危機が緊迫すると、ふたたび実戦的な炮術が生まれるというように、つねにその時代の動きと表裏一体していたのである。
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| 稲富流伝書 |
一期の炮術伝書の特徴
三期から五期の炮術は膨大な数の伝書をこんにち伝えているものの、一期、それも慶長以前となると、断然少なく、断簡をふくめて4本の指を折るにすぎない。最古の伝書は、1559(永禄2)年2月、室町将軍足利義輝が越後の上杉氏に贈った「鉄放薬方並調合次第」(上杉家文書)であり、そのつぎは1569(永禄12)年3月の(某)長氏が自遊斎にさずけた津田流(自由斎流)の「(玉薬調合次第)」(個人蔵)である。
そして3番目が流派不明だが、ここに紹介した天正13年6月の宮崎内蔵人佐の「たまこしらへ之事」の1巻であり、4番目が1594(文禄3)年2月、吉田善兵衛盛定が北信濃の豪族屋嶋藤三郎にさずけた岸和田流の「めあて之大事(以下略)」(長野・守田神社)である。
最古の伝書にあたる越後上杉氏宛の伝書の内容は、火薬原料の配合比率にあるが、これは鉄炮の普及を考えるうえで注目にあたいする。火薬がなければ、まさに鉄炮は無用の長物にすぎない。鉄炮にとって火薬は必需品だが、むやみやたらに火薬を込めればいいというわけではない。銃身の長さ、玉目(玉の重さ)、その日の天候、その日の湿度、昼夜の別、軍用と狩猟の別など、さまざまな条件を考えて、火薬原料の成分の比率を微妙に変える必要があった。火薬を調合する正しい知識がなければ、鉄炮を効率的につかうことはできなかった。
さらに驚くべきことは、紹介する3番目に古い天正13年6月の伝書の内容である。鉄炮に装填する玉の数は1個が常識であるが、はたしてこの伝書をみると、なんと数個の玉を針金でつなげた玉、玉は鋳型でつくるが、はじめから鋳型に鉛を流しこんで2個の玉を同時に鋳込んだ玉、中空の玉、散玉(ちりたま)、二ツ玉、三ツ玉、長方形の玉を数個つなげる立あい玉、4個の玉を針金でつないだ門破(玉)、矢玉など、あわせて三十数種類におよぶ玉のこしらえ方が、いちいち説明されている。
戦国時代に各種の玉が存在したことは、確実な文献史料はもとより、考古学の出土遺物によっても証明できる。したがってここに紹介した炮術伝書記載の各種の玉も、決して珍しいものではなく、ごく普通に実戦に使用したと見ても誤りあるまい。炮術師は幾多の戦いを体験しながら、目標物を確実に破壊する各種の玉を試行錯誤しながら開発した。これも鉄炮普及の事実である。
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| 裸体で描いたのは、身体の各部の位置を理解させるためで、 むろん実際ではない。 | 大久保藤三郎にさずけた稲富流伝書(32相絵図 部分) |
稲富流の伝書
ここに紹介したもうひとつの伝書は、稲富一夢理斎が慶長15年9月に大久保藤三郎にさずけた「一返一流之書」(11巻)と「極意書」(5巻)の20巻である。装丁は表紙が紺紙金銀泥、題箋は朱に金泥、見返しは花菱文を浮かせた金箔押しとはなはだ豪華である。また筆蹟は当代一流の書家の手になるものであり、絵画の部分は狩野派の絵師が絵筆をふるい、これも贅を尽くしている。
炮術師稲富一夢理斎は細川氏につかえていたが、関が原の戦いのあと、主家をはなれて徳川家康の九男松平忠吉につかえた。かれの死後、徳川家康につかえて駿府に住んだが、慶長16年2月に61歳で病没した。この伝書は一夢が病死の9ヵ月前に大久保藤三郎にさずけたことになる。大久保藤三郎は江戸幕府の代官頭をつとめて権勢を誇示した大久保長安の子息と推測される。
稲富流の伝書は「一返一流之書(11巻)」「極意書(9巻)」「大極意(5巻)」の3部全25巻で構成されている。ここに紹介した伝書の題箋には「鉄炮の起こり」「113ヶ条」「113ヶ条注」「薬之方」「星つもり」「薬つもり」「目つもり手つもり」「目当定」などとある。すなわち、伝書の内容は鉄炮の起源にはじまり、射撃の心得、得物による射撃姿勢、玉の種類、玉目による鉄炮の仕様、火薬原料の配合比率、照準具の矢倉の説明など、鉄炮のとりあつかいに関する記事が細大もらさず書かれている。
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| 稲富一夢理斎自筆の奥書 |
炮術師の存在
鉄砲が伝来すると、各地に鉄炮の用法に熟練した炮術師とよばれる武芸者が輩出した。かれらは諸国を転々としながら炮術を教え、伝書を発行して伝授料をえて、これを生活の糧とした。炮術師は実戦における経験のなかでえた鉄炮に関する知識を集積して、これを秘事・秘伝と称した。一期の時期、諸大名は軍備に力をそそぎ、威力のある鉄炮の配備と用法の取得に余念がなかった。天下一統の半世紀、鉄炮の発達と普及はめざましかったが、その最前線には、つねに炮術師とよばれた武芸者の一群が存在していたことを忘れてはなるまい。ここに紹介したふたつの伝書は、まさにその証人といわなければなるまい。
宇田川 武久(情報資料研究部)



































