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歴史系総合誌「歴博」歴史系総合誌「歴博」

歴史系総合誌「歴博」 107号

[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介

中国天津の日本人学校関係資料

天津は、北京に近い交通の要地であり、日清戦争(1984~1985年)後、各国租界とともに日本租界が置かれた。租界とは、欧米列強が中国の開港場などで、居住して交易をする権利を確保するため、中国政府と契約を結んで行政権をもつことを認めさせた区域である。義和団事件(1900年)ののち、本格的に人口が増え始めた天津の日本租界では、居留民団を結成して自治をおこなっている。民団は、こどもたちの教育にも力を入れ、1902年以降、小学校のほか各種学校を相次いで設立した。1930年代以降日本の中国大陸への軍事侵攻が強まると、在留日本人数が急増し、それにつれて学校も増えた(グラフ・地図を参照されたい)。

天津在留邦人の人口推移と学校の設立 日本租界と各学校の位置
天津在留邦人の人口推移と学校の設立 日本租界と各学校の位置

これらの学校は、いずれも1945年8月15日をもって閉校となり、いまでは日本租界や日本人学校について語ることのできる卒業生たちの数も年々少なくなっている。本館では、1993年に、天津松島日本高等女学校関係資料の寄贈を受けたことをきかっけとして、天津中学校・天津宮島日本高等女学校その他の学校関係資料も受け入れてきた。ある程度まとまった資料群となったので、今年の「新収蔵資料の公開」(1月16日~2月18日)で一部を展示し、さらに本誌上でも紹介することにした次第である(なお、スペースの関係で、上述の三校と芙蓉小・橋立高女に限定した)。
1945年10月のアメリカ軍による武装解除ののち、11月以降翌年5月にかけて、生徒たちは家族とともに帰国する。手荷物が限定されたため、財産などとともにほとんどの記録類を置いて来たので、本館に寄贈された資料群のうち、個人の卒業証書や卒業アルバム、校旗、校章など、内地の学校であれば、さほど珍しくないものまでが貴重な資料となっている。しかも、中国政府に接収された学校の財産目録や終戦後の卒業生の成績証明、軍事調練・学徒動員・報国看護婦関係の資料など、戦時下の国外の日本人の生活を知るうえでは、きわめて重要な資料も少なくない。アジア太平洋戦争の展示を控えている本館にとっては、意味のある資料群である。
ところで、天津日本人学校の関係者は、若い方でも60歳半ばを迎えている。天津の話になるとみな瞳が輝き、往時の少年・少女に戻ったかのように生き生きとした表情をされる。引き上げのときに財産を没収され、帰国後に苦労をした方も少なくないし、戦争に対する嫌悪の思いにも強いものがある。それでも、とくに両高女・天津中の卒業生の方の想い出話は、食料は結構豊富であったなど、満州から戻った方に比べるとけっして暗いものではない。55年を経て、つらい想い出が昇華され始めているのかもしれない。いまだに機会さえあれば天津に行ってみたいという方も多く、実際に訪問され、かつての母校の建物が残っていることに感激した方もいた。
折しも近年、天津租界の研究が日中両国の研究者によって進みつつある(天津地域史研究会編『天津史』東方書店、1999年)。かつての少年少女たちの目には映らなかった大人たちの、今では誇ることのできない所行も含めて、天津租界の日本人の生活、生業の実態も明らかになりつつある。今後は、楽しい想い出だけにとどまらず、こうしたことについての聞き取りも不可欠になろう。また、三代にわたって天津で暮らしてこられた方と1930年代後半に渡った方との想い出は違うはずであるし、居住した場所や通った学校によっても異なるはずである。このような資料群を収蔵している歴博の責任は重い。関係者からの幅広い聞き取り作業をして、残った資料と記憶とをつなぐことが急務であろう。それほど多くの時間が残されているわけではないのだから。

久留島 浩(本館歴史研究部)
KURUSHIMA Hiroshi

天津松島日本高等女学校

1911(大正10)年4月、明石街に私立学校として設立。居留民団・大和撫子会の資金援助を受け、居留民団立天津尋常高等小学校教室の一部を間借りしたのち、24年に文部省・外務省から在外指定高等女学校として認可。27(昭和2)年、民団の団営となり松島街に新校舎建築。30年、財団法人天津共益会の運営となり、校名を天津日本高等女学校と改称。41年、天津宮島日本高等女学校設立にともない天津松島日本高等女学校と改称。

天津松島日本高等女学校校旗 天津日本高等女学校校旗
天津松島日本高等女学校校旗
これらの校旗には、房が無い。深沢校長が体に巻きつけて持ち帰るときに、房をはずしたという。
天津日本高等女学校校旗
天津松島日本高等女学校に改称される前の校旗
校舎(現在は、南開大学付属第二中学) 卒業証書 軍事教練風景
校舎(現在は、南開大学付属第二中学)
円内は、最後の校長深沢一雄氏。
卒業証書
さらに専攻科2年間を修了すると、小学校教員免許が取得できた。
軍事教練風景
戦争が激しくなると、逆にできなくなった。

天津宮島日本高等女学校

1941(昭和16)年3月、西宮島街に設立。12月に太平洋戦争が始まったのを受けて、翌年イギリス租界が接収されると、グラマースクール(天津英文学堂、1905年設立)に移転し、終戦を迎える。現在は、天津第二十中学。

看護婦資格証明書 看護婦資格証明書
宮島高女でも松島高女でも、学徒動員で貨物廠や森永の製菓工場で働いたほか、両校合同で看護法講習・実習がおこなわれ、卒業時には全員に看護婦資格証明書が与えられた。1945年3月以降、両高女の卒業生は、陸軍病院で報国看護婦として働かされた。8月15日、陸軍病院で実習中であった4年生は、そのまま泊まり込みをさせられ、戦地からの傷病兵の治療にあたったという。
卒業証書 卒業証書
「開校記念 学校要覧」(1941年) 「開校記念 学校要覧」(1941年)
校旗と校歌
精神教育部修練研究会資料(1944年) 精神教育部修練研究会資料(1944年)
国内でおこなわれた精神総動員運動とは異なる。創立以来四学年が完成したことを記念し、「ベルの鳴らない学校」「監督のいない試験」など、自主自立をモットーとしてきた宮島高女の姿を公開するための研究会開催関係資料。

天津中学校

1939(昭和14)年5月、南開大学内の建物(思源堂)を利用して設立。37年7月に起こった第二次天津事件で、陸軍航空部隊が、八里台の南開大学を反日運動の拠点であるとして空爆し、残っていたのは思源堂だけであったが、これに新しく一棟を建てて校舎とした。現在は南開大学。

天津中学校校旗 天津中学校校旗
初代校長で、最後の校長ともなった丸山英一氏が、学籍簿とともに持ち帰った校旗。
丸山英一校長辞令 1941年。 丸山英一校長辞令 1941年。
旅順女子師範校長からの転任である。
丸山英一校長依願退職許可書 丸山英一校長依願退職許可書
丸山校長は、1946(昭和21)年1月ごろ帰国。その後も、在学生の証明等のため校長職を継続。管轄は、外務省。
成績証明書 成績証明書
学徒動員で授業ができず、成績をつけることができなかったが、この証明書で受験・転校ができた。

天津芙蓉日本尋常高等小学校

1902(明治35)年12月1日、沖田介次郎ら有志によって私立天津日本小学校として設立。児童数14人。1908年には、在外指定校となり、尋常科六年、高等科二年となる。30年財団法人天津共益会の運営となり、36年4月天津第二尋常小学校が設立されると、天津第一尋常高等小学校と改称、41年に芙蓉国民学校となる。現在は、天津第十九中学。

卒業証書 1935年のアルバムより
卒業証書
天津尋常高等小学校時代のもの。館蔵品ではもっとも古い。
1935年のアルバムより

天津橋立日本高等女学校

1944年9月、白河以北に居住する宮島・松島両高女生徒の通学の安全をはかるため、河北・月緯路の春日日本国民学校の新校舎を借用し設立。11月、黄緯路・馬公祠に移転。現在、馬公祠は存在せず。跡地は、小学校。

財産目録 財産目録
財産目録