刊行物
歴史系総合誌「歴博」
歴史系総合誌「歴博」 105号
[連載] 歴史の証人 写真による収蔵品紹介
絵巻橋姫
高松宮禁裏伝来本である本絵巻が納められている箱には「橋姫物語」と墨書されているため、本館における資料名称は「絵巻 橋姫」という。この絵巻は、橋のたもとに祀る神、橋姫と何か関係があるのだろうか。しかし、絵巻を繙ひもとくとそこに描かれているのは、紙本著色一巻、金泥散きんでいちらしの浅草寺参詣図なのである。絵師もわからず、果たしてこの箱は本来のものであったのか。御伽草子絵巻の一種である「橋姫物語」の箱を本絵巻に代用した可能性も大いに考えられる。
さて、浅草は両国とともに江戸の盛り場の双璧であり、現代まで盛り場としての命脈を保っている。雷門から宝蔵門までの約140メートルの両側に軒を並べる86軒の仲見世は、中老年層、あるいは江戸のレトロ感覚に惹かれる若者層や外国人を魅了しつづけており、観光客が東京で最も江戸を感じるという空間である。
「絵巻 橋姫」は隅田川から浅草寺観音堂裏の奥山までを描くもので、類例としては大英博物館所蔵の『江戸風俗図巻・浅草の図』などが知られている。浅草の名所としての範囲は、『江戸名所図会』や『絵本江戸土産』に顕れるように、広小路、雷門から観音堂(前者は奥山も)までであったと思われる。
本図冒頭は駒形堂付近の隅田川の川遊び、川涼みの風景が描かれている。両国とともに、浅草も水辺の盛り場であったことを如実に示している。旧5月28日が隅田川の川開きで、8月晦日までの3ヶ月が川遊びの期間であった。本図における2人の男の水泳は、明らかに着物を脱いでの遊泳であるので、夏景を描いた資料であることがわかる。
船遊びは『東都歳時記』においては「船遊山」と表現され、船宿の客船を用いる納涼遊興をいう(平凡社東洋文庫、朝倉治彦校注)。本図の主役は2艘の屋根船である大尽の遊楽船、福一丸と宝来丸である。屋根船とは本名を日除け船といい、屋形船ほどには荘重味に欠けるが、屋根、簾を備えて軽快であり、納涼、花火見物、潮干狩に利用された。明和・安永のころには5、60艘であったが、文化ごろは屋形船に代わって流行し、5、600艘に激増した。浅草御門や柳橋・吾妻橋の辺りを中心に、多くの船宿、遊船宿があり、主に納涼、遊郭への往復、宴会などに利用されていた。『守貞漫稿』によると、「男女の密会をなし、或は客の求めに応じ宴席を兼ね、又青楼娼家に引手と号なづけ導くことをなす」とある。福一丸には芸者が5人侍っており、寝そべっている芸者は位の高い芸者であろうか。剃髪の2人は幇間(ほうかん)らしく、客は今まさに愉楽の最中である。屋根上の船頭たちは、田楽をつまみに手酌で一杯やりながら待っている。宝来丸では3人の船頭が青い竹竿を自在に操って、船を揺れさせないように、流れにまかせている。ここでも簾を下ろしたなかに、5人の芸者と客が2人おり、剃髪の1人の男はやはり幇間と思われる。ここでは三味線と歌が披露されている。艫ともには緑と赤の漆塗りの、弁当の入った重箱が置かれている。『幕末明治女百話』によると、「驍キ船頭たちが、意気なもので、柿色の三尺帯に、白木綿の腹巻、ワザと浴衣の腰の下を、ハッとはだけて、河風に煽らせた姿が、いなせなものだった」と回想されている。猪牙船ちょきぶね2艘にはこれから吉原に向う編み笠と宗匠頭巾(そうしょうずきん)(または焙烙ほうろく頭巾か)の客をのせており、駒形堂前の猪牙船の客は吉原よりの帰途の人であろうか、疲れ果てて眠っている。もう1艘の猪牙船には乳母日傘おんばひがさの親子、手前の渡し船には僧侶、茶筅ちゃせん売りなどが乗り合わせ、向こう岸に向っているところのようだ。位置としては、すぐ上流の中郷(多田薬師)への竹町の渡か、少し下流の本所石原町への御厩河岸の渡と思われる。
宝珠を戴いた堂が駒形堂で、隅田川に向って建っている。駒形堂は名所浅草の空間的はじまりを象徴する堂であるが、ここは日光街道と浅草観音参道との分岐点であり、船で来た参詣者も駒形堂の船着き場から下船して、浅草寺に向うのである。
絵巻はこの描写以降、駒形堂から観音堂に至る通りの向って右(東)側の商家を描いているが、駒形堂と茶屋の○屋との間には錯簡(さっかん)がある。隣の菓子屋は立売りの店で、傘から包み紙としての反古紙(ほごし)が吊り下がっている。魚屋、両替屋(伊野屋)、桃・西瓜・編み笠・草履を売る店(屋号「万」)が続く。下(西)の商家には「なゝちや(茶)」、たわしか箒に「上々」とある看板が立てられている。木戸には番小屋(鑓やりが建っている)、右(西)が材木町、左(東)に並木町の幟(のぼり)がある。描かれた商家は並木町である。木戸には「駒形町 子持まさる屋」と記された運送箱を担いだ男がいる。「和泉新田服部 紅葉屋 上極上」と看板がある菓子屋(紅葉屋)、暖簾に「作花 別松」と染め抜かれた造花屋、絵師は山岳図を描きつつも美人画を売る店、運送箱にさきの「子持まさる屋」と記された高砂屋が連なっている。
並木町より続く門が風雷神門(通称雷門)であり、その前の駕籠が2丁留まっている通りが浅草広小路である。この門は寛政7(1759)年3月10日に竣工し、慶応元(1865)年、田原町からの出火により類焼しているので、本図の景観年代としてはこの間70年間にあると見てよいだろう。
風雷神門から、浅草寺の額が掛かっている仁王門(楼門)までの間には、小屋掛けのおもちゃ・手鏡と鏡台・毬・嚢(ふくろ)物・錦絵の店がある。仲見世の呼称は浅草広小路と観音堂前の出店との中間にあることから生まれたという。そこから東に少し離れて「菊屋」の暖簾が下がる店が描かれている。仁王門(現宝蔵門)から東側の支院のはずれに至る間に「二十軒茶屋」があった。参詣人に湯茶を供する腰掛け茶屋で「お福の茶」といっていたが、いつしか給仕に茶汲女(ちゃくみおんな)という看板娘を置くようになり、人気を呼んだ。菊屋はこの茶屋の一軒ではなかろうか。
仁王門下には田楽屋らしきものがでている。仁王門と本堂の間には、五重塔、茶筅売り、辻講釈が描かれている。これは太平記読みなどの軍記読みであろうか。『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』の太平記読みは門付をする貧しい身なりに描かれ、寺門静軒(てらかどせいけん)の『江戸繁昌記』によると奥山に説経がでていたとある。
本堂裏にある熊谷稲荷社では、町人が梅に鶯の画題の絵馬を奉納して願掛けしようとしている。先述の『江戸風俗絵巻』の熊谷稲荷社にも絵馬がかけられている類型図がある。
奥山には見世物や大道芸は描かれず、松の根もとで風流に茶が点てられている。
『絵巻 橋姫』は色彩が淡く、さらりとしており、人物の表現には個性があまり感じられず、定型化しているといえよう。大久保純一氏(本館情報資料研究部)のご教示によると、髪型や菱川師宣風の人物表現から、18世紀前半の景観年代であるという。しかし、雷門の創建年代が確実なものとすると、それ以降に復古的に描かれた可能性もある。
福原 敏男(本館民俗研究部)































