連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

中国古代の墓をめぐる意識 —漢代の画像石拓本—

中国の発掘調査において、もっとも数が多いのは墓である。集落や都市、あるいは生産遺跡や祭祀遺跡よりもその数は多い。ことに有史以降の遺跡の大半が墓であるといってもよい。墓には、それぞれの時代の特徴がよくあらわれている。死者のいる世界や、生者の死者との向き合い方に、時代の特徴が色濃くあらわれている。

漢代の墓には、死者の生前の情景がリアルに再現された。身分の高いものも低いものも、いくばくかの理想を交えながら、ありし日の姿を地下に再現したのである。墓には、実際に用いた漆器や青銅器などの奢侈(しゃし)品をもちこみ、焼き物の模型(明器)や墓室の壁面装飾などで飾ることにより、死者がありし日の情景を再現したのである。

墓室の壁面装飾には、帛(はく)画や壁画と画像石、画像塼(せん)があった。画像石や画像塼は、漢代にはじめて登場する。古来より中国の墓では、より規模の大きな墓は木材を用いて地下の空間を作り出した。漢代には、地下の空間を作り出す構造材が、木材から塼(レンガ)や石材へと変わりゆく時代であった。紀元一世紀の後漢時代には、塼もしくは石材を用いた墓が普及したのである。壁材の一部である石材の表面を削り、彫り窪めることによって凹凸をつけ、図像を表現したものが画像石である。拓本では、凹凸が黒白によって表現されることになる。

 

来訪者が邸宅に到着した様子を表現した画像石
車騎出行というパレード(行列)を表現した画像石

歴史故事を表現した画像石

画像石の図像は、実にさまざまである。車馬行列や御屋敷の風景、穀物を収納する倉や武器や馬具を収納する倉、そして屋敷の内部は性格の異なる部屋ごとに表現されていた。屋敷の内部は、主人のいる空間が、来客に接した広間としての公的空間(堂)と、私的な空間(寝)に分けて表現され、それに付属する厨房などの空間も加えて表現していた。要は、死者を埋葬した棺室を中心に、地下に生前の生活空間を再現したのである。その理念は、始皇帝陵にも通じている。秦の始皇帝陵では、阿房宮や都咸陽(かんよう)だけでなく、離宮や軍団に至るまで、皇帝を中心とした世界を重層的に地下に表現し、等身大の俑(よう)を多用した圧倒的かつ壮大なスケールをもつものであった。漢代の墓では、身分が高く経済的に豊かであればあるほど、そのこしらえは複雑に豪華なものになったのである。華美な墓を造営する風潮は時期とともに加速していったのである。なお、屋敷の広間の様子や、身分や官職をヴィジュアルに示す車馬行列は、墓主がもっとも輝かしい時期の様子を表現することが多い。

では、なぜ地下に生前の世界を表現しなければならなかったのか。それは、墓が死者の「いるべき」空間として認識されたことによる。そこには、ふたつの見方があると考える。一つは、陰陽二元論の影響を受けて、死後の「たましい」は陽の気を帯びた魂(こん)と陰の気を帯びた魄(はく)に分かれ、魂は神仙界に至り、魄は遺骸とともに地中に留まるとする考えである。死者の魂を慰め安らぎを与える装置として、墓には豊かな現実を再現したものともいえよう。いま一つは、墓そのものが死後の世界、「たましい」が至るべき神仙界を描いていると考えるものである。墓室や棺を飾る図像に、神仙界の入り口である天門が描かれること、神仙界の主宰者である西王母の図像を表現することが多い。また、墓室の中心部分にある柱は、さまざまな神々を表現して、その最上段には西王母が座るため、天地をつなぐ宇宙樹の性格もみえる。墓室には、魂が神仙界に至るプロセスと、その至った世界が重複して表現されている、と見る考えである。いずれにしても、死者の魂が「あるべき世界」を生前の世界になぞらえて「理想像」として表現したものであろう。

画像石はどこにでもあるものではない。画像石と画像塼は、山東省南部から江蘇省北部、河南省南部、陝西省北部と山西省中部、四川省という四つの地域で発見されている。地下に生前の情景を表現する理念は共通していても、立体造形か平面造形かどの表現手段を利用するかが異なっていたのである。

 

八角柱に表現した人と動物の姿の神々
断面が八角形をした柱の各面にはさまざまな神の図像がみえる。最上段に東王父・西王母がいる他(左頁)、光背をもつ仏らしき像を表現している(右頁)。仏教を受容する時代の一面もみえる。

この画像石が登場したのは、後漢時代のことである。ことに二世紀に数多くの画像石墓が造営された。外戚と宦官(かんがん)が幼帝を専横し、儒家官僚をまじえた権力闘争が全土を覆い、帝国の屋台骨がきしみはじめた時代のことである。矛盾が拡大し停滞する社会をよそ眼に、厚葬はその度合いを深めより豊かな世界が地下に営まれ続けたのである。

墓が大規模になるには、死者を送る葬送観念だけが背景にあるのではない。葬送は生者と死者の関係だけで成り立つのではなく、他者に「みせる」ものでもあったのだ。当時の社会を規定し管理したのは、儒教的素養であった。儒教は中国社会が長年のなかで培ってきた社会規範であり、さまざまな人間関係のあり方を礼や孝など理念で説明するものである。子が親に対してあるべき姿が「孝」であり、漢代では重要視された行動規範の一つであった。官に就くためには推挙が必要であったが、その項目の一つに「孝廉(こうれん)」があるなど、「孝」を実践することが重要視されたのである。亡き親を送ることは、「孝」の実践を他人に見せつける絶好の機会であり、そのことが葬儀の盛大化に拍車をかけた。死者を送るために、家産を傾けることも珍しくはなかったらしい。葬送は亡くなったその人を偲ぶだけではなく、遺族が社会にアピールする絶好の機会でもあったのだ。葬送が、死者とは別の次元で大きな社会的意義をもっていたからでもある。

画像石は、漢代を過ぎてその後の時代にはつづかなかった。漢墓を彩る豊かな世界も、古代中国の黄昏(たそがれ)とともに姿を消したのである。混迷する社会とともに、従来の社会観念が大きく変化したのである。

なお、ここで紹介したのは、いずれも山東省沂南県画像石墓の拓本画像(館蔵)である。歴博一一九号では、他の資料とともに図像の解題を中心として画像石資料を詳細に解説している。併せて参照されたい。

上野 祥史(本館研究部/東アジア考古学)