連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

台湾原住民資料

「原住民」と「高山族」

台湾では、一七世紀ごろ対岸の中国から新天地を求めて移民が盛んになる。それ以前から台湾で居住していた先住民たちは、現在、自らを移民たちが来る以前から台湾に居住していたという意味で「原住民」と称している。これから紹介する収蔵品はその原住民に関連した資料なのだが、歴博での資料登録名は「高山族民俗資料」となっている。小稿では現地の呼称を尊重して「台湾原住民資料」を使う。

骨片ビーズ継ぎ首飾り 貝製人面模様銀煙管

来歴の謎

資料は、骨片・白珠・赤青黒ビーズなどで作った首飾り、唐金鈴、木台牙装ビーズ飾り頭飾冠、銅製線巻腕輪、貝製人面模様銀煙管、白銅製有線文腕輪、銀製指輪などの装飾品。麻製上衣、蕃布網代笠、蓑、山野羊皮製・黒木綿・青木綿地上衣、織機、獣牙装皮製帽子、貝装ビーズ飾り飾帯などの服飾関係。朱塗百歩蛇紋・人身彫刻木匙、有耳土器、蛇頭把手付連杯、木木皿、籐製背負い籠、籐製弁当行李、麻製袋、水牛角製簪、ビーズ製袋、人身浮彫煙硝入れなどの生活用品。蕃刀、籐製魚皮張り腹巻型鎧などの武器。巻蛇形祈祷具、木製象眼祈祷具入れ、人面石、土人形など祭祀に関連したものなど多様である。

この資料には謎が多い。そもそも登録資料名の「高山族民俗資料」が、歴博の命名ではない。では誰が名づけたのか。これは歴博設立の歴史と深く関わっている。

角南聡一郎さん(公益財団法人元興寺文化財研究所・研究部・研究員)の研究グループがこの資料の調査を行なっている(科研費基盤研究(C) 25350414「日本国内所在・台湾原住民族資料とその来歴の基礎的研究」平成二八年度研究成果報告)。それによると、この資料には、ブヌン族、パイワン族、アミ族、タイヤル族、ヤミ族のものが含まれているのだが、元来、文化庁所蔵だったものが歴博へ移管されたことを明らかにしている。

なぜ文化庁の資料が歴博にあるのか。歴博は日本政府の明治百年記念事業の一環として文化庁が担当官庁となる予定で、当初は「国立歴史博物館」と仮称された。しかし学術研究と資料の公開など一般市民に対する教育活動を推進する点が重視され、文科省学術国際局に移管された。そして昭和五六年四月一日に設立に至った。しかし歴博設立当時は、資料をもたなかったため、多くの資料が文化庁から歴博に管理換えされたのである。

この台湾原住民資料もその際に文化庁から歴博の所蔵になったらしいのだが、そもそも台湾からいつ日本に持ってこられたのか、またこの資料群がどのように収集されたのかなど詳細な調査はこれからである。

黒色有耳土器 蕃刀

歴史のなかのお土産

二〇一七年一月に、台湾原住民について長年研究されてきた国立台湾歴史博物館の王長華館長に資料をみていただき、今後の研究上の貴重な助言をいただいた。その一つが、この資料にはお土産品がかなり含まれているというのである。朱塗百歩蛇紋・人身彫刻木匙などは、日常生活でも使われていたのだが歴博所蔵の資料は、おそらく当初から売ることを目的とした商品の可能性が高いという。

原住民がお土産を作りはじめるのは、台湾の日本植民地時代(一八九五―一九四五年)に入ってからである。台湾総督府は原住民が作る木工品に注目し、観光資源として産業化することを目論んだ。その理由は原住民が暮らす山地は、山林資源や鉱産物が豊富だったため、その開発を急いだからだ。そこで「原住民に山林の開墾耕作、木材の伐採と製材、樟脳の生産に従事させつつ、織物、竹や木を使った彫刻・木工芸の技術を改善させ、副業として確立し金銭を得ることを学ばせ生活を改善させる」という殖産教育事業を普及させようとした(「台湾原住民族 芸術発展脈絡研究 以木雕為列(一八九五至二〇一〇)」、蘆梅芬他、行政院原住民族委員会、国史館台湾文献館、中華民国一〇一年一二月)。

この政策には、日本で「農民美術運動」として活躍した山本鼎も関わっている。山本は第一次世界大戦後の疲弊した農村を救おうとした。そこで冬の農村の副業として、農民が製作する生活雑貨や木彫人形に、芸術的な価値をもたせ、都市住民に向けて販売することを目的とした「農民美術運動」に力を入れた。山本は一九二四年(大正一三年)台湾を訪れ、原住民の工芸と産業を結合させ、原住民の生活を安定させるとともに、優秀な工芸を存続させることを目指した「文化理蕃「産業理蕃」」を提唱している。台湾総督府のもと、台湾では原住民の工芸品が旅行者や外国人相手への販売目的で作られ続ける。つまり「たかがお土産だから資料的価値がない」のではなく、視点を変えれば、お土産も台湾と日本との歴史を映し出す資料となりうる。

白銅製線巻腕輪 人身彫刻木匙

ガラスビーズとプラスチックビーズ

もう一つ注目した資料は、「青木綿地上衣」である。婚礼などの際に着用する衣装で、布地には大量のビーズを縫い付けて美しい紋様にあしらってある。台湾の原住民は、ガラス、陶器や土器などのセラミック、メノウなどの準貴石、貝殻、動物の骨、歯、角、ジュズダマ、トウアズキ、竹、ショウブ等の植物など、実にさまざまな素材のビーズを使用してきたことで有名である。ところがこの衣装のビーズはすべてプラスチック製である。王館長は、このような衣装の存在を聞いたことはあるが、実見するのははじめてだという。婚礼衣装なのに、なぜ安価なプラスチックビーズを使ったのだろうか。

この衣装は、ルカイ族のものだという。二〇一七年三月に、この資料の収集地である潮州とルカイ族が多く住む霧台(両者とも台湾の南、屏東県に所在)を訪れた。潮州に今もガラスビーズを作っている店がある。その女主人に、このガラスビーズを使った婚礼衣装の写真をみせながら話を聞くことができた。それによると「本来ならば当然、ガラスビーズを使うべき衣装だ。しかし日本統治が終わった後の一九五〇―一九六〇年代は、政治的混乱もあり原住民にとって大変生活が苦しい時期だった。ガラスビーズは、日本から輸入したガラスを使って加工していた。しかし材料が手に入らなくなった。また六〇年代から七〇年台にかけて、代々伝わってきたガラスビーズを特に日本人が買いあさり、まったく手に入らなくなった。しかたなくプラスチックビーズを使った」。この婚礼衣装にも、やはり戦前から戦後の台湾と日本の歴史が埋め込まれている。

青木綿地上衣

「台湾原住民資料」から何がみえるか

霧台で偶然、結婚式に参加した。しかも一〇組もが一挙に行う集団結婚式だった。一つ一つのビーズはごく小さい。それを何百も縫い付けて煌びやかな一着の衣装にしたてる。その衣装がさらに何百着も集まりより煌びやかになり、衣装につけたたくさんの鈴が踊り舞うなかで、一斉にすずやかな音色を奏でながら式をより一層盛り上げる。収蔵庫では想像できなかった、生きた婚礼衣装を垣間みた一日だった。

「台湾原住民資料」の研究ははじまったばかりである。歴博がこの資料を収蔵し研究する意義は、「伝統的な原住民の資料」として捉えるのではなく、視点を変え資料の来歴も含め台湾と日本の歴史を重ね合わせながら、さまざまな分野が総合的に研究することで埋もれた歴史を発掘することにあるのだと思う。

西谷 大(本館研究部/東アジア人類史)