連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

歴博所蔵の庫外正倉院文書

庫外正倉院文書と歴博

東大寺正倉院に伝来した正倉院文書は、その大部分が正倉院宝物の一部として国有とされ、宮内庁正倉院事務所によって管理されているが、ごく一部の文書は庫外に伝存している。その経緯については本号コラム「正倉院の外に存在する正倉院文書」に略述したが、それら庫外に流出した正倉院文書は断簡とはいえ、八世紀の貴重な史料であり、しかるべき機関によって保管・調査がなされ、将来にわたって受け継がれていくことが望ましい。

歴博は国立の大学共同利用機関であることに加え、展示・保管・研究のために正倉院文書複製事業に取り組んでおり、また文字文化研究を研究テーマの一つとしてきたこともあって、庫外正倉院文書の収集に力を入れてきた。歴博開設当初に移管された正倉院文書二点も含め、二〇一四年四月現在では七点の庫外流出正倉院文書を所蔵している。以下、それらを紹介することにしたい。

図1 王広麻呂手実 (H-1578-1)

図2 答他虫麻呂手実 (H-1587-2)

経師の手実

正倉院文書の大部分は、基本的に聖武(しょうむ)天皇の皇后である光明(こうみょう)皇后藤原安宿媛(あすかべひめ)の写経所およびそれを継承した造東大寺司(ぞうとうだいじし)の写経所で作成された文書帳簿類である。その中には写経のための様々な書類が含まれているが、そのうち写経手実(しゅじつ)と呼ばれる文書が四点、歴博に収蔵されている。これは写経を行なう経師(きょうじ)(写経生(しゃきょうせい)とも呼ばれる)が提出した業務報告書で、写した経巻の名前や使用した紙の枚数などが報告されている。手実が提出されると、実際に写した写経と照らし合わせて、巻数や枚数に間違いがないかどうか確認され(図3で末尾に異筆で「了」と書き込まれているのは、そのときのチェックを意味するものであろう)、それをもとに後日給料(布施(ふせ)と呼ばれる)が支払われることになる。図2の二行目に「合請紙百卌張、正用百廿一張、返上十三枚、空三枚、破三枚、」と記されているのは、全部で140枚の紙をもらってそのうち121枚(および後に見える「空」3枚)を写経料紙として使用、13枚余って返却したということで、「空三枚」とあるのは、実際にはほとんど文字を記さなかったために仕事をした枚数にカウントされない分が3枚あるということであり、「破三枚」は写し誤り等の理由によって破棄した紙が3枚あるということを意味する。ちなみに図2の手実を記した答他虫麻呂(とうたのむしまろ)は百済系氏族であり、図1の手実を記した王広麻呂(おうのひろまろ)も高句麗ないし百済系の渡来氏族と見られる。経師には漢字を美しく書く技術が求められるので、渡来系氏族出身が少なくなかった。図3・4の手実を記した山辺諸公(やまのべのもろぎみ)は山辺君氏で、大和国山辺(やまのべ)郡の地名に由来する氏族(ただし『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によれば、摂津(せっつ)国にも存在する)。ところで図3と図4は同一人物の一か月違いの手実であるが、内容や筆跡等の検討から、実は図4は後世の偽文書である可能性が高いことが指摘されている。しかし偽文書がなぜ作成されたのか、またどのようにして作成されたのか、ということも正倉院文書を研究する上で重要な意味を持つことから、比較のため、あえて図3の文書とともにあわせて収蔵することとしたのである。

   

図3 山辺諸公手実 (H-1821-1)

図4 山辺諸公手実 (H-1821-2)

図5 無下雑物納帳 (H-1517)

 

帳簿

帳簿類は二点存在する。図5は「無下雑物納帳(むげぞうもつのうちょう)」と呼ばれる文書で、題籤軸(だいせんじく)に「宝亀四年/無下雑物納帳」とあることからこの名がある。傷みが甚だしくて判読困難な箇所が多く内容の把握が難しいが、屏風や袍(ほう)(上着)など東大寺の物品の出納に関わる造東大寺司の文書と見られる。あるいは「無下」は「下すことが無かった」の意で、一旦出納されることになったものの、その後、何らかの事情により請求先へ送られることがなかった物品に関する記録ではないかとも考えられる。

図六は「造仏所作物帳(ぞうぶつしょさくもつちょう)」で、733(天平5)年に亡くなった母橘三千代(たちばなのみちよ)の供養のために光明皇后が発願した興福寺西金堂の造営・造仏事業で作成された帳簿の一部であり、本断簡の前にあたる断簡が奈良国立博物館や書芸文化院に蔵されている。歴博所蔵断簡には堂内に飾られる幡(ばん)や幢(どう)の材料が記されている。これらの帳簿は作成された数年後に廃棄され、反故紙(ほごし)となって裏が二次利用された。それが図7である。「常本充紙帳(じょうほんじゅうしちょう)」と呼ばれる帳簿で、五月一日経(740(天平12)年5月1日の日付の願文(がんもん)を持つ光明皇后願経(がんきょう))に引き続いて皇后宮職(こうごうぐうしき)の写経所で行われた写経事業に際して、経師に支給した写経用の紙の枚数を記録したものである。冒頭に見える「王広万呂」は図1の「王広麻呂」と同一人物であり、(743(天平15)年)8月21日に「法花摂釈(ほっけしょうしゃく)」というお経を写させるために広万呂に黄紙一巻(20枚)を支給し、うち2枚の返却を受けたことが記されている。顔料を塗って抹消している箇所があり、それによって紙が変色したりもしている。

図6 造物所作物帳 (H-67)

図7 常本充紙帳(図6の裏文書)

丹裹(にづつみ)文書

残る一点が「新羅飯万呂請暇解(しらきのいいまろせいかげ)」(図8・9)である。これは東大寺の画師(えし)であった新羅飯万呂(文書中には名前しか書かれていないが、ほかの正倉院文書の記載から新羅氏であったことがわかる。おそらくは「新羅飯万呂謹解 申請暇事」などと記された冒頭の一行が切断されているのであろう)が伯父を看病するために四日間の休暇を申請したものである。現在と同様、古代においても休暇をとるには上司に申請を出す必要があった。この文書は一般の正倉院文書とは少し違った伝来をたどっている。図8をよく見ると、紙が少し赤っぽくなっており、またなにか物を包んでいたかのようなしわが付いていることがわかる。そして裏側(図9)には「上丹三斤(太一斤二両)」との墨書が記されている。これは請暇解が提出後に廃棄されて反故紙となった後、顔料やガラス玉の原料などとして用いられる丹(に)の包紙として再利用されたことを示している。ちなみに正倉院宝物の中には今でも反故紙に包まれた丹が伝存している。

なお、今回紹介したこれらの文書は、図4以外は本年秋の国際企画展示「文字がつなぐ―古代の日本列島と朝鮮半島―」展にて展示される予定である(図3・4は来年春の企画展示「大ニセモノ博覧会 ホンモノってなに!」展にて展示予定)。ただし原本保護のため、全期間通してではなく、前期と後期に分けて半分ずつの展示となる点、御容赦願いたい。庫外流出正倉院文書は、この他に天理大学附属天理図書館所蔵の二点、奈良国立博物館所蔵の一点もあわせて展示する予定である。

図8 新羅飯万呂請暇解 (H-68)

図9 新羅飯万呂請暇解の裏に記された丹の斤量記載

小倉 慈司 (本館研究部・日本古代史)