連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」
中世公家の文書
歴博の公家文書は多様で豊かなコレクションを所蔵している。中世公家の身分と家格は、朝廷の官職(かんしょく)位階(いかい)による身分関係と権門(けんもん)との私的主従関係のふたつの原理によって決まっていた。公家の家文書も、身分と家格に応じて史料の上下関係や階層性・負担能力の格差が明瞭になっている。
トップクラスは、天皇や上皇・女院(にょいん)・親王家などの禁裏(きんり)史料で、館蔵の高松宮本(たかまつのみやほん)が禁裏本の一部であることが共同研究によってあきらかになった。天皇の直筆(じきひつ)を宸翰(しんかん)とよぶ。館蔵の一例として後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)が和歌を書いた「後柏原院(ごかしわらいん)御製懐紙(ぎょせいかいし)」(写真1)を示す。宸翰流と呼ばれる書法である。天皇は国政運営では最高意志決定を下すが、その命令は「仰(おおせ)」といい、口頭で発する。後柏原天皇が1501年12月に祖父の後花園院(ごはなぞのいん)三十三回忌法要を営んだ。11月18日に開催日時・会場・参加の公卿(くぎょう)や願文(がんもん)の作成者の人選を決定したとき、天皇の口頭命令を伝奏(てんそう)中山宣親(なかやまのぶちか)と蔵人弁(くろうどのべん)広橋守光(ひろはしもりみつ)が聞き取って行政文書に仕立てた。それが「後花園院三十三回忌奏事目録(ごはなぞのいんさんじゅうさんかいきそうじもくろく)」(写真2)である。蔵人(くろうど)が楷書で質問項目を書き、伝奏(てんそう)が別筆の小文字で「仰(おおせ)」以下天皇の命令を書き込んだ。料紙は薄墨色(うすずみいろ)で宿紙(しゅくし)・紙屋紙(こうやがみ)とも呼ばれ、蔵人所(くろうどどころ)が発する天皇の命令文書にだけもちいる専用の料紙である。
天皇の命令を受けて公文書を発給できる公家は、蔵人頭弁(くろうどのとうべん)や頭中将(とうのちゅうじょう)をつとめる名家(めいか)・羽林家(うりんけ)と呼ばれる中級貴族と決まっていた。彼等は、上皇や摂家(せっけ)・室町殿(むろまちどの)・親王家の家政職員をも兼ね、諸大夫(しょだいぶ)・家礼(けらい)の家柄であった。写真3「後花園天皇(ごはなぞのてんのう)綸旨(りんじ)」は、広橋家が家領支配の証拠文書として天皇に申請・許可をもらって甘露寺家(かんろじけ)に発給を依頼した。蔵人弁(くろうどのべん)の甘露寺親長(かんろじちかなが)が作成して広橋家に届けた。料紙の色から一目で天皇の命令書とわかる。
天皇・院の諮問(しもん)である勅問(ちょくもん)を受けて、国家意思決定に参加することのできる特権公家が、室町殿(将軍家)や摂家、清華(せいが)・大臣家の家柄である。摂家の史料では、関白近衛道嗣(このえみちつぐ)の「革令定記(かくれいさだめのき)」(写真4)を示した。道嗣の子息兼嗣(かねつぐ)が永徳四年(1384)の改元定(かいげんのさだめ)という公卿合議の場で上卿(しょうけい)という最高責任者の役をつとめた。失敗しないように、父親が先祖の日記から上卿の作法を抜き出して教示したときの記録である。良質の紙に松煙墨(しょうえんぼく)で摂家独特の書流で書いており、道嗣の自筆とする説がある。
摂家は天皇の代行をする特権貴族であるため、関白や摂政の行政命令は、家政職員である家司(けいし)や下家司(しものけいし)が発給文書を作成した。写真5は、1487年前関白九条家の殿下御教書(でんかみきょうしょ)である。家領播磨国(はりまのくに)蔭山荘(かげやまのしょう)本所分(ほんじょぶん)を興福寺院家(いんけ)の成身院(じょうしんいん)に与えたもので、九条政基(くじょうまさもと)の命令をうけた家司(けいし)の唐橋在数(からはしありかず)が文書を作成した。彼は菅原家一門で、官職では天皇の書記官をつとめ、摂家の家司をつとめる諸大夫(しょだいぶ)の家柄であった。1496年に「家門(かもん)を覆(くつがえ)す家僕(かぼく)」として政基に成敗・殺害された。
館蔵史料では、中級貴族である広橋家・甘露寺家(かんろじけ)・中山家・中御門家(なかみかどけ)・白川家・山科家(やましなけ)などの家文書が数多い。写真6は、広橋家の雑掌有賢申状(ざっしょうありかたもうしじょう)である。一三六四年広橋兼綱(ひろはしかねつな)が家政職員の有賢(ありかた)につくらせた訴状で、家領を妨害する住吉神社を光明天皇に提訴した。蔵人弁(くろうどのべん)平信兼(たいらののぶかね)が受理した証拠として裏花押(うらかおう)をすえた珍しい史料である。
清涼殿(せいりょうでん)の殿上間(てんじょうのま)にのぼれない公家や官人を地下官人(ちげかんじん)とよぶ。朝廷の行政事務執行を担う下級貴族と実務官人である。蔵人(くろうど)や伝奏(てんそう)が、行政命令を下級貴族の局務(きょくむ)(外記局(げききょく))や官務(かんむ)(弁官局(べんかんきょく))に伝達する。前者は押小路(おしこうじ)中原家(なかはらけ)と船橋清原家(ふなばしきよはらけ)が、後者は壬生小槻家(みぶおづきけ)と大宮小槻家(おおみやおづきけ)が世襲した。両局の下に六位外記史(ろくいのげきし)をつとめる中原・安倍・高橋・紀らの家柄が世襲して、朝廷の下級実務官人として行政事務を執行した。官務の史料群では、船橋清原家旧蔵資料の中に、姻戚関係にあった後柏原天皇の官務大宮時元(おおみやときもと)が作成した符案(ふあん)(発給文書の控)の「下請符集(げしょうふしゅう)」(写真8)がある。「即位下行帳(そくいげぎょうちょう)」(写真9)は、21年間財政難のために即位式ができなかった後柏原天皇が1501年に即位式を準備したときの財政帳簿の原本である。天皇家には財政帳簿はないとされてきたものが、原本で発見された。
局務の史料群では、2008年の購入資料である「中原師胤記(なかはらもろたねき)」(写真10)がある。49枚の紙背文書『日記残闕(にっきざんけつ)』として購入した。共同調査の結果、1419年と21年から24年までの大外記(だいげき)中原師胤(なかはらもろたね)の日記であることが判明した。現存する国会図書館所蔵『師郷記(もろさとき)』(史料纂集)の欠本部分に相当し、しかも、現存の『師郷記』応永二七年と三二年記は、歴博本の『中原師胤日記(なかはらもろたねにっき)』の一部であることがあきらかになった。歴博には、師富(もろとみ)―師郷(もろさと)―師富(もろとみ)とつづいた局務(きょくむ)中原家(なかはらけ)の史料として、中原師富自筆の『改元記(かいげんき)』(写真11)がのこる。彼は後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の大外記で、自筆の古文書である「中原師富書状(なかはらもろとみしょじょう)」(写真12)もある。最下層の地下官人史料としては、六位外記史をつとめた「中原康雄記(なかはらやすかつき)」の写本が2008年に収蔵された(写真13)。戦国期の朝廷の地下官人がつけていた公務日記である。館蔵田中本の中には、中原康雄の自筆書状の原本(写真14)がある。
歴博所蔵の中世公家文書は、朝廷の中央官僚機構を構成した頂点の禁裏本から最下層の地下官人の史料群まで、書写本や原本を数多く所蔵しているところに特徴がある。家文書の史料批判をする上でも、きわめて貴重で稀有な史料群といえ、今後の共同研究が期待される。
井原 今朝男 (本館名誉教授・日本中世史)