連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

「江戸景観図-近代の「江戸」表象<歴史画>によせて-」

本図は、東より江戸を描いた絹本彩色の鳥瞰図である。基本的な画法から見て、まず日本人の絵師が描いたものであろう。中央に富士山と江戸城を配し、手前に本所・深川、隅田川をはさんで品川より浅草までの景観を描く(図1)。東から江戸を描くこの構図は、一七世紀半ばの景観を描いた「江戸図屏風」(本館蔵)以来の伝統的なものである。そして、一九世紀初頭に鍬形蕙齋(くわがたけいさい)(一七六四~一八二四年)が描いた一連の鳥瞰図(図2ほか)(大久保純一「広重と江戸鳥瞰図」『国立歴史民俗博物館研究報告』一〇九、二〇〇四年)と酷似し、描かれる範囲や対象は同じであるため、何らかの関係が想定されてきた。

図1 江戸景観図 本館蔵

しかし、その半面、陰影や、画面を横に拡大し、遠近法に近づいている点や、画面左上の旭日の消滅など、西洋画の強い影響が見られる。ここでまず想起されるのは、幕末の洋風画である。たとえば、蕙齋の鳥瞰図をもとに日本人絵師が作成した洋風画としては、亜歐堂田善(あおうどうでんぜん)の小形の銅版画「東都名所全図」(須賀川市立博物館ほか蔵)がある。しかし、蕙齋からの依頼による作成という説もある同図は、名所・地名の文字情報も含め、元図が比較的忠実に再現されている(金子信久「亜歐堂田善の江戸名所圖群に關する繪畫史的検討」『國華』第一二二〇號、一九九七年)。

図2 江戸名所之図 本館蔵 図3 江戸一目図
天保14年~弘化4年(1843~47) 本館蔵
「江戸名所図絵」のいわば海賊版

本図を子細にみてみると、中国の望楼を想起させる江戸城の御殿(図4)、まるでピラミッドのように高く聳える仮設の芝居小屋・つながって一体となった橋脚・河岸の材木の表現(図8)、網干の表現など、細部の表現は実際の江戸を見た人間が描いたものにしては不自然である。絹本彩色の洋風画である伝安田雷洲「日本橋図」(神戸市立博物館蔵)には、日本橋・江戸城・富士山が収められているが、橋脚の描き方や江戸城の御殿の描き方は、「江戸景観図」とは異なる。洋風画としても、蕙齋の鳥瞰図と「江戸景観図」には大きなへだたりがある。

図4 江戸城の部分(「江戸景観図」)

二〇一一年一〇月、筆者は、人間文化研究機構連携研究「日本関連在外資料の調査研究」によるドイツのブランデンシュタイン城のシーボルトコレクションの調査に参加し、一枚の図にめぐりあった。このシーボルトが西欧において出版した日本の紹介本『NIPPON』の挿図「江戸の全景」(Panorama van Jedo 一八三四~五八年頃刊行 この図の配本時期は不明<宮崎克則「復元:シーボルト『NIPPON』の配本」『九州大学総合研究博物館研究報告』三、二〇〇五年>)の原画は、構図から考えて、蕙齋が描いた一連の鳥瞰図から作成されたものである。シーボルトのコレクションには「花洛一覧図」(黄華山)があり(ライデン大学蔵)、これと同じ構図で描かれた『NIPPON』の挿図「京都の全景」があることから、「江戸の全景」も同様の方法で描かれたと考えられる。近世絵画の構図をもとに、アレンジを加えて挿図を作成することは、『NIPPON』における常套手段の一つであった(宮崎克則「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版」『九州大学総合研究博物館研究報告』九、二〇一一年)。では、このいわば「江戸景観図」の異国生まれの兄弟を見てみよう。

図5 洲崎弁天と品川沖(「江戸名所之図」) 図6 洲崎弁天と台場(「江戸景観図」)

『NIPPON』挿図も、蕙齋の鳥瞰図からいくつかの変更が行われている。陰影、画面左上の旭日の消滅、画面下の雲の田圃への変更、橋脚・網干・材木の表現などである。この変更は、まさに「江戸景観図」と共通する。亜欧堂田善「東都名所全図」でも旭日は消えているが、『NIPPON』挿図の変更の度合いはその比ではない。これは、石版画という表現もさることながら、作者が西洋の絵師であるためであろう。さらに、『NIPPON』挿図を蕙齋の鳥瞰図と比較すると、やや消点をまとめて遠近法をすすめた結果、東海道の屈曲がなくなっている。一方、江戸城や芝居小屋の表現、北側の外堀やこれに沿った道の屈曲表現、画面左上の山の表現などは、むしろ「江戸景観図」より蕙齋の図に近い。

すでに指摘されているように、蕙齋の鳥瞰図は、江戸の景観を単に描いたのではなく、名所を一目で見られるように配置した江戸名所案内であり、江戸の繁栄を謳った表象であった(井田太郎「鍬形蕙齋「江戸一目図屏風」の基底」『国文学研究』一五三・一五四、二〇〇八年)。『NIPPON』挿図には文字情報はまったく記されていないが、原画と思われるブランデンシュタイン城本には、隅田川の部分に”Sumidagawa”、また「タカナワ」の部分に”29 ”の記載がある。よって、当初、シーボルトは蕙齋の鳥瞰図と同様に、西欧の都市図の手法をとりながら名所や地名の紹介することを想定していたと考えられる。しかし、そのテクストが付されなかったため、この表象は西欧においてタイトル通り「江戸の全景」≒実景として受容された可能性が高い。それぞれ強調されていた「名所」は、風景の一部となってもはや意味を失ったことになる。

図7 葬式行列(「江戸景観図」)

では、「江戸景観図」と『NIPPON』挿図を比較してみよう。「江戸景観図」には、『NIPPON』挿図よりさらに蕙齋の鳥瞰図からの乖離(写し崩れ)や先述の表現の変化が見られる。これに加え、新たに強調された部分や、描き加えられたものがある。とくに目立つのは、桜、芝居小屋(浅草寺・根津神社・猿若町)と、五基の品川台場、両国橋を東に向かう大名行列、大川橋より浅草に向かう葬式行列などである。
実際に砲台が設置された五基の台場(第一・二・三・五・六台場)は、安政元(一八五四)年一二月に一斉に品川沖に揃った(図6)。当然、蕙齋・『NIPPON』挿図には描かれていない(図5)。また、蕙齋の孫蕙林が復刻した「再刻江戸名所の図」では、なぜか台場は四基である。五基の台場は「江戸景観図」の作者による追記であろう。

葬式行列(図7)は、山田慎也氏によれば、行列に白い服の者がおらず、参列者の多数が傘をさしているなど、近代の葬列を思わせる表現もあるという。また大名行列と思われる行列の先頭には旗を掲げる者がおり(図8)、明治天皇の東幸の画が思い起こされる。

図8 大名行列か(「江戸景観図」)

現段階では、「江戸景観図」の注文主・作成者・作成時期・作成目的について明らかにできないが、絹本に彩色で描いた日本画の画法と細部の表現のミスマッチ、近代以降と推測される事象の追記、『NIPPON』挿図以上の元図からの乖離から考えて、本図が近代の日本人絵師による「江戸」表象=<歴史画>(岩淵「江戸城登城風景をめぐる二つの表象-名所絵と<歴史画>のあいだ-」『年報都市史研究 別冊 江戸とロンドン』、二〇〇七年)である可能性を指摘しておきたい。

岩淵 令治(本館研究部・日本近世都市史)