連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

正倉院古文書-一万数千点に上る古代の古文書群

奈良の正倉院には聖武天皇の遺品を中心とする多くの「宝物」とともに、八世紀の古文書が伝えられている。これが「正倉院古文書」とよばれるものである。正倉院古文書は一万数千点に上る膨大な古文書群であり、現在はこれを六六七巻・五冊に整理して保管されているが、これほど大量の紙の文書が一三〇〇年の時間を経て現代に伝わっていることは奇跡的であり、世界にも例を見ない。

写真1 四分律蔵巻第四十三(原本、本館所蔵)
光明皇后の御願により天平12(740)年5月1日に書写された経典の一つ。

写真2 新羅飯万呂請暇解(原本、本館所蔵)
写経所に勤務していた新羅飯万呂が天平宝字2(758)年に4日間の休暇を申請した休暇願い。

写真3 大宅首童子月借銭解(複製、本館所蔵)
写経生の大宅首童子が家地を抵当に一貫文の借用を写経所に申請した宝亀5年の文書。申請通りに貸与され、4月12日に元利あわせて返済されたことが朱で記入されている。

写真4 下総国葛飾郡大島郷戸籍(複製、本館所蔵)
下総国葛飾郡大島郷の養老5(721)年の戸籍。大島郷は現在の東京都葛飾区から江戸川区にかけての地域に比定されている。「下総国印」が押されている。

正倉院古文書は、八世紀に造東大寺司(ぞうとうだいじし)のもとに設置された写経所で作成し用いられた帳簿や事務連絡書類などを中心とする古文書群として伝わったものである。写経所は鎮護国家の思想的基盤としての経典を書写するため、国家的機関として設置されたものであり、八世紀前半から末葉にかけて活発に活動し、膨大な経典を書写した。これにともなって写経所では大量の帳簿や事務書類が生み出されることになった。これらを「写経所文書」と総称する。したがって写経所文書は経典の書写の経緯はもとより、経典の製作に従事する写経生の待遇など、写経所・写経生の活動の実態を研究し解明することのできる貴重な文書である。しかし写経所文書は写経所の活動が下火になるとともに不要となり、やがて造東大寺司の倉庫の片隅に収められ、いつしか忘れ去られていったと推定される。その再発見は幕末の考証学者・穂井田忠友(ほいだただとも)による“調査と整理”を待たなければならなかった。なお正倉院古文書の成立・伝来・構造については杉本一樹『日本古代文書の研究』(吉川弘文館、二〇〇一年)の第一部第二章「正倉院文書」が重要な研究文献である。

写真5 山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳(複製、本館所蔵)
神亀3(726)年の計帳。計帳には戸主との関係、年齢、男女の別のほか、黒子(ほくろ)の位置などの身体的特徴も記載されている。「山背国印」が押されている。

写真6 駿河国天平十年正税帳(複製、本館所蔵)
天平10(738)年の駿河国の財政報告書。「駿河国印」が押されている。

このような経緯で今日まで伝わったこの正倉院古文書の性質は、したがって第一義的には写経所文書ということができよう。しかし正倉院古文書はもう一つの性質を持っている。それは律令国家の行政文書としての性質である。律令国家の行政の特徴はしばしば「文書行政」と呼ばれるように、官僚機構の運営、行政上の命令、各官庁間の事務連絡などは文書のやりとりを通じて行われた。これは現代の行政のあり方と通じるものがある。かくして班田収授や兵士徴発などのための基本台帳として六年ごとに作成される戸籍、調庸などの課税の台帳として毎年作成される計帳、毎年の諸国の財政報告書である正税帳などに代表される膨大な公文書が諸国から中央政府に送付されてくることになる。これらの文書はとりわけ家族制度、村落制度、民衆支配システムの研究、あるいは国家財政の研究など、日本古代史の重要な研究課題に取り組む際には欠くことのできない史料となっている。このような意義を持つ文書が正倉院古文書の中には残されているのである。

写真7 御野国加毛郡半布里大宝二年戸籍(複製、本館所蔵)
美濃国の大宝2(702)年の戸籍。現存最古の戸籍の一つ。半布里は現在の岐阜県加茂郡富加町に比定される。

写真8 千部法華経料紙充帳(複製、本館所蔵)
千部法華経の書写のため、写経生一人ひとりに支給した紙・筆・墨などの数量を記録した天平20(748)年の帳簿。御野国戸籍(写真7)の裏の文書。

戸籍を例にとって、いま少し具体的に述べよう。古代の地方行政制度は国 ― 郡 ― 里の組織であった。戸籍は里を単位として作成され、例えば「御野(=美濃)国加毛郡半布里(みののくにかもぐんはにゅうり)大宝二年戸籍」のように呼ばれる。戸籍には戸主を筆頭に、その家族から奴婢にいたるまでの姓名、それぞれの年齢などが記載されている。戸籍は国で三通作成し、このうちの一通は国に留め、二通を中央政府(中務省と民部省)に送った。こうして中央に集まる戸籍は数千巻に上ったと推定される。このほかにも上に述べた計帳や正税帳、その他の多様な行政文書が毎年送られてくるのであるから、中央政府には膨大な量の文書が集積されることになる。ただしこれらの文書は永久保存されるわけではなく、一定の期間保存した後に廃棄された。戸籍の場合は三〇年間の保存が法で定められていた。保存期間を過ぎた文書は廃棄処分となるが、それは全く捨て去られたわけではなかった。行政文書の裏は白紙であったから、これを利用し、必要な長さに裁断し、あるいは貼り継いで別の文書を作ることが行われた。右に述べた写経所でも廃棄された行政文書の一部の払い下げを受け、行政文書の裏の白紙を用いて写経事業にともなう帳簿や事務連絡の文書などを大量に作成したのである。すなわちこれが写経所文書である。例えば、さきほどふれた「御野国加毛郡半布里大宝二年戸籍」は大宝二(七〇二)年に作成された戸籍であるが、その裏には天平二〇(七四八)年の「千部法華経料紙充帳」その他の文書が見える。「千部法華経料紙充帳」は千部法華経の書写に必要な紙・筆・墨などを写経生一人ひとりに支給したことを記録した帳簿であり、この帳簿は、廃棄された戸籍の払い下げを受けた写経所が、戸籍を適宜切り取って帳簿の作成に当てたものである。したがってその時点で戸籍は本来の姿を失い、「千部法華経料紙充帳」だけでなく、その他の帳簿や書類の作成にも利用され、バラバラになった。このような状態で正倉院古文書は伝えられてきた。

先にも触れたが、幕末の考証学者である穂井田忠友はこの正倉院古文書、とりわけ行政文書に着目した。彼の“整理”は、養老令に規定されている官司の順序にしたがってこの行政文書を並べ替えるというものであった。これによって行政文書には一定の整理が加えられたといってよいが、しかしその結果として帳簿などの写経所文書が本来の姿を失うことになった。今日の正倉院古文書の研究、特に写経所の事業の実態解明のためには、穂井田忠友の“整理”によって失われた写経所文書を本来の姿に復原することがまず必要になっている。

写真9 穂井田忠友書状(原本、本館所蔵)
正倉院古文書研究の先駆者・穂井田忠友が同学の伴信友に宛てた書状。正倉院古文書についての情報も見られる。

国立歴史民俗博物館では、一九八一年の設立と同時に、研究と展示に資するため正倉院古文書全巻のカラー複製の製作を計画し実施してきた。これはあらゆる意味において原本に可能な限り忠実に複製することを基本方針としており、現在までに三〇〇巻あまりの複製を終えた。しかしなおそれとほぼ同量が未着手のまま残っており、引き続いてこの事業を進めることになっている。

正倉院古文書は、律令・六国史とともに日本古代史研究の基本史料であるが、宮内庁正倉院事務所が勅封によって厳重に保管しており、毎年秋に奈良国立博物館で開催される「正倉院展」に展示される機会に一部を観覧することができるほかは、原本に接することができない。したがって正倉院古文書の研究を行う上で歴博が作成する複製は原本に準じる研究史料であり、そこから多くの史料情報を引き出すことができるという大きな意義を持っている。この複製事業が研究者からしばしば「国家的プロジェクト」という評価を与えられるのは、プロジェクトの規模の大きさだけではなく、そのような複製製作の意義を含めてのことである。

吉岡眞之(本館研究部・日本古代史)