連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

洛中洛外図屏風(歴博甲本)はなぜ描かれたか

当館に所蔵される洛中洛外図屏風「歴博甲本」は、現存最古の洛中洛外図屏風として知られ、歴史資料としても計り知れない価値を持っている。しかし残念なことに、これまでその制作事情は明らかではなかった。

そこで、今年春の企画展示「西のみやこ 東のみやこ」を機会に館内で検討を重ねた結果、この問題について一つの解釈を得るに至った。手がかりは、この屏風に個人名を特定できる人物が何人も描かれていることで、以下「登場人物」のひとりひとりを紹介しながら、屏風の成立事情を探ってみたい。

主な舞台は、左隻の右側、幕府と細川氏の邸宅が立ちならぶ一画(写真1)である。

写真1 左から、管領細川氏邸、典厩邸、幕府、犬追物(右上) [左隻1~3扇]
※写真はいずれも「洛中洛外図屏風(歴博甲本)」 本館蔵

幕府=足利義晴(写真2)

「くはうさま(公方様)」すなわち幕府は、足利義満らの営んだ「花の御所」の位置ではなく、細川氏一族の館の北にならぶ位置に描かれている。この御所は、大永五年(一五二五)に造営されたことが明らかで、景観年代の上限を決める指標となっている。時の将軍は第一二代義晴。京都を追われた一一代義澄の子で、近江で生まれ播磨の赤松氏の下で養育されたが、政権を握った細川高国に擁立されて将軍となった。

画面では、庭園に面した会所と思われる建物の中に、顔が庇に隠れた人物が描かれている。高貴な人物は顔を隠して表現されることが多く、これは将軍義晴を描いたものと解釈できる。門前には御所を訪れる武士の集団が行き交い、広場では供待ちの家来たちが秩序正しく座っている。将軍はその主人に面会中、という設定である。

典厩邸=細川尹賢・氏綱(写真3)

「典厩(てんきゅう)」は律令官制の馬寮めりょう)の唐名(中国流の呼称)で、代々右馬守(うまのかみ)となった細川氏の支流である。他の洛中洛外図にも描かれており、高国政権での当主は、従弟の細川尹賢(ただたか)。館正面の広縁に座って輪鼓(りゅうご)の芸を見る髭の人物がそれと思われ、右側の若い男性は、尹賢の子で後に最後の管領となる氏綱だろう。

 

写真2 足利義晴(顔の隠れている人物) [左隻1扇 幕府]

細川尹賢(中央の髭の人物) [左隻2扇 細川典厩邸]

管領邸=細川高国・稙国 (写真4・5)

「典厩」の左隣にある「ほそ川との」は、管領を務める細川氏惣領家であり、当時幕府の実権を握っていた細川高国の居所である。画面では、「典厩」と同様、正面の広縁に座る人物が三人描かれており、その中央、館の入り口を背にした人物を当主と見るべきであろう。しかし、その風貌は若い男性であり、義晴の御所ができた大永五年(一五二五)に四二歳の高国とは年齢が合わない。高国は、同年四月に出家し、家督を嫡子の稙国(たねくに)に譲っているので、庭園に面した奥の建物(厩(うまや))の中に描かれている堂々とした体躯の男性が高国であろう。正面の広縁に座っているのは、高国から跡目を譲られたばかりの、一八歳の稙国と考えられる。鳥かごを差し出されているのも、あるいは家督継承に関する寓意があるのかもしれない。

 

写真4 細川植国(広縁上左側) [左隻3扇 細川邸]

写真5 細川高国 [左隻2扇 細川邸]

屏風の主題

以上の、将軍邸、典厩邸、管領細川邸に描かれた人物たちから、この屏風の主題が見えてくる。

京都では、一五〇七年の細川政元の暗殺後、中央における抗争を細川高国が勝ち抜き、自らが擁立した新将軍足利義晴のために御所を建設し、細川家の家督と管領職も嫡子稙国に譲り、一族の典厩尹賢に補佐させ、自らはこの体制を背後から見守る、という構図の政権を確立した。画面でも、義晴―尹賢―稙国の三人は、ちょうど横一線に並ぶ。

将軍邸と細川邸の手前左角には緋毛氈の鞍覆いを付けた馬が描かれているが、これは将軍が特に許した者のみが使えたもので、有力な武家が次々と将軍や細川氏の下にやってくる様を示している。得意の絶頂にあった高国が、打ち立てた政権を誇示し、理想化して描いたのが、以上の幕府から細川邸にかけての部分であり、甲本は、この高国政権とその下で統治される京都の様子を描いたものと考えられる。

制作年代

しかし、この体制はあっけなく崩れてしまう。後を託したはずの稙国が、その年の一〇月に急死してしまったのである。このことで、屏風の年代はさらに絞り込まれる。すなわち、稙国が当主として描かれうるのは、高国が出家した大永五年(一五二五)四月二一日から、稙国が死去する同年一〇月二三日までの六ヶ月間だけである。

しかし、幕府=将軍邸の方は、義晴の移徙(いし)(入居)は同年一二月一九日であり、実はこの期間にはまだ完成していない。この絵は、高国が思い描きながら結局は実現しなかった幻の姿なのである。高国は御所の完成を見越して、義晴の移徙以前、おそらくは家督を譲ったのを契機に屏風を発注していたのであろう。

 

写真6 絵師=狩野元信 [左隻5扇下]

写真7 鶯合わせを見る三条西公条とその家族 [右隻6扇]

絵師(写真6)

では、この屏風を描いたのは誰か。本誌一四四号のQ&Aの頁にも書いたが、絵師の姿が描き込まれており、その場所は上京の元誓願寺辻子、別名「狩野辻子(かののずし)」で、狩野元信が住んでいたと伝えられる場所であることから、この人物は狩野元信(当時五〇歳)に違いなく、その「自画像」であろう。以前からこの屏風の作者候補に挙げられていたが、幕府御用絵師でもある元信は、細川高国が屏風を発注するには最も順当な絵師と言え、あるいは元信が高国に持ちかけたのかもしれない。画中で扇を描いているのは、正月に将軍に扇を献上していたことや、扇座の代表をしていたことにちなむのだろう。ちなみに、甲本には扇屋が一一軒も描かれている。

三条西公条の一家(写真7)

内裏のすぐ左に描かれた三条西家の人々も個人を同定できる。『実隆公記』の筆者で文化人として名高い三条西実隆は、この時まだ健在であり、細川高国とは和歌の指導をするなど深い親交を持っていたが、すでに出家しているので、ここに描かれているのは、次の公条(きんえだ)の代である。家族構成は『尊卑分脈』の系図と一致し、鶯合わせを見る正面の人物が公条(三九歳)、その後ろが長男の実世(一五歳)、以下次男の兼成、女子(六歳)、そして三人の母であり公条の妻である女性(甘露寺(かんろじ)元長の娘)であろう。

高国がこの一家を描いたのは、家族ぐるみといってよい親交があったことと、高国政権の下で公家も復興していることを描きたかったためだろう。

では、実隆は描かれていないのだろうか?これは筆者の勝手な想像なのだが、左隻6扇の上方、桂川べりの臨川寺付近の一行(写真8)は、羽織姿の人物に酒を勧め、舞を舞って祝福している光景であり、顎髭を蓄えたこの中心人物は、心なしか実隆の肖像に似ているように思われ、周囲の三人も、先ほどの公条一家の男性と構成が一致する。全く別の物語があるのかもしれないが、前年に古稀を迎えた実隆のために、高国がさりげなく描き込ませたという可能性を考えてみたい。なお、この酒宴の図像は、最近発見された狩野永徳の「洛外名所遊楽図屏風」や、狩野秀頼の「高雄観楓図屏風」に継承されていく。

 

写真10 二匹の龍の彫刻

写真11 本殿正面

犬追物と庭

人物ではないが、甲本に特徴的な画像の一つに犬追物(写真9)がある。高国は犬追物を重視し、「二手犬」という珍しい方法を実施している。二騎が犬を追う甲本の描写は、その様を描いたものとも見なせる。馬場があったのは高野川東岸だが、あえて幕府の近くに描かれている(写真1)。享禄四年(一五三一)に敗れて自刃する際、三条西実隆に贈ったという辞世は、犬追物を今一度、というもので、犬追物は高国が強い執着を持ち、また実隆と共有していた記憶であったことがうかがえる。なお、この時に将軍義晴に宛てた辞世では、作った庭を後の世でも見よう、と詠んでいる。甲本に描かれている幕府の庭園は、当然その一つだろう。

事績を誇る屏風

歴博甲本は、細川高国が、細川氏の館を中心として、その下で繁栄する京都の姿を描き、自らの事績を誇るために描かせた屏風であった。そして、狩野元信とその後継者は、その後も権力者とその統治する都市の姿を描き続ける。初期洛中洛外図屏風の内、東博模本は細川晴元のため、上杉本は狩野永徳が足利義輝のために描いた屏風であり、永徳が信長のために描いた安土屏風なども、その延長線上に位置する作品である。徳川家光のために描かれた江戸図屏風も、その系譜の上に数えることができるだろう。甲本は、これらの屏風の出発点と言える。

※甲本の画像は、歴博ホームページの、Webギャラリーでご覧になれます。

小島道裕(本館研究部・中近世史)

参考文献

  • 山本英男『日本の美術四八五 初期狩野派―正信・元信―』至文堂、二〇〇六年
  • 斉藤研一「描かれた暖簾、看板、そして井戸―初期洛中洛外図屏風の図像―」勝俣鎮夫編『中世人の生活世界』山川出版社、一九九六年
  • 鶴崎裕雄「管領細川高国の哀歌」『戦国期公家社会の諸様相』和泉書院、一九九二年
  • 『洛中洛外図屏風大観 町田家旧蔵本』小学館、一九八七年