連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

数えることの歴史

初等教育で修めるべき素養として、「読み書き算盤(そろばん)」の三つが挙げられてきた。日本に初めてソロバンが伝来したのがいつのことかは明らかでないが、現存する最古のものは、一五九二(文禄元)年の朝鮮出兵のときに前田利家が用いたものだという。そう考えると、「読み書き算盤」というフレーズは、思うほどに古くはない。

もちろん、それ以前に計算ということが重要性を帯びなかったわけではない。とりわけ、徴税において何がしかの計算をすることは、当然のことながら要求された。

算盤が伝来するより前の計算はどうやっていたのか。それは各地に暗算の名手がいて…、などというわけでは、もちろんない。日本では律令時代から「算木」が用いられてきたといわれている。この算木は、文字通り、一寸ほどの長さの木の棒を用い、置き方によって一本が「1」をあらわすものと、「5」をあらわすものに分けられるという、算盤と少し似た使い方がされていた。この算木は、算盤が導入されて以降もこれと並んで、明治初期まで使われ続けた。

明治期に教具として用いられた算盤(本館蔵)。珠の数が今日のものとは異なる

舞台姿として錦絵に描かれた商人と算盤(本館蔵)。1819(文政2)年。

江戸時代になると、「和算」と呼ばれる一種の数学が普及し始める。その出発点は、吉田光由(みつよし)の『塵劫記(じんこうき)』(一六二七(寛永四)年)であるとも、あるいは関孝和(せきたかかず)の『発微算法(はつびさんぽう)』(一六七四(延宝二)年)であるともいわれる。前者が中国数学の影響を強く受けているのに対し、後者は日本独自の数学の始まりであるとされる。いずれにせよ、この頃から、計算は単なる加減乗除から、方程式や行列といった分野へと発展し始めることになる。

和算の数学者は、難しい問題、新しい問題を解くことにいそしんだ。そして新たな解法を発見したとき、神社や寺に「算額」と呼ばれる絵馬を掲げる習慣があった。これが、神仏への感謝から来るものなのか、単にめでたいから飾ったということなのか、あるいは一種の売名行為なのかは、一概には言えないものの、結果として神社仏閣が研究成果を共有するための場として機能した一面はあるようだ。

さて、話を数学から数えることに戻そう。数える道具としての算盤の普及は次第に進み、商人の帳場を象徴する小道具として錦絵にも描かれるようになる。 しかし、学校教育のなかで算盤が必修化されるのは、一九三八(昭和一三)年と、案外遅い。もちろんそれまで、学校で全く算盤が教えられなかったわけではない。例えば一八七二(明治五)年に「学制」が公布されてから、学校では算盤ではなく筆算を教えるべきものとされたが、これに対応できる教員が少なかったこと、親の要望が強かったことから、算盤の授業を行ったケースは多かったようである。

八幡神社(福島県伊達市梁川町)に奉納された算額(複製・本館蔵、原品・八幡神社蔵)。

左の算額に記された内容を現代の数学表現に直したもの。(1984年(昭和59)年の第3展示室拡充時に作成。)

さて、算盤が普及し、あるいは近代以降に学校で算術が教えられるようになり、人びとの計算能力は格段に上ったかに見える。しかしながら、やはりスピードと正確さを兼ね備えた計算力は、やはり職業人の手によって担われた。

そしていつの頃からか、世に「計理士」という言葉が登場した。この「計理士」とは、法制度上は、一九二七(昭和二)年に制定された計理士法によって定められた有資格者のことを指すのだが、実際にはそれ以前から「自称計理士」が存在してきた。 法律に定められた「計理士」とは、会計監査を業務に含み、現在でいうところの「公認会計士」に当たるものだった(事実、一九四八(昭和二三)年に公認会計士法が制定されるのに伴い、計理士法は廃止された)。しかしながら、一九三二(昭和七)年に刊行された一新社・白星社『現代語大辞典』では、計理士は「計算事務を職とする人」とされており、当時は一般には計算のプロとして認知されていたことがわかる。 近代以降、業(なりわい)として計算に携わるものに対して一貫して求められたのは、算盤を使う能力であった。「計理士」が「公認会計士」に変わり、その一方で「税理士」が登場しても、やはり計算の道具は算盤であった。また、企業などで計理に携わったり、銀行に勤めたりする場合でも、あるいは商店を経営する場合であっても、算盤の能力は重要であった。

もちろん、算盤ばかりが計算の道具ではない。機械式計算機というものも存在した。日本では一九二三(大正一二)年に発売された「虎印(タイガー)計算機」が最初のものであるとされる。ただ、この機械式計算機は、今の小型ミシンほどの大きさがあり、またそれゆえに価格も高く、誰もが手にできるものではなかった。その後、改良が加えられ、価格そのものは物価水準に比して相対的に低下するものの、決して手軽なものにはならなかった。それゆえ、職探しにおいて珠算検定○級といった資格を持っていることが有利になる状況は、一九八〇年代まで続いた。

算梯(本館蔵)。算術の練習帳で、実際に計算して解答に照応させた朱筆がある。左端は、「11貫700目の絹糸が5貫850目の銀に相当する場合、銀10貫に相当する絹糸の量はいくらか」という問題。

さて、いささか高嶺の花の感のある機械式計算機であるが、日本では、タイガー計算機と日本計算機が、大手メーカーであった。タイガーの場合、価格は一九五三年以降、一貫して35000円のまま推移し、次第に値ごろ感が出てくる。一九六〇年代に入ると、真空管式の「電卓」が発売されるが、それらはタイガー計算機の10倍程度の値段で売られており、こちらは機械式計算機以上に高価だった。

ところが一九七〇年代に入ると、LSIを採用したよりコンパクトで安価な電卓が目立ち始める。そして一九七二年には、カシオが廉価な電卓「カシオミニ」を発売し、価格において両者は逆転した。ここに両者の勝敗は明らかになる。タイガーは「カシオミニ」の発売に先立つ一九七〇年に機械式計算機の製造を終了、一方の日本計算機は一九六四年に電卓分野に進出するも、電卓の値下げ競争のさなか、一九七四年に倒産の憂き目をみる。こうして、算盤に代わる計算道具としては、機械式計算機を飛び越し、電卓が普及することとなった。

電卓の普及以降の計算道具の進展は目覚しいものがある。より高度な計算が簡単にできるパーソナルコンピュータも、一九八〇年代には依然として人びとの手が届かない高嶺の花だったが、一九九〇年代も半ばを過ぎるとどんどんと価格を下げ、インターネットやゲーム、そしてワープロといったいくつもの機能を持つ便利な箱として、一般にも普及している。

さて、当館の資料として収蔵されている計算道具は、せいぜい算盤まで。機械式計算機は所蔵されておらず、古くなった電卓やパソコンに至っては、そもそも資料という認識は薄く、どちらかというと廃棄物である。今後、そうした機械モノを、歴史資料としてどう扱うのか、検討はこれからである。

ところで、今や、計算はパソコン抜きでは語れない。電卓は、今だそのパソコンと、きちんと共存している。しかし一方で、算盤の影はずいぶんと薄くなってしまったようだ。小学校時代に、せっせと珠算教室に通って算盤を習った一人として、この状況はいささか寂しいところがある。もはや腕は落ちてきているが、私の自宅のデスクには、今でも小学校の頃から使い込んだ算盤が鎮座しており、時々、あえて使ってみたりしている。

原山浩介(本館研究部・日本現代史)