連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」
「鉄炮の百科事典」 館蔵安齋實炮術秘伝書コレクションの意義
説得力に乏しい通説
1543(天文12)年の鉄炮伝来説の根拠は「鉄炮記」にある。本書はこの出来事の60年後、すなわち、1606(慶長11)年に種子島久時が禅僧の南浦文之(なんぽぶんし)に書かせた記録である。久時は、こんにちの鉄炮隆盛の基は、ひとえにわが種子島家の父時堯(ときたか)の功績にあると主張している。
本書は同時代史料でない上に、編纂の目的が先祖の顕彰にあるからそう高い評価をあたえるわけにはいくまい。それでも、鉄炮伝来の唯一の史料との理由から肯定的に引用されるのが常である。
紀州根来(ねごろ)寺の杉坊(すぎのぼう)が鉄炮を求めて種子島にやってきたので、時堯はこれに感じて鉄炮一挺を杉坊に贈った。その後、泉州堺の橘屋又三郎が来島し、鉄炮を学んで2年後に帰国した。彼は鉄炮又とあだ名されたが、かくして鉄炮は畿内・関西、さらに関東方面にまでひろまった。種子島を起点に鉄炮が普及したというこの説の根拠もまた「鉄炮記」である。
このほかに鉄炮は伝来すると、ただちに戦いに投入され、旧来の戦闘技術を一変させ、城郭様式にも大きな影響をおよぼしたという説がある。以上の三説は、こんにち、通説化しているようだが、再検討すると、根拠が意外に薄弱である。
炮術秘伝書の出現
伝来後、鉄炮の取り扱いを家業とする炮術師があらわれた。彼らは南蛮渡来の鉄炮を鍛錬にもちいたが、やがて鍛冶の助けを借りて、それをまねた異風筒を製作し、さらに厳しい鍛錬の結果、日本人の身体に適した鉄炮の開発に成功した。鉄炮の国産化であるが、これが、一朝一夕に成し遂げられたわけではなく、そこには炮術師の命懸けの鍛錬があったことを忘れてはなるまい。
炮術は心得、構え方、数種類の火薬調合法、近距離の標的射撃などの初歩的な鍛錬からはじまって、鉄炮の修理方法、遠距離の射法、大口径の鉄炮の開発、各種玉の拵え方、複雑な火薬調合法と、順次、高度な鍛錬に進んだ。当初、秘事の伝授は口伝であったが、射程距離、火薬配合比率、鉄炮の寸法、標的の狙点の位置や星の寸法など、膨大な数字をあつかうようになると、これを口伝だけで授けることが無理になり、かくして秘事を書き付けた秘伝書が作成されて、これが伝授の手段となり、証明にもなった。
秘伝は流祖の教えを骨子としながら弟子筋に延々と継承されたが、秘伝書には鉄炮のあらゆる情報が満載されており、まさに鉄炮の百科事典の観を呈している。秘伝書の精査によって、たとえば、種子島への鉄炮伝来は数多い渡来のひとつであり、種子島以外の諸地域に多様な形状の鉄炮が、それも波状的に渡来したことが解明された。秘伝書は差出も年月日も宛名も備えており、どこからみても立派な古文書、すなわち、歴史の史料である。それなのに前掲諸説のどれもがこれを活用していない。これは不可解の一語に尽きるといわざるをえない。
安齋實氏は戦前から物故される平成10年までの間、生涯を費やして炮術資料の蒐集に没頭し、古今無比のコレクションを樹立した。その資料総数は数千点を数え、江戸中期以後の炮術秘伝書や西洋兵学に関する著作が大部分を占めるものの、そのなかには現存数の少ない僅少な近世移行期の秘伝書の一群がある(別表参照)。
表 近世移行期の炮術秘伝書一覧
流派および秘伝名 | 数量 | 年号 | 伝授者 | 被伝授者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
玉こしらへの事 | 1巻 | 天正13.6 | 宮崎内蔵人佐 | 南左京亮 | 流派不明 |
自由斎流覚 | 3巻 | 慶長2.12 | 奥弥兵衛 | 林泉右衛門 | 自由斎流 |
安見流秘伝書 | 2帖 | 慶長4.3 | 安見右近丞一之 | 堅田兵部少輔 | 安見流 |
鉄炮絵之巻 | 1冊 | 慶長5.4 | 宮村出雲守 | 稲富流 | |
宇多流秘伝書 | 7巻 | 慶長13.11 | 宇多長門守末景 | 宇多流 | |
稲富流秘伝書 | 11帖 | 慶長15.10 | 稲富一夢理斎 | 石河太郎八 | 稲富流 |
稲富流秘伝書 | 20帖 | 慶長15.10 | 稲富一夢理斎 | 大久保藤十郎 | 稲富流 |
鉄炮秘伝之巻 | 3巻 | 慶長17.3 | 槙村弥作 | 佐谷助太夫 | 安見流 |
南蛮流秘伝書 | 3帖 | 慶長17.8 | 小泉木之介 | 佐谷助太夫 | 南蛮流 |
渡天之誥巻 | 1巻 | 慶長17.8 | 鈴木九兵衛 | 中村弥蔵 | 安見流 |
濫觴・秘伝集・星之巻 | 4巻 | 元和1.2 | 津田監物重長 | 村瀬六兵衛 | 津田流 |
求中集他 | 21冊 | 元和1.2 | 田付宗鉄 | 田付流 | |
初巻間積之書 | 1巻 | 元和7 | 毛利伊勢守高政 | 松平美作守 | 伊勢守流 |
星之図並薬之巻 | 1冊 | 元和7.5 | 立河伝右衛門 | 塚原五左衛門 | 井上流 |
狩猟の技術
伝来した鉄炮が戦いに投入された結果、戦闘技術が一変し、城郭様式に影響をあたえたという説がある。しかし、鉄炮を戦列に並べて効率的に運用するには、鉄炮の性能、火薬調合法、鉄炮の製作、炮術師の存在など、それなりの条件が完備されなければなるまい。したがって伝来直後から軍用というのは、いかにも早急に過ぎる。
このことは史料に表れた鉄炮の用語のありようからも理解できる。すなわち、史料に鉄炮の用語が表れるのは、1551(天文20)年前後からであるが、ここでの用途は贈答品や狩猟であって、ごく稀に戦いに使用されている。戦いと密接した史料、たとえば、武士が戦功をあげた時の軍忠状、あるいは武士が戦国大名から軍役の負担を強いられた着到状などの古文書に鉄炮の用語が表れるのは、それに遅れて1558年から1569年の間(永禄年間)、それも後半になるほど多くなる傾向がある。
さらに長野県長野市の守田(もりた)神社所蔵の文禄年間の岸和田流秘伝書の伝える流祖の消息は「薩摩の商人で、豊後の国で猟師が鹿を射ている様子をみて、これを鍛錬して一流を起こした」とあり、狩猟の技術が炮術の技術になる経緯をよく示している。これは天文末年の頃と推測するが、これは特別ではなく、ごく普通であったことは一覧の炮術秘伝書に必らず狩猟の技術が盛り込まれていることからも理解できる。
慶長13年 宇多流秘伝書(序、目録、三段) |
ここで鳥獣の絵を描いた写真(上)を見ていただきたい。これは1608(慶長13)年11月付、宇多流秘伝書の第三段の内容であるが、本書の鳥の絵を見ると、鴛の箇所に「クイシメ玉」、鴨2羽の箇所に「追くり玉」とある。くいしめは、両端を少し切り欠いて、十文字に切って、ねじで合わせて、鳥の子を貼った玉であり、追いくりは、下薬1匁5分を込め、下玉2分の劣り玉を込め、間に薬1匁5分を入れ、2分劣りの鉛玉をいれる玉である。このように獲物にあわせて各種の玉が工夫されていた。
もっとも宇多流秘伝書の冒頭に「抑、向鉄炮不可有他念。顔上下左右ヘヒツマズ、身ハ如磐石、心ヲ沈、寒夜ニ山野霜を聞、鳥ケダモノ射様、雖有只如星ノ放テ有得心」と記し、「鳥ケダモノ射様」を強調している。秘伝書の鳥ケダモノの絵画は動物の特徴をよく捉え、生態の記述も的確である。もうこれは狩猟の技術そのものというほかはない。
軍用化への傾斜
一覧の1597(慶長2)年の自由斎流の秘伝書は狩猟の技術を伝えるいっぽうで、「狭間の矢を射る事」「よろいとおし(鎧通し)の事」とみえ、これまた一覧の1615(元和元)年の津田重長の秘伝書にも「鎧通玉のこと」「先を三角にした太くて長い竹束玉のこと」、修羅、すなわち、戦場で鉄炮を打つ時の心得などがみえる。狭間は城郭の施設、鎧通は文字どおり甲冑を貫通する玉、当時、鉄炮を防禦するために竹束を用意したが、それを貫通する玉が竹束玉である。また1608(慶長13)年の宇多流には20間から2町における馬武者の狙点を図入りで説明する。鉄炮が狩猟や軍用に供されている事実は、1573(天正元)年4月20日に上杉謙信が上条弥五郎(政繁)に出した手紙のなかで「当地、糸井(魚)河へ、昨晩、着馬せしめ候、信州諸口、如何にも無事に候間、心易かるべく候、小野主計、山中に鉄炮の音壱つなり候とて、信玄打出候由申す、諸軍へ恐怖たるべく候、此鉄炮は狩人の鉄炮の由、申し候、少しも案じ間舗候」と伝えてあきらかである。
小野主計が山中で鉄炮の音がしたので、信玄が攻めて来たと言ったので、全軍が恐怖したが、この鉄炮は狩人のものであって、一安心した、というのである。
鉄炮は玉目と射程の距離、当日の気象条件などによって火薬成分の配合比率が微妙に変化した。小さい玉目であれば、銃声は小さいし、大きい玉目であれば、とうぜん銃声も大きい。狩人の獲物が諸鳥や小動物ならば、小筒で十分であるから銃声は大きくない。それに対して軍用の威力のある鉄炮は6匁から10匁筒だから銃声は大きい。むろん銃声を聞き分けたのは謙信ではなく、炮術に通暁した武士か、あるいは同陣の炮術師にちがいない。戦乱をよそに山中で狩人は鉄炮で獲物を追い、かたや戦場では敵勢を倒すために鉄炮が使用された。はじめ狩猟と軍用の技術は判然としなかったが、戦いの激化につれて炮術師が軍用の秘伝を工夫したのである。はからずも自由斎流の秘伝がその一端を物語っている。
伝来直後、鉄炮はただちに戦いに投入され、旧来の戦闘技術を一変させ、さらに城郭様式にも大きな影響をおよぼしたという説は、つぎのように訂正されなければなるまい。伝来直後、鉄炮は有力者の間の贈答品や鳥獣の捕獲を生業とする猟師が狩猟に使用していたが、戦いの規模が大きくなり、炮術師が軍用に役立つ技術を開発すると、軍用への傾斜を大きくした。これは鉄炮伝来から20年前後、あとのことである。
鉄炮イコール武器という構図は近代戦的な発想であり、極めて常識的であるから、こうした説が唱えられても、何の違和感も生じないのは当然である。しかし、鉄炮関係の史料や炮術秘伝書の精査によって、ただちに軍用化したとはみなせない。これは日本に伝えられた鉄炮が軍用ではなく狩猟銃であったことを示唆しているが、伝来直後の鉄炮は贈答品や狩猟の道具として使われていたのである。炮術秘伝書は鉄炮の百科事典であると同時に、このように鉄炮の歴史を語る証人でもある。安齋實炮術秘伝書コレクションは、鉄炮の証人としての証言を、今後も続けなければなるまい。
宇田川 武久(本館研究部)
参考文献
- 宇田川武久 『鉄砲と戦国合戦』(歴史文化ライブラリー146) 吉川弘文館 2002年
- 宇田川武久 「鉄炮にみる南蛮文化の到来」『歴史学研究』No.785 2004年