連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

近世末期の都市鳥瞰図

航空写真なぞ珍しくも感じない現代人であっても、自身が住み慣れた町の全景に対して、上空から見下ろしたようなイメージを抱いていることは稀であろう。高台や高層マンションにでも住んでいなければ、日頃目にしている町の光景は、地上1メートル強の視点から見た、林立するマンション群や原色の看板が並ぶ商店街といった「部分」に過ぎない。

ところが、中世末から近世前期にかけて数多く描かれた洛中洛外図屏風は、明らかに都市を上空から見たイメージである。歴博甲本が相国寺の塔から見た景観だという説もあるが、東山や西山からの眺望と、知識としての町並みのイメージを複合した、構想の産物の側面が強いだろう。寺社などの名所の光景、商家の賑わいといった細部表現も考えると、この町に生きていた絵師の視覚体験と生活体験が解け合っているにちがいない。

江戸後期になると、百万都市へと発展した江戸に関しても町全体を一望のもとに見渡した景観が数多く描かれるようになる。隅田川の東岸はるか上空辺りから西に向かって俯瞰し、江戸城を中心に繁栄する都市のありさまと、はるか西の空からこの町を見守る富士山、諸国からの船が多数停泊する江戸湾を描きこむ、お定まりの図様が出来上がるのである。江戸の町を現実にこの視座から見下ろせる高所は存在せず、版行された江戸絵図などのイメージを立体的に立ち上げたものであろう。地図は別として、絵画作品としてこの景観を描いた最古の作は、江戸前期の「江戸図屏風」(本館蔵)まで遡るのだが、江戸後期に流行したものは、適度に透視図法的な空間処理をも加味した、文字通りの「鳥瞰図(ちょうかんず)」である。人間の視覚に近い遠近感を演出しているだけに、見た目の臨場感は洛中洛外図の比ではない。

19世紀初頭前後に鍬形けい斎(くわがたけいさい・1764~1824)の工夫ではじまったこの新しい「江戸図」は、江戸において各種の模倣作を生んだ。安政の大地震で焼失した市街地を知らせる絵にも、この景観構成が選び取られていることに、普及の度合いが見て取れる。けい斎が美作(みまさか)津山城の襖(ふすま)に「江戸一目図(えどいちもくず)」(津山郷土博物館蔵)を描き、また、地方から江戸に出府した信濃の豪農がけい斎に江戸図の制作を依頼した事例もあるように(伊藤洋子「山田松斎の交友と文人趣味」『長野県立歴史館研究紀要』9号、2003年)、この都市の繁栄を縮図化したものとして地方へも伝えられていった。

こうした「江戸鳥瞰図」の豊富な先例があったからであろうか、幕末・明治になって、開港地横浜が急速に都市としての体裁を整えはじめると、その景観を鳥瞰した錦絵が数多く制作されるようになった。代表作者のひとり、歌川貞秀(うたがわさだひで・五雲亭〔ごうんてい〕、玉蘭斎〔ぎょくらんさい〕、1807~?)は、融通無碍(ゆうづうむげ)な視点で横浜の町を詳細に描きだしている。貞秀は横浜に限らず、大坂、京都、長崎などの都市鳥瞰図をも描き出し、「一覧図」(当時における鳥瞰図的作品の呼称)の第一人者となったのである。
 透視図法的な画法を導入しながらも、空間を自在に歪曲したり特定の事物を誇張した、これら江戸後期から明治初期にかけての都市鳥瞰図は、当時の人々がそれぞれの都市に抱いたイメージと、その中の何に関心を寄せていたのかをうかがい知るための、格好の画像資料である。

図1 再刻江戸名所之絵(本館蔵) けい斎の「江戸名所之絵」を孫のけい林が忠実に模写し版行したもの。

図2 江戸一目図 英三雅画(本館蔵) これもけい斎の「江戸名所之絵」の模倣作。同様の作に歌川国盛の弘化期の図もある。

図3 大江戸一覧 1855(安政2)年(本館蔵) 安政の大地震で焼失した市街地を、江戸の鳥瞰図の上に示している。

図4 御開港横浜之全図 1860(万延元)年頃 歌川貞秀画(本館蔵)
東海道子安(こやす)村辺りの上空から横浜を鳥瞰する。透視図法を駆使しているようで、必要なモティーフを画中に収めるため、空間の歪曲も自在におこなっている。

図5 再改横浜風景 1861(文久元)年 歌川貞秀画(本館蔵) 漁村から急速に都市としての体裁を整えた横浜の立地がよくわかる。絵の中心には遊廓港崎(みよさき)町が描かれ、人々の関心がどこにあったかがよくわかる。

山田慎也(本館研究部)