連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」

平安貴族の苦労

平安時代の貴族の社会と生活を表わす場合、「雅」という表現がしばしば用いられる。宴と音楽、詩歌の交換、女房や公達の色彩豊かな衣装――このようなイメージをその一言が的確に表わしているといってよいであろうし、これが彼らの生活の一面をとらえていることも事実であろう。しかし決してそれがすべてではなかった。彼ら貴族はなによりもまず国家の官職体系のなかに地位を占める官僚であったから、それにともなう職務としてさまざまな政務をこなさなければならなかった。当時の政務は多くの場合、儀式という形式にのっとっておこなわれたので、儀式の次第やその作法、先例について深い知識を身につけておくことが貴族には求められていた。彼らはこのような知識を祖先が残した日記から不断に学ぶことを通じて体得していった。

平安時代後期の右大臣藤原宗忠(むねただ)(1062~1141)は儀式の故実に精通した公家であり、『中右記(ちゅうゆうき)』と呼ばれる内容豊かな日記を残したことでも有名である。1120(保安元)年6月17日、宗忠はそれまでの三十数年間に書きためた日記の記事を内容ごとに分類・整理し(これを「部類する」という)、3年の歳月を費やし、老骨に鞭打って「部類記」160巻を作った。その目的は、息子の宗能(むねよし)が朝廷に出仕して儀式にたずさわったときに無事その任務を遂行できるようにするためであったという。このことは当時の公家がなぜ多くの日記を残したかということとかかわっている。

公家の日記の特色の一つとして、朝廷などでおこなわれたさまざまな儀式の次第を細かく記録しているという点がある。こうした儀式の記録を蓄積して子孫に伝え、子孫は先人の日記をひもといて儀式の作法を先例から学んだのである。作法を知らなかったばかりに儀式の場で大きな失敗を犯し、同僚の公家たちから嘲笑され非難を浴びた例は少なくない。このような不名誉を避けるために貴族たちは不断に儀式作法の勉強をしなければならなかった。しかし年とともに増え続ける日記から必要な記事を探しだすのは至難の技である。そこで考案されたのが、記事を内容ごとに分類して部類記を作ることであった。これを使うことによって、必要な分類個所を開けば求める記事が関連記事も含めてただちに一覧できるわけである。宗忠が息子のために老骨に鞭打って部類記を作ったのは、息子の将来を思う親心というべきであろうが、平安貴族の生活の一端をうかがわせるものでもあろう。

なお『中右記』の部類記は多くの写本が今に伝わっているが、とくに九条家旧蔵『中右記部類』は平安時代末期ないし鎌倉時代初期に写されたものとして有名である。本館にもその巻第七と巻第十九の2巻を保管しており、いずれも重要文化財に指定されている。これはまず「年中行事」「臨時神事」など大きな分類を立て、つぎに各分類ごとにそこに含まれる儀式・行事を配置し、さらに儀式・行事ごとに『中右記』の記事をまとめて掲げるという形態をとっている。

『天子摂関御影』藤原宗忠像(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
『中右記』を残した右大臣藤原宗忠(1062~1141)は朝廷の儀式・故事に精通した公家であった。

『中右記部類』巻第七 年中行事第七 秋部上(巻首)
五摂家のひとつである九条家に伝来したもの。巻第七は年中行事の巻で、毎年7月に宮中でおこなわれた相撲節会に関する『中右記』の記事を集めている。
『中右記部類』巻第七 紙背(漢詩集)
巻第七は漢詩集の裏を利用して『中右記部類』を写している。漢詩集には「巻六 飲食部上」と見えるので、詩の内容ごとに分類した規模の大きい詩集であったことがうかがえるが、書名はわかっていない。
『中右記部類』巻第十九 臨時神事第一(目録・巻首)
巻第十九は臨時におこなわれる神事に関する『中右記』の記事を集めている。
『中右記部類』巻第十九 紙背(文書・異本公卿補任)
巻第十九は平安時代末期の古文書や『公卿補任』(公卿たちの職員録)の裏を用いて『中右記部類』を写している。ここに見える『公卿補任』は一般に流布しているものとは形式が異なっており、『異本公卿補任』とよばれている。
『中右記』保安元年6月17日条
藤原宗忠が老骨に鞭打って自分の日記『中右記』の記事を分類・整理し、160巻の部類記を作ったことを書き留めた日記の記事。息子の宗能の将来を考えてのことであった。

(本館歴史研究部・吉岡眞之)