Session 2
Courses toward Civilization: Urban Society
2月2日(水)国立歴史民俗博物館 佐倉
セッション2 文明への道−都市−
中原世界の形成 趙 輝(中国・北京大学)
中国における都市の生成 中村 慎一(日本・金沢大学)
華南からみた農耕社会と都市の成立 西谷 大 (日本・国立歴史民俗博物館)
朝鮮半島の文明化 崔 夢龍(韓国・ソウル大学)
東南アジアの文明化前史−メコン流域の場合− 新田 栄治(日本・鹿児島大学)
日本の文明化 広瀬 和雄(日本・奈良女子大学)
メソポタミアの初期複合社会−最近の研究成果と派生する問題−
グレン M. シュワルツ(アメリカ・ジョンホプキンス大学)
エトルリアにおける国家の形成 サイモン・スタッダート(イギリス・ケンブリッジ大学)
ブリテン鉄器時代と日本 新納 泉(日本・岡山大学)
西洋と東洋の「都市」成立のプロセス−日英の比較を中心として− 宇野 隆夫(日本・国際日本文化研究センター)
Tuesday 2nd February National Museum of Japanese History SAKURA
Session2: Courses toward Civilization: Urban society
The Formation of the Central Plain World Hui ZHAO CHINA
The Urban Genesis in China Shin'ichi NAKAMURA JAPAN
The Formation of Agricultural Society and Urbanization of Southern China Masaru NISHITANI JAPAN
The "Civilizing" Process of the Korean Peninsula Mong-lyong CHOI KOREA
The Dawn of the Civilization in the Mekong Basin and its Neighboring Regions Eiji NITTA JAPAN
The Civilizing Process of Japan Kazuo HIROSE JAPAN
Early Complex Societies in Mesopotamia: Recent Research and its Ramifications Glenn M. SCHWARTZ U. S.
Pre-Roman State Formation in Europe Simon STODDART U. K.
Iron Age Britain and Japan. Izumi NIIRO JAPAN
The Process of Urbanization in the Western and Eastern World Takao UNO JAPAN
: Especially the Cases of British Isles and Japanese Achipelago
中国数千年の歴史の大部分は中原地域が政治活動の中心であったと同時に、文化の中心でもあった。この歴史傾向が文献資料や考古資料によって明確に確認できるのは商代からである。しかも夏代に遡る可能性さえ説かれている。今回は、ここ十数年にわたる考古学上の発見によって、この歴史傾向が先史時代に形成されたことを示す資料を提示した。
中国新石器文化にはすくなくとも紀元前5000年以前に、北方畑作農耕と南方稲作農耕など2つの文化区が形成されている。そのほかの地域の文化の生業は、まだ低いレベルにあったと考えられている(Fig.1)。
上記、2つの農耕経済文化区内の諸文化間の交流度はさまざまである。しかしこのなかに、2つの文化区に分かれて以降、2000年以上の歴史をもつ中国先史時代文化の萌芽がみられることは間違いない。
紀元前5000〜3000年の間に、農耕経済と土器・石器・玉器などの製造業の発展、集落規模の拡大、社会人口の増加によって、2つの関連性が、ある文化傾向をもたらした。すなわち、考古学的な文化の拡大と文化内部の連絡が緊密になると同時に、考古学的に認識できる文化間の交流も多くなった。しかし一方で、それ以前から存在していた各文化間にみられた微妙な不平衡現象も継承され強まっている。幾つかの文化間交流がますます緊密化し、彩陶文化圏・鼎文化圏・筒形罐文化圏など3つの大きな文化群が形成された。これらの文化群は経済類型の違いで区別できるわけではない。もし文化ファクターの拡大・影響をみれば、黄土地域の仰韶文化がこの3つの文化圏のなかで優勢の地位を占め、その影響が中国の大部分の範囲に及んだと考えられている(Fig.2)。
原因についてはまだ検討中であるが、考古学上の発見により、前に述べた広域の文化交流を通じて、紀元前3000〜2500年の間に中原地域の周辺ではかなり高いレベルの地方文化が現れた。これらの文化はほとんど同時にかなり高いレベルに達している。これらの文化は独自の特徴をもち発展すると同時に、互いに複雑な交流をもち巨大な文化樹林が成立した。厳文明はこの現象を中国文明の「多元一体」と呼ぶ。
これらの地方文明の突出により、文化状況にかなり大きな変動を起こった。たとえば仰韶文化のある中原地域では、前よりも強くてしかも十分に統一された文化がなくなって、中原の各地で地方文化が芽生え社会全体が分離・低迷の時期に入った。中原地域の文化の力が弱くなって、紀元前3000年ごろから周辺の幾つかの地方文明が中原地域に影響を及ぼすようになる。われわれはこの時期こそ中原文化区が形成し始める時期と認識している。
地方文明は対外関係の重点を中原に向けているので、それ以外には刺激を及ぼさず、発展は停止状態にある。これによって、中国新石器文化は3重構造をもつことになる。この文化構造を周辺文化からみれば中心に向ける特徴をもち、中原地域の側からみれば外のことを受容できる特徴をもつと考えられる(Fig.3)。
中原地域が周辺の文化ファクターを受け容れる傾向は紀元前2500年以降、ますます顕著になる。この時期に中原地域に現れた系譜を異にする文化ファクターには、十数種類の土器および土器製作・装飾技術、かなり精緻な石器および玉器の製作加工技術、長列の連間式の建築、墓の大きさや葬具・副葬品の格差によって埋葬された死者の身分等級を表す埋葬制度などがある。そのほかに、周辺の文化の刻●字符・龍および別の動物造型・■・璧などの玉器に象徴される信仰観念も、中原の人びとやかれらの後継者の精神体系に入っていた可能性がある。この結果、中原地域では考古学的に他地域の文化と区別できる中原龍山文化という文化実体が形成されたのである。
文化内容の複雑化と繁栄に伴い、中原文化と地方文明との実力は劇的に逆転した。地方文明が衰退した原因については、中国の考古学研究者たちの一番の関心事となっている。中心地域に起こった文化の変化は地方にも影響した。たとえば、もっとも辺境にある嶺南地域では長江流域の文化要因が数多く出現した。長江流域の文化は中原文化との競争に敗れ、再び南の方へ影響を及ぼし始める。
中原文化が突出した理由は、地理的に中国の中心にあり、物質交流・情報交流が自然に集まる土地であったからと考えられる。この有利な特徴により、中原文化は周辺の文化要因を多量に受け入れることができたのである。
中原文化の突出は地方文明の要素を受け入れたから可能になったのである。考古学の資料をみれば単純に物質文化を受け入れただけである。しかしそれは表面的な見方にすぎない。中原文化は周辺社会の文化・風俗・伝統・信仰ないし政治経験を尊重し、真摯に受け止めた。李済は殷墟の青銅器の形を例にあげて説明する。これらの青銅器は地元の土器ではなく、主に沿海地域の新石器時代晩期に属する土器の形を模倣したと考えている。青銅器は主に礼器として使われ、社会成員の等級を明確にする礼制という制度を物質的に支える器物である。われわれは中原地域と周辺地域との文化交流がただ技術・貿易などの経済面だけで行われたのではなく、主に思想・制度・政治・統治の術などの面で行われた可能性を想定している。そのことが周辺の地方文明の衰退と中原地域の文明の突出をもたらした社会的要因ではないかと考えている。
中原地域に位置する文化が重要な文化の実態として現れた意義は、その後の三代文明の活躍する舞台を作ったこと以外に、中国文化の多重空間構造を形成した点にある。このような構造があってこそ、中原地域の文化が周辺地域の文化の受け入れを可能にしたと同時に、その重要性を認識することができた。そのことが中原地域の文化の影響力・結合力をますます強めることにつながったのである。われわれは数千年間ずっと継続された歴史傾向の始まりをここに見ることができるのである。
