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弥生時代から古墳時代へ−日本列島の文明化をめぐって−

白石太一郎(国立歴史民俗博物館考古研究部)


Yayoi to Kofun: Civilization of Japanese Archipelago

Taichiro SHIRAISHI
Dept. of Archaeology, National Museum of Japanese History, JAPAN



Abstract
   In the latter half of the third century in all areas of Japan, except the north and the south, giant“keyhole”shaped burial mounds were constructed. This can be thought to reflect the formation of a political alliance with the main power residing with the Yamato force in the Kinki region. This group held power over the various areas of the archipelago. It can be thought that cooperation among forces in the Kinki and Setonaikai coastal areas for the purpose of stealing control of the import routes for iron and other advanced culture commodities from the Korean peninsula from the forces in northern Kyushu was what lead to the formation of this wide-reaching political alliance. The external factor of foreign relations certainly played a great part in the formation of a political world in the Japanese archipelago.
   The Yamato alliance that was thus formed became even more civilized. More extreme measrues were necessary in order for Japan to join the international society of East Asia. External stimulation due to strained international relations in East Asia between Koguryo and the South after the latter half of the fourth century were what spurred this activity. There were also demands from the kingdoms of Paekche and Kaya and the Yamato nation got into a direct battle with the horse-riding forces of Koguryo. This led to the reception of advanced metal-working skills for the production of weapons and horse-riding culture. It also led to the reception of the culture of Chinese characters as a means of conducting foreign diplomacy and other various cultures and technologies that advanced scholarship and thought. The civilization of the Yamato nation was founded on a definitive maturation of agricultural society, however the results of that independent development were not the sole deciding factor. Strong external stimulus was the key point.

1 報告の目的
 日本考古学では、日本列島にはじめて稲作農耕に基礎を置く農耕社会が形成された「弥生時代」と、各地に巨大な墳丘をもつ古墳が造営されるようになる「古墳時代」を区分している。巨大な古墳づくりに熱中した古墳時代は、列島各地の政治勢力相互の間に政治的連合関係が成立し、北と南をのぞく日本列島の中央部がはじめて一つの政治的まとまりを形成した時代でもある。本報告の第一の目的は、こうした広域の政治的まとまり、すなわち倭国連合がいったい何を契機に形成されたのかを考えることである。
 農耕社会の発展を基礎に、一定の外的刺激をうけて形成された倭国連合の成立は、文明化のための政治的・社会的基礎条件が整備されたという意味で重要である。しかし倭国が、さらに文明化を進め、真に東アジアの国際社会の仲間入りを果たすには、さらなる飛躍が必要であった。重要なことは、このさらなる飛躍が、農耕社会の一定の成熟を基礎とする倭人社会の自立的発展の結果もたらされたものではなく、東アジアの国際情勢の緊迫という外的な刺激の結果にほかならないということである。騎馬文化、金銅製品の加工をはじめとするさまざまな新しい技術、さらに漢字文化の本格的受容をはじめとする学術や政治思想の受容など日本列島の文明化の基盤が整備されたのは、5世紀の東アジアの国際関係の緊張という条件下における外来文化の積極的受容の結果にほかならない。本報告の第二の目的は、この古墳時代中葉における文明化の契機を明らかにすることである。
 倭国の文明化の進展は、農耕社会の一定の成熟を基礎としつつも、必ずしもその自律的発展の結果もたらされたものではない。それは明らかに強力な外的刺激ないし圧力を契機とするものである。このことは、古墳に象徴される首長連合体制を止揚して7世紀末葉に成立する集権的な律令制古代国家の形成についても例外ではない。中国の高文明の周辺に位置する日本列島の文明化の特質を考察するのが本報告の目的である。

2 倭国連合の形成
 中国鏡に象徴される先進的文物や鉄器文化、あるいは技術の受容において、北部九州の日本列島の他の地域に対して圧倒的に有利な立場にあったことは、弥生時代における鉄器や中国鏡が北部九州を中心に分布することからも疑いない。それにもかかわらず、その後の日本列島の古代国家が近畿の勢力を中心に形成されたことは古墳のあり方からも確かな事実である。この矛盾を説明する手段として、「東遷説」が戦前から和辻哲郎らによって唱えられてきた。しかし最近の弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての土器の移動に関する研究の進展の結果などからも、九州勢力の東遷は考え難い。
 報告者は、朝鮮半島東南部の鉄資源や中国鏡をはじめとする先進的文物の輸入ルートの支配権を北部九州勢力から奪取するため、近畿から瀬戸内海沿岸各地の勢力がヤマトの勢力を中心に連合したのが、広域の政治連合形成の契機になったものと考えている。こうして成立したものが邪馬台(ヤマト)国を中心とする倭国連合にほかならない。また最近では、定型化した大型前方後円墳の造営年代が3世紀中葉すぎまでさかのぼるものと考えられるようになり、古墳造営の背後にある連合政権としてのヤマト政権も、邪馬台国連合からストレートに繋がるものと考えられるようになった。
 このように倭国連合は、その成立の契機からも海外の先進的文物の共同入手機構にほかならず、ヤマトの首長はその盟主として外交権を各地の首長から承認されたのであろう。まさに海外の先進的文物や情報の入手ルートの支配権をめぐる確執が、広域の政治連合の形成の契機となったのである。

3 倭国の文明化への外的刺激
 倭国への鉄資源や先進的文物、さらに情報の輸出・発信基地となった加耶、特に金官加耶では、4世紀にはすでに馬具や騎馬文化が受容されていたが、不思議なことに4世紀の倭人たちは、馬匹や騎馬文化にはまったく関心を示さなかった。ところが4世紀末から5世紀になると、倭人たちは競って騎馬文化を受容するようになる。馬匹生産のため大規模な牧の設置のために少なくない渡来人が東日本にまで移住したことが、多数の馬の殉葬土壙の検出から想定できる。数多くの牧が設置されたと想定される信濃地方には、百済の横穴式石室と共通の様式の横穴式石室がみられることなどからも、この時期の牧の設置が百済や加耶の技術援助をうけて行われた国家的事業であったことがうかがわれる。また日本列島の初期の馬具はいずれも加耶のものと共通する。馬具の提供やその製作には加耶の援助や協力があったことは疑いなかろう。
 こうした騎馬文化の受容の背景には、4世紀後半以降の高句麗の南下という東アジアの国際情勢の大きな変化があることはいうまでもなかろう。こうした国際的に大きな危機に直面して、倭人たちはそれまでまったく関心をもたなかった騎馬文化を否応なしに受容する。そこでは馬の生産・飼育技術ばかりでなく、馬具などの生産に関連して金属加工、皮革、木工などさまざまな技術、戦術や外交手段としての漢字文化、さらに学術・思想までもがもたらされることになるのである。それは、まさに高句麗という北からの軍事的圧力に対抗するための百済や加耶の外交政策の一環にほかならない。また朝鮮半島における動乱を逃れて少なくない渡来人が日本列島に渡来し、騎馬文化以外にもさまざまな技術・情報・文化をもたらしたこともいうまでもない。このような強力な外的刺激、あるいは外圧こそが、倭国の文明化の最大の契機となったのである。