中国古代国家の形成過程について、かつて進化論的な整理をおこなった〔岡村1998〕。しかし、そこには新石器時代の農耕社会からの単線的な発展だけでは十分に 説明できない個性があり、本発表では龍山時代(紀元前3千年紀)から殷周時代(前2千年紀)までの農業生産の展開と都市の形成をみるなかで、そうした中国古代国家の成立にいたる個性的な側面を明らかにしたいと思う。
遺址から出土する動物骨の構成比をみると、新石器時代の黄河・長江流域では、一部の遺址でシカ優位型が存在しているものの、ブタ優位型が普遍的にひろがり、ブタの比率がしだいに増加していった。森林や河川などの自然資源に恵まれているところでは狩猟や漁撈も並行して盛んにおこなわれたが、ブタは繁殖能力とエネルギー効率に優れ、食性がひろいので飼いやすく、農耕の副業として小規模な個別経営が可能であった。しかし、前2千年紀にはそれが一転して多様化する(図1)。第1に、黄河中下流域の農耕村落では、新石器時代以来のブタ優位型が安定的に継続している。第2に、黄河上流域の黄土高原地帯では、気候の乾燥・冷涼化と草原環境への遷移にともなって、シカをはじめとする野生動物が激減し、前2千年紀のなかで、まずブタ優位型からヒツジ優位型の雑穀農耕に転換し、つづいて草食性のウシ・ヒツジやウマ科などに限定した完全な牧畜経済が生成する。第3に、長江流域の水田稲作地帯では、前2千年紀にシカ優位型に転換する。森林や河川の自然資源に恵まれた長江流域では、畜産を大幅に縮小して集約的な稲作農業をはじめるとともに、漁撈・採集とシカを主とする狩猟を補助的におこなうようになったのである。このもっぱら「稲を飯にし、魚を羮にする(『史記』貨殖列伝)」生活様式は漢代まで継続した(図2)。第4に、ウシ優位型の消費都市の形成である。殷の王都におけるウシの比率は、殷墟の王宮区(殷後期)で98%以上、一般居住区では鄭州(殷前期)・殷墟(殷後期)ともに60%前後を占める。また、出土動物骨の数量が爆発的に増大し、野生動物はきわめて少ないのが特徴である。これは王都の周辺に森林が減少するとともに、国家的な畜産体制が確立することによって、大量の生産と消費が可能となったからである。このようなウシ優位型の王都は、自給自足的なブタ優位型の農村とちがって、他給依存的な消費都市とみることができる。
稲作についてみると、前5千年紀に自然の沼沢地を利用した小規模な人工的水田が出現し(図3・図4)、収穫量の増大と連作が可能となった。黄河流域に北上した稲作は、漢代まで麦や雑穀の黍・稷と組みあわせた栽培がおこなわれ、ブタを主とする家畜をともなっていたのにたいして、長江流域では前2千年紀に畜産を放棄して稲作に特化した農業に転換した。集約的な水田経営がはじまったのであろうが、日本の稲作文化は、この前2千年紀に成立した稲作農業に深いつながりをもっている。
龍山時代には中国の各地に城郭集落が出現し、集落規模の階層化が顕著になる。長江中流域を例にみると、水田稲作の開始にともなって前5千年紀(大渓文化)に10ha程度の規模をもつ城郭集落が形成される。城郭は集落を防御(戦争に限定されない)する機能をもち、湖南省城頭山のように前3千年紀(屈家嶺・石家河文化)まで長期に継続した遺址があることから、それは農業に基盤をおく農耕社会であったと考えられる。そのいっぽうで、前3千年紀に出現する湖北省石家河遺址は、100ha以上におよぶ城郭と、その内外に40ヶ所の遺址からなる大規模な複合集落で、長江中流域にそれを中核とする重層的な集落間構造の政体が成立する。社会的分業の進展とともに石家河を頂点とする城郭集落は物資と情報の中枢として機能するが、その基本は自給自足的な農耕社会である。ここに都市とのちがいがある。
前3千年紀末になると、交易や戦争をふくめた地域間交流が活発になり、儀礼的玉器の再編成が進行する。このなかで各地に林立した城郭集落が相次いで解体する。その原因はよくわからないが、上述のような農業生産の変動と無関係ではないだろう。
そして、二里頭時代をへて前2千年紀中ごろの殷都鄭州に内城と外郭をもつ城郭都市が出現する。宮殿の位置する内城の版築城壁は周囲7kmにおよび、外郭内には青銅器、玉器、骨器、土器などの工房が整然と配置されている。また、外郭内に居住する庶民も他給依存的な消費者であり、都市と農村との質的な差異が顕著になった。
殷周時代の都市は、西アジアのように農村から都市へと連続的に発展したものではない。また、殷・西周代には王都が唯一の都市として機能し、自律的な都市国家が並存することはなかった。それは強力な王権によって無のところから政治的な目的で造営されたものであり、王権と命運をともにしていた。王と家臣や諸侯たちとのあいだには君臣関係にもとづく礼の秩序が形成され、王の家臣や諸侯たちは貢納や奉仕をおこない,王からさまざまな賞賜を受けたが,その贈与交換は,多くのばあい王室の祭祀儀礼を目的または媒介とし、王都はそのような祭祀儀礼をおこなう王宮・宗廟・王墓,各地からの貢納物を集積する倉庫,各地から集められた原料をもとに祭儀用品を加工する手工業工房などからなり,従属する族集団を移住させて直接奉仕させることもあった〔岡村1999〕。殷周時代の都市経済は、まさに王権のなかに埋め込まれていたのである。そのようなあり方は日本をはじめ、東アジア各地の初期国家にもあてはまるだろう。
参考文献
岡村秀典 1998:「農耕社会と文明の形成」『岩波講座世界歴史』第3巻、岩波書店
岡村秀典 1999:「中国古代王権と祭祀」『考古学研究』第46巻第2号

