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華南からみた農耕社会と都市の成立

西谷  大(国立歴史民俗博物館考古研究部


The Formation Process of Agricultural Society
and Urbanization of South China

Masaru NISHITANI
Dept. of Archaeology, National Museum of Japanese History, JAPAN




Abstract
   There is scant Neolithic age archaeological evidence in South China of the appearance of city-like villages, the creation of a hierarchy of burial sites, and signs of specialized groups which accompany the maturation of an agricultural society, such as that found in the Yangtze River basin area. Also, the development of a unique bronze culture continued despite the continuing central region influence in South China in the Western Zhou dynasty. However, archaeological evidence indicating the establishment of a central region -style nation state is also rare. Nevertheless, in the late Qin, pre-Han period a city (Fanzhi) and a nation state Nanyue appeared suddenly. The reasons for this sudden development can not be found in the gradual progress from the establishment to the maturation of an agricultural society. The following three factors can be cited as the antecedents for the appearance of a city and nation state in South China.
1. The establishment of the Han dynasty, the appearance of the great Roman Republic in western Eurasia, the appearance of united nations such as the Maurya dynasty which united India. South China is located along the route that connects these large markets. This region which had been considered an outer lying region from a Chinese standpoint had a dramatically significant degree of importance.
2. The establishment of a network for the transmission of commodities and information connecting the inner continent, rivers and coastal areas which is thought to have been established in the late Neolithic age. Also, the formation of a focal point which performs the previously stated functions and the establishment of ruling authority. Thus conditions were fulfilled for control of that network, and the area was able to serve as a relay point for trade.
3. By controlling Guandong and Guangxi, not only was unified control of the network made possible, but formation of local industries which could supply South China's unique commodities such as ivory and rhinoceros horns was achieved.
   In any case, it can be said that the maturation of a unique society first became possible after the Neolithic age by making use of external factors with in the South China region for the establishment of Nanyue and the city of Fanzhi.

はじめに
 華南地域の福建沿岸部、広東・広西の沿岸部、南嶺山脈は、織りなす複雑な地理的環境のなかで複雑な文化状況を生み出してきた。この地域での農耕の開始は、すくなくとも新石器時代後期(前3000年紀)である。また、国家の形成においても中原地域におくれ、南越国の登場まで下る。東アジアにおける農耕社会の成立と国家の成立を考える場合、華南地域も日本と同様に「中国」の周辺地域の一つしてとらえ、この地域の個性を考えてみたい。

1 長江流域
 長江流域では、農耕の開始以降、特に新石器時代後期になると農耕の順調な展開を基礎にした、社会の階層的序列の出現が顕著になり、墓葬のあり方にもそれが反映するようになる。また長江中流域のこれまでの集落とことなった巨大囲壁集落の出現を、萌芽的な都市とするかどうかは別にしても、少なくとも新石器時代後期に都市の成立と発達が準備されていたことは確実である。良渚文化の玉器に代表されるように、高度な技術が要求される器物の生産では、分業が必要であるとともに、それを維持するための階層上位者とそれを継承するための社会形態の存在が不可欠であろう。いずれにしても、考古学的な証拠から、長江流域では、人口増加、貧富の差、社会階層化、など社会の変化が確認されつつある。

2 華南
 華南地域の新石器時代を考える上で、まず分断された複雑な生態環境を考慮する必要があろう。海と接する沿岸部、大河川下流域の比較的居住に適したデルタ上端部とマングローブに覆われたでデルタ地帯、内陸部の丘陵にかこまれた盆地および平野など、これら環境生態系によって新石器時代の文化はそれぞれに個性をもつ。
 東南沿海南部で様相がわかるのは、いずれも新石器時代後期であるが、その特徴は、珠江下流デルタ地域の遺跡はデルタ内部には形成されず、島嶼地域や大陸の砂丘上に位置する。文化層の堆積は薄く、遺物も少なく季節的な居住に使われたと考えられているが、生業形態は明らかではない。後沙湾文化がこれに相当する。デルタ上部では、遺跡は、微高地に位置し、貝塚と平地住居を伴う。銀洲遺跡第1期がこれに相当する。珠江上流域では、後期中葉の代表的な遺跡として、石峡遺跡がある。石峡遺跡では、生産工具の基本は珠江三角洲に近いが、鼎が発達し、良渚系文物を積極的に受容しつつ、稲作をおこなっていた。また、農耕がおこなわれていた可能性の高い地域として、福建省の曇石山文化があげられる。珠江の河岸段丘上に形成された遺跡では、イヌ・ブタなどを飼育し、同時に貝塚が発達しており、水産物の利用も多かったことを示している。珠江上流域や、福建西部などで、収穫具である石庖丁や、有段片刃石斧も長江下流域と共通するものが出土している。また、イネ遺存体として商周併行期に属する東張遺跡で確認された稲藁が挙げられるが、東張遺跡の生産工具は、基本的に曇石山文化を継承したものであり、狩猟・採集の比重も高く、長江下流域のような農耕の形態ではなかったと考えられる。
 このように、華南地域で稲作をおこなっていたと推定される地域は、珠江江上流の石峡遺跡や、珠江の河岸段丘上など、ごく限られた小地域であり、デルタ地域には進出していない。また、長江流域で認められるような、都市的な集落の出現、墓地の階層化、専業集団などのを示す考古学的証拠は希薄である。稲作が、珠江上流や、河岸段丘沿いの一部の地域に限定されたのは、唐代以降農業生産の中心となる河川下流のデルタ地域への進出が技術的に難しかったことがあげられよう。またこの地域での狩猟採集の生産性が高かったことも指摘できよう。長江流域、たとえば長江下流域では、約6000年前,現在太湖を中心とした周囲は,沼沢地が進む。稲作農耕の進展とその後の農業社会の成立には、野生稲の存在だけでなく、淡水化した太湖の周辺という好条件の生態環境が存在したことも重要な要素になろう。

3 ネットワークの構築
 華南地域において、その後の国家形成に関わる要因として指摘できるのは、小さく独立した小地域を結ぶネットワークが、おそらく新石器時代後期にすでに形成されはじめていたことである。後期中葉の石峡下層文化からは、長江中流域の大渓文化後期に関連すると考えられる彩文土器が出土する。広東や海南島、それにベトナムでの有肩石斧の出土や、石峡遺跡墓葬おける良渚系玉器の埋葬は、おそらく長江下流―江西―北江流域にいたる、東西内陸部のルートが想定できる。石峡遺跡は、こうした湖南―広州南北ルートと、東西ルートの結節点に位置していることになる。
 二里頭文化の祭器である、璋(牙璋)と呼ばれる軟玉製品(または石製品)が、東南沿海部の福建省滝浦、広東省増城、香港南Y島、さらには、ベトナム北部の初期金属器文化・フングエン文化に属するフングエン遺跡やソムレン遺跡からも出土している。その意味については、中原王朝と遠隔地の地域首長層との、何らかの政治的な接触を意味する器物とも考えられている。いずれにしても、この時期に、ベトナムまで含む海域ネットワークと内陸河川ネットワークが形成され中原とつながっていたことは確実である。

4 華南における都市と国家の成立
 広東・広西では、西周時代以降、中原の影響をうけつつも独自の青銅器文化が発展していた。しかし、長期定住型の集落は、これまで発見されていない。前210年に始皇帝が死去し、秦帝国が崩壊すると、秦によって派遺された趙佗という河北出身の役人が権力を握って王となり、広東・広西を領域とする南越国を建てたといわれている。首都は「番禺」といい、これは現在の広東省広州市にあたる。番禺という都市は、農村から都市へと連続的に発展したものではく、人工的に作られた可能性が高い。南越国と、都市としての番禺の成立を可能にした要因に次の3つのことがあげられる。
 1) 漢の成立、ユーラシア西部の超大国共和制ローマの出現、インドの統一王朝マウリヤ朝などの統一国家が出現し、これら巨大市場を結ぶルート上に華南があり、従来中国からみた周辺地域であったこの地域が、劇的に重要度をましたこと。
 2) 新石器時代後期に成立したと考えられる、内陸・河川・海域を結び、物資と情報を伝達するネットワーク機能と、それを掌握する結節点の形成と首長権が確立していたこと。そしてそのネットワーク機能を支配し、交易の中継地点としての条件がととのったこと。
 3) 広東・広西を支配することで、ネットワーク機能を統一支配だけでなく、華南独自の産業、象牙・犀角など当時の奢侈品を華中に供給できる地場産業を形成できたこと。
 いずれにしても、南越と都市としての番禺の成立は、華南地域内部に外在的な要因を利用できるだけの、独自の社会の成熟度が新石器時代後期以降存在して初めて可能であったといえよう。