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韓国における農耕社会の儀礼と世界観

李 相吉(慶南大学校博物館)

Ritual and Ideology of Agricultural Society in Korea

Sang-Kil Lee
Kyungnam University Museum, KOREA



Abstract
   The study presents the ritual and ideology during Mummun pottery period in southern Korean peninsula. The subsistence transition from hunting and gathering to agriculture changed people's lifestyle. Increases in population and settlement size were followed by changes in the use of space. The households were separated from burials and farmlands, and whole settlements were enclosed.
   Various rituals were performed in each different place. People lived in agricultural societies became more familiarize the life cycle of cultivated plants through domestication process. New ideology based on fertility of the land, life and death, regeneration, and worship of the earth goddess emerged.
   Agriculture led to the stratification of societies. Chiefdomship emerged and societies were politically restructured. Religious expertise, such as a sherman, also appeared. Solidified rituals were performed in these matured agricultural societies. Rituals played a vital role for the development of societies as they maintained social order and strengthened spiritual bond of community members.

序 言
 韓半島の中・南部地方は、紀元前1,000年頃すでに食糧生産を主とする農耕社会へ入っていた。儷州欣岩里遺跡や晉州大坪里遺跡では米を始めとして大麦、小麦、粟などの穀物と半月形石刀を始めとする各種農具が出土しており無文土器の使用とともに農耕が開始されたことを知ることができる。
 農耕社会への転換は共同体が大規模聚落へ発展する契機となるだけでなく人口の集中とともに社会の階層化を加速させた。このことは青銅器の副葬と埋納、巨大な墓域をもった墳墓の造成などの考古学的証拠によって確認できる。本研究では韓半島南部地方の農耕社会におけるさまざまな儀礼を検討し、これら儀礼を通して社会構造と観念、世界観を考察してみようと思う。

1 聚落における空間概念(Fig.2)
 住居が集中する大規模聚落のなかには一定の規制が伴うようである。特に空間区分に対する観念が明確に現れており、環濠聚落は特定の空間を区画する典型的な例である。住居と墳墓は混在せず、住居地域の周辺に耕作地が配置され、その外郭は河川や山のような自然によって画されている。大邱東川洞遺跡や晉州大坪里遺跡の場合のように耕作地に接して位置する墳墓は、植物の消滅・蘇生の過程に象徴される再生の観念が反映したものと考えられる(Fig.3,5)。聚落の外郭をなす河川は水辺儀礼が行われた専用の儀礼空間であり、山清黙谷里遺跡や大邱東川洞遺跡で確認されている。泗川梨琴洞遺跡で調査された神殿のような大型建物跡が住居地域と墳墓群の境界に位置する点も、空間遮断と同時に死霊と関連する神殿としての意味がより強調されたものである。

2 信仰的世界観の変化
 狩猟・採集を主としていた社会から農耕社会へ転換するにしたがい無文土器時代の人びとの認識に多くの変化が発生した。植物の成長と消滅や季節的な時間の変化に対する認識は、生産と豊穣、生と死、再生、大地母神などの観念へ拡大された。このような観念は農耕儀礼や葬送儀礼に反映される。
 農耕儀礼は晉州大坪里遺跡の畠跡でその痕跡が確認されている。畠の中に各種の土器や石器、玉などの遺物を毀して撒いたり、模造品(miniture)を投げこんでいる行為がそれである(Fig.5)。畠内の遺物の中に農耕具が多い点は起耕と関連する模倣呪術(imitative magic)の痕跡と判断される。農耕儀礼に関連する代表的な遺物である農耕文青銅器は、その巫具的性格や表現された絵からみて農耕-起耕と収穫-を儀礼的に描写したことは明らかである(Fig.4)。このような農耕儀礼の姿は関北地方でおこなわれていた裸耕という農耕民俗とも似たもので、いずれも模倣呪術的農耕儀礼の姿を端的に示してくれている。
 葬送儀礼は墳墓の築造が普遍化されるとともに出現したものであり、ほとんどの遺跡で確認されている。遺物を副葬すること以外に、墳墓の築造過程中や埋葬後に墓域、周溝などに土器や石器、玉など各種の遺物を破砕して捨てることが一般的である。丹塗磨研土器や火に焼けた土器を使用することもある。特に火に焼けた土器の存在からみて供献や共食のような行為もあったようである。遺物を壊す行為はその遺物がもっていた本来の機能を否定するものであり、一度儀礼に使用された物は再び使用しないという禁忌の観念、あるいは死と関連する不浄を排除しようとする意識と関連があると考えられる。
 支石墓のような巨大な石を利用する墳墓の築造は、集団成員の共同の参与を反映しており、祖先神の概念が一般化されて現れたものと理解できる。

3 青銅器の埋納(Fig.6)
 農耕社会に入いると儀礼の目的で青銅器を埋納する例が多くの地域で出現する。青銅器の埋納は遼寧式銅剣文化期より始まるもので、忠清道礼田洞遺跡が代表的なものである。このような様相は韓国式銅剣文化期をへて(山清白雲里、馬山加浦洞など)、大邱晩村洞の広形銅戈にまでつながる。埋納遺構は聚落の中心から離れた外郭に位置し、埋納のための特別な施設や標識は確認されていない。埋納された青銅器は銅剣と銅矛、銅戈など武器類が中心であり、首長権の拡大や首長の政治的性向を示す儀礼と判断される。遼寧式銅剣文化期よりすでに強力な権力をもった地域単位聚落の首長が登場していたことは明らかである。

4 宗教職能者の存在
 韓国式銅剣文化期に至り、防牌形・剣把形・喇叭形の青銅儀器、銅鈴、銅鏡など各種の儀器が多数出土する(Fig.7)。これらの儀器は銅剣などの武器とは性格を異にするもので、遺物の性格上からみて、巫具と判断できる。したがって、この時期にすでにシャーマンのような宗教職能者が存在していたことが想定され、祭・政の分離も達成されていたものと思われる。

結 語
 狩猟・採集社会とは異なり、農耕社会の儀礼は成員全体が共同で参与する農耕儀礼や葬送儀礼が主流をなし、首長の政治的意図と関連する青銅器の埋納も行われた。社会が発展するにしたがい聚落における空間概念が確立され、住居空間と生産空間、墳墓空間、儀礼空間が明確に区分されて現れ、儀礼が定型化された形態で行われた。自然崇拝(nature worship)の概念から脱け出し、土地神や祖先神のような機能神への分化は社会構造の発達と密接な関係をもっていた。聚落での集団的儀礼は成員間の紐帯や結束を強化し、社会全体を維持・発展させる機能を担った。韓半島南部地方の農耕社会は政治的、社会経済的な発展のみならず、宗教・信仰的に定型化された枠組を備えていた。実践的な行動としての儀礼は社会発展の過程で大きな力として作用していた。