弥生時代の宗教・イデオロギーを反映する多様な儀礼具のうち代表的なものは青銅器である。特殊な製作技術と稀少性のために、首長の宝器であり豊饒を祈る農耕儀礼具でもあったが、集団の政治的・経済的な願いを保証する最高の儀礼具ともなり、大形化し、最終的に埋納される。大形化と埋納は弥生社会独自の習俗である。埋納には外的契機も推定できるがその普遍性は弥生社会の特徴である。
弥生時代青銅器の直接の源である朝鮮半島では、青銅器の出現に先だつ無文土器時代前〜中期に磨製石剣が普及していた。実戦用でもある石剣に仮託される武威が、農耕儀礼の力能や集団の統合を高めるとする観念が広がっていたことを示す。これを下地として無文土器時代後期には、武威の象徴としての細形銅剣等と宗教的権威の象徴としての多鈕鏡、銅鐸、銅鈴が、首長の宝器として所有され、副葬される。
石剣とそれより遅れる琵琶形銅剣を副葬する支石墓は、支石墓群の中に散在している。ところが後期には青銅器副葬墓がそれのみの墓地を形成する。農耕社会の進展がこの時期に至ってそのような卓越した首長権を生みだしたのである。青銅器は首長の個人属性のひとつであり続け、共同体の全体性を象徴する儀礼具とはならず、大形化もせず埋納もされない。ここに弥生社会での青銅器の役割との明確な差異が認められるのである。
日本列島には農耕とともに磨製石剣と武威を尊ぶ農耕儀礼習俗も広まり、土偶に代表される縄文的宗教観を払拭する。北部九州では前期末から中期後半には首長の宝器としての青銅器が首長墓に副葬されるが、これも朝鮮半島の習俗の受容である。だが副葬品も、銅武器の多くは朝鮮製(一部は弥生製だが製品の数にくらべ副葬量はわずか)、銅鏡はすべて朝鮮・中国製、戈以外の鉄武器と璧は中国製であって、弥生製品は勾玉、管玉などにすぎない。副葬される首長の宝器の多くは輸入品で、弥生製品は西日本各地の乏しい副葬品と変わらない。後期後半までは、豪華な副葬品にくらべ墓の姿や立地に朝鮮半島の首長墓ほどの隔絶性は示されていない。
したがって首長にあたえられた相応の強い権限は共同体の内にとどめられ、共同体の再生産に集中されたと考えられる。農耕儀礼も、共同体全体の儀礼具を用い、その管理者・儀礼主宰者として執行するのであって、自らの宝器を用いて執行するのではなかった。そのため、求心力を持つ強力な儀礼具としての銅武器と銅鐸を、最高儀礼具としてますます大形化する必要があったのだろう。交易などによる富も共同体への配分や、青銅大形儀礼具の製作と入手に費やされ、首長の権威を飾るためにはわずかしか振り向けられなかった。青銅儀礼具の埋納も、その根底にある宗教的意味には容易に接近できないが、さまざまな危機に際して共同体の結合を強化するための儀礼とされている。
これに対し、朝鮮半島南部の首長は、農耕儀礼の主宰者として自からの宝器を用いて儀礼を執行した。首長権は共同体内部にとどめられておらず、外部との交渉・交易に向かうとともに、富を自らの権威の維持に振り向けうる度合いが高かった。また共同体の自立性が高く、広域の連合・統合が進みにくかったようでもある。農業にかかわる共同体の規制力は相対的に低く、青銅や鉄の生産、中国との交易が始まると共同体内からその枠を越えて個別的にそれに従事することさえ可能であったかもしれない。次の原三国時代には、鉄器などを豊富に副葬する木棺墓、木槨墓が群集し、自立的な共同体や有力な世帯共同体が富を集積した結果と見られるからである。ここでは共同体全体の中心的儀礼具の必要性は低かったであろう。
このような、宗教観の違いをも含むとみられる日・韓の差異には、農耕開始の年代差、中国との政治的・経済的・文化的関係の深浅などのほかに、農耕の差異も作用しているだろう。
近年南江ダム水没地域では無文土器時代前期の畑遺構が見つかった。川辺の自然堤防の最も高い所に少数の住居と墓があり、斜面に畑が区画なしに広がり、数軒の住居群(経営単位としての世帯共同体)がひとつの広い畠を経営しているようである。この住居・墓・畑からなる単位が自然堤防上に連続的に存在しているが、そのひとつは環濠集落で、一帯の中心集落と見られる。中心集落の外に経営単位が連続的に小集落を営んでいるのである。
朝鮮半島南部の初期農耕が畑を主とし水田を従とし、水田の拡大が進まなかったことは、中・近世の農業の実態からも明かである。畑は天水に頼り潅漑の比重は低い。したがって潅漑のための協同性は弱く、協同性は農耕よりはむしろ墓の造営や、他地域との物資の交換、流通などにおいてより強く働き、首長権もそうした面に向けられていた。
これに対し、弥生社会では水田農耕への傾斜が強い。自然条件も、朝鮮半島は南端部のみが照葉樹林帯である上に河川勾配が緩やかで沖積地への潅漑水田の進出が困難だが、日本列島は西日本全体が照葉樹林帯であり地形的にも潅漑水田開発を行いやすい。こうした条件下で、畑作とはことなり連作ができる水田への欲求は、労働力の集中的投入と協同性の強化が求められ、共同体の規制力を強めることになる。
そこでは首長層は権能を強め階層化も進むが、共同体から離脱することは困難で、共同体内部での権威者・指導者としての性格を後にまで引きずらざるをえない。必要となるのは共同体儀礼の強化であり、銅武器、銅鐸の大形化とそれら最高青銅儀礼具の埋納による求心力の再生・強化であった。首長がこの桎梏を打破した後期後半に、階級社会の別名としての文明への道が開けたのであろう。

