Shin'ichiro FUJIO
Dept. of Archaeology, National Museum of Japanese History, JAPAN
はじめに
日本列島における生産経済への転換は前5世紀ごろの九州北部で起こった。一方、コメは前1500年頃までさかのぼることが明らかになり、自然科学的には前5千年ごろの縄文前期までさかのぼる可能性さえある(Tab.1)。コメの存在が直ちに稲作につながるわけではないが可能性は否定できない。
日本列島へコメがもたらされた時期がこれまで考えられていたよりもはるかに古いことは、コメを知り稲作を始めてから生産経済へ転換するまで数千年かかったことを示すと同時に、コメを有した採集狩猟段階が長期間続いたことを意味する。対照的に生産経済への転換はあまりにも短期間で、しかも急激であった。以上のような特徴をもつ日本列島の稲作の始まりと生産経済への転換から派生する三つの問題を検討する。
1 縄文稲作の可能性−縄文時代は新石器時代か−
縄文稲作の発端は、岡山県南溝手遺跡(Fig.1)から出土した今から3500年ほど前の縄文後期後葉に比定された土器の表面に稲籾のスタンプ痕(Fig.2)が見つかったことに始まる。この時期のコメの存在が確定した。
このコメは、縄文人が栽培したものか、それとも日本列島の外から持ち込まれたものかを調べた結果、耕起具や収穫具として使った可能性のある石器が確認された(Fig.3)。さらに同じ時期の土器の胎土中からかなりの量のプラント・オパールが見つかったため、この地で縄文人が栽培したと考えられている。
しかし縄文稲作が弥生稲作のように大きな変化を社会に引き起こした形跡はみられない。集落の低地への移動、農具様石器の出現などはみられるが、土器の組み合わせや器種構成に基本的な変化はなく、土偶などをつかった縄文の祭りも衰退するどころか、逆に盛行したことが知られている(Fig.4)。
社会の変革を引き起こさない穀物栽培の例は、日本列島と同じく文明の中心から遠く離れたブリテン島の新石器時代の前期にもみられる(Tab.2)。祭りの際の儀礼食としてムギや肉を確保するための穀物栽培や動物飼養である〔Thomas1991〕。縄文稲作の目的が食料にあったことは確かだが、デンプン質食料の大半が堅果類や根茎類に求められていた後・晩期にあっては、食料以外の目的、たとえば儀礼食などにあてられていた可能性も考えておくべきであろう。もしこのような考えが認められるのなら、ブリテン島に新石器時代が存在するように、縄文後・晩期も新石器時代の一類型と考えてよいのではなかろうか。
2 農耕の開始と農耕社会の成立−転換はどのようにして起こったのか−
縄文人とコメとの関係を二つの側面から考えてみよう。
一つは韓半島からの影響である。韓半島南部では、晩期併行の無文土器時代前期前半(前9〜前7世紀)には、畠でコメ、コムギ、アワを作っていたことが確認されている(Fig.5)。しかしこの段階では農耕社会が成立したことを示す環壕集落は出現しない。環壕集落があらわれるのは水稲農耕が始まる前6世紀の無文土器時代中期以降である。縄文稲作は無文土器時代前期前半の畠作文化の影響を受けていると考えられるため、同じような生業段階にあったと考えられる。したがってこの段階の稲作が社会変革を引き起こさなかったことも理解できる。
二つ目は縄文社会と弥生社会のもつ社会・精神的特徴の違いである。コメを他の食料よりも上位に位置づける弥生社会にあっては、生産・労働・精神面すべてが稲作を円滑におこない最大の収穫を上げるよう最優先される。一方縄文社会では、相対的に食料源に占める割合が高い堅果類やサケ・マス類であっても、絶対的なものではないことからもわかるように、網羅的な資源体系にあった縄文社会は、コメを突出させる弥生社会の基本原則と相容れない。
縄文社会が従来の生産・社会・祭祀体系を打破し生産経済へ転換するには、縄文社会にない仕組みや考え方が日本列島外からもちこまれることと、それを実践する人びとが必要だった。生産経済への転換は、渡来人なくしては不可能だったと考える。
3 高文明化以外の目的をもつ稲作の可能性
灌漑施設を備えた水田跡が見つかった青森県砂沢遺跡は、前3世紀後半ごろの弥生時代前期に比定される。この遺跡で見つかった道具類は、弥生中期になって現れる木製農耕具類を除くと、縄文時代とまったく変わらない(Fig.6)。在来系の壺、石器組成の9割を占める剥片石器、伐採・加工用の小形の斧、植物質食料を調理する石皿や磨石、土偶、石棒、土版などの縄文以来の伝統的な道具が大量に出土している。
したがって、水田でコメを作る技術、農具としての木器など、縄文社会が持っていなかったものは採用するが、これらを作る工具類や土器は在来の道具で代用できるため取り入れなかったことを意味している。
この地域では砂沢以降、水田稲作はいったん途切れるが、中期中頃になると再び始まる。しかし後期にはいると途絶え、その後数百年にわたっておこなわれなくなる。また農耕社会の成立を示す環壕集落や方形周溝墓も現れず、石器素材の流通体制も縄文時代のままである。これらの事実は、稲作が社会を変革する生産基盤となり得なかったことを意味する。また豊穣を祈る弥生の祭りの道具もみられず、縄文以来の道具で祭りがおこなわれていることは、稲作の目的自身が西日本の弥生社会とは異なり、むしろ縄文後・晩期の西日本縄文人の目的と共通していた可能性も考えられる。
このことは縄文後・晩期に余剰の蓄積を目的としない稲作が、弥生時代になってもこの地域でおこなわれていた可能性を意味する。1で紹介したブリテン新石器時代前期の穀物栽培と動物飼養を考えると、農耕の開始に始まる一連の高文明化過程が当てはまらない地域や集団の存在は、洋の東西を問わず、辺境地域の特質の一つであったと考える。




