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水稲農耕と突帯文土器



藤尾慎一郎




Ⅰ はじめに

Ⅱ 突帯文土器の学史的研究

Ⅲ 基礎的事実の確認

Ⅳ 突帯文土器編年

Ⅴ 各地の突帯文土器

Ⅵ 突帯文土器の地域色

Ⅶ 水稲農耕と突帯文土器

Ⅷ おわりに

参考文献







 Ⅰ はじめに


 一.突帯文土器はどのような土器か

 突帯文土器とは、直口縁をもつ煮沸用土器の口縁部や胴部に突帯を貼り付けてめぐらせる文様を主文様とする土器である。突帯には刻目を施すことが多いが、時期と地域によってさまざまなあり方をみせる。刻目を施さない突帯(無刻突帯文)や刻目を施した突帯(刻目突帯文)などの単位文様は、縄文・弥生時代に普遍的な文様であるが、貼り付け突帯がこの時期の主文様となることに「突帯文土器」という名称の由来がある。無刻突帯文や刻目突帯文は壺や粗製の鉢などの他の器種にも単位文様としてさかんに用いられるので、突帯文土器とは煮沸用土器に主文様としての突帯を貼り付けた土器と言い替えることもできよう。筆者はこれまで西部九州の弥生時代早期から前期末までの時間幅に限定して刻目突帯文土器という名称を用いてきた(1)。それはこの地域の突帯文土器が刻目突帯文を主文様とする土器と特徴づけることができたからである。しかし本稿は近畿以西の突帯文土器を対象とするので、突帯上に刻目を施すかどうかが問題になる場合もある。そこで突帯文を主文様とする煮沸用土器を突帯文土器と呼び、突帯文土器の中に刻目の有無で区別できる無刻突帯文土器と刻目突帯文土器が含まれると定義する(表1)。


表1 突帯文土器の定義

突帯文土器…主文様としての突帯を口縁部や胴部に貼り付けた煮沸用土器
無刻突帯文土器…突帯に刻目を施文していない突帯文土器
刻目突帯文土器…突帯に刻目を施文する突帯文土器


 突帯文土器を煮沸用土器にもつ土器のセットが突帯文土器様式である。この様式は現在までのところ水稲農耕に伴う最古の土器様式で、貯蔵用の壺、盛りつけ用の高坏などの新しく出現する器種と、浅鉢や鉢などの縄文時代からある器種からなる。しかし一部の地域や時期によっては縄文時代からの器種だけで様式を構成する例もあって器種構成は一様でない。同じ様式であるにもかかわらず器種構成が異なるのは、水稲農耕を生業とするかどうかが大きくかかわっているからである。
 突帯文土器様式の時期は、弥生時代早期が中心だが、なかには弥生時代前期末まで存続する地域もある。本様式が分布するのは、愛知や滋賀を東限とし、長崎を西限、鹿児島を南限とする地域である(2)。広い範囲にわたって分布するため地域色が強く、広域的に斉一性をもつ浅鉢とは対照的である(図1)。


図1 突帯文土器様式の主要遺跡と分布


 本稿では、近畿以西の突帯文土器を中心にあつかう。尾張や三河などの伊勢湾沿岸の突帯文土器も近畿と同時に成立するが、後述するように突帯文土器様式の甕組成が近畿以西より早く崩壊し、主文様としての突帯文は単位文様に転落して、しかも壺形土器の口縁部の単位文様へと転換してしまう。弥生時代早期の全期間にわたって、突帯文を主文様とする煮沸用土器を器種構成のなかにもつ近畿以西の地域とは明らかに異なる様相をもつ地域である。このような理由から伊勢湾沿岸地域をはずし、近畿以西の弥生時代早期から前期末までの突帯文土器様式と突帯文土器を対象とする。
 Ⅱ章とⅢ章では、学史を含めた突帯文土器様式の基本的な事実関係を確認したうえで、西日本各地の突帯文土器様式を概観する。地域間の併行関係についてはⅣ章で確認したい。
 Ⅴ章では、各地の突帯文土器様式や突帯文土器の問題点を検討する。
 Ⅵ章では、突帯文土器、突帯文土器様式にみられる地域性を検討して、突帯文土器様式圏内の地域的様式差、地域的小様式圏の識別を試みる。
 Ⅶ章では、水稲農耕の開始にあたって突帯文土器の組成に反映された受容形態の差を通して西日本における初期弥生文化の特質について考える。



 Ⅱ 突帯文土器の学史的研究


 一.編年的位置が確定するまで

 突帯文土器の存在は1920年代から知られていたが、〔大山,1923:23〕・〔後藤,1923:44〕、当時はまだ晩期すら縄文土器の編年の中に設定されていなかった時代で、資料紹介の域にとどまっている。1930年代になると、山内清男は亀ヶ岡式土器が分布しない西日本にも亀ヶ岡式土器に併行する縄文土器が存在することをまず指摘する〔山内,1930〕。さらに山内が1937年に晩期の概念規定をおこなって〔山内,1937〕、突帯文土器を取り巻く環境はようやく固まったのである。
 突帯文土器にはじめて調査のメスがはいったのは、岡山県笠岡市黒土遺跡の調査である。この調査によって山内は突帯文土器の時間的位置づけに見通しをえて、「突帯文土器」という名称をはじめて用いるとともに、弥生式土器の古いところまで残存することを指摘し弥生土器との関係にも注目している(3)
 突帯文土器と弥生土器との関係について、小林行雄や杉原荘介は福岡県立屋敷遺跡で出土した遠賀川式土器のなかに混じっていることに早くから注目していて〔小林ほか,1938〕・〔杉原,1950〕、遠賀川式土器と年代的に併行すると説く研究もあった。しかし肝心の晩期に属す突帯文土器の型式内容が不明なままであったので、弥生土器との関係の部分だけが先行して研究が進む。北部九州では、最古の弥生土器をみつける手段の一つとして突帯文土器が注目され、突帯文土器と混じって出土する遠賀川式土器の分布が大きな関心となっていたのである。
 山内は、1951年に縄文時代晩期の突帯文土器である黒土BⅡ式を設定するが、内容は不明のままで突帯文土器の型式内容がはじめて明らかになるのは愛知県吉胡貝塚の報告中であった。その内容は、「口外側に點列ある隆帯を有する口縁は単純なものもあるが、外側に隆線を有しその上に刻目文又はハイガイ腹縁の刻目あるものが目立つ」〔山内,1952:22〕というもので、口縁部に刻目突帯をもつ土器の姿が浮かんでくる。山内はこれらの土器群を西日本縄文晩期の新相に位置づけ、三河・遠江以西の地域に多少の差異を認めつつも一連のものが分布するという見解を示したのである。ここに晩期土器としての突帯文土器は時間的・地域的に位置づけられる。


 二.時間的位置づけの変化-縄文時代から弥生時代の土器ヘ-

 亀ヶ岡式土器分布圏にも地理的に近く大洞式も単独で出土する近畿では、遺跡からの出土状況をもとに大洞式との併行関係をにらんだ突帯文土器の型式学的研究が縄文時代の研究者によって進められる。一方、亀ヶ岡式土器分布圏から遠くはなれた九州では、遠賀川式土器と突帯文土器が一緒に出土することに弥生時代研究者の注目が集まり、縄文時代と弥生時代をつなぐ接点の土器として注目されたので、弥生時代の起源を探る研究の中で突帯文土器が研究されることになった。ここに近畿や瀬戸内と九州の間の突帯文土器に対する取り組み方におのずと違いが生じたのである。

 1 縄文土器編年のなかで-近畿-

 近畿で最も古く突帯文土器を注目したのは、「刻目凸帯文土器」と呼称し近畿の縄文土器のなかでも新しい様式に属すと考えた小林行雄である〔小林,1943a:92〕。唐古遺跡から出土した突帯土器は口縁部と胴部に刻目突帯をもつ二条甕に相当する。近畿の突帯文土器は当初、橿原式の一部に位置づけられ〔佐原,1961〕、今でいう二条甕や一条甕、壺というセットがはじめて捉えられた。しかし、橿原式はその後、黒色磨研土器に相当するものとして、突帯文土器より古く位置づけられたので、突帯文土器はふたたび晩期土器編年における位置づけが必要とされる。船橋式はこのような状況の中で設定されるのである〔岡田,1965〕。船橋式は橿原式の精製土器を伴わない点や、第Ⅰ様式の弥生土器の底部と形態が似ている点から橿原式以降に位置づけられ、弥生土器に時期的に近い土器として理解された。
 晩期土器編年上に位置づけられた突帯文土器の研究は、突帯文土器自身の変化に研究者の目が向けられ第2段階にはいる。外山和夫は、橿原式の黒色磨研土器から突帯文土器が成立する過程を刻目を施さない一条の突帯文土器から、刻目をもつ一条甕をへて、二条甕へといたる変化で説明した〔外山,1967〕。外山が示した変遷過程は、滋賀里遺跡の調査でその正しさが証明される〔加藤ほか,1972〕。滋賀里遺跡の層位にもとづいた晩期土器編年は、突帯文土器を二つに分けている。橿原式の一部にあてられた滋賀里Ⅳ式は外山の一条甕の段階に、船橋式にあてられた滋賀里Ⅴ式は外山の二条甕の段階に相当する。
 大まかに段階設定された近畿の突帯文土器は、深鉢や浅鉢を中心にした型式学的な検討の段階にはいる。近畿突帯文土器研究の第3段階である。和歌山県瀬戸遺跡の突帯文土器を検討した中村友博は、深鉢の刻目と口縁部突帯の貼り付け位置との相関性に注目する〔中村,1977〕。突帯文土器の属性分析はここに始まり、家根祥多に受け継がれる。家根は近畿から九州にかけての西日本を対象に、突帯文土器の成立と展開について論じた〔家根,1981・1984〕。家根が注目した深鉢の属性は、器形、口縁部突帯の貼り付け位置、突帯の断面形態、口縁端部形態、刻目の施文法である。これら5つの属性間の相関度をはかることによって、深鉢の変遷を口縁端部の整形と突帯の貼り付け、刻目の施文をいかに効率よく進めるかという製作工程上で捉え、滋賀里Ⅳ式、船橋式、長原式へと手抜きの方向に進むと説明した。これ以後は各地に根ざした地域色研究に向かうとともに水稲農耕の伝播を意識した研究が進む。近畿突帯文土器研究の第4段階である。
 それまでの突帯文土器研究が、縄文社会の発展を背景とした縄文土器研究の一環として進んできたのに対し、兵庫県口酒井遺跡の調査は突帯文土器研究に大きな影響を与える。水稲農耕がおこなわれていたことを裏付ける証拠を多く出土した口酒井遺跡の突帯文土器を扱った研究が次々に発表される。南博は、甕の器形を重視して系譜を異にする甕の型式組列の復原を目指すとともに、胎土に注目して摂津産と非摂津産の区別をおこない地域によって器種構成が異なることを指摘し、あわせて突帯や口縁部形態をもとに地域色の抽出を試みた〔南,1988〕。浅岡俊夫は一条甕と二条甕の比率の変化を指標に口酒井遺跡出土の突帯文土器を3つに分けている〔浅岡,1988〕。
 基準資料が出そろったところで近畿突帯文土器編年の総括がおこなわれる。泉拓良は晩期を中心に長原式までの突帯文土器様式を対象に、浅鉢の形態変化から3つに大別した〔泉・山崎,1989〕。Ⅰ期は西日本磨研土器様式の浅鉢の特徴を残し、一条甕単純の段階、Ⅱ期は逆「く」の字口縁浅鉢で九州系の甕と壺が新しく出現する段階、Ⅲ期は浅鉢がすでに消滅し皿状浅鉢が主になり、もはや縄文的な浅鉢の形式内構成比が崩壊した段階である。またⅡ期は波状口縁方形浅鉢の違いから二つに細別される。南は、遠賀川式土器と共伴する突帯文土器を中心に、長原式以前の突帯文土器を3つに細分している〔南,1989〕。その方法は浅鉢の組成変化と突帯文土器の型式変化、共伴する遠賀川式土器に注目したもので、大阪湾沿岸地域の漸移的な変化を捉えた。しかし南も述べているように、甕の型式変化は広域編年では使えず、むしろ地域性を抽出する場合に有効との結論に達している点は興味深い。
 また、従来は伊勢湾沿岸地域に含まれ尾張や三河と同じうごきをもつ地域と考えられてきた伊勢地域の突帯文土器編年が発表された〔鈴木,1990〕。資料的にはまだ断片的であるが、早期における二条甕の存在は、伊勢地域が近畿地方と同じ甕組成をもち、いわゆる伊勢湾沿岸地域とは地域差をもつことを明らかにし、前期にいたっても突帯文土器が継続し遠賀川式土器と接触することで弥生化していく状況は、条痕文様式になる尾張や三河地域とは一線を画し、むしろ近畿に近い内容をもっている。早期から前期までを対象に突帯文土器を扱い、水稲農耕伝播の問題を強く念頭において編年を論じる姿勢は評価されよう。

 2 瀬戸内

 日本で初めて突帯文土器の型式として設定された黒土BⅡ式の実態は、長いあいだ明らかにされなかった。坪井清足が明確にした黒土BⅡ式は、器種構成や甕組成、器形、刻目に豊富な内容をもっており細分の可能性も示唆されている〔坪井,1956〕。1950年代の突帯文土器研究は黒土BⅡ式に関する限られた情報をたよりに進められるが〔鎌木・木村,1956〕・〔鎌木・江坂,1958〕、資料不足の観はまぬがれず、黒土BⅡ式が未報告であった影響は計り知れなかった。
 そのような中でも、このような状況を打開しようと、広島県帝釈峡遺跡群の突帯文土器に注目し、黒土BⅡ式の細分をおこなった外山や〔外山,1964〕、瀬戸内全体を視野にいれて旧国別に地域性の抽出を目指した春成秀爾〔春成,1969〕の研究は、当時の制約された状況のもとで時間的・地理的な位置づけに一定の到達点に達していたことになる。
 1980年代になってようやく、この地方の突帯文土器研究に転機がおとずれる。1981年調査の岡山県百間川沢田遺跡である。近畿地方における口酒井遺跡と同様に、突帯文土器と水稲農耕を結び付けるきっかけになったのである。調査者の岡田博は、沢田遺跡の突帯文土器を「沢田式土器」と名づけ、黒土BⅡ式(前池式)に後続し、弥生土器に先行するものとして位置づけた〔岡田,1985〕。これ以後、瀬戸内でも水稲農耕との関係を意識した突帯文土器研究が始まる。
 網本善光は、一条甕から二条甕への変化をもとに黒土BⅡ式を細分しようとしたが、器形がよくわかる資料に恵まれなかったこともあって、実際には口縁端部の刻目文の有無を黒土BⅡ式細分の指標とした〔網本,1985〕。平井勝は器形と文様の相関を定量的に捉え、南方前池遺跡、広江・浜遺跡、沢田遺跡などの突帯文土器を使って23種の深鉢土器文様類型を設定、さらに遺跡毎に文様類型のヒストグラムを作り、瀬戸内の突帯文土器を3群に大別している〔平井,1988〕。

 3 弥生土器との関連の中で-九州-

 詳細は拙稿に譲るが〔藤尾,1990a〕、西日本では唯一、突帯文土器研究が弥生時代の研究者を主体におこなわれ、さらに弥生時代と縄文時代の接点の土器として位置づけられたため、水稲農耕の証拠を求めて古い突帯文土器を求めて遡っていくという方法がとられた。その結果、九州の突帯文土器は弥生土器と共伴する夜臼式と、共伴しない山ノ寺式という二つの土器の型式学的な検討を十分におこなわないまま時間差として細分されてしまったのである。遠賀川式土器と共伴しない夜臼式の存在が、1964年の宇木汲田遺跡の調査で知られていたにもかかわらず認知されなかったのは、夜臼式単純の実態がもう一つ不明であったことが原因だが、板付遺跡の縄文水田の発見によってその内容は明らかになる〔山崎,1979〕。九州の突帯文土器研究はここに型式学的な検討にはいる〔中島,1982〕・〔橋口,1985〕。
 しかし、設定されてから30年以上たっているのに山ノ寺式の型式内容が明らかにされず、それにもまして型式内容が不明な山ノ寺式をあくまでも使用していこうという一部の研究者の存在も、九州の突帯文土器研究を混乱させる原因となった。いずれにしても遠賀川式土器と共伴しない突帯文土器が九州でも発見されたことは、突帯文土器の時間的位置づけを大きく変更することになる。遠賀川式土器と共伴しない突帯文土器の段階に明らかとなった水稲農耕の内容は、玄界灘沿岸に関しては弥生時代前期以降の水稲農耕の実態と比べてなんの遜色も認められず、森貞次郎が弥生文化の指標とした定型化した弥生土器をはじめとして、すべての要素はすでに出現していることが明らかになったのである。このような状況をうけて水稲農耕が始まった段階から弥生時代として認定しようとする動きが活発化し、それとともに縄文時代晩期の土器であった突帯文土器も、弥生時代の土器型式としてその時間的位置づけが変更されることになる。水稲農耕という生業形態の変化と直接に結び付いてその属する時代を大きく変更することになった九州の突帯文土器研究の特色はまさにここにある。晩期の指標である亀ヶ岡式土器に併行する突帯文土器が、社会の変化によってその属する時代を変更させられたことは社会が土器を規定するという考古学の定義にはまる好例といえよう。



 三.弥生時代前期の突帯文土器

 1 近畿・瀬戸内

 近畿の前期突帯文土器ははじめ近畿の中心部から遠く離れた周辺部における縄文土器の残存現象と考えられたこともあって、遠賀川式土器に混在して突帯文土器が出土したという報告は戦前からあったものの注目されず、本格的な研究がはじまったのは、和歌山県太田黒田遺跡の調査以降である〔森・白石,1968〕。同遺跡のSKO1土坑で第Ⅰ様式中段階の遠賀川式土器と突帯文土器との共伴が確認され、船橋式の後続型式として前期突帯文土器としての太田型甕が設定される。中段階と船橋式の後続型式が共伴することは、古段階と船橋式が共伴することを意味していたので、近畿における弥生文化成立期の突帯文人と遠賀川人との関係についても大きな可能性を残すこととなった(4)。太田型甕は、形態や整形技法の共通性から同じ系統の土器と理解され、胎土中に占める砂粒の量が船橋式に比べて多く肩の張りも鈍化している点から、船橋式より後出すると考えられた。この前期突帯文土器は「太田甕」と命名される。太田甕は後に「紀伊型甕」と再定義される〔佐原・井藤,1970〕。しかし、太田黒田遺跡が和歌山県の紀ノ川流域の遺跡であったことや、近畿の中心部では太田型甕が見つからなかったこと、そしてなによりも研究の主眼が第Ⅱ様式の紀伊型甕に移ったことで、畿内周辺部には縄文系の深鉢が残存するという理解が定着することになった。紀伊型甕は当時急速に高まってきた第Ⅱ様式の地域色研究の中で、大和型甕や播磨型甕、近江型甕、和泉型甕などとともに弥生土器研究者によって実態が明らかにされていく。
 近畿中心部で前期突帯文土器が注目を集めるようになるのは、河内の長原遺跡が調査されてからである〔大阪市化財協会,1982〕。長原遺跡から出土した突帯文土器は船橋式に後続する突帯文土器で、第Ⅰ様式古段階と中段階の弥生土器と共伴することから太田型甕と同じく前期突帯文土器が近畿の中心部にも存在することが明らかになったのである。また和歌山には太田型甕とは別に、県南の日高川流域から田辺湾周辺にかけて「瀬戸タイプ」と呼ばれる前期突帯文土器が、長原式併行からやや新しい時期にかけて存在することが明らかにされている〔中村,1984〕。
 長原式の存在は、河内に遠賀川式土器を使用する集団と突帯文土器を使用する集団が共存したことを意味する。この解釈をめぐってさまざまな説が提出された〔石野,1973〕・〔中井,1975〕・〔寺沢,1979〕・〔森岡,1984〕・〔春成,1990〕。春成は、「すでに水田稲作をおこなっている地域に、遠賀川式土器をもち技術も思想も縄文人とは一線を画す異系統の稲作集団が浸入してきた」と述べ、早期に水稲農耕をはじめた突帯文人と遠賀川人との関係で理解する。森岡秀人は、「第Ⅰ様式古段階と船橋人が接触をはじめ積極的な交流を通じて稲作民へと急速に変貌していく」とし、非稲作民である船橋式を使っていた集団と遠賀川人との関係で捉える(5)。したがって、近畿には遠賀川式土器を使用する集団と突帯文土器を使用する二つの集団が同じ地域に居住していた河内などの中心部と、突帯文土器を使用する集団が圧倒的に多くを占める和歌山以南の地域があったと言えよう。
 最後に、第Ⅱ様式以降の縄文系甕と認識されている土器についてふれておく。近畿では第Ⅱ様式における地域型甕の研究が盛んであるが、これらの甕の出自をめぐって遠賀川式土器に系譜を求めるか、突帯文土器に求めるか大きく議論がわかれている。第Ⅱ様式の地域型甕が成立するにあたって、前期突帯文土器を使っていた集団が重要な役割を果たしていたのは確実で、たとえば大和型甕が遠賀川式土器の如意状口縁甕からまっすぐに成立したとは考えられず、寺沢薫が示したように遠賀川式土器と突帯文土器との融合によって成立したと考えることができるし〔寺沢,1979〕、「近畿的な成立をたどった弥生系の甕」〔松本,1984:148〕とも考えられ、その出自をめぐっては多くの解釈が可能である。弥生時代中期の土器様式は、斉一性が強かった遠賀川式土器と歴史的伝統が強い各地の個性あふれる土器が融合することで成立したもので、前期に水稲農耕をもたらした移住者集団と在来者集団との接触・交流の結果である。これは九州や瀬戸内でも生じた現象である。そのような意味において、中期の地域型甕の成立は、遠賀川式土器や突帯文土器の片方のみを強調するだけでは理解てきないものであり、両者の協調こそが中期社会成立の原動力だったのである。
 瀬戸内には、逆L字口縁をもつ通称「瀬戸内甕」がある。この甕に縄文的色彩が強く残存していることは20年近くも前から指摘されているが〔今里,1971〕、早期突帯文土器からの型式組列の復原までは至っていない。

 2 九 州

 九州の前期突帯文土器は、板付遺跡の調査によって本格的に注目される。もともと夜臼式と板付Ⅰ式の共伴は夜臼式が前期に属する突帯文土器であることを意味するが、共伴したのは早期の突帯文土器である。しかしこれ以外に板付遺跡から出土した突帯文土器の中には、夜臼式と形態的には類似するものの器形や器面調整、突帯の貼り付けなどに差異をもつ突帯文土器が含まれており、「板付Ⅱ式甕形土器E」と分類され夜臼式との関係が指摘されている〔森・岡崎,1961〕。当時、弥生文化研究の中心であった福岡平野は前期突帯文土器様式の分布圏からはずれていたこともあってこの種の突帯文土器の出土も数えるほどであったが、熊本に近い福岡県の南部に位直する亀ノ甲遺跡が調査されるにおよび、甕組成の95%以上を占める前期突帯文土器の存在が明らかにされた。これらは「亀ノ甲遺跡甕形土器C」と分類されその後「亀ノ甲タイプ」として九州の研究者に認知されるのである〔小田,1964〕。
 東部九州でも、大分県佐伯市白潟遺跡の調査によって前期突帯文土器の存在を認識していた小田富士雄は〔小田,1958〕、熊本県加瀬川河底の資料〔乙益,1957〕、鹿児島県東昌寺〔川上,1952〕、長崎県原山〔森,1960〕、熊本県斎藤山〔乙益,1961〕、鹿児島県高橋〔河口,1963〕から出土した土器群に共通する「甕形土器に強く残された縄文系土器の伝統」を認めて、「亀ノ甲式」と「下城式」を九州の弥生時代前期後半における縄文系の土器として対峙させる図式を完成させた〔小田,1972〕。
 その後、前期突帯文土器が主体的に分布する地域の調査が進むと、それまでその存在を指摘するにとどまっていた前期突帯文土器の研究は、早期突帯文土器からの型式組列を復原する段階にはいる。福岡・熊本を中心に前期突帯文土器の系譜を明らかにした西健一郎の研究〔西,1982・1983・1985〕や、佐賀・福岡県南部を対象に早期突帯文土器から亀ノ甲タイプまでの型式組列を復原し、西部九州の前期土器様式は系譜的にみると突帯文系、板付系、折衷系から構成されることを指摘した拙稿〔藤尾,1984〕がある。東部九州でも下城式の系譜を探る研究が高橋徹を中心に進められている。〔高橋,1983a・1989〕。



 Ⅲ 基礎的事実の確認


 一.器種構成

 突帯文土器様式が成立した当初の器種構成は甕と鉢で、のちに壺と高坏が加わる。ただし西部九州では突帯文土器様式が成立した当初から壺と高坏をもっていた可能性が高い(6)。縄文土器以来の器種構成に朝鮮半島起源の器種が加わっていく過程は、水稲農耕が始まり定着していく過程と密接な関連をもっているのである。


 二.器種の細別

 1 甕形土器

 近畿以西における突帯文土器様式の甕は、系譜や器形、文様の種類が多いので前稿で提示した西部九州を対象にした分類だけでは不十分である。具体的な分類にはいる前に、器形と文様にどのような種類があるか確認しておく。

図2 甕形土器の器形分類図

i) 器形

 屈曲せずに底部にむかって単純にすぼまる砲弾型(A)と胴部が屈曲・湾曲する屈曲型(B~F)があり、とくに屈曲型は地域によって多くの差が認められる(図2)。
 口縁部から底部にむかって単純にすぼまる砲弾型で、縄文時代からある深鉢形を呈す。胴部が張るものや直線的にまっすぐすぼまるものなどの違いはあるが、細分はしない。弥生早期の福岡平野に集中してみられる器形で、他の地域ではかなり少ないが、前期になると他の地域でも普遍的な器形になる。
 胴部の上位で屈曲する器形のうち逆「く」の字に反転するものである。屈曲部分の胴径が胴部最大径になり口径をも上回るもので、西部九州に偏ってみられる器形であることから「西部九州型」と呼ぶ。細かくみれば口縁部から屈曲部までの長さが長いものや短いもの、その部分の形が湾曲するものや直線的なものなどいろいろな形態があるが細分はおこなわない。
 つぎの四つは環瀬戸内地域(瀬戸内海沿岸)に一般的な器形なので「瀬戸内型」と呼ぶ。
 胴部から頸部にかけて「S」字状に緩やかな湾曲部をもち全体にずんぐりとしている。胴部の文様は胴部最大径より上位に施される例が多い。
 球形の胴部をもち、上半で反転して外湾気味に立ち上がる頸部をもつ器形である。突帯文土器成立期まで存在する。突帯文が施文されることはない。
 胴部上位で屈曲する器形のうち、「く」の字に反転して口径が胴部最大径を上回るものである。屈曲部に突帯文が施文されることはなく屈曲部の少し上に突帯を貼り付ける。また頸部に爪形文やへラ描文を施文する甕も多い。
 球形の胴部をもち頸部が内湾しながら立ち上がる器形である。胴部文様はくびれ部に施される。
 B~F(Dを除く)は砲弾型Aとならんで弥生時代早期に一般的な器形で、福岡平野を除く西日本では主となる器形であるが、前期まで継続せずきわめて縄文的な器形と考えられる。縄文以来の煮沸具の器形と弥生以降のそれとの違いがなにを意味しているのか興味深い。

ii) 単位文様

 突帯文土器の単位文様には刻目文、無刻突帯文、刻目突帯文があり、また施文される場所には口唇部、口縁部、胴部がある。これらの文様と施文場所が組みあわされて豊富な文様構成をとる。また中部瀬戸内と西部瀬戸内には、突帯文土器以前から継続する有文深鉢の伝統が見られるが、爪形文やへラ描きの直線文を屈曲型甕の頸部に施文する地域的な特徴である。したがって突帯文土器の基本となる単位文様は刻目文、無刻突帯文、刻目突帯文であることを強調しておきたい。
 口唇部、口縁部、胴部にみられる単位文様の組みあわせには理論上口唇部に1種類(刻目文)、口縁部と胴部にそれぞれ3種類で、文様を施文しない場合も一つの文様と考えれば、その組みあわせは32種類に達するが実際には表2にみるように14例が確認されている。瀬戸内や近畿で口縁部から胴部までつながった良好な資料が増加すれば、組みあわせが増える可能性はある。14例のうち、主文様の突帯文を含む11例は突帯文土器に属すが他の3例は突帯文土器が成立する以前から存在した煮沸用土器で、単位文様をまったくもたない粗製深鉢、刻目文を主文様とする刻目文土器である。このように突帯文土器様式の煮沸用土器は、文様系を異にする3つの土器から構成されているのである(表2)。


表2 無文・刻目文・突帯文・刻目突帯文の単位文様と施文部位との組合わせからみた突帯文土器様式の煮沸用土器図3 突帯文土器様式の煮沸用土器分類図
凡例 無…無文、刻…刻目文、突…突帯文、刻突…刻目突帯文
    ? 今のところ未確認のもの
    ○ 存在が確認されているもの
    ◎ 普遍的に存在するもの
凡例 無…無文、刻…刻目文、刻突…刻目突帯文
    ○ 存在が確認されているもの
    ? 今のことろ存在が確認されていないもの


iii) 文様型(図3)

 さて11例にのぼる突帯文土器の文様型のなかで口唇部と口縁部に注目すると、時間的にも空間的にも普遍化できる四つの基本型がある。
 突帯に刻目を施文しない、いわゆる無刻突帯文土器は早期の環瀬戸内、土佐、西部九州、前期の近畿と西部九州に存在する。量的にまとまっているのは土佐西部で、本稿でも地域型甕という意味の土佐型としてあとで設定することになる。そのほかの無刻突帯文土器は時期や分布地域とも一つのまとまりとして設定することはできず、遺跡でのあり方も刻目突帯文土器と混在しているので、文様型の変異形の一つとして理解している。ただし、突帯文土器成立以前の隆起帯をもつ原下層式のようなものについてはこの限りでなくのちにふれる予定である。
 口唇部に刻目文、口縁部に刻目を施文しない突帯文をもつ文様型は突帯文土器の成立する段階に岡山以西の瀬戸内海沿岸にあらわれる。岡山県前池遺跡、高知県入田遺跡、福岡県長行遺跡、同春日台遺跡では10%前後の割合で存在するが、そのほかの遺跡では数%に満たないことから、やはり文様型の1パターンとして理解しておく。
 口唇部に刻目文、口縁部に刻目突帯文の文様型は、瀬戸内型の器形をもつ甕に最も多くみられ早期の環瀬戸内や土佐西部に分布する。平縁が基本で、岡山や愛媛、周防には口頸部に文様をもつ有文甕が数%の割合で存在する。さらに前期の下城式もこの文様型に属し、豊前及び豊後を中心に分布する。西部九州にこの文様型が少ないのは、西部九州の突帯文土器が瀬戸内や近畿に比べて1段階遅れて成立するからだとする考えがある。西部九州で口唇部に刻目文をもつ甕には刻目文土器やのちに述べる唐津型の突帯文土器があり西部九州においては、口唇部刻目は板付祖型甕と唐津型において最も盛行する文様である。このように早期の口唇部に刻目文をもつ土器には、瀬戸内型の甕に代表される突帯文土器と、西部九州の甕に二大別できる。両者の質的な違いは以下のような点にあると考えている。瀬戸内の甕の口唇部刻目は突帯文土器の単位文様として位置づけられ、主文様としての口縁部突帯の貼り付け位置が上昇するにつれ衰退するが、西部九州の口唇部刻目は口縁部に突帯を貼り付けない甕の主文様として位置づけられているので突帯の上昇の影響は受けず、その後は遠賀川式甕の主文様として発達を遂げていく。これは瀬戸内型の甕が分布する地域と西部九州の間に存在する口唇部刻目に対する位置づけの違いが反映したものと推測されるので、口唇部刻目の有無を時間的関係と直結して考えるのは慎重さに欠けよう。突帯文土器の従文様として口唇部刻目を位置づけた瀬戸内海沿岸と、口縁部に突帯文をもたない甕の主文様として突帯文と対等に位置づけた西部九州の違いをここにみることができるのである。
 口唇部が無文、口縁部に刻目突帯文の文様型は、早期の屈曲型の甕と砲弾型の甕に見られる。前期以降にもこの文様型はあるが、前期は口縁部の突帯が口縁端部に接して貼り付けられるため口唇部に刻目を施文しずらいという物理的な理由もあるのでこの文様型には含めない。平縁が基本である。岡山には20%~10%の割合で口頸部に文様をもつ有文甕が存在する。

iv) 器種分類

 突帯文土器様式の煮沸用土器には、6つの器形、14通りの文様型から数十通りの組みあわせが存在することになるが、分布や時期などの歴史的親縁性を考慮して次のように分類した。


図4 甕形土器器種分類図



   粗製深鉢 Ⅰ類(図4)


 縄文土器に一般的な無文の粗製深鉢で器表を条痕・削り・板ナデ調整を用いて仕上げる。弥生時代早期以前と早期に限定できる。器形によって二つに分ける。
 砲弾型粗製深鉢
  西日本全体に分布する。水平口縁が基本だが突帯文土器の成立期には波状口縁や突起をもつ口縁部がわずかに残っている。家根は西部九州の早期に朝鮮無文土器の成形技法でつくられた無文の深鉢「朝鮮無文土器系甕」〔家根,1987:20〕の存在を指摘する。今回の分類基準では粗製深鉢にあてはまることになるが、外傾接合で作られている点など製作技法を考えれば、系譜的に粗製深鉢には含まれない。
 屈曲型粗製深鉢
  器形によって次の二つにわかれる。
   瀬戸内型粗製深鉢 瀬戸内型の器形をもつ。
   西部九州型粗製深鉢 西部九州型の器形をもつ。
  いずれも平縁が主体である。
   刻目文土器 Ⅱ・Ⅲ類(図4)
 口唇部や口縁部、胴部に刻目文を直接施文し突帯文をもたない甕で、器形によってⅡ類とⅢ類に分ける。器面調整はⅠ類と同じだが、一部に板ナデや刷毛目調整のあとナデによって丁寧な仕上げをする甕が存在する。突帯文土器成立以前から存在する。
Ⅱ類 砲弾型の刻目文土器である。西日本全体に分布する。刻目文は口唇部に施文されるのが普通で、まれに胴部にも施文するものがある。また岡山や愛媛には爪形文や半裁竹管文を胴部に施文する甕も見られる。口唇部の刻目文は全面に施文するものと外端部に偏って施文するものがあり、一部の地域でこの施文位置の違いが時期差をもっている。基本的に縄文土器に系譜をもつ土器だが、西部九州には朝鮮無文土器の成形技法でつくられた土器の存在が指摘されている。しかしほとんどの砲弾型刻目文土器は砲弾形粗製深鉢の口唇部に刻目文を施文しただけの違いしかなく、器面調整などはまったく同じだが、西部九州のものだけは丁寧に仕上げるといった特徴をもつ。これらのなかにはやがて口縁部がわずかに外反するものが出現し、板付祖型甕〔山崎,1980〕とか弥生祖形甕〔家根,1984〕と呼ばれる甕へ変化する。将来的には、西日本で一般的な刻目文土器と、西部九州でしか見つかっていない板付祖型甕へとつながる刻目文土器を別の分類として設定する必要も出てこよう。
Ⅲ類 胴部が屈曲したり湾曲する屈曲型の刻目文土器である。器形による地域差が強い。
 瀬戸内型刻目文土器
  瀬戸内型の器形をもつ。平縁が主体だが波状口縁や山形口縁もわずかにみられる。東部九州から近畿にいたる地域に存在し、特に愛媛から近畿にかけての環瀬戸内には頸部にヘラ描き山形文や縦列爪形文を施文する甕が分布する。
 西部九州型刻目文土器
  西部九州型の器形をもつ。口唇部に一条だけ直接に刺突文を施文するものと、屈曲部とあわせて二条の刺突文を直接に施文するものがある。突帯文土器が成立する段階に存在するが、出土例はまだ少ない。
   突帯文土器 Ⅳ・Ⅴ類(図4)
 口縁部から胴部にかけて一条以上の突帯を貼り付けてめぐらす甕である。突帯には無刻突帯文と刻目突帯文の二種類があり、時期と地域によってさまざまなあり方を示し、変異形も多い。器面調整は粗製深鉢や刻目文土器と同じで、のちに板ナデや刷毛目調整を用いるようになる。胴部に突帯文を施文するかしないかで細分できる。
Ⅳ類 砲弾型の器形をもち、口縁部のみに突帯を貼り付けてめぐらす甕である。時期と地域によって以下の三つがある。
 砲弾型一条甕
  口唇部には刻目文を施文せず、口縁部に突帯文を施文する甕である。平縁しかない。早期と前期を通じて分布するが、分布の中心は西部九州にある。
 下城式甕
  口縁端部から突帯幅一つ分ほどさがったところに突帯を貼り付ける甕のなかで前期の豊前および豊後に分布する下城式の主となる煮沸用土器である。平縁しかない。口唇部に刻目文、口縁部に刻目突帯文をもつものと、口縁部の刻目突帯文だけのものがあり、前者から後者へと時間的に推移する。弥生時代前期以降に限定され、豊前および豊後に集中的に分布する。最近、四国の西半部に位置する中寺州尾遺跡〔大滝ほか,1989〕、斉院生遺跡〔西尾ほか,1988〕、田村遺跡〔出原,1982〕で前期中ごろから後半の時期にこの種の甕が検出されるようになり下城式との関連が注目されるが、本州を除く西部瀬戸内の地域に、前期の突帯文土器として分布する可能性もある。
 瀬戸内甕
  突帯を口縁端部に接して貼り付け刻目を施文する甕で、口唇部刻目はない。形態的に類似する甕は九州にも存在するが、胴部上半にヘラ描き直線文や山形文、刺突文、列点文を施文する点を異にする。前期後半以降の東部九州を除く瀬戸内海沿岸地域を中心に分布し、瀬戸内甕とか逆L字口縁甕と呼ばれている甕である。胴部に多彩な文様を施文する特徴は、早期の突帯文の頸部に文様を多用した有文深鉢の伝統が継承されたものと考えられようか。
Ⅴ類 胴部が屈曲したり湾曲する甕や、砲弾型の甕の口縁部や胴部に突帯を貼り付けてめぐらす甕である。大きく分けて次の三つがある。
A 一条甕 口縁部だけに突帯を貼り付けてめぐらす甕で、器形は屈曲するか湾曲するかのいずれかに属し、砲弾型の器形をとるものは含めない。器形をもとに三つに細別できる。
 瀬戸内型一条甕
  瀬戸内型の器形をもつ。原則的に口唇部刻目文をもつものからもたないものへと変化する。文様の変異型が非常に多い。頸部に縦列刺突文やヘラ描き山形文をもつ有文の深鉢は、現在までのところ岡山と広島、愛媛で出土している。早期と前期前半の東部九州から近畿にかけての地域に分布する。西部九州を除く西日本の代表的な突帯文土器である。
 西部九州型一条甕
  西部九州型の器形をもつ。平縁口縁が基本である。口唇部の刻目文や無刻突帯文は基本的にみられない。西部九州を中心に分布するが西部九州では中心的な甕とはならず、存続幅も短く突帯文土器の成立期に認められるにすぎない。
 土佐型一条甕
  瀬戸内型の器形をもつ。口唇部や口縁部の突帯に刻目文を施さない無刻突帯文土器である。平縁口縁が基本で、まれに山形口縁もある。無刻突帯文様自体は早期から前期末までのあいだ多用されるが、一条甕の無刻突帯文土器は突帯文土器の成立段階に偏る。甕組成のなかでは、ほとんどの地域で一文様型として存在するだけだが、高知県西部の四万十川流域では土佐型一条甕単純の甕組成をもつ中村Ⅰ式が設定されている〔岡本,1968〕。大分県の大野川上・中流域でも「無刻突帯文土器」が上菅生B式として設定されている。これらの土器を突帯文土器の前段階として様式設定する意見〔高橋,1980〕もあるが、これについては後述する。
B 胴部突帯甕 胴部だけに一条の突帯を貼り付けてめぐらす甕である。基本的に胴部は屈曲するか湾曲している。刻目突帯文の場合が多い。口唇部に刻目を施すか施さないかによって、時期や地域毎にまとめることができる。
 口唇部が無文の甕
  瀬戸内型と西部九州型の器形がある。量的には非常に少なく、早期の西日本に分布する。愛媛の船ヶ谷遺跡では口頸部に縦列刺突文をもつ有文の甕が出土している〔阪本,1985〕。
 口唇部に刻目文をもつ甕
  瀬戸内型と西部九州型の器形がある。量的には西部九州型が絶対的で、とくに早期末の佐賀県唐津平野に集中的に分布し本稿ではのちに唐津型として設定することになる。
C 二条甕 口縁部と胴部に突帯を貼り付けてめぐらす甕で、胴部形態は屈曲するもの、湾曲するもの、砲弾型のものの三つがあるが器形から二つに細別する。
 瀬戸内型二条甕
  瀬戸内型の器形をもつ。早期後半から前期中ごろの備後から近畿にかけての瀬戸内北岸に分布の中心をもつ。西部九州の影響のもとに成立すると考えられている。平縁口縁で口唇部には基本的に刻目文を施文しない。
 西部九州二条甕
  西部九州型の器形をもつ。早期から前期末の西部九州を中心に分布する甕である。平縁口縁で口唇部には刻目文を施文しない。

  2 壺形土器

 早期の壺に関しては西部九州以外では器種の細別をおこなえる状況にない。西部九州の状況については拙稿〔藤尾,1990a〕を参照していただくとして、西日本の早期段階の壺に限定して系譜の観点から整理してみる。また亀ヶ岡式の壺や、西部九州の縄文後期末から現れるという壺については別の機会に論じるとして、朝鮮無文土器文化の影響を受けて出現した壺と、その壺の影響をうけた土器について考えることにしたい(図5)。


図5 壺形土器系統分類図(縮尺不同)
1.曲り田 2.新町
3.百間川沢田 4.口酒井
〔各報告の原図を改変〕

 A 無文土器系壺形土器

 朝鮮無文土器に直接の系譜をもつ壺(2)である。菜畑遺跡や曲り田遺跡から出土した壺の中には、無文土器そのものと言ってもよいほど外見的によく似た壺がある(1)。後藤直の分類〔後藤,1980〕で言うと丹塗磨研壺Ⅱ・Ⅲ類に相当することから考えても、水稲農耕の開始期に無文土器の壺そのものが持ち込まれていたことは十分に考えられる。こういった現象は玄界灘沿岸地域だけではなかったようで、愛媛県松山市の大渕遺跡〔栗田,1989〕や兵庫県伊丹市の口酒井遺跡でも朝鮮半島とのつながりを想定できる壺が見つかり始めている。今のところ、西部九州以外の地域で見つかっている無文土器系の壺は、器高が20~50cmの中形壺や、25cm以下の副葬小壺に限られている。西部九州にはまだ韓国で知られていない器高50cm以上の丹塗磨研を施した長胴壺を含めて、機能的に分化した壺がセットで存在する。西部九州の縄文社会が、水稲農耕を営むうえで必要な壺を、既存の土器様式構造の中に組み込んだのてある。当初の壺は無文土器との外見的な共通性をみせていたが、すぐに独自の変化をみせ始める。突帯文土器様式の壺である(7)。山ノ寺式や夜臼式の壺は、無文土器の影響を受けて成立し、板付Ⅰ式の壺が成立するまでのあいだ、貯蔵用・埋葬用・副葬品・祭器などの機能を担っていた。突帯文土器様式の壺の型式変遷については拙稿で詳しく検証したが、今のところ無文土器の影響を受けた壺が成立し、型式変化を続け発達していく状況は西部九州に限定されている。西部九州以外の地域では、無文土器系の壺、すなわち西部九州の突帯文土器様式の壺に影響された動きが認められ、それは在来の深鉢・浅鉢が壺形へと変容するかたちをとる。

 B 縄文系壺形土器

 瀬戸内や近畿の早期にみられる壺は、既存の深鉢や浅鉢が器形を壺型に大きく変容することによって独自に出現する。この壺を縄文系壺形土器と便宜的に呼んでおこう。この変容現象に注目したのが泉拓良である〔泉・山崎,1989:348〕。泉によれば近畿地方で壺が明確になる時期、泉編年の突帯文土器第Ⅱ様式の壺には、「磨研の著しい小型壺」・「浅鉢と区別しにくい広口壺」(3)・「凸帯のつく大形壺」(4)の三つがあり、このうち1番目の「小型壺」は先述した西部九州系譜の無文土器系壺に相当する。問題となるのはあとの二者である。「大型壺」は瀬戸内型一条甕の口径と胴部最大径が縮小し、頸部をつくりだしたことによって壺型に変容したと考えられるもので、「深鉢変容型」の壺である。「広口壺」は、胴部が「く」の字に屈曲する鉢の中でも屈曲部よりうえの立ち上がり部分が長い鉢の口径と屈曲部径が縮小し頸部をつくりだし器高を高くしたことによって壺型に変容したと考えられるもので、「浅鉢変容型」の壺である。西部九州でも深鉢変容型の壺の存在は橋口達也によって注目されており〔橋口,1979〕、筆者も中・小形壺Eとして設定している〔藤尾,1990a〕。変容型の壺の粘土帯の積み上げ方は縄文土器以来の技法そのままで、頸部と胴部の境は深鉢や浅鉢の屈曲部のつくりと完全に一致している。調整技法も当然のごとく縄文土器そのもので、とくに深鉢変容型の方は条痕やケズリ接法を駆使している。中にいれた物がこぼれにくいように細く締まった口。多くの物がはいるように大きく膨らんだ丸い胴部など壺の形態に近づけることで貯蔵という機能を果たすことがまず要求されたのであろうか。その反面、器表を研磨し丹塗りすることで貯蔵された内容物(種籾)を大切に保存し、生命力を高めるという農耕祭祀的機能は十分に理解されていなかった可能性が強い。これは早期水稲農耕の東進を考えるとき、重要な指標となる。
 西部九州ではこのような縄文系壺はごく少数で、無文土器系壺が圧倒的な優位にたっているが、近畿や瀬戸内では壺の絶対量が少ないこともあって壺の中における無文土器系と縄文系の比率はよくわからない。この比率は近畿や瀬戸内地方の早期水稲農耕の特質と深くかかわっているので、のちほど検証してみたい。


図6 浅鉢と壺の口縁部における外傾接合と
段の形成過程
(津島南は〔藤田,1982〕より引用)

 浅鉢変容型の壺にみられる縄文的な成形技術は、瀬戸内地方の遠賀川式土器に確実に引き継がれている(図6)。瀬戸内地方の遠賀川式の壺に多くみられる口縁部外側の段の出自である。この地方の浅鉢の外反口縁の製作は内傾して立ち上がる頸部に対して外傾接合によって口縁部を貼り付け、接合部の接着をより強固にするために、接合部にあたる口縁部の内面に沈線をめぐらす。この外傾接合は遠賀川式の壺の口縁部の外側に段を生じせしめた製作技術の祖型とは考えられないであろうか。浅鉢を壺へと形態的に近づけるための製作技術が脈々とつながっていたのである。これも縄文人が土器製作にたいして主体的役割を果たしたと考えられるに十分な証拠となりえよう。また、粘土帯を外傾につみあげる際に生じた口縁部の段が、板付Ⅰ式の口縁部の段に比べて型式学的に先行するとした家根の説は正しい。しかし、夜臼式の壺と板付Ⅰ式の壺との間に存在する非連続の要素こそ、板付Ⅰ式を成立たらしめる外的な影響によってもたらされたのは確実である。したがって家根の言うように時間的な前後関係として捉えるのではなく、板付Ⅰでは外的な要因によってもたらされた製作技法によって技術的に到達した壺の口縁部の段を外傾接合によって生じる段で達成しようとした。つまり瀬戸内の人々は外見的にただ模放することによって段を作ろうとしたのである。板付Ⅱa式併行期の佐賀や熊本の壺とまったく同じ対応をみせている。
 縄文系壺形土器は、突帯文土器の分布圏内に全般的に見られるが、中部瀬戸内から伊勢湾沿岸地域にとくに集中しているようである(8)

図7 鉢形土器器種分類図
(縮尺不同、〔泉・山崎,1989〕から引用)

  3 鉢形土器

 鉢は泉の器種分類に準じ次のようにおこなう(図7)。
Ⅰ類 口縁部内面に断面カマボコ形の突帯をもつ鍵形口縁の浅鉢である。器形は頸部の長いもの、頸部が短く胴部が丸く張るもの、頸部が短く胴部の張りは弱いが鋭く屈曲するものの三つに分かれる。器面はすべて磨研調整されている。
Ⅱ類 逆「く」の字形に外反する浅鉢である。波状口縁と平縁口縁があり器面は磨研されている。さらに器形からいくつかに分かれる。
Ⅲ類 椀形の浅鉢である。器壁は薄く器面は研磨仕上げで丹塗りを施すものもある。

 この他にも、口径が器高をうわまわる鉢形の土器や粗製の鉢形土器も知られているが、今回は鉢を縄文土器に占める精製土器として位置づけるため、鉢Ⅰ類からⅢ類をもって鉢の代表とする。

  4 高坏形土器

 西日本では西部九州の一部に偏って分布する程度で、中国地方や四国地方以東ではほとんどみられない。また西部九州でも器種構成に占める割合はかなり少なく数%にすぎない。器形的には鉢Ⅱ類の坏部に脚がつく程度のもので形態的には台付鉢に近く、縄文時代にもとからある器種を変容させ機能的に代用した段階にとどまっており、板付Ⅰ式以降の高坏との距離は大きい。高坏の出現について家根は北部九州て無文土器とは無関係に成立したと考えている。〔家根,1987〕。


 三.土器の系譜-無文土器系・縄文系・変容系・折衷系-

 この問題は器種どうしのレベルと一つの器種内でのレベルで考えなければならない。範疇としては無文土器系、縄文系、変容系、折衷系の四者が考えられる。
 浅鉢はすべて縄文系としてよいであろう。
 高坏は、壺とならんで水稲農耕にかかわる農耕祭祀用の土器である。無文土器自身が持ち込まれている壺に対して、高坏には今のところ明らかに持ち込まれたと断定できる資料はない。突帯文土器に伴う高坏は形態的にすべて脚付鉢に相当する。浅鉢Ⅱ類の坏部に脚をつけ、脚との境界部に刻目突帯文をめぐらせただけの土器は、農耕祭祀をおこなううえで用意された代用品といった観が強く壺とはかなり様相が異なる。高坏の系譜は、浅鉢との外見的な共通性からだけでは諭じられないので、成形技法、特に粘土帯の積み上げについての検討も必要になってこよう。脚付や台付の鉢であれば縄文土器のなかにあるので縄文系との位置づけも可能だからである。しかし、縄文の脚付鉢などは東日本に分布の中心をもつので、東日本からの影響で西部九州に成立したものとは考えにくく、無文土器文化の影響を受けて成立したと考えたほうが妥当であろう。つまり突帯文土器様式の高坏は、高坏としての役割を担わせるため縄文の浅鉢に脚をつけることによって高坏に変容させられたものと考えられる。これを無文土器系と呼ぶか、縄文土器変容系と呼ぶかは、製作技法が縄文土器の作り方なのかどうかで異なってくる。
 壺は、縄文土器に固有な器種だが水稲農耕との関係を考えれば機能を含めて外来的な器種と言える。西部九州では先述した無文土器系が圧倒的な割合を占めるが、瀬戸内や近畿では深鉢変容型と浅鉢変容型、そして無文土器系が併存する。しかしその割合はまだ不明である。
 甕は複雑である。従来は突帯文土器様式の甕を縄文系の出自で捉えても大きな問題はなかった。しかし、縄文土器からは出自を考えにくい甕の存在が指摘され始めている。粗製深鉢の一部と板付祖型甕である。特に祖型甕は最近まで弥生時代最古の土器と位置づけられていた板付Ⅰ式甕の祖型にあたり、山崎純男によって命名された〔山崎,1980〕。この甕は口唇部に刻目文をもち、まっすぐに立ち上がる口縁部が如意状に外反することによって板付Ⅰ式が完成すると説明されてきた。筆者もこの型式変遷を復原した際にいくたびかの内的・外的な刺激を受けながらも縄文土器の流れの中で板付Ⅰ式土器が完成すると考えたのである〔藤尾,1987a〕。このような九州の研究者の縄文主体説に対して、家根や春成は疑義を唱える。
 家根は、日本の縄文土器が幅の狭い粘土紐を巻き上げていく内傾接合によって作られているのに対し、祖型甕は幅が広い粘土紐を積み上げていく外傾接合によって作られているため縄文土器の系譜上では捉えられないとし、韓国の無文土器に系譜を求めた〔家根,1984・1987〕。春成も板付祖型甕に刷毛目調整が顕著にみられることなどを根拠に系譜を無文土器に求めている〔春成,1990〕。
 祖型甕の器形は粗製深鉢と同じでも、色調が異なり丁寧な作りをしているという点で他の甕と識別できるのは事実である。今回、祖型甕の系譜を考えるにあたって二つの部分に分けて検討したい。一つは祖型甕の成立に関する部分、もう-つは祖型甕が板付Ⅰ式へ変化していく過程の部分である(図8)。


図8 弥生甕の成立過程(家根説)
縮尺不同(〔家根,1987〕を改変)

 家根の弥生甕成立のモデルは、無文土器の影響を受けて成立する「朝鮮無文土器系甕」や、丁寧な器面調整を施した刻目文土器など「系譜の異なる伝統の混淆の中から、最終的には朝鮮無文土器に普遍的な製作技法が選びとられ」〔家根,1987:19〕、弥生甕が成立するというものである。家根が日本の縄文土器に影響を与えた無文土器として挙げているのは、韓国慶尚南道晋陽郡大坪里遺跡出土土器(図8-9)である。またその影響を受けて出現した「朝鮮無文土器系甕」として挙げているのは佐賀県唐津市菜畑遺跡出土土器(図8-7・8)などで、これを家根は朝鮮無文土器に類似する甕とした(9)。大坪里の甕は幅広い粘土紐を外傾接合によって積み上げて成形し、外面を磨研ないし丁寧なナデによって仕上げる。菜畑遺跡から出土した深鉢(7・8)は、器形や口縁部のおさめ方に無文土器とは多少の違いがあるとしながらも、粘土紐の幅が広く外傾接合で成形して無文土器的な器面調整を施していることを根拠に、朝鮮無文土器の一型式に由来する深鉢が日本において若干の在地化を遂げたものとした〔家根,1984:64〕。つまり器形と文様を指標にすえた筆者分類の砲弾型粗製深鉢のなかに、縄文土器に由来する粗製深鉢(1)と無文土器に由来し若干在地化した甕(7・8)、双方の技法をもつ甕たとえば内傾接合で擦痕調整をおこなう甕(3)などの複数の出自の存在を認めたのである。また刻目文土器にも縄文土器に由来する(2)と、内傾接合で擦痕調整をおこなう(4)の二者を認めている。家根の祖型甕は、西日本に突帯文土器が出現する以前から存在する刻目文土器とは完全に区別され、朝鮮無文土器系甕(7)が、口唇部刻目文を採用したり、刻目文土器が朝鮮無文土器の製作技法で作られることによって成立する。後者の場合は4のように内傾接合でも器面調整が無文土器の影響を受けていれば祖型甕に含まれる。
 いずれにしても家根の朝鮮無文土器系甕や祖型甕を無文土器系として認識するためには、粘土帯の積み上げ方法と器面調整が決め手になる。内傾接合か外傾接合か、丁寧な調整か粗い調整か、これらの組みあわせによって系譜が異なってくる。縄文系は内傾接合で粗い調整、無文土器系は外傾接合で丁寧な調整、これ以外の組みあわせならば折衷系である。この視点をもとに菜畑遺跡の土器を報告書の記載に従ってみると、次のようになる(表3)。


表3 菜畑遺跡出土の朝鮮無文土器系甕と弥生甕の特徴

朝鮮無文土器系甕弥生祖型甕
9~12層外傾接合で外面タテ条痕,内面ナナメ擦痕が1,あとは内傾接合で擦痕調整。したがってすべて折衷系である。すべて内傾接合で40%に擦痕,のこりは条痕調整である。したがって40%が折衷系,60%は縄文系。
8下層外傾接合が4例,条痕のあとナデ消すものが多い。したがって折衷系が目立つ。外傾接合が9例中7点,これらは擦痕調整。したがって無文土器系が多くなる。
8上層外傾接合で擦痕が1例,内傾接合で条痕が1例。したがって無文土器系1,縄文系1。外傾接合は24例中3例,これらはヨコナデ調整へ。したがって無文土器系の率は下がる。


9-12層では朝鮮無文土器系甕も祖型甕も折衷系と縄文系からなり、明確に無文土器系といえるものはない。8下層になると、祖型甕のほとんどは無文土器系になり家根が言うように朝鮮無文土器的な製作技法が選び取られた様相をみせている。もちろん以上のような議論はこの時期の無文土器がすべて外傾接合で、しかも突帯文土器以前の縄文土器が内傾接合であることが前提となることは言うまでもない。
 次に、板付Ⅰ式土器への変遷過程である。家根説では祖型甕(図8-4)などの「系譜の異なる伝統の混淆の中から、最終的に朝鮮無文土器に普遍的な製作技法が選びとられ」、弥生甕が成立したと述べられているだけで、口縁部の外反がどうして起きるのかなどの背景についてはふれられていない。いずれにしても弥生甕は、成形・器面調整を無文土器から、文様を縄文土器から獲得し普遍化して成立する。この点に日本における初期稲作文化成立過程の内実が反映されていると理解できよう。本稿分類の粗製深鉢や刻目文土器のなかに無文土器に特有とされる製作技術をもつものがどれくらいあるのか、その割合は時間的にどのように推移していくのかという部分を明らかにしなければならない。それが明らかになってから無文土器系甕を粗製深鉢や刻目文土器から分離し設定していく所存である。
 韓国において大坪里以降の無文土器の動きはどうなっているのだろうか。藤口健二は、地域差の問題があるとしながらも、菜畑遺跡の山ノ寺式が欣岩里Ⅲ式や松菊里Ⅰ�Ⅱ式と併行すると解釈している〔藤口,1986〕。欣岩里Ⅲ式には、口縁端を上外方に引き上げたあと短く外反させた甕が確認されている。また松菊里Ⅰ式からⅡ式にかけては、甕の口縁部の外反度がまし胴部が外へ張り出し気味になって、プロポーションこそ異にするが細部形態の一部や刻目にも板付Ⅰ式との共通性がある。外傾接合という縄文土器にはない非連続な製作技術が、器形や文様などの外見的な共通性よりも優先されるのは、製作技術の共通性が人の動きをともなうと考えられるからで、水稲農耕開始期の韓国と日本の関係を理解するには非常に魅力的である。韓国無文土器時代前期の終末段階に共通性をもった韓国と日本の煮沸用土器は、それ以後両国で特色ある道を歩み始める。その結果、外傾接合によって幅の広い粘土紐を積み上げ、同じ器面調整で仕上げるという製作技術を共有し、さらに外反口縁という点では共通しながらも、器形をかなり異にする甕を完成させる。祖型甕が板付Ⅰ式へ変化していく過程において注目しなければならないのは、出発点が同じであっても母体とする文化が異なっていれば、完成したものに違いが生じるという点である。板付Ⅰ式の成立を代表とする弥生文化(日本独自の初期農耕文化)が成立するためには、渡来人が持ち込んだ新しい製作技術と在来人がもつ歴史的な伝統の双方が必要条件となるので、どちらか一方を特に強調するのは偏った見方で春成が指摘するように公平な立場とは言えない。その点で前稿は在来人の側に偏って現象を見ていた。大事なのは、無文土器と突帯文土器との接触のなかから弥生甕が成立してくるという点である。
 以前にも指摘したように、祖型甕の変遷過程には二つの大きな転換点がある。一つは口縁部が外反を始めた段階。もう一つは外反化が強度をまして如意状口縁が完成した段階である。これらの契機については、具体的に示しておかなかったが、断続的な外的文化の影響を想定してもよいのではないだろうか。環濠集落の成立も、早期水稲農耕社会の内的発展だけでは説明できない可能性があるからである。
 以上のように、まだ検討課題を残しているとはいえ、板付祖型甕が無文土器の製作技術と突帯文土器の文様を融合させることで生成され、のちに板付・遠賀川系の甕として主要器種となっていく点を考慮すれば「折衷系」するのが妥当と考えられる(10)。したがって、突帯文土器様式の煮沸用土器には、出自を異にする粗製深鉢系、刻目文系、突帯文系、無文土器系、折衷系が存在したのである。




 Ⅳ 突帯文土器編年


 一.早期突帯文土器編年の現状

 早期突帯文土器様式の編年は、縄文土器研究者が縄文土器の分析手法を用いて、浅鉢の変化を指標に作ってきた。浅鉢は縄文的な習俗と深くかかわっている土器であるから、浅鉢を指標とする編年は、縄文社会の変化をよく反映したものとなり、その性格上広域にわたり地域差も少ないので非常に有効である。しかし突帯文土器に伴う浅鉢は水稲農耕の波及にともなって弥生化していく社会システムに対する縄文側の抵抗を象徴する側面をもつ。鉢はこの時期の精製土器のなかで壺と対局に位置する土器である。壺と鉢が器種構成に占める割合は壺が増加するとそのぶん浅鉢が減少するという相関関係にある。またこの現象は全生業に占める水稲農耕の割合の変化とも強い関連をもつ。水稲農耕が発達すればするほど、種籾の貯蔵を主とする貯蔵機能の充実が要求され壺が増加するが、これだけでは浅鉢の減少を説明できない。水稲農耕の発達とともに浅鉢が有していた機能が社会の中で必要でなくなってきたことを反映したものである。浅鉢が衰退するにいたったプロセスはつぎのように考えられないだろうか。壺は種籾を貯蔵、保存して来期の豊作を祈り、穀霊を祭るという農耕儀礼のなかにくみこまれていた重要な祭具の一つであった。水稲農耕の発達は農耕儀礼の発達をうながし、その一方で縄文的な祭祀および祭具の衰退をもたらす。土偶や石棒の減少はこのような祭祀形態の変化を反映しており、浅鉢の減少もこのような一連の動きのなかで説明できよう。早期においては生業全体における水稲農耕の位置づけは地域や集団によって異なっていた可能性が高いので、壺と浅鉢が器種構成に占める割合もさまざまであった。縄文土器の編年では器種構成に占める浅鉢の比率に関係なく同じタイプの浅鉢を指標に同じ時期と考え、また同じタイプの土器は同じスピードで変化したと考えるのが普通である。土器の型式変化は社会の変化を正確に反映したものではないが、水稲農耕の発達が貯蔵用の壺の発達を早めることは十分に考えられる。
 したがって、この時期に関して浅鉢を指標とする編年は縄文社会がいかにして崩壊していくかをみることになり、結果的に崩壊の速度が同じで全国一律に縄文時代が終了し、縄文的器種構成の崩壊といった視点で弥生時代への転換が説明される。このような方法についてはつぎのような疑問がある。
 i) 縄文時代に特徴的な現象を取り上げ、その消滅を指標にして縄文時代のおわりとし、二次的に弥生時代の成立を考える時代区分上の方法的な問題。
 ii) 縄文時代の一型式の時間幅と弥生時代の一型式の時間幅が同じというわけではないのに、同じ時間幅をもつという前提にたった議論となっている。特に浅鉢が壺なみの速さで変化するという説明もないまま壺と同じように変化すると考えられている。その結果、古い浅鉢と壺や甕が伴うと判断されれば古い浅鉢が残存したものとは考えられずに、浅鉢にあわせて壺や甕の時期が引き上げられてしまう。浅鉢は壺と同じ早さで変化するのであろうか。
 iii) 浅鉢は水稲農耕の発達に対応するように衰退していくが、早期水稲農耕の発達が西日本一律でないにもかかわらず浅鉢の衰退だけは西日本一律で進むと考えられている。したがって西部九州と近畿における浅鉢の変化の早さや残存度を同じと考え、地域毎の差を想定していない。このような疑問をつぎに示すモデルで考えてみたい。A説は西部九州と瀬戸内・近畿の間に水稲農耕の発達度を考慮し、弾力的な浅鉢の変化と残存を想定したものである(図9)。B説は西日本において地域色の少ない浅鉢の変化がどの地域も同じ早さで進んだと仮定したものである(図10)。


図9 水稲農耕開始期の器種変遷
(甕・壺を基準-A説)
図10 水稲農耕開始期の器種変遷
(浅鉢を基準-B説)

 A説では浅鉢一型式の存続幅が突帯文土器一型式の3倍にあたることや、地域によって浅鉢一型式の存続幅が異なることを表したもので、西部九州と近畿・瀬戸内の併行関係が無文土器系壺や二条甕からとれることが表されている。B説では西日本はすべて一律に変化する浅鉢を指標に、浅鉢がなくなる長原式をもって縄文的器種構成の消滅と理解する。したがって板付Ⅰ式の成立より浅鉢と共伴しない板付Ⅱa式(第Ⅰ様式)の成立が重視される結果となり、さらに古・中段階の遠賀川式土器と共伴する長原式のおわりごろに第Ⅰ様式が成立することになって、遠賀川式土器と突帯文土器の時間的な関係が不合理なものとなっている。本稿ではA説の立場に立ち、長期にわたって存続し縄文時代の指標である浅鉢を基準とせず、甕や壺を指標とした時間軸を設定する。甕と壺は水稲農耕社会を維持する基本的セットで、縄文時代になかった壺や新しい形態をもつ甕が器種構成の変化を論ずる際の決め手になる。また地域色を反映しやすい点も好都合である。さらに前期突帯文土器も対象にするためには早期からの一貫した指標で論ずる必要がある。


図11 各地における外来系土器実測図
(縮尺1:8)
(沢田と有田七田前遺跡の
土器以外は各報告からの転載)

 二.西部九州と近畿・瀬戸内の併行関係

 搬入品とまでは言えないが、西部九州で出土した近畿・瀬戸内系の土器と近畿・瀬戸内で出土した西部九州系の土器を使って、先ほどのA説に準じて併行関係を考えてみよう(図11)。西部九州から出土した近畿・瀬戸内系の土器には、有田七田前遺跡〔松村,1983〕の滋賀里Ⅲb式(1)、板付E-5・6区〔山口譲治,1980〕の沢田式(4~6)がある。板付遺跡の土器は、胴部の屈曲がかなり緩く口縁部突帯の位置も口縁端部に接していることから沢田式に相当するものと考えられ、夜臼Ⅰ式に比定される層から出土している。有田の場合は滋賀里Ⅲb式相当の刻目文土器が夜臼Ⅰ・Ⅱa式相当の土器と混ざって出土した。いずれも遺構に伴う一括遺物ではなく包含層の資料であるため厳密な同時性は問えないので、幅をもたせて考えるしかない。一方、近畿・瀬戸内から出土した西部九州系の土器には、大渕遺跡から出土した山ノ寺式相当の西部九州型一条甕(8)、長行遺跡〔山口信義,1980〕出土の夜臼Ⅰ式相当の砲弾型一条甕(7)、沢田遺跡出土の夜臼Ⅱa式相当の無文土器系壺(10・11)と、砲弾型一条甕(9)がある。以上の点から沢田式は夜臼Ⅰ�Ⅱ式の双方と同時性があることになる。このような相反する事実があるかぎり外来系の土器からの結論は出せない。しかし沢田遺跡の無文土器系壺と砲弾型一条甕は、早期水稲農耕の伝播にともなって西部九州から瀬戸内・近畿へ伝わったものであるから、今のところ西部九州より早くこれらが成立することは考えられないので、夜臼Ⅱa式がともなう沢田式は夜臼Ⅱa式よりは遡る可能性は少ない。そうすると山ノ寺・夜臼Ⅰ式と前池式の関係は突帯文土器を型式学的に比較すると刻目の施文や器形には西部九州と瀬戸内・近畿の間に地域差があって比較する指標とはなりえないが、口縁部突帯の貼り付け位置は有効で山ノ寺式・夜臼Ⅰ式と前池式はいずれも口縁端部から下がった位置に貼り付けられ差はない。甕の比較からは山ノ寺・夜臼Ⅰ式と前池式の同時代性を否定することはできない。有田七田前遺跡の滋賀里Ⅲb式も同時代性を裏付ける根拠となっている。ただ、西部九州において一条甕と二条甕の間に型式学的な差があるのは拙稿のとおりで〔藤尾,1990a〕、その意味では前池式が若干古く位置づけられる可能性もある。したがって前回同様に同じ時期に属すものと考え段階差を想定しておこう。浅鉢ではなく壺や甕を重視した併行関係である。


 三.突帯文土器編年

 弥生時代早期から前期にわたる西日本の突帯文土器をⅠ期からⅤ期に大別する。

  Ⅰ期 突帯文土器の成立

 西日本に突帯文土器様式が成立する。甕は粗製深鉢、刻目文土器、突帯文土器に大きく分かれ、まだ突帯文土器以外の比率がかなり高い段階である。突帯文土器は一条甕を中心として成立し、西部九州や伊勢湾沿岸には砲弾型一条甕も成立する。二条甕の成立は一条甕の成立と時間差をもつとの意見があるが、これがあてはまるのは瀬戸内・近畿で、西部九州ではそれほどの時間差は考えられない。西部九州と東部九州の一部では壺が出現する。突帯文土器様式に属すにもかかわらず、壺をもつ地域ともたない地域がある段階である。壺には無文土器そのものと言えそうな壺と、無文土器が在地化した山ノ寺式や夜臼式に代表される壺の二種類がみられる。西部九州の壺は機能的な分化を完成しており、埋葬用、貯蔵用、副葬用の三つが機能に応じて使い分けられている。浅鉢は鍵形口縁黒色磨研浅鉢(Ⅰ類)と逆「く」の字口縁浅鉢(Ⅱ類)が混在する段階である。鉢Ⅰ類は、西部九州を除く地域で突帯文土器とセットとなるが、西部九州の水稲農耕をおこなっている地域ではセットとならない。山ノ寺遺跡B地点では鍵形口縁の浅鉢と突帯文土器が出土しているが、セットとして認定できるのかどうかは明らかでない。西部九州の突帯文土器は鍵型口縁浅鉢と基本的なセット関係になくただ残存した可能性もある。したがって浅鉢を基準に編年をくめば西部九州の突帯文土器が瀬戸内や近畿に遅れて出現することになる。
  Ⅱ期 西部九州系突帯文土器の東進
 近畿や瀬戸内に水稲農耕の存在を裏付ける証拠が出はじめる段階である。甕は、西部九州系の砲弾型一条甕が近畿や瀬戸内に少数であるが出現し、沢田遺跡の土坑資料では、突帯文甕の25%を占めている。また二条甕も備後以東の山間部(帝釈峡遺跡群)や瀬戸内海北岸、近畿地方に出現する。四国は二条甕を基本的に受け入れない。また瀬戸内や近畿の深鉢の底部が尖底・丸底・凹底から平底へ転換する。西部九州では、甕の器面調整に刷毛目技法を用いる甕の存在が明らかになり、祖型甕の口縁部が外反化をはじめる。
 壺も、西部九州から東方への波及が活発になる。口酒井遺跡や大渕遺跡に無文土器系の磨研壺が伝播するとともに、その影響を受けて成立したと考えられる在地の壺が既存の器種の変容系というかたちで出現する。深鉢変容型と浅鉢変容型を代表とする縄文土器変容系壺の成立は、瀬戸内や近畿の突帯文人がみせた対応行動の一つとして理解できる。
 浅鉢は西日本全体が逆「く」の字口縁浅鉢の段階にはいる。泉は、この種の浅鉢が波状口縁で方形となる傾向が顕著な段階と、方形を呈さなくなる段階に細別する。この細別は口酒井式から船橋式への変化に対応する。西部九州では菜畑9-12層と8下層段階に波状口縁方形浅鉢が出土している(菜畑遺跡、宇木汲田遺跡1984年調査第Ⅸ層〔横山・藤尾,1984〕、曲り田古・新式)。したがって浅鉢を基準とする広域編年を使って西部九州と瀬戸内・近畿との併行関係を捉えれば泉の第Ⅱ様式の下限を夜臼Ⅱa式、中島の夜臼単純、橋口の夜臼式におさえることができ、瀬戸内では岡山大学学生寮〔松岡,1988〕や沢田式が相当する。西部九州と瀬戸内や近畿の併行関係を方形浅鉢からこのように捉えると、甕の型式学的な変化とも一致するが、口酒井や沢田における鍵形口縁浅鉢の量的な存在だけが問題になる。岡大や沢田ではくの字口縁浅鉢の段階に大量の鍵形口縁浅鉢が伴うのである。これは浅鉢一型式の存続幅が甕や壺より長いという先の仮説を裏付けるものである。
 Ⅱ期は従来の、口酒井式、船橋式、沢田式、夜臼Ⅱa式、中島の夜臼式単純に相当する。


図12 突帯文土器成立直前の煮沸用土器
(粗製深鉢を除く)
(4、6~8は報告書の原図を改変)縮尺1:10

  Ⅲ期 板付Ⅰ式土器の成立と遠賀川式土器の伝播

 西部九州の一角(玄界灘沿岸地域)で板付Ⅰ式が成立する(11)。板付Ⅰ式は西部九州の突帯文土器である夜臼Ⅱb式と相互補完的な関係にある。夜臼Ⅱb式は前段階の型式が残存したものでない。特に甕については板付Ⅰ式甕との機能的な使い分けがはっきりとしている。共伴期の甕組成は、板付Ⅰ式、二条甕、砲弾型一条甕、祖型甕だが、なかでも板付Ⅰ式と二条甕主体で前期初頭の煮沸行為は維持されるので、二条甕以外の甕は残存したものと考えても差し支えない。すべての突帯文土器が必要とされたのではなく二条甕だけが必要だったのである。板付Ⅰ式甕と二条甕の比率は3:4で後者が多い。二つの甕の最大の違いは、口縁部の違いからくる蓋のうけかたと胴部が屈曲するかどうかにある。3:4の比率は、器形や蓋の受け方が違う二種類の甕が使用目的を異にして使い分けられていたことを意味している。板付Ⅰ式が成立する以前の二条甕と砲弾型一条甕の比率を見ると、玄界灘沿岸地域をのぞく西部九州では二条甕が圧倒的に多く4:1の比率をみせる。東部九州以東でも屈曲のある一条甕や二条甕が圧倒的に多い。しかし福岡平野だけは屈曲する二条甕の比率が低く、1:4から1:7の比率で砲弾型一条甕が最も多くを占める。また屈曲する甕が多いところでは浅鉢が多く壺が少ないという傾向がみられるところから、生業基盤に占める水稲農耕の比重と関係して甕の器形が異なるとは考えられないであろうか。
 壺は板付系がほぼ壺組成を独占するので板付甕と突帯文土器にみられた補完関係は存在しない。
 鉢は器種構成の10%弱を占めるが、縄文系浅鉢の比率は5%弱で少なく古い型式が残存したものと理解できる。
 高坏については資料数が少なくはっきりしたことは言える状況でない。しかし、長脚で大きく広がった坏部をもつ器形が成立しているので、数が少ないといっても弥生土器の高坏として定型化していたと考えられる。
 Ⅲ期は板付Ⅰ・遠賀川式文化が西日本全体に伝播する時期として位置づけられよう。しかしその影響をまともに受けた地域もあれば、間接的もしくはほとんど受けなかった地域もあり、これらの複合的な動きの中で前期社会は発展していく(12)
  Ⅳ期 前期突帯文土器の完成と中期土器の萌芽
 遠賀川式土器を用いる移住者集団と在来者集団の間に存在した関係が変質し、水稲農耕という生業以外の分野に在来人の伝統が復活してくる。玄界灘沿岸地域を除く西部九州(佐賀・熊本・薩摩)や和歌山の紀ノ川以南の地域ではⅢ期以来の突帯文土器様式が継続し発展するが、そのほかの地域では遠賀川式土器様式に突帯文土器が煮沸用土器として加わる。また地域によっては突帯文土器と遠賀川の甕との比率が逆転してしまう。豊後の下城式、瀬戸内の逆L字口縁甕は前期突帯文土器の代表的な例である。従来の板付Ⅱb式第Ⅰ様式中段階に相当する。
  Ⅴ期 前期突帯文土器から中期地域型甕へ
 突帯文系と遠賀川係が接触・交流を重ねた結果、各地に新しい土器が成立する。西部九州では、器形や文様に突帯文土器の特徴を多くもつ遠賀川以西系の土器様式である城ノ越式が成立し、瀬戸内や近畿でもⅣ期に成立した前期突帯文土器と遠賀川式がさらに融合した甕が出現する。いわゆる第Ⅱ様式の地域型甕である。西日本の中期土器様式は水稲農耕が定着するにあたって、各地域でおこった移住者と在来者との交流の結果が反映されたものなのである。



 Ⅴ 各地の突帯文土器


 本章では近畿以西の突帯文土器を地域毎に検討する。西部九州についてはすでに編年案を発表しているので、問題点と特色を指摘することにとどめる。

 一.西部九州(図13)

 この地域特有の問題には、突帯文土器の成立、二条甕の成立、山ノ寺式土器と夜臼Ⅰ式土器の関係、板付Ⅰ式土器の成立などがある。特に二条甕の成立や板付Ⅰ式の成立はこの地域を舞台にしたものである。

図13 西部九州の突帯文土器編年図 1(左)、2(右)
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10



 1 突帯文土器の成立

 西部九州は、Ⅰ期に主要な突帯文土器がほとんど出現する西日本でも唯一の地域である。突帯文土器の主要な甕には一条甕・二条甕�砲弾型一条甕があって、西部九州を除く地域ではまず一条甕だけの段階があり、一時期遅れて二条甕や砲弾型一条甕が甕組成に加わる。西部九州における突帯文土器の成立について議論するとき、近畿・瀬戸内からの影響のもとに出現すると考える意見と西部九州自生説の二つがある。
 突帯文土器が成立する前段階には、西日本全体に刻目文土器と粗製深鉢を煮沸用土器とする土器様式が存在していた。この段階をかりに先Ⅰ期とする。図12は従来の黒色磨研土器を指標とする様式を煮沸用土器からみたものである。煮沸用土器のなかには少数ながらも隆起帯をもつ土器(4・5)も含まれており、まさに突帯文土器が成立する直前の段階にあたる。この段階の西部九州と近畿・瀬戸内では主となる煮沸用土器が異なっていた。すなわち、粗製深鉢を除くと西部九州は砲弾型の胴部で口唇部刻目文をもつ土器(1)と、西部九州型の胴部をもち口縁部や屈曲部に刻目文をもつ土器(2・3)が大勢を占めていたのに対し、近畿・瀬戸内では、瀬戸内型の胴部をもち口唇部に刻目文をもつ土器(6・7・8)が大勢を占めていた。近畿で口唇部の刻目文が出現するのは滋賀里Ⅲb式中段階(13)、瀬戸内では原下層式〔鎌木・江坂,1956〕、西部九州では晩期Ⅵ〔橋口,1985〕、菜畑13層〔中島,1982〕である。また有田七田前遺跡からは、西部九州で最も古い突帯文土器にともなって滋賀里Ⅲb式中段階の刻目文士器が出土していることから考えても(図11-1)(14)、西日本ではほぼ同時に突帯文土器が成立し、少なくとも突帯文土器の成立に関しては近畿・瀬戸内から西部九州への一方的な文化伝播を考えなくてもよいと考える。

 2 二条甕の成立

 前稿では、一条甕と二条甕の型式学的な差を根拠に一条甕の胴部に刻目突帯文をめぐらすことによって成立すると判断したが〔藤尾,1990a〕、突帯文土器の成立にあたって想定したように、刻目文土器と突帯文土器を文様から比較すると、刻目文土器が口縁部と屈曲部に刻目文を、突帯文土器が同じ部位に刻目突帯文をという文様の違いでしかないので、一条甕の胴部に突帯文をもう一条貼り付けて二条甕が成立すると考えるより、むしろ刻目文土器(図12)から二条甕が直接成立すると考えてもよいのではないか。一条甕を介しての二条甕成立だけに固執する必要はないのである。西日本全体の動向からみるとこのような見方が最も妥当と判断されるので、一条甕が単純で出土する遺跡が熊本の上南部遺跡A地点〔富田,1979〕しかないことなど、出土状況からも裏付けられよう。しかし、前稿で指摘したように、一条甕と二条甕の間に存在する型式差も大きいことからしばらく状況を見守りたい。

図14 山ノ寺式と夜臼式の甕組成の変化
(〔藤尾,1987a〕、および各報告の原図を改変)

 3 山ノ寺式土器と夜臼Ⅰ式土器の関係

 山ノ寺遺跡や菜畑9-12層出土土器に代表される山ノ寺式土器と福岡平野最古の突帯文土器である夜臼Ⅰ式土器との関係である。まず夜臼Ⅰ式が板付遺跡G-7a・7b区下層出土土器だけを指しているのではないことに注意を要する。また両様式の甕組成は主体となる甕が異なり、山ノ寺式は二条甕、夜臼Ⅰ式は砲弾型一条甕を主とする(図14)。この甕組成の違いが二つの土器群を時期差とする考えに大きな影響を与えていた点は否定できない。刺突刻目をもつ二条甕(2)は山ノ寺式分布圏に多く、押し引き刻目をもつ二条甕(8)が夜臼式分布圏に多いことから、二条甕における新旧関係が地域間で言えるとすれば、山ノ寺式分布圏に多く分布する砲弾型一条押し引き甕(5)と夜臼式分布圏に多い砲弾型一条刺突甕(3)との時間差もまた言えることになり、先述した二条甕の成立の問題とも深くかかわってくることになる。したがって、最古の二条甕は山ノ寺式分布圏で成立したあと夜臼式分布圏や瀬戸内・近畿へ広がり、また、最古の砲弾型一条甕は夜臼式分布圏で成立したあと山ノ寺式分布圏や瀬戸内・近畿に広がったと考えられるのである。残存する傾向が強い浅鉢を指標とせず、甕自身の型式学的な操作からこのような結論が導き出せることで、山ノ寺式と夜臼Ⅰ式は分布を異にする西部九州最古の突帯文土器様式として認められるのである。

 4 板付Ⅰ式土器の成立

 板付Ⅰ式土器は、朝鮮無文土器の製作技法や煮沸用土器としての範型にしたがって製作された砲弾型刻目文土器が日本的に変容して成立したものである。したがって、板付祖型甕は縄文土器がすでに変容した土器を指し、晩期最終末の西日本に広く分布する砲弾型刻目文土器は含まれない。粘土帯の接合法や器面調整などの特徴によって系譜を判断しなければならない難しい土器である。板付祖型甕は、突帯文土器と同じくⅠ期に成立し、Ⅱ期になると口縁部が外反する祖型甕と、直口口縁のまま口唇部の刻目の位置が口縁端部に偏って施文される甕に分かれ、後者は板付Ⅰ式へは発展しない。中寺・州尾遺跡で出土した祖型甕はまさにこの後者に相当する。祖型甕は西部瀬戸内を含む地域までは分布するようだが、口縁部の外反化をおこした祖型甕は、現在までのところ玄界灘沿岸地域に限定される。Ⅲ期に成立した板付Ⅰ式とⅡ期の祖型甕との型式学的な距離は大きく、スムーズな変化と言うよりはもう一つ別の契機を要したと考えられる。それがどのようなものであったのか明らかにできないが、環濠集落の成立にみられるような水稲農耕社会がある一定の水準に達したことと無関係ではない。無文土器の製作技法が導入され、また形も砲弾型で外反口縁という点まで無文土器と共通するにもかかわらず、まったく同じ姿とならなかった事実に弥生文化の本質が含まれているのである。


 二.瀬戸内

 1 東部九州

 福岡県の北東部を響灘にむかって北流する遠賀川から鹿児島県大隅半島までを九州山地の東の際に沿って南北に結ぶ線を西限とする地域で、周防灘や日向灘に面する沿岸部を対象とする。前期における甕組成の違いから豊前と豊後に分けて考える。宮崎と鹿児島東部は早期から前期にかけて一貫した資料に恵まれていないのでその都度ふれることにする。


図15 豊前の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10

 i) 豊 前(図15)

 この地域は長い間まとまった資料に恵まれず空白地域とされてきたが、近年の調査によって資料が充実しつつあり、これらの資料を扱った晩期土器編年も発表されている〔前田,1989〕(15)
  先Ⅰ期
 春日台遺跡〔上村,1984〕の隆帯文土器(10・22)や貫・井手ヶ本遺跡の屈曲型刻目文土器(8)に代表される。定型化した刻目突帯文土器はまだ成立していないが無刻突帯をもち口唇部に刻目文をもたない甕(11)がある程度である。壺はなく鍵型口縁浅鉢がともなう。
  Ⅰ期
 定型化した突帯文土器の一条甕(23)、砲弾型一条甕(12)が成立する。いわゆる長行式の新しい段階である。粗製深鉢や刻目文土器の方が量的に多く突帯文土器との比率は2:1である。壺が存在する可能性は高いがまだ明確でない。鍵型口縁の浅鉢がともなう。
  Ⅱ期
 二条甕(24)が出現し一条甕(13)とセットになる。粗製深鉢(3)や刻目文土器はもはやほとんどみられなくなる。中貫遺跡出土土器〔前田,1989〕を標識とする。壺は確実に存在し、くの字口縁浅鉢が伴う。甕の平底化や壺の出現などから水稲農耕が始まったと考えられる。
 Ⅲ期以降の突帯文土器研究はまだ始まったばかりである。下條信行は下関市綾羅木川下流域の突帯文土器を五期に分けたが、後よりの二期は板付Ⅱa式と前期突帯文土器の共伴期と考えている〔下條,1990〕。今のところ突帯文土器が遠賀川式の甕・壺・高坏にともない、このような共伴現象が瀬戸内の各所でみられることは興味深い。北九州市石田遺跡〔梅崎,1985〕で弥生化した一条甕(16)と、砲弾型一条甕(15)、遠賀川式土器が出土している。福岡県苅田町の葛川遺跡でも突帯文土器を甕組成にもつ〔酒井,1984〕。この遺跡は貯蔵穴型の環濠集落として有名で、前期突帯文土器が遠賀川式土器に伴って出土した。この突帯文土器も中寺・州尾遺跡や田村遺跡の突帯文土器と同様に完全に弥生化している。二条甕はなくすべて砲弾型の器形をもち口縁部に突帯を貼り付け、刻目文を施文している(18)。さらに弥生化が進んだ砲弾型一条甕(17)がわずかながら認められる。表面は刷毛目またはナデ調整仕上げで、また口縁部の突帯は口縁端部から下がった位置に貼り付けてあり、この時期の西部九州の砲弾型一条甕とは外見状異なる。口唇部の刻目文は施すものと施さないものがある。この種の甕は宮崎県檍遺跡でも出土していることから、周防灘や日向灘沿岸に点々と分布するようである〔森,1961〕。
 このようにⅢ期には遠賀川式土器と早期突帯文土器が共伴する例はなく、弥生化した前期突帯文土器が遠賀川式土器の組成に加わっている事実が明らかになっている。行橋市の下稗田遺跡は本稿編年Ⅳ期以降に主体をおく遺跡でやはり突帯文土器の甕をもつ(19)〔長嶺,1985〕。この甕も葛川遺跡と同じく砲弾型一条甕で口唇部に刻目文をもつものともたないものがある。突帯はやはり口縁端部から下がった位置に貼り付けている。
 豊前の弥生前期は福岡県内に関する限り遠賀川式主体の甕組成をもち、遺跡によっては比率がわからないけれども前期突帯文土器が伴っている。前期水稲農耕の東進ルートの一角に前期突帯文土器が分布することの意味は大きい。この地域の前期突帯文土器の系譜はいまのところよくわからないが、早期の一条甕からつながってくると考えるのが自然であろう。四国西部の弥生前期の状況を考えれば、東部九州から四国西部を含む西部瀬戸内の地域に一条甕系の前期突帯文土器が存在したことは確実で、突帯文土器を伝統的に用いる集団が存在した可能性を強く示唆するのである。


図16 豊後の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10

 ii) 豊 後(図16)

 この地域の突帯文土器は高橋徹によって集大成されている〔高橋,1989〕。無刻突帯文土器から刻目突帯文土器への変化と、この地域の前期突帯文土器である下城式の成立が豊後の地域的特徴である。
  先Ⅰ期
 高橋は晩期後半最終末の様式を無刻目突帯文土器の段階とし、黒川式の浅鉢がともなうと考える。つまり無刻目突帯文土器の段階を弥生時代に含めないのである。刻目突帯文土器が成立する直前の段階に無刻目突帯文土器の段階をはじめて想定したのは高橋である〔高橋,1980〕。上管生B遺跡では、無刻突帯文土器(9・10)が口縁部外側に凹線をもつ粗製深鉢と黒川式の鍵型口縁の浅鉢とともに出土しているが、瀬戸内や豊前に一般的な刻目文土器はみつかっていない。現在のところ無刻突帯文土器が刻目突帯文土器と共伴せずに出土するのは高知県西南部の四万十川流域の中村Ⅰ式と、大野川の上流域に位置する上管生B式に限られている。上菅生遺跡と同じ地域にあり無刻突帯文土器が刻目突帯文土器と混在して出土するネギノ遺跡の無刻突帯文土器には貼り付け突帯とつまみだし状の突帯がある〔橘,1976〕。分類上これらは西部九州型の一条甕に属し、口唇部刻目は施さないなど、甕にみられる型式学的な特徴からは大野川の上流域が西部九州に含まれることは確実で、これは前期における突帯文土器の展開を考えても妥当である。突帯文土器の主文様が突帯文であることからすれば、突帯文土器成立の前段階に位置づけられるのは、刻目のない突帯文土器でなく隆帯文や刻目文をもつ土器である。その意味で瀬戸内の原下層式は隆帯文と刻目文土器(15)からなり、隆帯文と刻目文の関係の中から突帯文土器が成立することを考えれば、突帯文土器成立直前の段階は隆帯文と刻目文土器(15)、精製の無刻突帯の浅鉢の段階として認識したほうがよくそれは西日本全体にあてはまる。そして隆帯文様と刻目文様が融合するところに突帯文土器成立の意味があるのである。
  Ⅰ期
 突帯文土器の成立をもって豊後は弥生時代早期にはいる。海岸部は瀬戸内型一条甕の地域である(16)。口唇部に刻目文は施さない。大野川上・中流域は西部九州型一条甕の地域で同じく口唇部に刻目文を施さず(3)、二条甕(11)とセットになる鍵形口縁の浅鉢が退化したものがともない泉編年のⅠからⅡa式段階に相当しよう。下黒野遺跡〔清水,1974〕では無文土器系の壺がともなうにもかかわらず甕の底部が平底でないという特徴をもつ。
  Ⅱ期
 海岸部では大分市丹生川遺跡などで夜臼Ⅱ式の黒色磨研の壺が出土しているが〔鏡山,1964〕、二条甕は発見されておらず、四国の西部と同じく二条甕が伝播しなかった地域の可能性もあるが詳細はまだ明らかでない。早期水稲農耕の伝播ともあわせて興味深い事実である。大野川上・中流域では宮迫遺跡〔清水ほか,1976〕(4)やネギノ遺跡のように二条甕が中心の組成で海岸部とは別の甕組成をとる。壺はまだ明らかでない。
  Ⅲ期
 豊後に遠賀川式土器が伝播するのは板付Ⅱa式併行期だが、器種構成はまだ明らかでない。 典型的な下城式はこの段階にはまだ成立していない。
  Ⅳ期・Ⅴ期
 海岸部で下城式が成立する(18・19)。Ⅴ期になると大野川の上・中流域や宮崎にも分布が拡大する。下城式は遠賀川式土器の甕とセットになるが比率は不明である。下城式は口唇部の刻目文の有無や突帯上の刻目の比率に地域差の存在が指摘されている〔高橋,1989〕。また豊前や豊後の前期突帯文土器といえば下城式だが、宇佐平野や安心院盆地、日田市地域では西部九州系の亀ノ甲式甕も入っており複数の前期突帯文土器が遠賀川式土器の甕とセットになっている。
 山間部は突帯文土器に壺がともなうが遠賀川式甕はない。駒方B遺跡では、直径が数十cmもあるような大形の甕を使った土器棺葬を営んでいる。口頸部に貼り付け突帯を利用した山形文(13)や特異な形態の甕(7・8)も多く前期突帯文土器はきわめて特殊な展開をみせている。日常土器の器種構成がどうであったかはまだ不明である。

図17 西部瀬戸内の突帯文土器編年図
(周防・安芸・伊予)
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10

 2 西部瀬戸内(図17)

 周防、安芸、伊予地域を対象とする。西予を中心に状況が明らかになりつつあり、その動向は宮本一夫がまとめている〔宮本,1989〕。山口県奥正権寺遺跡〔山本ほか,1984〕、愛媛県船ヶ谷遺跡、同大渕遺跡、同中寺・州尾遺跡を使ってこの地域の突帯文土器を考える。

  先Ⅰ期
 大渕遺跡土坑資料を標識とし、粗製深鉢、刻目文土器(1・10)、鍵型口縁浅鉢がセットになる。宮本の船ヶ谷式に相当する。
  Ⅰ期
 船ヶ谷遺跡を標識とし、瀬戸内型一条甕(2・11)と鍵型口縁浅鉢が基本的なセットで、これに大量の粗製深鉢と屈曲型刻目文土器がともなう。早期水稲農耕が伝播する以前の土器相を示す。
 これに対して大渕遺跡は早期水稲農耕が伝播した状況を示す。まだ未報告ということもあって詳細は不明だが最も多くの土器を出土した第5層の器種構成は、過半数を占める瀬戸内型一条甕(13)にわずかな砲弾型一条甕(12)と瀬戸内型二条甕(23)がともなう。また無文土器系の壺がみられくの字口縁浅鉢がともなっている。
 くの字口縁浅鉢や二条甕の存在は、船ヶ谷遺跡より新しい特徴をもっているものの、甕底部の大半が凹底で平底はわずかしか見られないことなどは古い特徴をもっている。大渕の時間的位置づけは西予地域における水稲農耕の始まりを左右する問題なので、本報告をまちたい。ただ大渕で営まれていた水稲農耕のあり方は、限りなく地域的変容を遂げた石庖丁や土偶の存在などもあわせて考えると、瀬戸内の中でも特殊な存在である。
  Ⅱ期
 大渕遺跡の一部と南海放送遺跡〔宮本,1989〕を標識とする。二条甕(23)は確実に存在するがその数は少なく岡山や近畿の比ではない。大渕遺跡の評価いかんによっては二条甕の出現がⅠ期までさかのぼる可能性もあるが、胴部突帯の破片をみる限りはⅡ期の瀬戸内型一条甕の胴部形態と同じなので、今のところⅡ期に二条甕が出現すると考えておく。
  Ⅲ期
 中寺・州尾遺跡1号溝出土土器、中山Ⅰ式〔松崎・潮見,1961〕を指標とする。中山Ⅰ式が遠賀川式土器単純の組成に対して、中寺・州尾遺跡では突帯文土器と遠賀川式土器が共伴している(16)。遠賀川式土器と共伴する突帯文土器は、瀬戸内型一条甕(15・16・17)と砲弾型一条甕(14)、砲弾型刻目文土器(3)の系譜を引く前期突帯文土器である。小ぶりの木口刻目や、家根分類の小O、小V、小D字刻目をもつ突帯を口縁端部から下がった位置に貼り付ける土器で、Ⅱ期の突帯文土器より型式学的に新しい。とくに16・17は口唇部の刻目文と刻目突帯文が二重の効果をあらわしており、遠賀川式甕の口唇部刻目の影響を強くうけている。遠賀川式土器の影響がみられる突帯文土器は、遠賀川式土器単純の組成をみせる中山Ⅰ式の中にもあるので(4)、突帯文土器を使う集団との接触・交流が存在したことは疑いない。
  Ⅳ期
 古いところでは阿方・片山式〔杉原,1949〕、中山Ⅱ式などの前期突帯文土器を甕組成に多くもつ土器群を標識とする。突帯文土器には口縁端部に接して突帯を貼り付ける、いわゆる瀬戸内甕(24・25)と口縁端部から下がった位置に貼り付ける下城式にそっくりな土器(18・19)がある。両者は分布を異にしているようで瀬戸内甕は吉備、讃岐、播磨などの中部・東部瀬戸内に、下城式に類似する突帯文土器は伊予、安芸などの西部瀬戸内にみられる。Ⅳ期の突帯文土器は、少条のへラ描き沈線文(2-3条)や、削り出し突帯文(25)を特徴とする。甕組成においては遠賀川式甕の比率がまだ高い段階である。
  Ⅴ期
 Ⅳ期から継続する二つの突帯文土器が甕組成に占める割合を高め、遠賀川式甕との比率が逆転する地域が出現する。瀬戸内甕はヘラ描き沈線と沈線の下方に1~2列の列点文を組みあわせて多条化し(26)、とくに西部瀬戸内の瀬戸内甕はもっとも多条化傾向が強い。下城式に類似する突帯文土器も多条化するが(20)、瀬戸内甕ほどではなくまた沈線をもたないもの(19)もあって、瀬戸内甕とは明らかに文様構成を異にしている。

図18 土佐の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
*入田B式と田村前Ⅰ・Ⅱは地域を異に
する同じ時期の土器である

 3 南四国(土佐)(図18)

 i) 東土佐
  先Ⅰ期
 土佐市倉岡遺跡から出土した倉岡Ⅰ式を標識とする刻目文土器の段階である〔岡本,1983〕。
  Ⅰ期
 倉岡Ⅱ式を標識とする。口唇部に刻目文をもつ瀬戸内型一条甕を主とし、半精製の無刻一条甕が加わる甕組成である。Ⅱ期はよくわからない。
  Ⅲ期
 新段階になって突帯文土器と遠賀川式土器が共伴する(17)。共伴する突帯文土器は完全に弥生化した前期突帯文土器であることが、入田B式と異なっている。突帯文土器の組成は、一条甕系(14・15)と砲弾型一条甕系(12・13)がある。前者は屈曲の痕跡を胴部に残す器形で、口縁端部から下がった位置に突帯をめぐらし刻目を施文する。口唇部の文様は無文(15・16)と刻目文(14)があり、後者は遠賀川式甕の影響を受けたものである。器面調整は刷毛目やナデ調整である。
 砲弾型一条甕は、口縁端部より下がった位置に突帯をめぐらすもの(12)と、口縁部に接して突帯をめぐらすもの(13)がある。後者の刻目の方が小さく弱々しい。器面調整は一条甕と同様に刷毛目かナデである。
 その後東土佐では遠賀川式甕単純の組成になるが、Ⅴ期に瀬戸内甕が1点(18)だけ存在するものの基本的に瀬戸内甕の分布域には含まれない。
 一般に口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付ける技法は、早期の最も古い段階の特徴だが、四国や東部九州ではかなり新しい時期まで存続し、中寺・州尾遺跡や田村遺跡、下城遺跡から出土する前期突帯文土器は口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付けるものがほとんどである。西部九州や近畿など突帯の位置が上昇する前期突帯文土器に対して豊後水道や日向灘をはさんだ地域の地域色と言えよう。
 砲弾型一条甕の中で口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付けた甕は、東部九州の下城式と関連が注目される。下城式の最も古いタイプは内湾気味に立ち上がる口縁部をもち、口唇部の外端部に刻目文、口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付ける甕である。両者は文様や細部形態に違いがあるので直接に結び付けることはできないが、Ⅲ期の新段階に瀬戸内の各地で遠賀川式土器と共存していた突帯文土器を基盤に成立してくるもので、地域によって瀬戸内型甕や下城式などのかたちをとった点こそ重要と考える。
 東土佐の甕組成の特徴は、Ⅲ期新段階における遠賀川式甕と前期突帯文土器との共伴と、二条甕の欠落にある。突帯文土器と遠賀川式土器の比率は約1:1で板付遺跡と同じ相互補完関係が成り立っている。しかし完全に弥生化した突帯文土器と遠賀川式土器の共伴の意味は早期突帯文土器の遠賀川式が共伴する板付遺跡とは質的に異なる。系譜を違える土器の使い分けでは説明できないこの地域独自の事情を反映したものであろう。
 ii) 西土佐
 四国では例外的に二条甕をもち、西部九州的な要素も強い地域である。
  Ⅰ期
 無刻突帯文土器が刻目突帯文土器と共伴しない中村Ⅰ式土器を指標とする。器種構成は刻目のない一条甕を主とし、砲弾型無刻一条甕、粗製深鉢、鍵形口縁浅鉢からなり菜畑9-12層に併行すると考えられている。無刻一条甕は瀬戸内型(1)が主だが西部九州型一条甕(4)も10%の割合で存在する。前者がナデ調整で仕上げるのに対し、後者は東部九州と同じヨコ方向の貝殻条痕で仕上げる。器面調整の差が器形差と対応している点は系譜を考えるうえで非常に興味深い。またヘラ研磨で仕上げる精製の一条甕もある。鍵形口縁の浅鉢がともなうことからすれば前池式より古く位置づけることはできず、突帯文土器より古い様式として無刻突帯文土器を考えることができない証拠の一つともいえよう。西土佐の地域的特徴である。
  Ⅱ期
 刻目突帯文土器の中村Ⅱ式を標識とする。瀬戸内型一条甕(2)、無刻瀬戸内型一条甕そして西部九州型二条甕(5)の組成で、夜臼Ⅱa式併行と考えられている。西部九州型二条甕が甕組成の中心である。二条甕はⅠ期の西部九州型一条甕と同じく条痕調整である。甕にみられる西部九州的な特徴は早期水稲農耕の伝播を強く窺わせ、またイネ科の栽培型の花粉が高い比率で検出されたことともあわせて、水稲農耕の存在が強く推定されている〔木村,1988〕。伝播ルートについては「大陸から北九州に伝播された稲作は、豊後水道に敷かれた縄文早期からの伝統もつ姫島産黒曜石の交易ルートを通り本地方へ一足飛びに持ちこまれたものと考えられる」〔木村,1988:372〕と説明される。しかし、壺は伴わず打製の石庖丁形石器と大量の打製石斧が目だつばかりである。甕にみられる西部九州的な要素にしてもいまのところ東部九州には分布せず、どの地域からの影響を受けたのか推定できない。
  Ⅲ期
 有岡式を標識とする。甕の組成は二条甕を主とするようだが、西部九州型か瀬戸内型か判断できる資料は少ない。胴部の屈曲はかなりなくなっており口縁部の突帯も端部に接して貼り付ける。斜行条痕調整である。甕の底部はすでに平底化している。
 新段階は、入田B式を標識とする。入田B式は9割をこえる甕とわずかな壺と鉢からなり、甕をもたない遠賀川式土器の入田Ⅰ式と共伴する。入田B式の甕組成は瀬戸内型二条甕(6・7)、瀬戸内型一条甕、砲弾型一条甕(3)、無刻の一条甕と二条甕で、瀬戸内型二条甕を主とする。口縁部突帯の貼り付け位置は口縁端部からわずかに下がった位置か口縁端部に接するかでかなり上昇している。器面調整は条痕である。壺は条痕調整があることからみて縄文変容系の可能性がある。
  Ⅳ期・Ⅴ期
 突帯文土器は原則的に存在しないが、中村市のツグロ橋下遺跡〔木村,1988〕からは下城式(17)が出土している。
 入田遺跡における突帯文土器と遠賀川式土器の共伴は、中寺・州尾遺跡や田村遺跡にみられるような前期突帯文土器と遠賀川式士器の共伴ではなく、板付遺跡と同じ早期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴である点に注目する必要がある。ところが最近になって岡本は入田B式と入田Ⅰ式との共伴現象を否定し、入田B式を入田Ⅰ式に先行させる見解を示している〔岡本,1979〕。これは中村市有岡遺跡で入田B式単純の土器群が発見されたのを考慮したものである。早期突帯文土器と遠賀川式土器との共伴現象が玄界灘沿岸地域以外でも見られるのかどうかは、前期水稲農耕文化の伝播と深くかかわってくる問題なのでその展開には注目していきたい。


図19 中部瀬戸内の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10

 iii) 中部瀬戸内(備後、備中、備前、讃岐)(図19)
 吉備、讃岐の瀬戸内海沿岸地域を対象にする。1960年代の春成による晩期土器編年の総括〔春成,1969〕以降、藤田憲司の遠賀川式土器成立期の研究〔藤田,1982〕、平井勝の突帯文土器研究〔平井,1988・1989〕によってこの地域の縄文から弥生への転換期の様相は急速に明らかになってきた。
  先Ⅰ期
 古くは原下層式、最近では谷尻式〔平井,1989〕(1・2)を標識とする。刻目文土器や隆帯文土器の段階である。
  Ⅰ期
 前池式〔潮見・近藤,1956〕を標識とするが量的に少ないので岡山市広江・浜遺跡出土土器〔間壁,1979〕を使って検討する。器種構成は甕と浅鉢である。甕組成は粗製深鉢、刻目文土器、突帯文土器で、量的には粗製深鉢が最も多い。突帯文土器は瀬戸内型一条甕(3)単純に近く、これに無刻一条甕が加わるのみで二条甕や砲弾型一条甕はまだ出現していない。口縁端部から下がった位置に突帯をめぐらしV字・D字刻目を刻む。頸部と胴部の境界を明確に区分するためにへラで沈線状の段をいれたり、爪形文をめぐらす。中部瀬戸内の一条甕の特色は、他の地域に比べて口唇部に刻目を施文することが多くその比率は50%にも達する。また口頸部にへラや爪を用いて文様をつける有文甕が顕著である。底部は丸底または凹底で注意を要する。
  Ⅱ期
 岡山大学学生寮や沢田式を標識とする。器種構成に壺が加わる。甕の組成は突帯文土器が主になっていてわずかに粗製深鉢と刻目文土器が伴う。突帯文土器は瀬戸内型一条甕(13)と瀬戸内型二条甕(17)、砲弾型一条甕(4・5)と器種が増加する。口縁部破片が多いので三者の組成比はわからないが、沢田遺跡の土坑資料は二条甕中心の組成である。口縁部の突帯は口縁端部からわずかに下がった位置にめぐらされるようになり、小ぶりになった刻目も登場する。口頸部と胴部の境界があまくなるもの(18)も出現する。口唇部刻目文は一条甕にはほとんど見られなくなり、二条甕はもたないものがほとんどである。二条甕の器形は一条甕とまったく同じで、へラによる段や爪形文が施文されていた部位に突帯を貼り付けて刻目を施文したものである。砲弾型一条甕の法量は、屈曲型の突帯文土器に比べて小形である。また甕の底部はそれまでの丸底や凹底から西部九州の平底へ変化する。壺はまだ数こそ少ないが、小形壺と大形壺がある。系譜的には無文土器系と縄文変容系の二者がある。Ⅱ期は甕の器種の増加や、底部の平底化、壺の出現にみられるように西部九州から早期水稲農耕が伝播する段階なのである。
  Ⅲ期
 この地域に遠賀川式土器が出現する。この段階に突帯文土器が存在するのは確実で香川では遠賀川式土器と突帯文土器が共伴する。岡山はまだよくわかっていないが津島南地点〔藤田,1982〕や、香川県大浦浜遺跡〔大山,1988〕では瀬戸内型一条甕の最終末型式と考えられる甕(15・16)や砲弾型一条甕(6・10)が遠賀川式土器とともに出土している。大浦浜遺跡の突帯文土器は、中寺・州尾遺跡と同じく早期突帯文土器(沢田式)と前期突帯文土器からなっている。津島南地点で遠賀川式土器と共に出土した突帯文土器は、二条甕を中心としたものである(19)。胴部は屈曲の痕跡を残しているとはいえ、口縁部は外に向かって大きく開くかたちをとる。沢田式の段階に衰えた口唇部刻目文が遠賀川式土器の如意状口縁の刻目の影響を受けて復活して、突帯の貼り付け位置も再び下がった甕が存在するなど、長原式とは異なった変化を遂げる。しかし砲弾型一条甕は、長原式と同じように変化するので、西日本における前期の突帯文土器は、器種によって個別の変化を遂げることが推定される。
  Ⅳ・Ⅴ期
 前期突帯文土器が大量に増加する。逆L字口縁甕として知られる瀬戸内甕(11)が遠賀川式土器と共伴し、そのあと徐々にその比率を増して、Ⅴ期になると甕組成のなかにおける遠賀川式系甕と突帯文土器の比率が逆転する大浦浜や中ノ浜遺跡〔藤好,1982〕もある。このあり方は早期の突帯文土器様式でなく、煮沸用土器として遠賀川式土器の甕組成に加わるものである。砲弾型の胴部をもつ甕の口縁端部に接して突帯を貼り付け、突帯上面が平坦になるようヨコナデ調整し刻目文を施文する。胴部上位にヘラ描き直線文を施文するのが一般的で、その条数は新しくなるにつれて増加する傾向にあるが西部瀬戸内ほどは多条化しないのが中部瀬戸内の特徴といえよう(12)。また直線文の下位に1ないし2列の列点文を組み合わせて多条化させた甕もある。


図20 近畿の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10

 三.近 畿(図20)

 大阪湾沿岸の摂津、河内、和泉、そして和歌山県を対象にする。

  先Ⅰ期
 滋賀里Ⅲb・Ⅲc式を標識とする。刻目文土器(1・5)や隆帯文土器の段階である。
  Ⅰ期
 滋賀里Ⅳ式を標識とする。器種構成は甕と鍵型口縁の浅鉢である。甕組成は粗製深鉢、刻目文土器、突帯文土器で恩智遺跡や鬼塚遺跡のデータによると粗製深鉢や刻目文土器が高い比率を占める。突帯文土器は瀬戸内型一条甕(6・7・16)単純に近く、二条甕や砲弾型一条甕はまだ出現していない(18)。底部は尖り底気味の丸底で、器面をケズリ調整で仕上げ、口縁部を面取りしたあとに口縁端部より少し下がった位置に突帯を貼り付けて、刻目を施文する。また口唇部に刻目をもつ場合もあり、大振りのD字やV字刻目を施す。滋賀里Ⅳ式の一条甕の口縁部付近は、家根のいうところの五段階仕上げで作られており、最も手間をかけて作っている。
  Ⅱ期
 口酒井式、船橋式を標識とする。器種構成に壺が加わる最大の画期である。突帯文土器の組成は一条甕(9)と二条甕(17・21)、砲弾型一条甕(8)である。一条甕と二条甕の比率は口酒井15次のデータによると9:1で一条甕が多い〔泉,1988〕。底部が平底化し新しい煮沸形態に変化したことを窺わせる。しかし、器形は瀬戸内型のままで、四国の西部のように西部九州型はなく、瀬戸内型の胴部に刻目突帯という文様要素だけを受け入れる。瀬戸内と同じ受容形態である。器面調整はⅠ期と変わらず、口縁部を成形した後に口縁端部から少し下がった位置に突帯を貼り付けて刻目を施文するが、口縁端部を面とりしない点と、口唇部に刻目を施文しない点、そして小D字刻みがあらわれる点に変化があらわれる。家根が示した三段階仕上げで作られており、Ⅰ期にくらべて口唇部刻目と口縁端部の面取りに手抜きがおこなわれている。壺は無文土器系と縄文変容系があるが、前者は小壺に限られ、大形壺は後者の深鉢変容型に相当する。
 この段階の突帯文土器様式にあらわれた一連の変化は、西部九州からの早期水稲農耕の伝播に伴うものであるが、壺にみられた搬入品と変容系の存在は、水稲農耕の伝播形態を考える上で、重要な視点となる。
  Ⅲ期
 長原式を標識とする。遠賀川式土器が出現する段階である。突帯文土器の組成は二条甕(18・22)と砲弾型一条甕(10・11)で一条甕は消滅している。二条甕と砲弾型一条甕の比率は4:1である。壺には無文土器系と、縄文変容系、大洞系がある。浅鉢の比率は5%以下でもはや縄文土器の組成ではなく、弥生化した前期突帯文土器の組成である。甕は瀬戸内型に混じって西部九州型がわずかに含まれる点が興味深い。胴部下半は削り調整で仕上げるが、胴部突帯から上はナデ調整で、刷毛目を使用しない点が注目できる。


(*)

口縁部の突帯は口縁端部まで上昇することで口縁部の成形と同じ工程でつくることが可能となり、突帯の断面形態がAやB(*)に変化する。刻目は小D、小V、小O字で小振りになる。浅鉢は黒色磨研土器とはいっても焼成と硬度の点でその範疇には含まれないといい、椀・皿形の浅鉢がみられる程度である。これらの突帯文土器は第Ⅰ様式古・中段階の土器に併行し共伴する場合も多い。


  Ⅳ期
 河内や摂津の近畿中心部では、突帯文土器を使用する集団が遠賀川式土器を使用する集団と占地を異にして生活を営んでいたが、突帯文土器自身の型式変化については不明な点が多い。水走遺跡出土土器が長原式の後続型式として考えられているが、器種構成は不明である。近畿の中心部から遠くはなれた紀ノ川流域やさらに南の田辺湾の周辺では、突帯文土器(12・19)を使用する集団が存在していたが、それ以外のほとんどの地域では遠賀川式土器を使用する集団との日常交渉の中で前期突帯文土器を使っていた集団は吸収されていったと考えられている。〔寺沢,1981〕。
  Ⅴ期
 山賀遺跡〔大阪府教委ほか,1984〕で瀬戸内甕が出土しているが(14・15)、甕組成に占める割合は数%にすぎず、瀬戸内地域からの持込みと考えられる。



 Ⅵ 突帯文土器の地域色


 一.地域色研究の視点

 弥生土器の地域色研究は、櫛描文様の有無によって区別された九州とか近畿とかの地域単位毎の差を「地域的様式差」として概念化した小林行雄にはじまる〔小林,1943b:122〕。その後、佐原眞が近畿地方の内部における中期弥生土器の地域色の解明をめざし、最終的には旧制の国の単位程度の広さにおける地域差の認識へ進んだ〔佐原,1962・1970〕。都出比呂志も第Ⅴ様式や第Ⅲ様式の地域色を抽出するにいたっている〔都出,1974・1983〕。地域色を認識する差異の指標には、「同一の「時間的様式」内における特定の器種の存否、あるいはその構成比、主流を占める文様の種類や施文手法、ハケメやケズリなど調整手法の違い」〔都出,1989:302〕などがあるが、対象とする地域単位の広さのとりかたによって各種のレベルがあり、もっとも有効な指標を探すのは容易ではない。また識別された地域色も特に小さな地域単位のレベルでは、明確な境界線をもってひきうる性質のものでなくなってくる場合が多い。地域色をかたちづくる個々の地域の実態については、土器製作技法の接触頻度の関係から説明され、都出はもっとも接触頻度の高い地域単位を「地域的小様式」と呼んでいる。また弥生土器の地域色の出自についても、すべての出発点が畿内地方において弥生土器が成立した時点に求められている。
 突帯文土器の地域色は、突帯文土器が成立する以前の地域色を反映したものと考えられ、そうした突帯文土器の地域色が水稲農耕開始による社会の変化を受けてどのような影響を受けたのか知ることは、弥生土器の地域色研究の出発点になる。この章は、突帯文土器の地域色を識別し各地域がみせた水稲農耕の受容形態から弥生文化の定着形態を知る基礎作業にあたる。


 二.早期突帯文土器の地域色

 1 早期突帯文土器の地域的様式差

 突帯文土器様式が存在する西日本は、亀ヶ岡式土器様式が存在する東日本と識別できるが、このうち伊勢を除く伊勢湾沿岸地域に突帯文土器様式が存在するのはⅠ期の段階に限定される。それは、主文様だった突帯文様が単位文様として壺や甕に用いられることで条痕文土器様式に取り込まれていくからである。したがって本稿では、近畿以西の突帯文土器の地域色をみていくことにする。この作業は佐原や都出が近畿の弥生土器を対象に地域色を検討した地域的小様式の識別を目的とするものである。まず、突帯文土器様式が分布する西日本には小林が識別したような「地域的様式差」が認められるのであろうか。
 はじめに、突帯文土器自身に目を向けると、近畿以西の突帯文土器には東と西に大きな器形差が存在し明確な線びきができる。すなわち屈曲型の突帯文土器には瀬戸内型と西部九州型という大きな器形差があって、瀬戸内型は東部九州から近畿にいたる範囲に、西部九州型は西部九州に分布するので、瀬戸内型の有無や、西部九州型の有無という指標で識別できる。この東西の器形差は、突帯文土器が成立する以前から存在したもので突帯文土器もその器形差を継承したにすざない。この器形差はすべての突帯文土器が砲弾型になるⅢ期新段階まで存在する。
 器形にみられた東西の地域差を裏付ける指標は他にもある。それらは屈曲型の器形差のように存否で識別できるほど強くはないが、比率で識別できるものである。先Ⅰ期とⅠ期における屈曲型と砲弾型の構成比率をみる。参考のために粗製深鉢と刻目文土器の構成比も提示した(表4)(19)。すると地域によって構成比が異なっていることがわかる。砲弾型がまさる西部九州と屈曲型がまさる東部九州以東との地域との違いは一目瞭然である。胴部形態は調理対象物の違いや調理具の使い分けを反映すると考えられる指標である。さらに突帯文土器の成立期から二条甕をもつ地域と、途中から二条甕をもつ地域の境界線もここに引くことができる。


表4 先Ⅰ期とⅠ期における砲弾型甕と屈曲型甕の比率




 このように近畿以西の突帯文土器様式には、瀬戸内型甕と西部九州型甕の存否、屈曲型甕と砲弾型甕の比率、一条甕と二条甕の分布や比率に大きな違いをみせる対照的な二つの地域差の存在が明らかになった。近畿以西の西日本を九州のほぼ中央で東西に二分する地域的なまとまりは、なにも突帯文土器様式に限られたものではない。縄文土器や弥生時代中期の櫛描文の分布においても地域差は存在し、同じところに東西の境界線を引くことができる。都出が弥生時代中期の土器の地域性を論じる際に規定した畿内地方と北部九州地方の関係、「畿内と北部九州という大きい地方どうしの間には土器製作技術の日常的交流は、中期には、ほとんどなかったことが大きな要因として働いているというべきであろう」〔都出,1989:308〕が早期の西部九州と瀬戸内�近畿地方の間にも存在したのである。すなわち突帯文土器様式の地域的様式差は西部九州と東部九州以東の地域の間に認められるのである。

 2 西部九州における地域的小様式

 i) 煮沸用土器の組成

 西部九州における煮沸用土器の組成は、すべての地域で同じ組みあわせを示しているわけではない。西北九州・唐津・福岡平野などの玄界灘沿岸ではすべての煮沸用土器がみられるが、佐賀と薩摩を除く有明海沿岸では祖型甕が欠落する。また佐賀と薩摩に祖型甕があるといっても板付Ⅰ式へ変化していくタイプではない。その意味で有明海沿岸が板付Ⅰ式の成立に関与していないことがわかる。有明海沿岸の突帯文土器の文様型をみると、西部九州にはもともとない組みあわせを除けば屈曲型で口縁部か胴部に一条だけ突帯を貼り付ける文様型は欠落し、特に佐賀・筑後・薩摩では多くの文様型が欠落することがわかる。
 このように煮沸用土器の組成からみると西部九州には突帯文土器の成立と展開にあたっての中心と周辺というまとまりが存在したことがわかる。すなわち煮沸用土器の量や変異型が豊富な島原半島や熊本、唐津、福岡平野などの中心地域と、それらに乏しく定型化した突帯文土器ばかりの佐賀、筑後、西北九州、薩摩などの周辺地域である。
 ii) 突帯文土器の甕組成
 Ⅰ期は砲弾型一条甕が主の福岡平野を除いて屈曲型の甕が主である。Ⅱ期もⅠ期と同様、甕組成は基本的に変化しない。Ⅲ期になると有明海沿岸は継続して二条甕を主とするが、玄界灘沿岸は板付Ⅰ式甕と屈曲型の突帯文土器が共伴する。板付Ⅰ式甕の器形は砲弾型であるが口縁部が外反するため、調理時の蓋使用に関して突帯文土器との使用法の違いが指摘されている。
 Ⅲ期の屈曲型突帯文土器は強く屈曲したり湾曲する器形は少なくなり砲弾型の器形に近づいている。早期の突帯文土器の胴部形態は福岡平野をのぞいて屈曲する甕を主としていたことを考えれば、縄文的な煮沸形態の終末的状況といえる。また砲弾型がずっと主流であった福岡平野でもこの時期になって初めて屈曲型の二条甕が主流となり、いままで主だった砲弾型一条甕が激減した理由は、砲弾型一条甕が担っていた役割が同じ砲弾型の器形である遠賀川式甕に吸収されたことを示している。そして二条甕と板付Ⅰ式甕の共伴は、調理法や調理対象物の面である種の使い分けがおこなわれていたことを意味するのである。
 このように早期の西部九州には、器形をまったく異にする突帯文土器が主流となる二つの地域ブロックが存在する。
 iii) 屈曲型甕の型式学的特徴
 西部九州の代表的な突帯文土器である二条甕を中心に、西部九州内の地域色を考えてみる。表5は、早期に属する西部九州の二条甕を対象に、刻目の施文法、口縁部に貼り付ける突帯の位置、器形という主要3属性がどのような組みあわせを示すか地域別にみたものである。数字は個体数をあらわし、数字を「〇」で囲んだものが各地の各型式のなかで最も多い組みあわせを示し、「△」で囲んだものは各期のなかでその地域にしか存在しない組みあわせであることを示したものである。


表5 西部九州の二条甕にみられる異変

屈痕
屈無









屈曲するもの
屈曲の痕跡を残すもの
屈曲がとれたもの
口縁部突帯の貼り付け位置
口縁部から突帯幅一つ分以上
下がった位置に張り付けるもの
口縁端部からわずかに
下がった位置に貼り付けるもの
口縁端部に接して貼り付けるもの
刻目の施文法
刺突刻み
押し引き刻み
弱く刻むもの

 Ⅰ期の最も多い組みあわせをみると、薩摩と福岡が一致している他は地域毎に別々で属性レベルでの地域色が強い段階と言えよう。しかし、Ⅲ期になると各地域とも砲弾型の胴部をもち口縁端部に接して突帯を貼り付け、押し引き刻目を施す組みあわせ(屈無、C、押)が最も多くなっていて属性レベルでは統一されている。このように西部九州の二条甕を属性レベルでみると、地域色が強い段階から斉一的な段階へと移行することがわかる。それでは、Ⅰ・Ⅱ期の地域色はどの属性に最も強くあらわれているのだろうか。Ⅰ期において最も多い組みあわせは刺突刻目で屈曲する器形をもつものだが、口縁部突帯の貼り付け位置に関しては福岡、薩摩はBで新しい傾向をもっている。Ⅱ期になると福岡だけが口縁部突帯をCに貼り付けるようになり他の地域も、Ⅲ期になってようやく口縁部突帯をCに貼り付けるようになる。この事実から刻目の施文法と器形が各地域おなじ歩調で変化するのに対し、口縁部突帯をどこに貼り付けるかという点においてはバラツキが多く、特に福岡平野では他の地域よりも早く突帯の貼り付け位置が上昇するという傾向を導くことができる。福岡の突帯文土器が新しい雰囲気をもつ一つの理由である。貼り付け位置が上昇すれば口縁部の成形と同時に突帯を成形することができ、作業工程の簡略化が可能となってくる。
 各期毎の特徴的な組みあわせは、Ⅰ期は有明海沿岸に、Ⅱ期とⅢ期は福岡平野に存在する。特にⅡ期とⅢ期の場合にどこが特徴的かというと、Ⅱ期は器形と口縁部突帯の位置が同じで刻目を異にする(屈痕、C、刺)。Ⅲ期は屈曲がとれた器形と口縁部突帯の位置Bが同じで、刻目を異にするものと口縁部突帯の位置Cと弱い刻目が同じで器形を異にしており、これらから考えると、刻目と器形に古い要素が残り口縁部突帯が早く変化するという、先ほどと同じ知見がえられる。しかも福岡平野に顕著な点まで一致している。組みあわせの豊富さを見ると有明海沿岸、唐津、福岡のように豊富な地域と、薩摩や西北九州のように乏しい地域があったこともわかる。
 このように二条甕を主な三つの属性に限って属性レベルで検討した結果、西部九州の二条甕が地域色の強い段階から福岡平野主導のもとに口縁部突帯の位置を上昇させることで斉一的な段階へと移行していく状況が明らかとなったり、有明海沿岸・唐津・福岡などの中心地域と、薩摩・西北九州などの周辺地域を識別することができた。


図21 西部九州の地域型甕模式図

 iv) 地域甕の設定(図21)

 西部九州の屈曲型甕の中には、口頸部形態、口縁部突帯と胴部突帯までの間隔、器面調整、器形変化に特徴をもつ地域型甕が存在する。
 福岡平野に特徴的な二条甕は、内湾する口頸部をもち突帯間の間隔は広くアナダラ属の貝殻条痕調整から板ナデ・刷毛目調整へと変化する甕(1)である。また器形は口頸部の形が内湾したまま胴部の屈曲を弱める方向で変化する(2)。この甕は全体的に繊細な雰囲気をもつので新しい印象を受ける。福岡平野を中心に分布し唐津や西北九州地域、薩摩などの外洋に面した地域にも点在している。このような特徴をもつ福岡平野の二条甕を「筑前型」と呼ぶことにする。
 有明海沿岸に特徴的な二条甕は、直線的に内傾する口頸部をもち突帯間の間隔は広い。条痕調整だが貝殻条痕ではなく板や植物質の原体を用いた条痕で、のちに板ナデやナデ調整に変化する(3)。器形の変化は大きな流れが二つ認められる。一つは口頸部が直線的な形態をたもったまま、さらに強く内傾したあと胴部の屈曲を弱めていく変化(4)と、外湾しながら胴部の屈曲を弱めていく変化(5)である。この甕は全体的に粗剛な雰囲気をもつので古い印象を受ける。福岡や唐津などの外洋に面する地域にはほとんど分布せず、内陸的な甕とでも言えようか。このような特徴をもつ有明海沿岸の二条甕を「有明海型」と呼ぶことにする。後述するが前期になると器形は砲弾型になり、突帯間の間隔が広い佐賀(6)や薩摩の甕と狭い亀ノ甲式甕(7)が見られる。刷毛目調整をまったくおこなわないのが有明海型の最大の特徴である。
 唐津平野のⅡ期およびⅢ期の古段階に主となる突帯文土器は、屈曲型の胴部をもち口唇部に刻目文、屈曲部に刻目突帯文をもつ甕(8)で西部九州の他の地域が二条甕を主とするのとは対照的であるうえに、口唇部は特別な手法を用いて整形している。口唇部を端正に面取りし平らな端面を明確に造りだした後、口唇部内面に強いヨコナデ調整を施し、この部分に凹線に似た窪みを巡らすものである(9)。このような特殊な調整をくわえた文様型の甕を「唐津型」と呼ぶことにする。
 以上のような西部九州の地域型甕以外にも、器形や文様、整形技法では明確に識別できないにもかかわらず、土器自身がもつ雰囲気とか表情といったレベルで他とは区別できる土器は存在する。たとえば福岡平野の板付遺跡の甕と有田遺跡の甕は、どちらの遺跡のものか識別できるものがある。このような違いをはたして地域色と言えるのかという問題もあるが、集団毎の違いを反映していることは事実でこのような差異をどのような指標をつかってどのように表現していくかが今後の課題である。
 v) 西部九州における突帯文土器の地域差と甕組成
 これまで二条甕を中心とする屈曲型甕の型式学的検討、地域型甕の抽出、突帯文土器甕組成などの指標を使って地域差を検討してきた。その結果、早期の西部九州は大きく二つのブロックにわかれることがわかった。
  有明海沿岸・唐津・西北九州・薩摩
 屈曲型の甕が突帯文土器の主となる地域ブロックで、地域型の甕として有明海型や唐津型がある。この地域ブロックは二つの地域にわかれる。二条甕の変異型が豊富で煮沸用土器は欠落する器種がないという、いわば突帯文土器の成立と展開にあたって中心的な地域であった有明海沿岸・唐津と、もう一つは二条甕の変異型が乏しく欠落する煮沸用土器が多いという、突帯文土器の成立と展開にあたって周辺的な様相をもつ西北九州と薩摩である。
  福岡平野
 砲弾型一条甕が主となる地域ブロックで、二条甕は筑前型が分布する。筑前型は西部九州の中では口縁部突帯の位置を他の地域に先駆けて最も早く上昇させる土器で、この変化が西部九州の二条甕にみられた地域差を地域差が強い段階から斉一的な段階へと転換させた現動力となったのである。
 以上の二大別は、佐原が畿内第Ⅱ様式を畿内周辺部と中心部に分けた2大別に対応するのか、もしくは同じ時期の畿内を北部と南部に分けた大別に相当するかのどちらかで、都出のいう地域的小様式には相当しない。

 3 近畿・瀬戸内における地域的小様式

 i) 煮沸用土器の組成>
 この地域の早期の煮沸用土器には、突帯文土器以外にも粗製深鉢や刻目文土器がある。ほとんどの地域では比率を別にするとすべてがみられるが、砲弾型刻目文土器だけはもっている地域の方が少なく近畿や吉備に限られる。しかしそれが祖型甕といえるかどうかといえば祖型甕とはいえず、内傾接合で縄文的な器面調整を施す縄文系に相当する。したがって現状では近畿や瀬戸内に砲弾型刻目文土器はわずかに認められても祖型甕はまったく存在しないと考えられる。
 突帯文土器の組成は、胴部だけに突帯を貼り付ける胴部一条甕は伊予を除いて存在しない他はほとんどの地域でそろっている。また文様型の変異型も西部九州に比べるとより豊富である。
 ii) 突帯文土器の組成比
 近畿や瀬戸内の突帯文土器の中で主体となる突帯文土器を抽出してみよう。Ⅰ期はすべての地域で一条甕が主になる。Ⅱ期になると、ほとんどの地域で二条甕が主となるが、豊後・伊予は一条甕のままである。このように主になる突帯文土器をみると、早期の間ずっと一条甕が主になる豊後や伊予と、一条甕から二条甕へと主になる突帯文土器がかわる地域が存在することがわかる。
 iii) 一条甕と二条甕の型式学的特徴
 西部九州ほど細かくは検討できないが、器形や文様および器面調整に若干の地域的な特徴を指摘できる。屈曲型は圧倒的に瀬戸内型であることは前にも述べたが、伊予に西部九州型一条甕が1点みられるのと、西土佐のⅠ期とⅡ期に西部九州型一条甕と西部九州型二条甕がみられ、特にⅡ期には西部九州型が瀬戸内型よりも多くみられる。また当然のこととして西部九州型の器面調整は東部九州的な特徴をみせる。文様は口唇部と口頸部に地域毎の特徴がある。まず一条甕の口唇部刻目文をみると豊後にはまったくみられないのをはじめ、豊前・東土佐・紀伊・畿内では20%にとどまるのに対して、周防・伊予・吉備の一条甕は50%の比率で施文されるという。参考までに西部九州の口縁部に突帯をもつ屈曲型の甕の口唇部にはいっさい施文されない。口頸部の文様も口唇部刻目の動向とほとんど同じで、豊前・土佐・紀伊ではまったく施文されず、豊後・伊予・近畿にわずかみられる他は吉備に偏っており、この伝統は前期突帯文土器まで継続する。
 このように西部九州に近いほど西部九州型の器形と器面調整が多く、文様的にも突帯文以外の文様は施さないという無文化傾向を指摘できた。


図22 近畿・瀬戸内の地域型甕模式図

 iv) 地域型甕(図22)
 iii)の型式学的な特徴をもとに地域型甕を設定してみよう。
東部九州型 瀬戸内型一条甕に属すが、屈曲部には段やヘラ描き沈線はなく口頸部のヘラ描き文や口唇部刻目文を基本的に施文しない甕で、長門・豊前・豊後の海岸部に分布する(1)。
吉備型 瀬戸内型一条甕、同二条甕に属す。文様的に豊富な甕である。屈曲部や湾曲部にはヘラで段をいれたり沈線を巡らしたり爪形文をまわしたりして、口頸部と胴部を明瞭に区別する。口唇部には刻目文を施し口頸部にへラ描きの沈線文をもつ甕(2)である。吉備や伊予を中心に分布し周防や近畿にもみることができる。
 v) 近畿・瀬戸内における突帯文土器の地域差と甕組成
 これまで近畿や瀬戸内を甕組成や屈曲型突帯文土器の型式学的検討や地域型甕を指標に地域差を検討してきた。その結果、早期の突帯文土器は大きく二つに分けられることがわかった。
  豊後・伊予・西土佐
 屈曲型一条甕が突帯文土器の主となる地域ブロックで器形や器面調整には西部九州的な特徴が強くあらわれる地域である。文様的には西部九州的な無文化傾向をもつ豊後や土佐と有文傾向が強い伊予にわかれるが、全体的に西部九州の影響が強く西部九州と近畿や瀬戸内の中間的な様相を示す地域ブロックと言えよう。
  豊前・周防・吉備・近畿
 屈曲型一条甕から屈曲型二条甕へと主となる突帯文土器が転換する瀬戸内北岸の地域ブロックである。器形的にはすべて瀬戸内型に属すが、東部九州型と吉備型にみられるような形態差をもっている。文様的には吉備が最も装飾が豊富で、東や西へ行くほど無文化傾向が強くとくに西部九州に近い豊前や長門ではまったく文様が無いといってよい状況である。

 近畿や瀬戸内でみた二大別は、西部九州でみた二大別と質的に同じで、地域的小様式までには至っていない。


 三.前期突帯文土器の地域色

 1 地域型甕の設定

 前期の突帯文土器にも、器形や口縁部突帯と胴部突帯までの間隔や器面調整、文様の面に特徴をもつ甕が存在する。前期の器形はすべてが砲弾型のため器種的には二条甕と砲弾型一条甕しかない。分布は二条甕が主体の西部九州と一条甕が主体の東部九州・瀬戸内にわかれる。
 西部九州では早期の有明海型二条甕が弥生化したものが主となる。亀ノ甲型や高橋Ⅱ式として有名な甕で刷毛目をいっさい使用せずナデ調整で仕上げ、刻目文や突帯文、1~2条の沈線以外はほとんど文様をもたない。前期末には底部が脚台化するという特徴をもつ。口縁部突帯と胴部突帯の間隔が広い佐賀や薩摩の二条甕(図21-6)と、狭い亀ノ甲型(図21-7)があり、特に後者の分布範囲は西部九州全体へと広がっている。このような特徴をもつ二条甕も「有明海型」と呼ぶことにする。
 西北九州に特徴的な前期の突帯文土器は、突帯間の間隔がひろくナデ調整を用い胴部は前期であるにもかかわらず湾曲しており、また口縁部突帯も口縁端部から下がった位置に貼り付ける(図21-10)。甕の組成に占める割合こそ少ないが薩摩にもみられ外洋的な分布をみせる。このような特徴をもつ前期の突帯文土器を「西北九州型」と呼んでおこう。
 大分県の大野川上・中流域には、きわめて地域的な発展をとげた突帯文土器が存在する。これは突帯文を駆使して口頸部に山形文やそのほかの文様を造形するものである(図22-3)。今のところ埋葬用の大形甕しか見つかっていないが、熊本県塔の原遺跡でも見つかっているので阿蘇の外輪山を中心とした山間部に分布の中心をもつ可能性もある。このような特徴をもつ甕を「大野川型」と呼ぶことにする。
 さて前期の突帯文土器の中で最も地域的な特徴をもつのは砲弾型一条甕である。西部九州に分布するのは有明海型で亀ノ甲型や高橋Ⅱ式として知られている。ただし、これは二条甕より少く甕組成に占める割合も低いので、これから述べる瀬戸内沿岸の砲弾型一条甕とは性格を異にしている。
 豊前の南部から豊後の海岸部にかけて分布する砲弾型一条甕は器種分類でも設定した「下城型」で、口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付け突帯の下位には文様を施文しない(図22-3)。口唇部に刻目文をもつものは成立期にみられる程度である。これには刷毛目調整を用いる甕もある。安芸や西土佐、伊予にもわずかではあるが確認されている。
 最後に吉備、讃岐、伊予、安芸を中心に分布する「瀬戸内型」がある。口縁端部に接して突帯を貼り付けるもので突帯の下位にヘラ描き沈線や刺突文、山形文を組みあわせて豊富に装飾する点は早期突帯文土器の吉備型甕の伝統を引いている(図22-5)。なかには沈線の数が十数本にも及ぶものもある。これは刷毛目調整を用いない点に特徴をもつ。西土佐や近畿にもわずかに存在する。

 2 前期甕組成にみられる四つの型

 弥生時代前期は遠賀川式土器の時代と認識されてきた。遠賀川式土器は如意状口縁の甕や壺、高坏をセットにもち、文様や器形に地域色は存在するものの九州から伊勢湾にいたる地域に分布する強い斉一性をもつ土器である。遠賀川式土器が斉一的であることの理由は短期間のうちにおこなわれた集団的・組織的な前期水稲農耕の伝播に求められてきたのである。
 前期水稲農耕の伝播に複数のルートと伝播形態が存在したことは最近の調査で明らかにされつつあり、それは従来の弥生前期観を一掃する内容をもつ。前期水稲農耕の伝播の実体を探る方法の1つに甕組成を調べる方法があり、筆者も遠賀川式甕と前期突帯文土器の組成比が地域によって異なる事実を、前期水稲農耕を開始するにあって各地域がみせた受容形態の差と考え、A・B・Cに類型化したことがある。〔藤尾,1987b〕。Aパターンは、前期を通じて遠賀川式甕が煮沸用土器の主体となる組成で、遠賀川式甕が甕組成に占める割合は90%以上に達する。玄界灘沿岸、周防灘沿岸、近畿地方がみせた前期水稲農耕の受容形態を反映したパターンである。Bパターンは、前期を通じて突帯文土器が煮沸用土器の主体となる組成で、突帯文土器が甕組成に占める割合は90%以上に達する。玄界灘沿岸を除く西部九州地方がみせた前期水稲農耕の受容形態を反映しているパターンである。Cパターンは、前期の中ごろまでは遠賀川式甕が煮沸用土器の主体を占めその比率は90%以上に達するが、後半以降は前期突帯文土器の比率が増し30%から90%に達する組成で、遠賀川式甕と突帯文土器の使い分けがおこなわれる。豊後、安芸、吉備、讃岐、伊予などの環瀬戸内地方がみせた前期水稲農耕の受容形態を反映したパターンである。
 しかしその後の調査の結果、新たな甕組成の存在が明らかになった。前期中ごろに遠賀川式甕と前期突帯文土器が1:1の割合で共伴する現象が伊予や土佐で確認されたのである。遠賀川式土器と突帯文土器との共伴は玄界灘沿岸でもみられるが、玄界灘沿岸の場合は早期突帯文土器との共伴である点が異なるところで注意を要する。また遠賀川式土器と前期突帯文土器の比率にこだわらなければ、共伴する遺跡はもっと増加し、福岡県石田遺跡、山口県綾羅木川下流域、岡山県津島南遺跡、香川県永井遺跡、同大浦浜遺跡、近畿の長原式など東部九州から近畿にいたる広範囲にみられる現象であることがわかる。さらに地域毎に異なったと考えた甕組成は、一つの地域の中でも遺跡毎に異なる場合が指摘されはじめている。たとえば近畿地方の前期遺跡から出土した甕の組成を調べた春成は、長原式だけを出土する遺跡、長原式が主で遠賀川式が従の出方をする遺跡、長原式が従で遠賀川式が主の出方をする遺跡、遠賀川式だけを出土する遺跡が存在すること指摘している〔春成,1990:68-73〕。近畿地方では遠賀川式を使う集団と長原式を使う集団が両極として存存し、それぞれが別の土器を使う集団と交渉・交流するその度合によって煮沸用土器の組成が集団毎に微妙な違いをみせると考えたのである。
 春成が示した四つのタイプと筆者が以前に示したパターンとの対応をはかると、長原式だけを出土する遺跡と長原が主の出方をする遺跡がBパターン、遠賀川式だけを出土する遺跡と遠賀川式が主の遺跡がAパターンに対応し春成の分類が一見きめ細かくみえるが、これは春成が第Ⅰ様式の古・中段階に限定しているからで、筆者のように前期水稲農耕の伝播の問題を考える場合には長い時間幅で考えることが必要となるので、以上の点を考慮して前期の甕組成を四つに再編成する。
  板付パターン
 遠賀川式土器が出現した当初には、早期突帯文土器と遠賀川式甕が1:1の割合で共伴するが、その直後から遠賀川式甕が主で前期突帯文土器が従の組成になる(約9:1)。玄界灘沿岸がこの甕組成を示す地域である。玄海灘沿岸はⅢ期古段階に早期突帯文土器(夜臼Ⅱb式)と板付Ⅰ式が共伴する。これ以降は両地域とも遠賀川式土器が主で、亀ノ甲式甕が数%入る程度である。
  亀ノ甲・長原パターン
 前期を通じて突帯文土器が主、遠賀川式土器が従の組成(9:1)である。西部九州の有明海沿岸と薩摩は地域全体がこの甕組成を示す。遠賀川式土器を使う集団は、この地域にほとんど進出しなかったと考えられる。近畿地方の長原遺跡や鬼虎川遺跡などはこの甕組成を示す遺跡で、早期から突帯文土器を使っていた集団の流れをくむ。遠賀川式土器を使う集団との交流において遠賀川式土器が入ってくるに過ぎない。
  今川・唐古パターン
 前期を通じて遠賀川式土器が主の組成を示し豊前・長門・周防と近畿の遺跡はこの組成を示す。遠賀川式土器を使う集団が進出先で営んだ遺跡がこの組成を示す可能性が高い。進出時は遠賀川式土器単純の組成をみせるが、やがて周辺の突帯文土器を使う人々との交流・接触を通じて前期突帯文土器が入ってくるに過ぎない。今までの弥生前期の遺跡の典型的な姿として考えられていた遺跡がこの甕組成を示すのである。
  瀬戸内パターン
 前期の最初の頃は遠賀川式土器単純に近い組成を示すが、後半以降は突帯文土器が3割以上みられる。豊後の海岸部や安芸・吉備・伊予・讃岐の地域的特徴と考えられる。遠賀川式土器を使う人々が進出した先で在他の突帯文土器を使う人々との密度の濃い接触・交流がおこった結果、突帯文土器の比率が高くなったのであろうか。
  土佐パターン
 前期突帯文土器と遠賀川式甕が1:1割合で共伴するが(20)、その直後から遠賀川式甕が主で前期突帯文土器が従の組成になる(約9:1)。東土佐にみられる甕組成である。



 Ⅶ 水稲農耕と突帯文土器


 一.土器の地域色と水稲農耕の受容形態(個別的対応)

 前章まで突帯文土器をさまざまな側面から検討してきた。早期には土器製作に関する日常的な接触交流が及ぶ範囲として、西部九州と瀬戸内から近畿という「地域的様式差」と判断できる二つの地域が存在し、さらにそれぞれの地域の中で旧国単位までとはいかないまでも中間的な地域ブロックを識別した。また前期には遠賀川式土器の伝播にともなってそれぞれの地域や集団がみせた受容形態の違いを反映したと思われる四つの甕組成を識別した。西部九州と近畿・瀬戸内の内部には指標のとりかたで幾つもの線びきが可能な地域色が存在する。特に水稲農耕を始めるにあたって地域や集団がみせた個別的な対応、すなわち稲作の受容形態はさまざまであったろう。突帯文土器を対象にした地域色の識別はⅤ章であげた指標がほとんどすべてといってよい。したがって突帯文土器を使って都出のいう地域的小様式に対応する地域色を識別するためには新たな指標をみつけてもちいるか、いまある指標を定量化することが必要である。今回は突帯文土器の地域色の識別をこれまで示したレベルにとどめ別の側面から研究を進める。
 突帯文土器は遠賀川式土器とならんで水稲農耕の開始に深くかかわっている土器なので、各地域が水稲農耕の受容にあたってみせた個別的な対応は、突帯文土器になんらかのかたちで残っているはずである。各地域がみせた個別的な対応という歴史的・社会的背景をもとに突帯文土器の地域色は生じたからである。逆にいえば、当該期における地域色研究の目的は水稲農耕の個別的な受容形態を明らかにすることである。したがって、突帯文土器の組成をもとにした地域性の認定はこの命題にせまるものと考えられる。その際にはⅤ章でみた甕組成や地域甕、型式学的特徴をもとに地域性を認定するが、土器以外の遺物や遺跡自身を含めて西日本を概観しておこう。


 二.突帯文土器以外の指標からみた地域色

 近畿以西の地域に壺が出現する時期をみると、西部九州では突帯文土器の出現時から壺が存在するが、無文土器そのものが存在したり機能差による器種分化をとげた壺の組成が完成している玄界灘沿岸や佐賀平野と、縄文変容系の壺が目だったり器種分化をとげていない有明海沿岸地域がみられる。また豊後も突帯文土器の成立時から壺が存在する可能性はある。豊後以東の瀬戸内・近畿ではⅡ期に壺が出現するが、縄文変容系の比率はかなり高く器種分化も進んでいない。
 石器や木製農具など水稲農耕と直接かかわる農工具はどうであろうか。早期突帯文土器の段階において大陸系磨製石器がセットで存在するのは玄界灘沿岸だけで、またⅡ期の近畿や瀬戸内にみられる石器は石包丁が単独で出土するほかは縄文時代からの石器組成を維持している。これらの地域では大陸系磨製石器がそろうのは前期以降、遠賀川式土器の出現期まで待たねばならず、なかには最後までそろわない地域もある。木製農具は石器に比べて見つかる可能性が少ないが、玄界灘沿岸地域では突帯文土器の成立当初から揃っている。そのほかの地域は香川県林・坊城遺跡でⅡ期相当の木製農耕具が見つかっている以外は不明である。紡錘車や鉄器は玄界灘沿岸に集中して見つかっている。
 このように突帯文土器以外の遺物を指標にすると、最初から水稲農耕にかかわる土器や農工具がセットで存在していた玄界灘沿岸と、一時期遅れて出現するうえにそのあり方はセットでなく単品で存在する有明海沿岸や近畿・瀬戸内が明らかとなった。
 集落や墓は早期段階の遺構が検出された例が西部九州に集中しているので近畿・瀬戸内と比較するには至っていない。ただ西部九州における遺跡のあり方をみると、突帯文土器以前の縄文的なあり方がかなり変化していることがわかる。特に集落に比べて比較的状況が明らかになっている墓の構造を例にとると、朝鮮半島の墓制である支石墓が出現することは言うまでもないが、埋葬専用の壺棺が出現したり墓域が集落とは分離されて造営されるようになり弥生的な遺跡構造がすでに完成しているといえる。


 三.各地の水稲農耕受容形態

 1 指標の説明

 本稿では近畿以西の西日本がみせた水稲農耕の受容形態をできるだけ細かい単位で類型化するための指標に、早期に主となる突帯文土器の種類と類型化した前期甕組成を選ぶ。それはこの二つが最も小さい地域単位で受容形態を識別できる指標となりうるからである。そこで二つの指標を重ねあわせると七つの受容形態を類型化できる。西日本はこの七つのうちのいずれかにあてはまる。その結果、受容形態を共通する地域的まとまりは「地域圏」として認識できる。本稿では地域圏にその地域を代表する型式名をかぶせて呼ぶことにする(表6)。


表6 地域圏の設定

早期の主な突帯文土器前期甕組成地  域  圏
砲弾型一条甕板付パターン夜臼・板付地域圏(福岡,早良)
二 条 甕山ノ寺・板付地域圏(唐津,西北九州)
亀ノ甲・長原パターン山ノ寺・亀ノ甲地域圏(有明海沿岸,薩摩,九州山地)
一 条 甕滋賀里・長原地域圏(紀伊,畿内の一部)
今川・唐古パターン長行・立屋敷地域圏(豊前,周防,長門)
滋賀里・山賀地域圏(畿内)
瀬戸内パターン下黒野・下城地域圏(豊後海岸部)
船ヶ谷・阿方地域圏(伊予)
前池・百間川地域圏(吉備・讃岐)
土佐パターン中村・田村地域圏(土佐)


図23 各地域圏の内容と壺形土器・大陸系
磨製石器・水田・環濠集落の出現時期

 図23は、各地域圏の内容と壺形土器・水田・大陸系磨製石器・環濠集落の出現時期を示したものである。まず項目の説明をしておこう。
 i)とii)は早期の甕の器形である。i)は突帯文土器が出現する以前の段階と突帯文土器の段階において、砲弾型と屈曲型の胴部のどちらが多いかを示したもの。ii)は屈曲型が西部九州型か瀬戸内型なのかを示したものである。
 iii)は前期甕組成の類型を見たものである。
 iv)は突帯文土器の文様型がどのように分布するか示したもので、「◎」は主となるもの、「〇」は存在するもの、「×」は現在までに出土が知られていないことを意味する。
 v)は壺、水田、大陸系磨製石器、環濠集落の上限が各地においてどこまでさかのぼるか可能性を含めて図示したもので、特に水田については水田址が検出されている場合は格子目であらわし、将来検出される可能性が高い地域は幅広の斜線で表現した。
 以上のようにi)からiv)は甕、v)は甕以外の土器、土器以外の遺物や遺跡を指標としたものであるが、項目はi)からv)の順に地域単位を広くとる指標から狭くとる指標がくるように並べているので、i)とii)で西部九州と近畿・瀬戸内を、iii)以降でそれぞれの内部の地域差を識別できるように配慮した。

 2 西日本の水稲農耕受容形態

 西部九州は日本で最初の水稲農耕が始まった地域だが朝鮮無文土器文化の影響を直接に受けた玄界灘沿岸と間接的に受けた有明海沿岸にわかれる。このような無文土器文化の影響の強弱は、水稲農耕とともに新しく縄文社会に持ち込まれた文化領域を中心にあらわれている。
  山ノ寺・亀ノ甲地域圏
 早期に西部九州型二条甕を主とし前期は亀ノ甲・長原パターンを示す地域圏である。早期と前期の全期間にわたって突帯文土器様式の分布圏で有明海沿岸と薩摩、九州山地が該当する。
 早期は、器種構成や大陸系磨製石器のあり方、支石墓の分布からみて代表的な小地域がある。島原半島と熊本平野は突帯文土器の種類こそ豊富に存在するが祖型甕は欠落する。壺や高坏は定型化してなく大陸系磨製石器も単発的なあり方でセットとしてはいっていない。支石墓は島原半島に存在する。この二つの小地域は西部九州の突帯文土器の成立と展開にあたって中心的な役割を果たした地域と言えよう。佐賀平野は埋葬遺跡から出土した土器をみる限りでは器種構成こそそろっているが突帯文土器は二条甕など定型化したものが目立ち、一条甕や胴部一条甕などは顕著でない。玄界灘沿岸に近いこともあって水稲農耕に関する情報は有明海沿岸の中では多い。薩摩は佐賀平野的な状況である。海を介して玄界灘沿岸との交流があったのであろうか。
 前期は、亀ノ甲型甕が中心となる。壺も高坏もようやく定型化するが石器や木器の完備はかなり遅れ薩摩でⅢ期後半、佐賀、熊本ではⅣ~Ⅴ期になる。Ⅲ期に佐賀でⅣ期に熊本で環濠集落が成立し農耕社会が完成したことがわかる。
 この地域圏は突帯文人が急速に水稲農耕を受け入れたものの玄界灘沿岸からの農耕集団の進出がほとんどなかったため〔後藤,1985〕、突帯文人による水稲農耕が彼らによって営まれたのであろう。
  山ノ寺・板付地域圏
 早期は西部九州型二条甕、前期は板付パターンの地域圏である。西北九州と唐津が該当する。早期は器種構成や突帯文土器ともそろい大陸系磨製石器や木製農具などの農工具も完備する唐津平野と、佐賀平野的なあり方を示す西北九州がある。ただし唐津では木製農具の未製品が見つかっていない点に注意を要する。支石墓はいずれにも分布している。唐津には唐津型甕が分布しⅢ期の甕組成に占める割合は平均60%を超え板付甕との使い分けがおこなわれる。前期、唐津平野では福岡平野とともに農耕社会が発展するが環濠集落はいまだ見つかっていない。また亀ノ甲型甕はⅤ期になるまで入らず前期突帯文土器はない地域圏である。
  夜臼・板付地域圏
 早期は砲弾型一条甕、前期は板付パターンを示す地域圏である。福岡平野が該当する。Ⅲ期に西部九州型二条甕と板付甕が共伴し使い分けがおこなわれる。突帯文土器の器種も豊富で器種構成や石器組成、農工具も完成しているが支石墓だけは欠落する。
 前期初頭に日本ではじめて環濠集落が成立し集落と墓地も分離して営まれていることから早期からの蓄積をもとに完成・定着した農耕社会の姿をみることができる。Ⅳ期になって山ノ寺・亀ノ甲地域圏から亀ノ甲型がはいり、のちの遠賀川以西系の土器様式をつくる基盤が固まる。
  長行・立屋敷地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕から瀬戸内型二条甕に転換し前期は今川・唐古パターンを示す地域圏である。筑前東部(宗像以東)から豊前北部、長門・周防が該当する。玄界灘沿岸と瀬戸内や近畿をつなぐ中間地帯にあることから早期および前期水稲農耕の伝播を考えるにあたって重要な役割を担った地域圏と思われるが詳細はわからない。Ⅲ期新段階には遠賀川式土器を使う集団と突帯文土器を使う集団が接触したことを示す、遠賀川式土器と突帯文土器が共伴した遺跡が増加している。しかしその後は遠賀川式土器を使う集団と突帯文土器を使う集団が接触した様子はわずかに認められる程度で、Ⅴ期になって遠賀川以西系の甕がはいる程度である。
  下黒野・下城地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕で前期は瀬戸内パターンを示す地域圏である。豊前南部と豊後の海岸部が該当する。早期および前期の前半までは欠落する器種や農工具も多く、本格的な水稲農耕が始まるのはⅣ期以降と考えられる。
  船ヶ谷・阿方地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕で前期は瀬戸内パターンを示す地域圏である。伊予や安芸が該当する。早期は壺の器種分化もみられ器種構成は整っているが、農工具は大陸系磨製石器そのものはなく縄文時代以来のサヌカイト製剥片石器が顕著である。この地域の早期水稲農耕に関する情報のあり方はきわめて選択的で、壺は入っているにもかかわらず農工具は縄文時代からの道具を改変して使っている。前期には前期突帯文土器と遠賀川式が共伴するところもあって、早期からの突帯文人と前期に移住してきた遠賀川人が協同して集落を営んでいることがわかる。このことからこの地域圏では、突帯文土器を使う集団が遠賀川人をうまく取り込んで水稲農耕を発展させていった。このことが突帯文土器の流れをくむ瀬戸内甕を組成的には遠賀川式甕にまさる土器へと発展させることにつながったのである。
  中村・田村地域圏
 早期、前期とも西部九州の影響が強い地域圏である。早期は瀬戸内型一条甕、前期は土佐パターンを示す地域圏である。四万十川流域では西部九州型一条甕、同二条甕の比率が高い。しかしその一方で壺の比率は低く大量の打製石斧が存在することと考えあわせれば、水稲農耕を他の生業にもましておこなっていた可能性は低い。
 Ⅲ期新段階になって前期水稲農耕が伝播する。四万十川流域では早期最終末の突帯文土器である入田B式と遠賀川式土器が共伴し高知平野では前期突帯文土器と遠賀川式土器が共伴する。しかしこの二つの現象が意味するものはまったく異なる。早期突帯文土器との共伴は一見、夜臼式と板付Ⅰ式の共伴と同じにみえるが、玄界灘沿岸では環濠集落が成立していることからみれば、水稲農耕社会の内容に大きな開きが予想される。最近は入田B式は遠賀川式土器と伴わないとする意見が出始めているので、入田B式の共伴現象は在来者と移住者の集団差を反映した可能性もある。一方前期突帯文土器との共伴は九州の石材で作られセットで存在する大陸系磨製石器や田村編年の前Ⅱ期における環濠集落の成立から考えれば、九州から進出してきた遠賀川式土器を使う集団と前期突帯文土器を使う集団がともに生活を営んだものとも考えられよう。
  前池・百間川地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕から瀬戸内型二条甕へ転換し前期は瀬戸内パターンを示す地域圏である。吉備や讃岐が該当する。
 早期水稲農耕の伝播の際には情報の断片的な選択にとどまったので大量のサヌカイト製剥片石器と打製石斧からなる石器組成や、胴部突帯という文様だけを取り入れた瀬戸内型二条甕などにこの地域圏の独自性を認めることができる。石器に関しては前期も同様で磨製石器を拒否するという選択的な受容形態に、備讃地域の集団間の強い結び付きをうかがえる〔平井,1989〕。そしてその強い結びつきが遠賀川式の甕さえも組成的に凌賀する瀬戸内甕を生み出す基盤となるのである。
  滋賀里・山賀地域圏、滋賀里・長原地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕から瀬戸内型二条甕へ転換して同じ組成をとるが、前期は今川・唐津パターンと亀ノ甲・長原パターンが集団毎にみられる地域圏である。近畿が該当する。前期において一つの地域に二つの甕組成が明らかになったのは遠賀川式土器を使う移住者集団と突帯文土器を使う在来者集団が確認されているからである。早期には水稲農耕の伝播にともなって突帯文土器を使う集団のなかに、水稲農耕を受け入れた人々と、受け入れなかった人々が生じた。ただし、両者の違いは生業の中に水稲農耕が加わるか加わらないかの違いだけで、前者の場合も水稲農耕を中心とした生活に転換したわけではなかった点に注意しておく必要がある。器種構成や石器組成、木製農具のあり方は吉備と同じで選択的である。
 ところがⅢ期新段階の前期水稲農耕の伝播は遠賀川式土器を使う集団の進出をともなっていたので、それまでの集団関係を一変させることになった。すなわち生業基盤の中心に水稲農耕をもつ移住者集団、早期からの水稲農耕民、生業に水稲農耕を加えない集団の三者が同じ地域に占地することになったのである。これらを考古学的に識別するためには、前期突帯文土器と遠賀川式土器の比率や石器や木器の未製品と製品の遺跡毎の分布、土偶の存在などが指標となる。遠賀川式土器単純、もしくは主となる組成が今川・唐古パターンを示せば、遠賀川式土器を使う移住者集団と位置づけられよう。逆に長原式単純、もしくは主とする組成が亀ノ甲・長原パターンを示せは突帯文土器を使っていた在来者集団と位置づけられる。しかしこの集団が稲作民か非稲作民か、または水稲農耕が生業のどの程度まで占めていたかについては農工具や土偶などの遺物から判断する必要がある。
 西日本の中で生業を異にする遺跡の識別が可能なのは近畿地方だけだが、将来的には岡山や四国、九州でも確認していかなければならない。その意味で地域圏として認識してきた七通りの地域圏は、偶然に調査されたある集団差をその地域全体の傾向として代表させてしまった可能性もあるので前提的な作業として理解していただきたい。
 つぎにⅠ期から順をおって甕組成の変化と水稲農耕の広がりを中心に、各地域がどのような対応をみせていくのか検討してみよう。


図24 Ⅰ期 突帯文土器の成立と水稲農耕の開始
(一条甕と二条甕の分布模式図)

  Ⅰ期(図24) 突帯文土器の成立と水稲農耕の開始

 西日本に突帯文土器様式が成立する。突帯文土器の成立と水稲農耕の開始は一致せず後者がわずかに遅れる。その関係で基本的な器種構成が地域圏によって異なり、東部九州より東の地域では甕と浅鉢、西部九州では甕、壺、浅鉢、高坏からなる。図には甕と壺、高坏しかのせていない。
 東部九州以東の普遍的な突帯文土器は瀬戸内型一条甕だけで、尖定または丸底の底部をもち口唇部の刻目文やへラ描き沈線で華美に装飾する吉備型甕や、同じ器形だが平底で突帯文以外の文様はほとんどつけない下黒野型甕、刻目をつけない突帯文土器の土佐甕がある。水稲農耕が存在した証拠はまだみつかっていないが、西部九州に近い東部九州や伊予ではこの時期まで水稲農耕がさかのぼる可能性は残されている。
 西部九州では、突帯文土器が成立したときから水稲農耕を営なんでいたと考えられる。しかし水稲農耕の内容は一様でない。山ノ寺・板付地域圏や夜臼・板付地域圏は朝鮮無文土器文化とほとんど同じ道具を使い同じやり方で同じ思想にもとづいて水稲農耕を営んでいた。器種構成には、定型化した無文土器系の壺、組成率の低い浅鉢、祖型甕や朝鮮無文土器系甕といったかたちで反映されている。突帯文土器も西部九州型一条甕、同二条甕、砲弾型一条甕がそろい底部は平底である。一方、山ノ寺・亀ノ甲分布圏では水稲農耕をおこなっていた状況証拠はあるものの、定型化していない壺や高い浅鉢の組成率、セットで揃っていない大陸系磨製石器からみると、突帯文土器を使っていた人々による水稲農耕の姿が想像される。
 突帯文土器の組成は地域圏毎にかなり異なっている。山ノ寺・亀ノ甲地域圏と山ノ寺・板付地域圏では有明海型甕に代表される西部九州型の二条甕が最も多く、夜臼・板付地域圏では砲弾型一条甕が最も多く使われており西日本の中でも異色である。この突帯文土器にみられる甕組成の違いは壺と浅鉢の比率とも相関がある。二条甕が多い地域圏では、壺が低く浅鉢が高い比率をみせるが、砲弾型一条甕が多い地域圏では壺の比率が高く浅鉢の比率が低い。全生業に占める水稲農耕の割合が低く他の生業と同じ位置づけがされていた山ノ寺式分布圏と、他の生業とは一線をかくし水稲農耕に全面的に依存していた夜臼式分布圏の違いを反映したものと考えられる。
 西部九州では突帯文土器の出現時からはじまる遺跡が圧倒的に多く、突帯文土器以前から継続する遺跡はほとんどみられない。逆に黒川式の段階で消滅し突帯文土器の段階までは続かない遺跡も多いのである。水稲農耕の開始や支石墓の出現に代表される外来文化の波及が遺跡の動向に反映されたものであろうがその形態はさまざまであったろう。近畿や瀬戸内の遺跡の消長をみると西部九州とは異なっていることに気づく。これらの地域では突帯文土器が成立する以前から継続して常まれる遺跡が多く、突帯文土器の段階から水稲農耕の状況証拠があらわれる。しかしこれらの遺跡は西部九州のようにそのまま遠賀川式土器の段階までは継続しない。西部九州において晩期末から早期初頭にみられた遺跡の断絶が、近畿や瀬戸内では早期末から前期初頭にかけてみられるのである。このことは早期と前期の二回にわたってみられる水稲農耕の伝播を考えるとき興味深い事実となる。
 Ⅰ期は縄文時代からの地域性そのままに突帯文土器の文様面に地域色を発現した近畿・瀬戸内と、水稲農耕の開始によって突帯文土器だけにとどまらずあらゆる面に地域色が発現した西部九州が対照的な様子をみせた段階と言えよう。


図25 Ⅱ期 西部九州系突帯文土器の東進と
早期水稲農耕の伝播
(一条甕と二条甕の分布模式図)

  Ⅱ期(図25) 西部九州系突帯文土器の東進と早期水稲農耕の伝播

 西部九州で始まった水稲農耕が瀬戸内や近畿に伝わる時期で、これらの地域に西部九州系の要素が強くあらわれる段階である。早期水稲農耕の伝播には伝播ルートや質的に異なった伝播形態が複数存在したとみえて多くの受容形態が存在した。
 近畿・瀬戸内にあらたに出現する突帯文土器には二条甕と砲弾型一条甕があるが、これらのはいりかたは地域圏毎に異なる。豊前南部・豊後・伊予・土佐東部は二条甕をほとんど受け入れず砲弾型一条甕を中心に受容し、周防・吉備・讃岐・近畿は二条甕と砲弾型一条甕を受容する。甕の底部はすべて平底化する。したがって近畿・瀬戸内は一条甕から二条甕に転換する中国・近畿と、一条甕のままの豊後と四国西部がある。壺がこの地域にも出現するのもこの段階で大きな画期だが、器種構成に占める割合はどこも10%程でしかも無文土器系と縄文変容系からなっている。もちろん法量毎の分化も未完成だが無文土器系に小壺が縄文変容系に大形壺が目立つ点は興味深い。大陸系磨製石器はセットで出ることはなく石包丁が出土する程度で、なかには打製の石包丁様石器で代用するところもある。木製農具はまだ一遺跡だけの出土ではあるが弥生的である。早期水稲農耕の受容形態は水稲農耕に必要な道具でも縄文以来の道具で代用できるものは代用するか、若干の改変をくわえることで使用する。どうしても在来の道具でたりないときには新しい道具を受け入れる。早期水稲農耕の実態とふかくかかわる問題である。
 西部九州では、Ⅰ期とめだった違いはない。壺の比率が増すとともに浅鉢の比率がさらにさがり甕や壺に刷毛目調整が顕著になる。
 近畿・瀬戸内は水稲農耕の伝播にあたって、Ⅰ期における有明海沿岸となんら変わりないきわめて選択的な受容をみせている。二条甕が出現するといっても西部九州の二条甕が動いたと考えられるのは土佐西部だけで、それ以外の地域の二条甕は胴部に突帯文をめぐらすという文様レベルの情報が動いたにすぎない。瀬戸内型一条甕の胴部に突帯を貼り付けたにすぎず、そこは本来、段や爪形文や沈線文が施文されていた部位なのである。これは大規模な集団によって稲作が持ち込まれたというよりも、大規模な人の移動をともなわない稲作情報の伝播といった形態に近いのではないかと考えている。


図26 Ⅲ期 板付Ⅰ式土器の成立と
前期水稲農耕の伝播
(前期甕組成からみた西日本の模式図
/環濠集落は報告の原図を改変)

  Ⅲ期(図26) 板付Ⅰ式土器の成立と前期水稲農耕の伝播

 山ノ寺・板付地域圏と夜臼・板付地域圏に板付Ⅰ式土器が成立する。この時期の器種構成は、突帯文・板付両様式とも甕・壺・高坏・鉢をもっているが、甕と浅鉢は突帯文土器、壺と高坏と鉢は板付Ⅰ式土器が比率的にみると多い。突帯文土器の組成は二条甕が主でⅡ期まで砲弾型一条甕が主であった夜臼・板付地域圏も二条甕が主になる。つまり早期突帯文土器と板付Ⅰ式土器の共伴現象は、屈曲する胴部をもつ二条甕と板付Ⅰ式甕との使い分けによって説明でき、調理対象物や調理法の違いが器形を異にする甕の使い分けを必要としたと考えられる。このようにみてくると板付甕の成立はコメを調理する道具の完成と見なすこともできよう。しかし、その一方で環濠集落を成立させるだけの農耕社会を完成させていながらも、コメ以外の食糧に依存した初期水稲農耕社会の姿をみることができる。早期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴現象の中にこそ真実があるのである。この点で四国にみられた前期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴現象とは質的に異なっている。夜臼・板付地域圏の共伴現象は稲作の開始から150年をへて環濠集落が出現し農耕社会が成立した社会での現象なのである〔藤尾,1990b〕。
 玄界灘沿岸において、早期の水稲農耕文化を母体にうまれた板付Ⅰ式文化は無文土器文化の影響なしには成立し得ないが、土器や石器などどれ一つをとってみても無文土器文化の内容と完全に同じではない。玄界灘沿岸は朝鮮半島に接していることもあって昔から結び付きは強く、直接持ち込まれたと思われるものも数多く存在する。玄界灘沿岸から遠くなればそれだけ朝鮮半島の情報も乏しく断片的になるのは当然で、情報の担い手になる集団の規模や接触の頻度が絶対的に低くなるのは想像にかたくない。Ⅱ期において近畿�瀬戸内にみられる無文土器文化の文物に無文土器系壺があるが、これなどは種籾を入れて移動したものと考えることもできる。とくに農耕具や加工具においては単品の出土にとどまっている。したがって近畿�瀬戸内においては玄界灘沿岸と同質の朝鮮無文土器文化の波及は考えにくく、突帯文人主体の稲作をおこなっていた可能性が高い。
 新段階になると、近畿・瀬戸内に遠賀川式土器が出現し前期水稲農耕が伝播する。今度は早期水稲農耕の伝播の時とは異なり各地でさまざまな受容行動がおこる。山ノ寺・亀ノ甲地域圏には大陸系磨製石器を含む水稲農耕の道具がもたらされるが、板付系の甕だけは10%にみたず甕組成は亀ノ甲・長原パターンである。甕は動かないが道具は動くというこの現象は板付式土器を用いる集団の進出が少なかったことを意味し、突帯文人による水稲農耕が営まれたことを予想させる。
 長行・立屋敷地域圏や前池・百間川地域圏、滋賀里・山賀分布圏では、遠賀川式土器と前期究帯文土器が共伴したり、共伴しなかったりする。遠賀川式土器にともなうのは一条甕系の突帯文土器で、その比率は10%以下である。最近までは晩期の突帯文土器が残存したか持ち込まれたものとの判断が大勢であったが、現在では遠賀川式土器を使う集団の周辺に居住していた突帯文土器を使う集団との日常的な接触・交流によって混ざりこんだものとする説が有力になってきた。つまり従来は時期差と考えたのに対し、同時に存在した集団差と理解するものである。そうであるなら、長原遺跡のような遺跡がこれらの地域にもっと見つかってもいいはずなのに例はまだ少ない。遠賀川式土器を使う集団とは生活基盤を異にするため占地がまったく違うのであろうか。またこれらの地域圏は早期において二条甕を受け入れた地域圏と完全に一致している点も見逃してはならない。情報や人が伝わる場合の最も太いルートなのであろうか。
 船ヶ谷・阿方地域圏と中村・田村地域圏では、遠賀川式土器と前期突帯文土器が共伴する。共伴する突帯文土器は砲弾型一条甕系の前期突帯文土器で、遠賀川式甕との比率は1:1という。夜臼・板付分布圏における前期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴は器形を異にすることから使い分けを想定したが、こちらの場合は器形は同じで違うところを探せば蓋の使用法が異なる程度である。しかし、この共伴現象は、早期に突帯文土器を使っていた人々みずから変化させてきた前期突帯文土器と遠賀川式土器が共伴することを意味する。したがってもともとその地に居住していた突帯文人と前期になって新たに進出してきた遠賀川式土器を使う集団との関係が相当強いものであったことを予想させる。もし前期突帯文土器と遠賀川式土器の比率を気にしなければ春成が大阪平野で指摘したように、両集団の日常的な接触・交流で説明できる場合もあろうが、この場合は比率が1:1のため別の説明を要する。移住者もしくは在来者が一方の集団を相当数とりこんだ場合なども想定できようが今のところはこれという回答を持ちあわせていない。
 滋賀里・長原地域圏では、二条甕を主な甕としてもつ突帯文土器様式を有し前期甕組成は亀ノ甲・長原パターンである。長原式を使用する集団は早期に稲作をおこなっていた集団の流れをくむ可能性があるが(21)、生業全体の中では狩猟や採集といった縄文時代からの生業と同じ程度に稲作を位置づけていたと考えられ、最後まで水稲農耕を全生業の中のトップに位置づけることに対して抵抗した集団である。彼らは土偶や石棒といった縄文的な習俗を保ちながらも浅鉢はほとんどもっていない。遠賀川式土器を使う集団とは日常的に接触・交流を保っていたと考えられる。まさに縄文から弥生の過渡期に位置する人々であった。彼らはやがて周辺の遠賀川式土器を使う集団と融合・同化していく。
 前期水稲農耕の伝播は早期水稲農耕の伝播とは根本的に異なっている。水稲農耕関連遺物の組みあわせや集落や墓地の営まれかたからみて、集団的・組織的で大がかりな集団移住が行われた可能性が高い。集団移住の背景については送り手側の事情による意見が多い。集団移住の内容や移動ルート、移住先での突帯文人との接触の仕方はさまざまだが共通しているのは近畿・瀬戸内にもたらされた水稲農耕文化は板付Ⅰ式文化に代表されるよう文化複合体とはかならずしも同質でないということである。この違いが移住した側に起因するのか移住先の突帯文人との接触の過程で生じたのか即断はできない。前期水稲農耕の伝播に際して受け入れ側の地域や集団がみせた受容形態の違いにかかわってくる。


図27 Ⅳ・Ⅴ期 前期突帯文土器の定型化と
中期土器様式の成立
(前期甕組成からみた西日本の模式図
/環濠集落は報告の原図を改変)

  Ⅳ期(図27) 前期突帯文土器の定型化と中期土器の萌芽

 山ノ寺・板付地域圏、夜臼・板付地域圏、長行・立屋敷地域圏、中村・田村地域圏、滋賀里・山賀地域圏は遠賀川式土器単純の組成で今川・唐古パターンを示す。前期の突帯文土器が存在する地域もあるが、これは地域圏外の亀ノ甲・長原パターンを示す地域や瀬戸内パターンを示す地域からもたらされたものにすぎない。しかし、このようにしてもたらされた突帯文土器は、遠賀川式土器と積極的に融合して中期甕の祖型となる甕を創造し始める。また、前池・百間川、中村・田村、滋賀里・山賀地域圏には環濠集落や方形周溝墓が成立し、前期社会が一定の水準に達して農耕社会が成立する。
 山ノ寺・亀ノ甲地域圏と滋賀里・長原地域圏はⅢ期同様に亀ノ甲・長原パターンを示し、砲弾型二条甕を主な甕とする。各地には佐賀型や亀ノ甲型などの地域型甕が存在する。
 下黒野・下城地域圏と船ヶ谷・阿方地域圏、前池・百間川地域圏は、瀬戸内パターンを示す地域で砲弾型一条甕を主な甕とする。各地域圏には特徴的な地域型甕が存在し、下城型、瀬戸内型甕に代表される。遠賀川式土器一色であった土器様式も弥生土器へと転換を遂げた突帯文土器の登場によって中期土器様式構造の基盤が固まる。これも移住者と在来者の接触と交流の中で理解できよう。

  Ⅴ期 前期突帯文土器から中期土器へ


 西日本は中期社会にはいる。弥生時代開始の画期が水稲農耕の始まりという経済的なものであったのに対し、青銅器の国内生産や墳墓への青銅器副葬が始まる点は、政治的側面の画期として理解できる。後藤直は「弥生社会が自らの要求に基ずき、自らの中から交渉担当者を選んで彼地へ派遣し、また無文土器社会からのいわば「使節」を受け入れることによって成り立つ関係であった」と表現し、それ以前の無文土器社会から弥生社会へという一方的な関係からの脱却をはかるまで成長した弥生社会の姿を指摘した〔後藤,1980〕。西部九州では前期突帯文土器と板付・遠賀川式の融合による遠賀川以西系土器(城ノ越式)〔田崎,1985〕の成立、近畿における大和型・播磨型・紀伊型・近江型などの中期地域型甕の成立に代表されるように、在来者と移住者の関わりのなかで日本独自の農耕文化=弥生文化は完成するのである。



 Ⅷ おわりに


 突帯文土器は、水稲農耕の開始にともなって各地域がみせた対応の実体をもっとよく反映する考古遺物である。したがって各地の突帯文土器に関するさまざまな特徴を検討して地域色を識別することは、各地が水稲農耕に対してみせた地域的対応を知るのに有効な手段である。
 早期に玄界灘沿岸ではじまった水稲農耕は、朝鮮半島に系譜を求められるものであるが、水稲農耕に関する文化複合体のすべてがみられるわけではない。たとえば、煮沸用土器は玄界灘沿岸の突帯文土器を使用した。突帯文土器は縄文土器に伝統的な製作技法で作られていることから、土器作りが女性の仕事であることを考え合わせれば、在来者の関与は間違いない。しかしわずかに無文土器の製作技法で作られた甕が数%の割合で存在する事実は、在来の甕を大量に使用しながらも無文土器的な煮沸用土器も準備されていたことを予想させる。こうして出来あがった土器が板付Ⅰ式土器であるわけだが、無文土器の製作技法を選択的に採用して作ったとしても、外見や文様はもはや無文土器とは似て非なる土器になっている。そこに実用的な部分は無文土器の技術で、非実用的な部分には在来の伝統がうまく使い分けられて作られた板付Ⅰ式土器の姿がある。
 早期のうちに九州から近畿にかけての広い地域に水稲農耕は伝わるが、玄界灘沿岸ですべてそろっていた弥生文化の要素は九州以外の地域では部分的にしかみられないにもかかわらず水田が営まれている。大陸系磨製石器や農耕の土器のセットが完全でないところに早期水稲農耕伝播の実態がありいくつかの可能性が推測できる。一つは、水稲農耕の情報が縄文時代から機能していた情報ネットワークにのって伝播した可能性がある。森貞次郎のいう縄文的稲作農耕の伝播である〔森,1982〕。もう一つは、受け入れ側の強い規制が存在し稲作は受け入れても技術や道具、思想などは厳しい選択がおこなわれた可能性である。稲作を中心とする弥生文化に対する縄文側の自己防衛がすさまじかったことがわかる。土偶や高い比率の浅鉢は、縄文的な道具をもちい縄文祭祀を活発におこなうことによって自らの集団の精神的な紐帯を高め引き締めてアイデンティティの確認がおこなわれたことを意味している。いずれにしても、九州以外の地域には早期水稲農耕を受け入れた集団といっても、水稲農耕を生業の基盤にすえ、稲作を中心とした生活に傾斜していく動きはなかったのである。早期から前期に継続する集落がまだ少ない事実もこれをものがたるものと言えよう。
 玄界灘沿岸以外の稲作社会は、前期になっておこるあらたな稲作集団の移住によって成立する。環濠集落を成立させるほどに発展を遂げた玄界灘沿岸は、人口増による可耕地の拡大が早急に迫られていたと考えられる。フロンチィアたちは九州を南下せずに東へ東へと進む。前期水稲農耕の伝播である。遠賀川人が移住先で営んだ集落の土器組成は基本的に遠賀川式土器単純で在来者となんらかのかたちでかかわれば突帯文土器と共伴する。そのかかわりかたの違いは、突帯文土器と遠賀川式土器の組成比で判断できる。田村や中寺・州尾のように1:1の遺跡もあれば、数点の突帯文土器が混じる程度の遺跡までさまざまである。しかし遠賀川人がかかわった在来者はほとんどの場合、早期に稲作を経験していた模様で、それは共伴する突帯文土器がすべて前期突帯文土器であることからもわかる。早期以来の経験が素地にあったことが前期水稲農耕の急激な普及を容易にした原因の一つなのである。
 この段階の遠賀川式土器には地域色はほとんど認められないが早期突帯文土器の地域色がすべて反映されている。玄界灘沿岸のⅢ期新段階の甕が口唇部の刻目を口縁端部の下端に施文するのに対し、それ以外の地域では板付Ⅰ式甕の特徴である口唇部全面刻目のままである。そして前期末にかけて口唇部全面刻目が使われ続ける。この例は西部九州と近畿・瀬戸内という地域的様式差に対応するもので他にも器形や文様などにみることができる。また如意状口縁の甕は胴部に段や刻目を施文し在来の突帯文土器と盛んに接触する。
 Ⅳ期に前期突帯文土器の地域型甕が完成するが、遠賀川式甕も地域色が顕著になってくる。この地域色の地域的な単位は、早期突帯文土器にみられた地域色の地域単位とまったく同じであることは興味深い。今川・唐古パターンを示す地域においては、これらの伝統が甕にあらわれるかわりに、壺の文様というかたちになって登場する。木葉文に代表される縄文からの伝統的な文様で華美に飾られた壺である。
 前期末から中期になると、西部九州では遠賀川以西系、東部九州では遠賀川以東系の土器様式が成立。瀬戸内では瀬戸内甕の盛行、近畿でも中期の地域甕が出現する。以上のように近畿以西の西日本では、突帯文系と遠賀川系の接触・交流の結果、成立した折衷・融合系の土器が甕の中心になる。弥生時代中期は、まさに伝統と新しいものとが融合したことで成立したものである。中期は遠賀川式土器の各地における定着形態がもとになっており、それがあとあとまで規定的な役割を果たしたと言えよう。


 横山浩一先生の退官記念論文集を編むにあたり、日本における初期弥生文化の成立という大テーマの中で突帯文土器を扱うことになりましたが、先生のご学恩に報いるだけの内容かどうか不安に思っております。先生のご指導にあずかるようになってから早くも10年の歳月が流れました。時折、九州文化史研究施設の比較考古学研究室に入ってこられては、煙草の煙をくねらせながらのさりげない質問に、ものの見方を教わったことがついこの間のような気がしてなりません。九州大学時代の七年の間、考古学にとどまらない先生のご造詣にふれることができたことは、まことに幸いでした。九州を遠くはなれた関東の地で先生からいただいた多くの教えをもとに、今後とも努力していきたいと思います。
  なお、このテーマを最初に与えてくださった岡崎先生が1990年6月11日におなくなりになりました。先生のご冥福を祈りこの論文を捧げたいと思います。

 最後に、本稿を草するにあたって多くの方々のお世話になり、ご指導、ご教示をいただきました。末筆ながら記して感謝の意を表します。

 浅岡俊夫、安楽勉、泉拓良、岡崎敬、岡山大学埋蔵文化財調査室、小田富士雄、乙益重隆、神谷透、河口貞徳、川越哲志、河瀬正利、木村幾多郎、栗田茂敏、潮見浩、塩屋勝利、設楽博己、下川達彌、正林護、白石太一郎、高島忠平、高田明人、高橋徹、田崎博之、田中良之、谷若倫郎、田平徳栄、出原恵三、中越利夫、中島哲郎、中島直幸、長津宗重、西健一郎、西谷正、橋口達也、春成秀爾、東中川忠美、平井典子、藤口健二、間壁忠彦、松永幸男、松村道博、真野和夫、森貞次郎、柳沢一男、家根祥多、山口譲治、山崎純男、渡部明夫、渡辺芳郎の諸先生、諸氏 (五十音順)


(1990年9月30日 稿了)







(1) 西部九州とは九州を東西に二分した場合の西側の地域を指す。西部九州は北は福岡県の遠賀川から九州を南北に貫く九州山地、南は鹿児島県の錦江湾を境に東部九州と区別される。この地域区分は旧石器時代から九州島に存在した大きな文化史的な区分と一致する〔藤尾,1990a〕。
 また突帯文土器単純段階は水稲農耕を中心とする生産経済にはいった画期として、弥生時代早期と考える立場をすでに明らかにしている〔藤尾,1988〕。
(2) 設楽博己によれば、遠江は将来的に本様式の分布範囲に含まれる可能性が高いとのことである。また突帯文土器の分布をみると、突帯文土器様式の分布範囲よりも北や東の地域にひろがっている。石川県や静岡県で突帯文土器が確認されているほか、群馬県内でも突帯文土器が土器棺として使用されている。しかしこれらの地域における突帯文土器は、在地の様式構造のなかに含まれるのではなく搬入品か模倣品として存在しているのにすぎないので、西日本の突帯文土器様式とは一線を画することができる。ただし、粗製土器である煮沸用土器が移動している事実は、生業(水稲農耕)との関係で注意しておかなければならない。
(3) 1947年、東京でおこなわれた日本人類学会例会において示された見解とのことである〔坪井,1981〕。
(4) 九州では夜臼式土器と板付Ⅰ式土器の共伴が確認されたものの、近畿や瀬戸内では早期の突帯文土器と遠賀川式土器の共伴は確認されなかった。その理由として両者を時間的な前後関係で捉え、遠賀川式土器と共伴する突帯文土器はまだ発見されていないのだとする意見と、遠賀川式土器は弥生人が使用し突帯文土器は縄文人が使用して同じ地域に住みわけていたと考え、両者は時期的に併行するとする意見があった。したがって太田甕の発見は、Ⅰ様式古段階と船橋式の年代併行説を浮上させるきっかけになったのである。
(5) 突帯文土器単純期の玄界灘沿岸地域で住みわけが存在した可能性を山崎純男が述べている〔山崎,1980〕。板付遺跡の器種構成は壺を含み浅鉢がわずかに存在するのにすぎないのに対し、板付遺跡南方の油山山塊に所在する柏田遺跡の器種構成は、壺が欠如し浅鉢が縄文的な比率で存在する。つまり、近畿の長原式と遠賀川式にみられた関係は早期段階の玄界灘沿岸にも存在したことになる。また、瀬戸内や近畿でも早期段階に非稲作民と稲作民が住みわけていた可能性は十分にある。
(6) 山崎は、夜臼Ⅰ式の前に壺や高坏をともなわない突帯文土器が存在した可能性を示唆している〔山崎,1980〕。
(7) 前稿で刻目突帯文系とした壺は今回の無文土器系にあたる。ただし深鉢変容型の中・小形壺Eは無文土器系の範疇に含めない。
(8) 伊勢湾沿岸において深鉢変容型の壺が出現するのは、口酒井式併行期にあたる馬見塚式段階である。時期的には近畿・瀬戸内と同じ時期である。ところが伊勢湾沿岸には形態的には無文土器系に類似した研磨仕上げの中・小形壺が存在している。今のところこの種の壺は近畿・瀬戸内にはみられないことから設楽は西からだけではなく東からの影響を含めるべきと考えている。したがって深鉢変容型とした壺の出自についてはなお議論の余地があろう。
(9) 筆者は大坪里の甕を実見していないのでここでは家根の説に従う。
(10) 韓国にも突帯文土器が存在する。実見した土器は屈曲型甕や砲弾型甕の破片で口縁部に一条の刻目突帯をもっている。刻目はヘラで切り取られたように刻まれていることや、口縁部突帯の位置がかなり上昇していることなどから、板付Ⅰ式に共伴する突帯文土器に一番近い印象をもった。現状では無文土器の器種構成に一般的な甕であるかどうかわからないので紹介にとどめておく。
(11) 遠賀川式土器の成立については瀬戸内の一部を含めた広い範囲で考えるべきで、板付Ⅰ式の成立はむしろ九州の西辺部の地域的な現象と捉える意見が出されている。これは、いままで板付Ⅰ式から板付Ⅱa式に変化する根拠とされていた型式学的特徴に疑問をはさむところから出発している。
 たとえば板付Ⅰ式壺の底部の特徴である円盤貼付底を在地的な古い特徴の残存とみなしたり、壺の口縁部外側にみられる段を製作技法から考えた場合、口縁端部となる粘土紐の継目を利用して段をつくる瀬戸内の壺から、口縁部外側にあらたな粘土紐を貼り付けてつくる板付Ⅰ式壺へ技術変化していくものであるため、板付Ⅰ式が古く位置づけられるのはおかしいというものである。このような型式学的な疑問から出発したあと、「重要な点は、縄文土器の組成を払拭した外傾手法のみによって製作された弥生土器単独の組成がどの地域でいかに出現したかにあり、上述の検討からもそれを福岡平野に限定する根拠はない」〔家根,1987:22〕として、突帯文土器と弥生土器が共伴する玄界灘沿岸地域はこれに該当しないと考える。高橋護〔高橋,1987〕や平井勝〔平井,1988〕の意見は、弥生土器が突帯文土器と共伴すること自体が周辺部の現象だとしてやはり板付Ⅰ式を完成された弥生土器の姿とはみない。
 家根が山ノ寺式で成立したという複合的土器組成とは、外傾手法による単純な器形の甕、弥生祖型甕、夜臼系の甕、縄文土器本来の深鉢と浅鉢、および新たに独自に成立した高坏という内容をもつ。この土器組成が確認されているのは突帯文土器単純段階においては唐津から福岡平野にかけての玄界灘沿岸地域だけであるが、将来、遠賀川流域や瀬戸内で発見されないとは断言できない。東部九州から西部瀬戸内にかけての地域で山ノ寺式が発見され、それを母体に縄文土器本来の深鉢と浅鉢をもたず外傾手法によってつくられた甕と壺からなる弥生土器単独の土器組成が成立することが確認されれば、家根説はその正しさを証明されたことになる。今川遺跡などの土器組成は遠賀川式土器単純の組成にあたるので、これらの地域で長行式や船ヶ谷式のあとに複合的土器組成が将来発見されるまで静観しよう。しかしその前に若干疑問を提示しておく。
 まず板付Ⅰ式壺口縁部の段の成立は、西部九州では口縁部外側に粘土紐を貼り付けることによって達成され、その後に粘土紐の継目を利用して段とするものが出現して増加することは層位的に確認されている。家根説ではこれを北部九州西辺部の一地域現象として理解するのであろうか(この問題はⅢ章で検討した)。また板付Ⅰ式の甕口唇部の全面刻目の出自については祖型甕からの変遷過程を復原しているが〔家根,1984・1987〕、そこで示された外端部刻目から全面刻目への変化は今のところ確認できない。
 家根説では玄界灘沿岸において渡来人と在地の縄文人との協調において成立した複合的土器組成をもつ稲作文化が、口酒井式や沢田式併行期に遠賀川流域から瀬戸内にひろがり、そこで生業基盤を確立し縄文土器の組成を払拭して、今川遺跡を残したような集団に発展したことになろうが、それを可能とする農工具の実態はまだ明らかではない。遺跡の存続幅からみると瀬戸内では突帯文土器の出現以前から継続している集落が多く、これらの集落は遠賀川式出現以前に消滅するか一旦中断する。あらためて遺跡が出現するのは遠賀川式出現時である。なお沢田遺跡では家根説を裏付ける証拠はまだ見つかっていない。
(12) 1970年代までは遠賀川式土器だけを使う集団の遺跡だけが調査され、そこでわずかに出土した突帯文土器は、すべて晩期の突帯文土器が混じりこんだものとの理解が一般的であった。斉一的な遠賀川式土器に覆いつくされてしまうという歴史観が定着する原因はここにあったのである。しかし、近年の調査は突帯文土器だけを使い、わずかに遠賀川式土器が混じる遺跡や、遠賀川式土器をまったくもたない突帯文土器だけの遺跡、突帯文土器と遠賀川式土器が共伴する遺跡の存在が、特別な現象ではないことを明らかにしつつある。遠賀川式土器が西日本を覆いつくすことに文化史的な意味があるように、それと積極的にかかわった集団やまったく関わりをもたなかった集団の存在にも歴史的な意味があるのである。画一的な前期像が一掃されるのもをそう先のことではないと思われる。
(13) 家根祥多教示。
(14) 山崎純男教示。
(15) 北九州市域の早期突帯文土器を三つに分けている。この編年案に示された注目すべき点は突帯文土器の成立を黒川式まで遡らせたこと、無刻突帯文土器と刻目突帯文土器に型式差を認めたこと、この段階を縄文時代晩期終末と認識したことである。
 黒川式相当の突帯文土器(図15-11)は、貫・井手ヶ本遺跡の無刻突帯文土器である。この甕は瀬戸内型と推定される器形をなし口唇部に刻目文をもつもので、粗製深鉢にともなって1点のみ確認されたものである。この文様型の突帯文土器は黒川式相当の遺跡ならどこでも出土するわけではなく、また山口県奥正権寺遺跡では前池式の瀬戸内型一条甕にともなっている。この土器は精製土器に近く、突帯文土器の成立を考えるときの決めてと目されている黒色磨研浅鉢との関係がうかがえるものである。突帯文土器が粗製の深鉢・甕を指す以上、この土器を突帯文土器の中に含めるわけにはいかないと考える。高橋徹もこの種の時は刻目突帯文土器の中には含めず無刻突帯文土器として晩期最終末に位置づけ、刻目突帯文土器の成立から弥生時代早期と考えている〔高橋,1989〕。したがって、突帯文土器の中に含めることが妥当なのかどうかという判断と、前池式と黒川式の併行関係の検討まで想定した議論が必要となろう。
 前田編年では、壺が黒川式段階に出現するとなっている。根拠は南方・上ヶ田遺跡の2号溝の資料である。壺自身は口縁部の外反がかなり進んだものだが、口唇部に刻目がない瀬戸内型一条甕とともなっている。器種構成は突帯文土器が82%でこれに粗製深鉢とかなり崩れた黒川式の浅鉢がわずかにともなうことから考えれば、菜畑9-12層の内容と変わらない。したがって黒川式に壺がともなうと考えるよりも、突帯文土器様式の中で考えた方がよいのではないだろうか。前田は菜畑との関係について、南方・上ヶ田に二条甕がともなわないことを理由に菜畑9-12層より古く位置づけている。しかし、北九州市域の早期突帯文土器の組成を考えれば瀬戸内と同様に、一条甕単純の段階から二条甕の段階へと変遷するので、菜畑9-12層に併行する時期は一条甕単純の時期にあたることもあって二条甕がともなわないのはおかしなことではない。
 東部九州で突帯文土器の成立が西部九州に先行する可能性は高いが、それは黒川式の中で捉えるのではなく突帯文土器様式の中で考えた方がよいと思われる。したがって前田が示した今回の資料だけでは突帯文土器の成立や壺の出現を黒川式の段階までさかのぼらせて考えるのは資料不足といえよう。
 黒川式の次の段階、前田のいう山ノ寺式の段階に二条甕が成立する。中貫遺跡の包含層資料の中に一条甕と二条甕(図15-24)があるが、口縁部破片が多いこともあって全体像はわからない点も多い。一条甕は西部九州型だが口頸部と胴部の調整を違える手法は瀬戸内の手法そのままである。また口唇部の刻目はもはや施文されていない。浅鉢はくの字口縁が出現する。前田はこの資料を山ノ寺式に比定するが壺の内容が不明な点と、菜畑9-12層の土器にくらべて型式学的に新しい特徴をもっていることから山ノ寺式にはあたらないと考える。
(16) 1号溝の突帯文土器と遠賀川式土器はそれぞれ壺や鉢をもちセットで出土していることもあり、調査者はこの現象を単なる混じり込みとは考えていない。突帯文土器様式には谷尻式相当の刻目文土器や前池式相当の一条甕、鍵型口縁の浅鉢、方形浅鉢があり、1号土坑出土土器と同じ時期の土器がある。1号土坑でもこれらの早期突帯文土器と遠賀川式土器が出土しているが、これは出土状況から遠賀川式土器が混じりこんだものと判断されている。しかし1号溝は出土状況からは混じりこんだとは考えられないとされている。常識的に考えればⅠ期の突帯文土器と遠賀川式土器が共伴することはありえない。
 1号溝の突帯文土器の組成は瀬戸内型一条甕が7割を占めるほかは、砲弾型一条甕(図17-14)、無刻一条甕である。二条甕が欠落したり砲弾型一条甕が顕著な状況はⅡ期の大渕遺跡に近い。外傾接合かどうかはわからなかった。伊予に一般的なこの組成は沢田式相当の一条甕と前期突帯文土器の一条甕・砲弾型一条甕である。後者は、Ⅲ期古からⅢ期新段階に相当しいずれも弥生化が完了している。最近の調査で明らかにされつつある田村や大浦浜の前期突帯文土器と同じ一群である。前期の一条甕は胴部の屈曲はかなり弱まり、口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付け押し引き刻目を施したあとヨコナデし、ナデによって器面をそろえる(15~17)。また遠賀川式土器の影響をうけて口縁部が外反した土器もあり、前期水稲農耕の伝播をうけて四国に成立した突帯文土器なのである。沢田式の新しい部分がⅢ期に残るのは本稿の編年では問題ないので、甕については前池式を除いて遠賀川式土器と共伴したとしても支障はなかろう。問題は前池式相当の甕と鍵形口縁浅鉢である。田村では浅鉢はともなっていないので比較できない。これについては類例を待ちたい。
(17) 田村の共伴現象は次のように理解されている。「したがってそれは、夜臼Ⅱb式が板付Ⅰ式と共伴するような現象ではなく、弥生化した「晩期土器」が淘汰されずに残存したものと考えられる。ここに九州とも畿内とも異質の、弥生文化受容の姿がみられる」〔出原,1982:472〕。
 本遺跡の前期突帯文土器は、突帯の条数や口唇部文様、器形を指標に分類されているが、口縁部破片が多いこともあって一条甕と砲弾型一条甕との識別が十分におこなわれていないので、報告書の比率では一見、砲弾型一条甕(図18-12・13)の比率が高いようにみえるが、LOC16とLOC25の資料を実見した限りでは一条甕主体の組成をとるようである。型式学的には、口縁部より下がった位置や口縁部端部に接して突帯を貼り付けたあと丁寧な押し引き刻目を施しヨコナデをおこなう。一条甕の器形はもはや屈曲の痕跡がみられる程度で、西部九州Ⅲ期新の亀ノ甲型甕と同じものとして理解できる(14)。出原の言う「弥生化した晩期土器」とは、このことを指していたのである。
(18) 図20-20は本稿の分類では砲弾型一条甕に相当する。しかし、胴部に段や屈曲部こそないものの器面調整は外面上部がヨコ方向のケズリで、下部はナナメまたはタテ方向のケズリとなっており、明らかに上と下を区別している点で瀬戸内型一条甕の調整技法と共通する手法である。また底部も丸底でⅡ期以降の砲弾型一条甕とは別系統のものとみてよい。近畿から伊勢湾沿岸に分布する甕であろうか。
(19) 「砲」は砲弾型甕を、「屈」は屈曲型甕をあらわす。また不等号で両者の量的関係を表現した。括弧内の数字はこのたび扱った遺跡における比率の最少と最大の幅を意味している。たとえば西部九州の粗製深鉢は8:1から2:1の割合で砲弾型のものが多いという意味である。
(20) 遠賀川式土器と共伴する突帯文土器が早期に属すか前期に属すかの違いは、水稲農耕の開始を考える上でも大きな問題である。しかし、板付と田村は早期突帯文土器と前期突帯文土器の違いこそあれ、ともなった突帯文土器はすべて屈曲型の系譜を引くものである点は同じである。早期突帯文土器か前期突帯文土器かの違いはあるが、前期甕組成の同質性と瀬戸内では唯一、大陸系磨製石器がセットでそろう点、しかも九州の石材を用いている点など、なにかと北部九州との関連がうかがわれる点は興味探い。
(21) 瀬戸内・近畿の早期突帯文人と水稲農耕との関係については二つの見方がある。一つは水稲農耕を他の生業と同じ位置づけにしておいたと考える見方、そしてもう一つは玄界灘沿岸と同じように水稲農耕がすでに生業基盤の中心であったとする見方である。この問題を考える判断基準には農工具の組みあわせや壺と浅鉢が器種構成に占める比率などがあるが、現在のところこれらの指標から得られる仮説は前者の考えに近いとせざるを得ない。




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