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生業からみた縄文から弥生



藤尾 慎一郎






1 序論-管理・栽培・農耕-

2 植物質食糧の種類

3 縄文時代の植物利用

4 石器組成の検討

5 縄文後・晩期から弥生早期までの考古学的変化

6 縄文・弥生時代の生業類型

7 生業からみた縄文から弥生

8 いつから弥生時代か

9 結   論

参考文献

Jomon to Yayoi as Seen through Subsistence






   論文要旨

 本稿は西日本における縄文時代後・晩期から弥生時代前期にかけて,植物質食糧獲得の手段がどのように変化するか検討したものである。後・晩期には雑穀・穀物を対象とした栽培の存在が主張されてきたが,考古学的にも自然科学的にも決め手にかける状況が続いている。原因はこの時期にみられる考古学的な変化が,水稲栽培が始まるときにみられる変化ほど直接的でないことにあるので,後・晩期における考古学的な変化が縄文文化の枠内だけで説明できるのか,説明できないのか調べる必要がある。
 そこで土器と石器を中心に考古学的な変化を再整理し,変化を引き起こした社会背景を検討した結果,従来からいわれているような東日本縄文文化の伝播による内的発展だけでは説明できない部分のあることがわかり,朝鮮畑作文化の影響を受けている可能性が考えられた。東日本からの文化伝播は集団的・組織的な人の移動を伴うので道具・技術・精神文化の面において考古学的な変化を把握できる。しかし後者にはそのような変化がみられない。それは朝鮮畑作文化が前期から続いている大陸と縄文社会との情報交流の中で伝わったため,道具・技術・精神文化が体系的に伝わらなかったことと,母体となった朝鮮畑作文化自身が網羅的な混合農耕だったこともあって,縄文時代の特定の生業に偏らない網羅的な食糧獲得システムとうまく適合したからと考えられる。道具は在来のものがわずかに変容する程度で新しい道具の出現や組成の変化というかたちではあらわれにくかったのである。それに対して水稲栽培を中心に位置づける水稲農耕文化の伝播は組織的・集団的な人の移動を伴ったものだったので,道具や石器組成,精神文化の面も含めて大きな考古学的な変化として捉えられるのである。
 縄文時代に穀物栽培は存在しても生産基盤の中心に位置づけられることはないが,弥生時代は水稲栽培が特定の生業として選択され生産基盤の中心となる。縄文から弥生への転換は栽培を含む網羅的な生業体系から穀物栽培を中心とする選択的な生業体系への変化に特徴づけられるのである。




 1 序論-管理・栽培・農耕-

 縄文時代に農耕があったのかという問題については,賛成・反対の立場から長い間議論が続けられてきた。その議論の内容は戸沢充則氏〔戸沢 1979・1983〕,玉田芳英氏〔玉田 1991〕,山崎純男氏〔山崎 1978〕,能登健氏〔能登 1987〕の論文に詳しく整理されているのでそれを参照していただくとして,筆者はこの問題を考えるにあたり,まず対象とした植物が何であったかという点と,どのような利用の仕方が農耕にあたるのかという点から整理してみた。
 まず対象となる植物が野生型か栽培型かによって評価が大きく異なっていることがわかる。列島に自生する根茎類や堅果類などの野生型植物を対象にしたものに,クリ栽培説〔西田 1981〕,根茎類の移植説〔渡辺 1975A〕,ジネンジョ栽培説〔今村 1989〕などがあるが,これらは農耕とは考えられていない。それでは栽培といえるのだろうか。
 西田正規氏はクリは陽性植物なので落葉樹林帯(1)では優先種でないにもかかわらず,鳥浜ではクリが集落のまわりで優勢な存在を示しているという花粉分析のデータや,定住化に伴って需要が増した薪の獲得のために起こる二次林化などをとおして得られた経験をもとにつちかわれた,クリとの共生関係から栽培の専業化を主張している。たしかにクリの種実の部分や子葉の大きさに現代の栽培種に近いものが報告されていることから,人間のなんらかの働きかけがあったことは予想でき〔那須 1983,南木 1984:204〕,その実態については「クリの果実は野生でもその大きさに種々あり,味がよくかつ大粒の実を結ぶ樹が残されたであろうことは想像にかたくない。このように淘汰されてゆく過程でその樹は利用されたものであろう」〔山内 1988:33-34〕という見解や先の西田氏のモデルがもっとも妥当であろう。また千野裕道氏も「クリの木には実の食糧源として大きく生産性の良い樹木とそうでないものに縄文人は注目し原生林の中での観察から食糧源としての個体と建築用材を目的とした個体の識別があったのではないか」〔千野 1991:240-241〕という見解を示している。
 しかしこのような行為は栽培育種学的に管理にあたり栽培や農耕ではないという。なぜなら栽培とは植物の生殖を管理することにほかならないからである。先に述べたような大きなクリの実がなる木を選抜する行為や,後で述べるように種子が結実せず種イモで増える栄養生殖の根茎類を移植することは,生殖を管理する行為ではないので栽培とはいえない。したがって日本の野生型植物の利用は栽培とはいえず植物管理に相当するのである。農耕の最低条件としては植物の生殖を管理する行為が必要でそのためには栽培型植物の移入が不可欠ということになる。
 次に列島に自生しない栽培型植物をメジャーフードたりえるかどうかという点で分けると二つのタイプがある。一つめはメジャーフードたりえないヒョウタン・エゴマ・アブラナなどの蔬菜類,二つめがメジャーフードたりえる雑穀・穀物である。この場合,前者の利用は農耕にあたらず半栽培や栽培と呼ばれており,多くの研究者の賛同を得ているようである。栽培型植物でもメジャーフードたりえなければ農耕といわれていないことがわかる。根茎類や堅果類などの野生型植物の管理や蔬菜類などの栽培型植物の栽培は,照葉樹林文化論の登場以来,生態学や植物学,文化人類学の研究者によって,水稲栽培へといたる農耕の発展段階説の中に積極的に位置づけられてきたが,考古学者がこれを農耕として積極的に評価することは稀である。
 問題はメジャーフードたりえる雑穀や穀物の場合である。禾本科植物の中で雑穀・穀物として栽培化できるものは日本にほとんどないため,これらはすでに農耕が始まっていた大陸から人の手によってもたらされるしかない。したがって雑穀や穀物を利用する行為そのものが栽培を意味し,雑穀・穀物栽培が存在しさえすれば農耕と考えることもできるが,存在するだけでは農耕とはいえないと考えて雑穀・穀物栽培の全生業に対する位置づけを考慮したうえで,農耕かどうか判断する研究者もいる。したがって雑穀・穀物が対象の場合は,生業に占める栽培の比重が農耕かどうかの別れ目となってくる。
 甲元眞之氏は九州の後・晩期に雑穀を対象とした農耕が存在したと考えている。ただし生業の中に占める割合は採集・狩猟・漁撈に優るものではなかったという評価なので,メジャーフードたりえる栽培型の植物が存在しさえすれば農耕と認める立場と考えられ,生業の中における比重を農耕かどうかの判断材料にしていない。西日本の縄文後・晩期に農耕があったと主張する人々は大方この意見をとっているようである。雑穀とは小さな頴果をつけ夏作物として栽培される一群のイネ科穀類を指し,イネ・コムギ・オオムギ・トウモロコシなどの大きな頴果をつける主要穀類は含まない〔阪本 1983〕。日本で古くから栽培されている雑穀は,アワ・キビ・ヒエ・シコクビエ・モロコシ・ハトムギの六種だが,頴果が小さいこともあって弥生前期以前の発見例はほとんどなかった。コメやオオムギなど大形の頴果をつける穀物は九州の後・晩期にみられるが,遺跡が水田に不向きなところにあることから畑作と考えられているため雑穀栽培は生業としてはわりと低く評価されている。
 しかし栽培の対象が水稲になると農耕かどうか判断する基準はないも同然である。平野部に立地する弥生時代の遺跡からコメが見つかると,無条件でそこには農耕が存在したと考えられてきた。現在のところもっとも古い水稲資料は夜臼Ⅰ式期に属する最古の水田跡に伴っているので,だれしも認める農耕の上限ということになるが,ここでも慎重な態度をとるのは林謙作氏で,水稲農耕が生業全体に占める割合を考慮したうえで農耕かどうか判断すべきだと主張している。東北地方で水稲農耕が定着するのがかなり遅れる状況を考慮すれば,農耕社会が成立した時をもって農耕の出現とする林氏の考えも理解できないではない。しかし水稲栽培が生業の主流となるのは一体いつのことなのであろうか。問題は全生業に占める水稲栽培の比率ではなく水稲栽培を生産基盤の中心に位置づけた社会がいつ成立したかということにある。一般に日本の考古学者は遠賀川式土器が出土すれば栽培の対象が雑穀でもコメでも,また畑でも水田でも生業に占める位置づけとは関係なく農耕が存在したと考えるのに,遠賀川式土器以前になるとたとえ穀物が栽培されていてもそれを農耕と認める条件がぐっと厳しくなるのである。このように農耕の定義や生業における位置づけに厳格なのは,採集経済から獲得経済へという経済史観を最優先する立場に基づいたからである〔西田 1986:91〕。水稲栽培が生業の中心でなければならないのである。しかし縄文であろうが弥生であろうが,農耕と判断する基準は一定していなければならないのではなかろうか。実際に水稲栽培が生業に占める割合をどのように調べたらよいのか難しいが,一つのやり方として食糧の統計からみたコメの割合をみる方法がある。それによるとコメへの依存度は弥生後期でせいぜい多く見積っても1/3程度を占めるにすぎないという数字がある〔甲元 1986〕。したがって水稲栽培が生業に占める割合よりも水稲という特定植物の栽培に社会の求心力が働くとか〔甲元 1991A〕,稲作への文化的収斂現象が始まる時〔佐々木 1991:341〕などのように,水稲栽培を基盤とする社会がスタートした時点をもって農耕の開始としようとの考えが示されている〔武末 1991〕。
 筆者自身は,ある植物利用の形態が栽培にあたるのか農耕にあたるのかという議論よりも,どういう植物質食糧があってどのような利用がなされていたのか,それが生業全体の中でどのように位置づけられていたのかがもっとも重要であると考えている。栽培や農耕の定義については稿をあらためて論じることとして,とりあえずここでは次のように理解しておく(表1)。


表1 植物の種類と利用形態

植物の種類社会における位置づけ利用形態植 物 名
栽 培 型メジャーフード特定化・収斂化農 耕穀物・雑穀
網羅的栽 培穀物・雑穀
非メジャーフード網羅的栽 培ヒョウタン・エゴマなど
野 生 型メジャーフード特定化・収斂化管 理堅果類・根茎類
非メジャーフード網羅的採 集その他


 栽培とは食用植物に限らず,植物の生殖を管理することである。樹木である堅果類や種イモによって増えていくイモの栄養生殖を管理することはかなり新しくなってからで,縄文・弥生時代には今のところ考えられない。野生型植物の管理は存在しても栽培は存在しなかったのである。それに対して農耕とはデンプンの供給源としてのメジャーフードとなりうる栽培型植物の栽培を指す。したがって,基本的に雑穀や穀物の栽培が農耕にあたると理解する。その場合,一つの種類の植物に限定される必要はないし,また生業に占める割合も問題にしないが,社会が雑穀・穀物栽培を基盤に据えてやっていこうと動きはじめた時点を農耕の開始と考える。それでは縄文時代にどのようなメジャーフードがあったのかみてみよう。



 2 植物質食糧の種類


 (1) 野生型植物と栽培型植物

 人間が食糧として利用する植物には野生型値物と栽培型植物があり〔西田 1986〕,前者の利用を採集,後者の利用を農耕と考える研究者が多いが,野生型植物の利用についても農耕とすべきとの意見が出されて久しい。しかし,縄文時代の研究者を中心に反対の意見は多く,小林達雄氏のように単独でなくてもよい特定種を一定の範囲のところで栽培・管理するのが畑。さらにそれが生業の中で相当なウェイトを占め,しかも途中で切れず継続しなければならないと定義する人もいて農耕の基準はかなり厳しい〔佐々木・松山編 1988:347-350〕。「農耕の有無によって時代の評価を大きく変えなければならないとする歴史観があった…」という西田氏の指摘〔西田 1986〕は的を射ているといえよう。


 (2) 野生型植物

1 堅 果 類

 野生型植物の代表的なものに堅果類と根茎類がある。堅果類をメジャーフードとする生業はナッツ・ドングリデンプン採集(Nut and acornstarch collecting)とも呼ばれる〔中尾 1988〕。代表的な堅果類には,日本の植物社会の優先種であるために人間が手をかける必要のないトチノキやナラ類,シイ・カシ類と,人間のなんらかの働きかけがないと優先種たりえないクリやクルミがある。クリやクルミはいずれも東日本の代表的な堅果類で西日本には少ないといわれている。また東日本の落葉樹林帯と西日本の照葉樹林帯では,脂質含有量の多いクルミ・クリの分布に差がみられたり,アク抜き・水さらし等の利用法が異なるなど植物によるいろいろな違いが指摘されている〔渡辺 1973〕。東日本ではクルミとならんでクリやトチノキなどの落葉樹林帯の堅果類が植物採集の大きな比重を占めているが,九州の遺跡から出土する遺存体にはクリやオニグルミがほとんどみられない。縄文前期の長崎県伊木力遺跡ではシイ・カシ類などの照葉樹林帯の堅果類が主でクリやトチノキは1点もみられない〔森 1990〕。
 東日本には栄養面ですぐれたドングリが豊富で西日本よりめぐまれていたことが東と西の格差を生みだしたという論調が多いので,まず代表的な堅果類の分布をみてみる。


図1 温量指数の分布図
〔山中 1979〕より転載

 図1は吉良竜夫氏の温量指数(2)をもとに山中二男氏が作成した温量指数分布図である。松山利夫氏が落葉樹林帯と照葉樹林帯とを分けた基準は寒さの指数の-10°に相当するが,吉良氏は温量指数85°よりわずかに低いところまで照葉樹林が分布するものとして,アカガシ・ツクバネガシ・シラカシ等をあげている。一方,山中氏は85°を落葉樹林帯と照葉樹林帯の境界とする。
 本土の照葉樹林帯は温量指数からみて三つに分かれる〔山中 1979〕。温量指数40°-120°と,120°-100°は暖帯の特徴的な樹種であるナギ・イヌマキ・アコウから,100°-85°はシイ・イチイガシ・アラカシ・タブ・モチノキから構成される。植物生態学者によれば一般に照葉樹林には2~3型の亜型があるといわれており(3),このうち140°-120°はカシ・シイを代表とする純然たる照葉樹林で伐採してもすぐもとの照葉樹林にもどり,またジメジメしているので焼き払って焼畑を作るには困難を伴う。また120°-100°は純然たる照葉樹林であることにはかわりないが,乾燥しているため焼畑に適しており,一度焼き払うと照葉樹林にはもどらずコナラをはじめとした落葉性の二次林となる。つまり日本列島は東と西に大きく分かれるのではなく,暖流の影響を受ける東北南部の海岸部や関東地方の平野部まで照葉樹林はひろがり,また照葉樹林の中にも二次林としてコナラなどの落葉樹林が成立するエリアも存在するのである。この状況は安田氏の森林帯気候の分布図でも明らかに示されている〔安田 1982〕。もちろん人間の手が加わらなくても日本の照葉樹林の中にはもともと落葉樹が混交林として存在するのであるが,人間の手が加わることでより高い密度でコナラが育つようになるということは注目に値する。それでは実際の植生はどうなっているのであろうか。代表的なドングリ類の分布をみてみよう(図2・3)(表2)。表2は渡辺氏が民俗誌の資料に基づいて作ったドングリの4分類に植物分類と温量指数からよみとった水平・垂直分布を入れたものである。取り上げたのは水さらしだけでよい照葉性のアカガシ・アラカシと落葉性のクヌギ,アク抜きのいらない照葉性のツブラジイ,落葉性のクリ・クルミ,水さらしと加熱処理が必要な落葉性のミズナラ・コナラ・トチノキである(図4・5)。


表2 温量指数からみた堅果類の平面・垂直分布
図2 照葉性堅果類の平面・垂直分布
〔Horikawa 1972〕を改変
図3 落葉性堅果類の平面・垂直分布
〔Horikawa 1972〕を改変
図4 遺跡出土の主要堅果類(1)図5 遺跡出土の主要堅果類(2)と根茎類


 まず水さらしだけでよいアカガシやアラカシは温量指数が100°以上で九州から東北北部の太平洋岸までの範囲に分布し,西日本においては1,300-1,000m以下,東日本では暖流の影響を受ける海岸部に分布する。したがって西日本のメジャーフードの一つであったと思われるカシ類は,縄文中・後期の関東には存在したが,中部・東北地方には分布していなかったと考えられる。
 照葉性で水さらしが不要なシイ類も温量指数は100°以上でカシ類と似たような平面分布を示すが,垂直分布をみると山陰・東海・北陸・関東の沿岸部は500m以下に分布しカシ類よりやや狭い。したがって中部・東北地方にはほとんどみられなかったと考えられる。
 照葉性でアク抜きが不要なクリは温量指数55°~65°以上で北海道南部から九州まで分布し,垂直分布でも九州や東北は1,000m以下,そのほかの地域は1,500mまでみられ,縄文人達がいつでも利用できる状況にあったといえよう。同じくアク抜きが必要なクヌギは水平,垂直分布ともクリより狭いが現代の自然植生からみる限り縄文人達が利用できる状況にあったと考えられる。
 落葉性で加熱処理型のアク抜きが必要なミズナラは,西日本では温量指数120°以下,東・北日本では100°以下の列島全域に分布している。しかし垂直分布をみると九州・四国・中国では標高100~500m以上の山地,東日本は2,300m以下,北日本1,500m以下,北海道1,000m以下で東・北日本の落葉樹林帯に卓越して分布する堅果である。しかし西日本でも山地なら利用可能な点は注目に値する。コナラは温量指数45°~55°以上で列島全域に分布する。しかもミズナラと違って西日本の低地部にもみられるところから,照葉樹林帯でも利用可能な堅果類といえよう。
 これらのことから西日本の照葉樹林帯でも落葉性のコナラ・ミズナラ・クリ・クヌギを利用できる環境にあったことがわかるのである。また逆に東日本の海岸部も照葉性のカシ・シイ類を利用できる環境にあったのである。それでは実際に遺跡から出土したドングリで種名まで確認されているものをみてみよう(表3)。



表3 縄文時代の遺跡出土堅果類

遺 跡 名立 地時 期照 葉 樹落 葉 樹
東黒土田162m早創期
ブナ
黒  川84m晩期シイ
陣  内山地後・晩期
トチノキ
松  添低地後・晩期カシ
曽  畑低地前期イチイガシクヌギ,アベマキ
古閑原台地中期イチイガシ
伊木力海岸部曽畑コナラ属,アカガシ属,イチイガシ
坂ノ下80m中期イチイガシ,アラカシ,シイノキ,チャンチンモドキ,ツブラジイ
野多目低地後期イチイガシ
中  村河岸晩期
クリ,コナラ
入  田低地晩期シイ
岩  田低地晩期アカガシ,シラカシ,イチイガシ,ウメバカシ,マテバシイ,コジイ,カヤ
彦  崎低地中・後期シイ
前  池25m晩期イチイガシクリ,トチノキ
桂  見2-5m後期スダジイ,アカガシオニグルミ,トチノキ,ヒシ
佐太講武70-80m前期シイ
郷路橋420m前期
トチノキ
鳥  浜低地早創期
クルミ,ハシバミ,ヒシ,カヤ
前期アカガシ,スダジイブナ,コナラ,ヒシ,クリ,オニグルミ
橿  原80-100m晩期イチイガシ,ツブラジイ,スダジイヒメグルミ,トチノキ
馬場川15-20m後・晩期
トチノキ,ドングリ
北白川山地前期イチイガシ,アカガシトチノキ,オニグルミ
桑飼下5m後期カシ類クルミ,クリ,トチノキ,ナラ
滋賀里95m晩期シイ,アラカシヒシ,クリ,トチノキ,オニグルミ
馬見塚7.5m晩期シイ
大  地
後期アラカシ,マテバシイ
古  沢27-35m前期アラカシコナラ,トチノキ
沖ノ原440m中期
ミズナラ,クリ,クルミ
葦間川左岸A700m中期
コナラ
三溝上原台地中期
ミズナラ
クマンバⅡ台地早・前期
トチノキ
真福寺低地晩期アラカシコナラ,ミズナラ,トチノキ,オニグルミ
荒川河床第1
前期
トチノキ
加  茂低地
ツブラジイ,マテバシイオニグルミ,クリ
粟島台
前・中期
トチノキ,クルミ
余  山9m後・晩期イチイガシ,スダジイクリ,クヌギ
山  王38m晩期
トチノキ,クルミ,ドングリ
貝  鳥10m後期
ミズナラ
是  川20m晩期
ミズナラ,トチノキ,クルミ
亀ヶ岡20m台晩期
トチノキ,クルミ,ブナ


 遺跡周辺のドングリを利用するのは当然で,落葉性と照葉性の堅果類があるところでは両方のドングリを利用していることがわかる。鳥浜(前期),北白川,桑飼下,滋賀里,橿原,桂見,前池,真福寺,古沢などは温量指数85°の等温線地帯に存在し落葉樹林帯と照葉樹林帯との境界付近に分布する遺跡で,ドングリの種類,量とも豊かであったと考えられる。
 問題は縄文後期中頃以降に遺跡が急増する地域の堅果類利用がどうであったかである。アク抜き技術の西進で利用可能植物が増えたとすれば,阿蘇や島原半島にミズナラ・コナラ・トチノキなどが存在していると説明がつきやすい。しかし残念ながら遺跡からの出土例はまだない。台地の上なので遺存しにくい条件ではあるが花粉分析からの追求は可能なので今後に期待したい。これらの遺跡は標高50~500mの台地上に立地している(4)(表4)。照葉樹林帯の中でも焼畑が可能で焼き払ったあと照葉樹が回復せず落葉樹が二次林となる範囲は,九州・四国の海岸部では標高500m以上が目安といわれているが,問題の時期は現在よりも平均気温が2~3℃低かったので,遺跡の分布する標高まで下がっていた可能性は高い。したがって焼畑に適した照葉樹林は,四箇遺跡のある海岸部より,台地上の遺跡のほうに分布していたと考えられる。


表4 収穫用石器出土遺跡の垂直分布

立  地遺 跡 名備   考
沖積面板付,脇岬水田と畑作の関係
低位段丘広田,筏,小原下,阿高,大龍低台地上の畑作
中位段丘天城,上南部河岸段丘の肥沃な畑地
高位段丘東鍋田広大な畑作台地上
下部山麓台地
(60~150m)
萩迫,一木,三万田,ワクド石阿蘇外輪山の山麓から延びた台地
畑作の広大な台地
上部山麓台地
(150m以上)
大石,陣内,礫石原阿蘇外輪山麓


 以上のことから問題の時期に落葉性の堅果類が西日本にも分布し,アク抜き技術さえあれば利用できた環境にあったことはわかったが,肝心の遺跡からこれらの遺存体が出てこないので利用可能な植物が拡大したとの説を証明するにはいたらなかった。しかし遺存体の出土量と実際の消費量は必ずしも一致しないという指摘もある〔辻 1983〕。辻誠一郎氏によれば出土量の差異はアク抜き技術,調理形態,貯蔵方法と深く関係するという。まずアク抜きの必要のある堅果類は防腐の効果をもつタンニン成分を含むので遺存しやすい条件をもっている。とくにクルミは殻が堅くしかも殻中のタンニン量が多いためもっとも残りやすい。次にアク抜き処理に先だっておこなわれる皮むき作業も長期間乾燥して果皮を荒割りする場合と,採りたてを打ち砕く場合,茹でて砕く場合とでは捨てられた果皮の遺存率が大きく異なる。このような事情が遺存体出土量の差となっていることも十分考えられる。また採集-加工-保存という堅果類の利用法に東と西の差があった可能性も指摘されている。それは落葉樹林帯と照葉樹林帯における植生の違いが次のような特徴をもつからである。フローラやファウナの一般的な傾向としていえるのだが,一定の面積における樹種の種類数と特定樹木の個体数は北と南で異なる。つまり熱帯では1k㎡あたりの木の種類は多いが一種類あたりの本数は少なく,北にいくにしたがい木の種類が減り一種類あたりの本数が増加する。この生物の種と個体数の傾向性から考えると照葉樹林帯では単位面積あたりの樹種は落葉樹林に比べて豊富だが,たとえばクリの本数は少なく,落葉樹林帯ではクリの本数は多いものの樹種は少ない。このような特徴は採集-加工-保存という労働システムに影響をあたえる。近畿のように地形とかかわって落葉樹と照葉樹が同じ地域に成育しているところでは,多種類のナッツにたよる小さな集団からなる安定した集落が扇状地上に立地する〔泉 1987〕。晩期以降の西日本に多くみられる貯蔵穴も複数の種類の堅果類を貯蔵している。一方,中部・関東地方では季節的にクリやトチノキという特定の堅果に大きく依存した分業集中型の集落が台地上に立地するという〔泉 1987〕。東日本の遺跡にみられるトチノキやクリなどの特定種の果殻が大量に廃棄されているのは,大量の特定種を単一の処理で集中的に加工・調理する分業集中型の生産システムの存在を反映したものである。東北地方のサケ・マスも特定種へ依存した労働スケジュールをもっていた。しかしこのような特定種への依存は飢饉に対するもろさも内包しているので救慌食が不可欠となってくる。また岩手県の民俗例ではトチノキは飢饉用,ミズナラ・コナラ類は基本食として位置づけられているので種類による機能差も考慮しておく必要がある〔岡 1987〕。
 このような生物相の特徴ゆえに特定の堅果に依存できた東日本に対して,西日本では一種類あたりの量は少ないものの豊富な種類の堅果類を利用できた。しかもほとんどがアク抜きが不要か水さらしだけでよいドングリであったが処理法が単一でないので集中的な処理には向かない。そこで常に生にちかい状態もしくは水分の膨潤な状態で貯蔵しておき,必要なときに取り出しては加工していたと考えられる。水さらしをしてもほとんど効果のないトチノキが入っているのも理解できる。多くの種類のドングリヘ依存していれば不作の年でも別のドングリに依存できるので,長期にわたる保存法は採らず常に新鮮なかたちで利用するのに適した貯蔵穴が盛行する。そのためには渋抜きの効果を維持するために何度も掘り返す必要もあったのである〔潮見 1977〕。飢饉に対して強く,小規模な集団を維持するのに適した植生といえよう。これは単にフローラだけでなくファウナについてもあてはまり魚類などでも同じことがいえる。さらに堅果類の保存方法の違いがある。磨石・石皿を単に破殻に用いるのではなく製粉・紛食の道具としての側面を強調すれば,堅果類の範囲拡大だけでなく,製粉技術の導入による貯蔵デンプンを食糧源とした西日本縄文社会の発展を想定することができる。乾操デンプンという長期保存にたえる貯蔵食糧の増加が食糧の安定供給に結びついたとする考えである。このように落葉樹林帯でつちかわれた集中的な分業システムを含めた一連の採集・栽培技術体系と乾燥デンプンの長期保存技術が集団の移動に伴ってセットで西日本に持ち込まれたことによって,植物利用形態に変化があらわれたことはまちがいないと考えられる。

2 根 茎 類

 根茎類をメジャーフードとする生業は根茎デンプン採集(Stem and tuber strarch collecting)と呼ばれ,やはりこれも植生の違いを反映した利用体系の地域差である〔堀田 1983〕。落葉樹林帯ではカタクリやウバユリ,ヤマユリなどの野生種を利用するデンプン採集が存在したが,そこからは重要な栽培植物は出現していないという。また照葉樹林帯のタロ系統やヤム系統のイモ類は東アジアの暖温帯に起源があり,そこで品種分化したもののうちわずかな系統のものが列島に伝播した栽培植物だといわれているので縄文時代に存在した可能性は少ない。イモ類は熱帯では主食として利用されるのが多いのに対し,暖温帯ではおかずとして利用されることが多い。おかずとして利用されるのは米食中心に食習慣が確立されるようになってからとの説もあるので,水稲農耕が始まる以前はイモ類が主食として利用されていた可能性は否定できない。潮見氏の研究によれば奈良時代の文献にあげられている野生の食用植物の中で縄文時代の食用植物の候補としてさかのぼるデンプン質の根茎類は野生のヤマイモだけで,ワラビ・クズは嫩芽を食用としたものらしくクズ粉・ワラビ粉などのデンプン質食糧ではないという〔潮見 1977〕。篠原徹氏によれば植物学的にクズは,パイオニア的植物で自然植生ではそれほど多いものではないし,かつ標高の高いところ(500m以上)では現在でもあまり繁茂しない。ワラビは草原性で陽当たりのよい草原が存在していたとでも仮定しない限りドミナントな種とは言いがたい。したがってこれらのデンプン採取はそれほど期待できるものではなくメジャーフードとしても考えられないという。奈良時代の話がそのまま縄文時代にあてはまるとは限らないが,メジャーフードになりそうな根茎類はヤマノイモしかなさそうである(図5-10)。
 ヤマノイモ群にはヤマノイモ(D.japonica THUNB)とナガイモ(D.oppsita. THUNB)の2種があり,ヤマノイモは野生型で日本の在来種と思われ,ナガイモは田畑に栽培する栽培型で列島外から持ち込まれたものである〔内藤 1987〕。ジネンジョは野生型ヤマノイモの俗称で自然性で畑に栽培しなくてもよい山にあるイモの意味である。陽当たりがよい乾燥した落葉樹林に向いているという。図5の10・11でもわかるようにジネンジョは地中に直下している長くて大きな円柱形の多肉根をもち,ナガイモは長さ1mくらいに達するものや塊形のツクネイモ,扁平なイチョウイモなどに分けられている。ヤマノイモは受精がおこなわれないため種子として使用できるものは結実しない。したがって繁殖は種イモを分割しておこなわれている。直良信夫氏以来,縄文人が利用した根茎類としてあげられているヤマノイモ〔直良 1965〕,ヤマイモ〔江坂 1959〕〔渡辺 1975〕,ジネンジョ〔中尾 1967〕〔今村 1989〕はすべて野生型のヤマノイモを指すと思われるが,生態学的には栽培にあたらないジネンジョの管理は序論で述べたように民俗・民族例にはない。もしナガイモを指すとしたら縄文人によって栽培型がつくられたか栽培型のナガイモが列島外からもたらされていたかということになる。


 (3) 栽培型植物

 栽培型植物にはヒョウタン・エゴマ・リョクトウなどメジャーフードとならない蔬菜類と,穀物に代表される草原種子があるが,ここではメジャーフードとなりうる後者を取り上げる。
 草原種子採取(grassland seed collecting)(水稲は含まれない)は,草原そのものが大規模には展開しないという日本の自然植生の特徴ゆえに欠けており,外部からの伝来を待つしかなかった〔中尾 1988:343〕。日本でもっとも古い穀物は縄文時代中期のオオムギで(埼玉・上野,岐阜・ツルネ),かなり古くから日本に持ち込まれていたことは事実のようである。しかしこの段階は在来の道具には変化がみられず,それ以降継続された形跡もないので草原種子採取が継続的におこなわれたとは考えにくい。ましてや農耕集団の渡来などは考えられない。しかしこれは佐々木高明氏のいう原初的農耕(5)という概念を否定するものではない〔佐々木 1991〕。
 雑穀の有用性としては,土壌や気候条件などの不良な土地でもよく成育し,旱魃にも強くて病害虫も少なく,穀粒は小さいが安定した収穫が得られるという作物特性をもつ。また穂のままで束ねて納屋や穀物倉に貯蔵しておくと,害虫も余りつかず長期間にわたり保存が効き救荒作物としても優れている。さらに伝統的な主食原料として,粉にしたり碾き割ったり,あるいは穀粒のままで調理することができ,利用法も多様である(6)。そして酒の原料にもなるという〔阪本 1983〕。



 3 縄文時代の植物利用


 (1) 自然科学的アプローチ

 問題となるのは,縄文後期以降に増えてくる草原種子の存在をものがたる証拠が何を意味するかである。これらは九州北・中部地方に集中して後期後半から晩期前半の時期に見つかっている(表8)。中には証拠として疑問視されているものもあるが,オオムギ・コメ・アワ・エンバクなどの植物遺存体,ヒエやコメなどのブラントオパール,籾痕土器,そして花粉がある。これらは縄文時代における雑穀・穀物栽培の存在を証明する証拠となりうるのであろうか。

1 植物遺存体

 アワは野生種のエノコログサとよく似ていて,表皮細胞による識別は出土した遺存体では困難とされていることもあって,確実なのは弥生時代の福岡・立岩,大阪・鬼虎川遺跡ぐらいと考えられており,縄文時代のものはすべて疑問視されている〔松谷 1988:99〕。コメについては大分・大石,熊本・上ノ原など突帯文土器以前のものはすべて考古学的に疑問視されているが,1992年に見つかった青森県風張遺跡(BP 3000年)のコメとアワ・ヒエは確実性が高いともいわれている。このようにオオムギとコメ・アワ・ヒエについては縄文後期から確実に存在したといってよい状況である。ただ欲をいえば穀物種子は包含層などからの出土ではなく,明確な遺構からの出土が望ましいところである(7)

2 ブラントオパール

 珪酸体形状からはヒエ・アワなどの作物と他のキビ族植物群とはまだ分離できる基礎データが得られていないということで,水陸未分化のイネ科という意味でしか認定できないのが実状のようである。しかし土器胎土中のブラントオパールは後期後半以降に多く見つかっている。

3 籾痕土器

 1992年3月に話題となった総社市南溝手遺跡の縄文後期末を最古例として多くの例がある。

4 花粉分析

 花粉分析の結果をもとに雑穀・穀物栽培の存在を推定する方法には二つある。まず木本類と草本類の相対比をみると草本類が木本類を凌駕することから草原が出現したことがわかるが,その理由を火災や環境変化などの自然要因に求めずに焼畑などの人為的なものの結果と考える場合と,イネ・ソバ科などの草原種子型栽培植物の花粉が出現・増加することから農耕の存在を直接的に推定するものである。前者の代表例が四箇遺跡である(図6)。


図6 福岡県四箇遺跡の花粉ダイアグラム(出現率は単位体積あたりの出現個数)
1:亜円礫 2:暗褐色粘土質泥炭 3:青灰色細砂 4:粗砂 5:灰褐色シルト質粘土
6:暗褐色シルト質砂礫 7:暗灰色砂質シルト(水田耕土) 〔安田 1982〕より転載


 四箇遺跡の花粉分析の結果をみると,花粉帯Ⅰではアカガシ亜属・シイノキ属・エノキ属・ムクノキ属が高い出現率を示すのに対し,花粉帯Ⅱになるとアカガシとシイノキが1/15,1/18に減り,あとの二つは一時的に消滅する。そのかわりカナムグラ属・ブドウ属・アカメガシワ属・クワ科などのパイオニア的植物の出現率が高くなり,また包含層から出土する炭片も急増するという〔安田 1982〕。また笠原安夫氏は四箇遺跡から焼畑およびその周辺にみられる雑草・木本の種子を発見している。これらをふまえ,安田喜憲氏は照葉樹林が焼き払われ焼畑農耕が存在したと主張した。しかしその後マツ属による二次林は増加せず再びアカガシやシイ類などの常緑広葉樹林が回復することから,こうした人間の働きかけは弱まり継続しなかったとしている。草本類の相対的な増加と炭片を結び付けて焼畑による草本類の栽培を想定したことになるが,炭片と焼畑とは必ずしも結び付かないし,草本類の増加は当時の低温化によるものかもしれないので,安田説の評価は賛否両論である。三好教夫氏はシイ・カシ類を主とする常緑広葉樹林を焼き払い居住地をつくったことは認められるものの,当時の人々はまだ農耕活動をしていなかったために自然林の破壊面積はきわめて少なかっただろうと推測し,焼畑の存在には否定的であるが〔三好 1988〕,豊原源太郎氏はわが国のように降水に恵まれたところでは森林の回復力が破壊力に優るので,薪の採取程度の働きかけでは植生が変わることはなく,四箇のように照葉樹林が二次林としてマツ属になるには焼畑などの農耕による強い干渉が繰り返される必要があると肯定的である〔豊原 1988〕。二次林の出現については安田氏も亀ヶ岡遺跡の例からソバ属とアカマツが主要とみられる二葉マツ亜属との高い相関に注目し,焼畑をおこなえば二次林としてアカマツが増えるとして焼畑とアカマツを結び付けている。
 照葉樹林帯における二次林の出現は何を背景とするのであろうか。東日本を中心に縄文時代の二次林の考察をおこなった千野裕道氏のように,「人間の度重なる干渉・自然の利用によって,その結果としての二次林の拡がりは縄文時代にはなかった」〔千野 1991:239〕として,縄文時代の落葉樹林帯における二次林の存在は否定するものの,弥生時代になって水稲農耕が始まると二次林は形成されると主張している。千野氏の研究からは,落葉樹林帯においては人間の定住もしくは半栽培程度の自然への干渉ぐらいでは二次林は形成されず,農耕の開始が二次林出現の契機となることがわかる。しかし照葉樹林帯の四箇遺跡では二次林(アカマツ)ではなく荒れ地に生育する草本植物との関係で焼畑が推定されている。同じ照葉樹林帯の板付遺跡の周辺でマツ属が増加するのは水稲農耕が始まる弥生時代ではなく,今からわずか数百年前からという事実や,安田氏の分析でも西日本の弥生前・中期の遺跡は照葉樹林に囲まれていることが明らかになっているので,花粉分析の結果からマツ属が増加しないからといって必しも四箇における焼畑の存在が否定されるものではない。マツ属が増加しないのは,わが国の農業が水田中心で牧畜を欠いたために,森林は伐採されるだけで開拓されたり放牧によって衰退することはなく,すぐに自然更新し自然植生が維持されてきた事実を反映しているのかもしれないという説が,その辺の事情を物語っているのであろう〔三好 1988〕。
 一方,花粉分析自体にもまったく問題がないわけではない。遺跡のどこからサンプルを採取したかによって花粉の種類と比率に差が生じることや,花粉ダイヤグラムではなくパーセンテージダイヤグラムや絶対量ダイヤグラムであらわすと花粉のピーク,下降の時期が変わったり,みられなくなったりする場合があるなど,データの信頼性に注意しなければならない〔P.ROWLEYCONWY 1981〕。


図7 日本各地の稲作開始時期(グラフと地図の数字は一致)
〔中村 1982〕より転載

 次に花粉学や雑草学の成果から直接的に後・晩期における雑穀・穀物類の伝播を主張する意見がある。中村純氏によれば,今から3700年前ぐらいから板付遺跡では稲や水田雑草の花粉が急増するという〔中村 1982〕(図7)。イネ科(Gramineae)にはススキ(M.Sineneis Anderes)やヨシ(Phragmites cemmunis)なども含まれているので,3500年前の冷涼化のためひろがった淡水性の湿地にこれらのイネ科植物が増加したことを花粉分析の結果は示しているという意見もある。しかし,ススキ草原などは生態学的には継続的に人間の手が加わらない限り木本類の林へ遷移してしまうという。ところがそのような兆候が認められないことはイネ科植物に対して人の手がなんらかのかたちで加わっていた可能性が高い。ススキやヨシを育てることはまず考えられないのでそこにイネ科の草原種子栽培(オオムギ・コムギ・イネ・キビ・ヒエ属)が想定できるのである。ただし,花粉からはオカボと水稲との区別が不可能なのは残念という他はない。また笠原氏も福岡・四箇,岡山・宮の前,同谷尻に,今日みられる焼畑雑草とかなり共通した雑草種がみられるところから,これらの遺跡周辺ではオカボそのほかの雑穀・マメ類の焼畑があった疑いがあるとしている〔笠原 1982〕。このように自然科学的には縄文後・晩期のイネ科植物栽培を否定する証拠はないということになる。これに対して考古側はどのように対応しているのであろうか。




 (2) 考古学的アプローチ

 1 諸説の紹介

 佐々木高明氏はこの時期を初期的農耕(early agriculture)と位置づけた。初期的農耕とは焼畑や原初的天水田を想定したもので,「主食料の生産の大半を焼畑や原初的天水田などの農耕でまかなってはいるが,その生産の安定性が十分でないような農耕のことである。そこでは採集(半栽培)や,狩猟・漁撈活動の比重がなお高く,年によっては農耕とその他の生業活動の比重が逆転することもあるような農耕の形態‥‥‥。余剰生産は十分でなく,したがって社会の階層分化や職業分化は進んでいないのが通例である」というものである〔佐々木 1991:241〕。
 寺沢薫氏は縄文後・晩期の雑穀類の出土を穀物の第一期波及期として積極的に評価した〔寺沢他 1981〕。寺沢氏はこの時期に,長崎県島原湾沿岸や玄界灘沿岸を中心とした地域でイネを畑作物の一部としてのオカボとして混作するような雑穀栽培を想定し,農具として打製石鍬・石庖丁・石鎌を考える。しかしこれは縄文社会へ埋没していったと理解する。
 甲元眞之氏は後期の雑穀遺存体を出土した四箇遺跡の石器類について,石刃技法による打製石器が多く外来的要素が強いことから,栽培植物と共にもたらされ収穫具として用いるような農耕が存在したと考えている〔甲元 1991B〕。しかしその農耕で得られた作物も従来からのメニューの中にそれらが加わったにすぎないとし,採集によって食糧を網羅的に利用するという縄文時代の生業の枠組みには変化がなかったとしている点は寺沢氏と同じである。
 渡辺誠氏は晩期農耕論の重要な根拠になっている農耕的とされた遺物について,東日本から伝播した文化要素,すなわち打製石斧と石皿を引いた残りの遺物についてのみ農耕具の可能性が論じられるとした。そして縄文文化の枠内で説明できる部分とできない部分を分けて考える必要性を主張している〔渡辺 1973〕。
 考古学的に遺跡・遺物から九州の後・晩期における植物利用形態の解明に挑んだのが山崎純男氏である〔山崎 1978〕。山崎氏は九州の縄文時代後・晩期の現状を概観し栽培型草原種子を対象とした農耕が存在したのかどうかついて考察した。それまでの九州後・晩期農耕論の中で農耕的な文化要素といわれてきた穂摘み具用石器の出現,石皿・打製石斧の盛行などの現象は,その多くがアク抜き技術の展開と半栽培を主とする照葉樹林文化複合段階に帰属し,中部山岳地帯の落葉樹林帯に形成された,いわゆる縄文中期農耕論の延長線上で捉えられ,縄文文化の枠組みの中で理解できるとしている。つまりこの時期,東日本的抜歯風習を中核とする文化複合体の西漸によって,西日本でもデンプン供給源となる植物の範囲が拡大された結果,石皿や打製石斧が増えたと考えたのである。まさに渡辺氏の主張にそった論旨を展開している。山崎氏はさらに土器組成,石器組成の変化からこの仮説を考古学的に検証する〔山崎 1983〕。この時期,土器の器種構成に浅鉢が加わり,そのあと文様を消失しながら急増していく。しかも火山灰台地の内陸部の遺跡にその傾向が強いという。石器組成には後期後半から打製石斧の急増というかたちで変化がみられ,晩期になると打製石斧の比率はやや下がるものの依然として主体を占めつづけると同時に,磨製石斧と石皿・磨石類も増加する傾向があると指摘した。つまり後期後半における打製石斧と浅鉢の増加は新しい植物質食糧の利用が始まるにあたって,その収穫具である打製石斧と調理具が増加したことを意味するが,晩期の石器組成の変化は樹木の伐採や加工が活発化したと同時に粉食加工具が増加したことを意味するとして,後期と晩期の石器組成の違いを打製石斧で採集した根茎類と堅果類という植物質食糧の利用から,焼畑による別の植物質食料利用への転換と考えたのである。山崎氏は非常に重要な問題を提起しているが,中でも打製石斧・磨製石斧・磨石・石皿などの機能と石器組成,浅鉢の出現・増加を代表とする器種構成の変化に大きな論点があるので次章で考えることにして,ここでは打製石斧と根茎類の関係についてふれておく。

2 山崎説の検証

 打製石斧  打製石斧の用途は大山柏氏によって土掘り具と想定されて以来,縄文中期農耕論の根拠の一つとして重要視されてきた。しかし渡辺誠氏は打製石斧がワラビ・クズ・カタクリ・ヒガンバナなどの根茎類を採集するための道具であると同時に,それらを遺跡周辺に移植する際に用いるという,いわば打製石斧を用いた根茎類の管理栽培が存在した可能性を示唆し,栽培へと大きく踏み込んだ見解を示した〔渡辺 1975〕。打製石斧の量的増加現象は,まず前期から中期にかけての関東・中部地方に始まり,後期中葉には近畿,後葉から晩期には九州にいたり汎日本的な現象となるが,最近の調査では近畿への波及は中期末まで遡ることがわかっている〔家根 1992〕。今村啓爾氏は打製石斧が何に使われたかについて堅果類や貯蔵穴との関係から考察している〔今村 1989〕。今村氏は堅果類を貯蔵した貯蔵穴が群集する地域と打製石斧の大量使用地域が一致しないことから打製石斧と堅果類との関係をまず否定する。また打製石斧が穀物を植えるときに用いられたとしたら貯蔵穴へ穀物を貯蔵する弥生時代に打製石斧がないのは,打製石斧と穀物との関係を否定できる証拠だと理解し,打製石斧との関係を積極的に否定する証拠のない根茎類が対象物だったと考えるにいたる。さらに根茎類一般の土掘り具とするよりも,特定の種類を対象とするほうが打製石斧の爆発的増加を説明しやすく,さらに打製石斧と磨石の使用量が比例しないことから磨石を用いたすりつぶしや水さらしによるデンプン採集,アク抜きの工程をあまり必要としなかった根茎類が対象とされたと考え,「ジネンジョ」を想定している。家根氏もジネンジョの管理栽培を考えており栽培説をとる。このような植物利用形態は,小林達雄氏の農耕の定義にしたがえば,少なくとも特定の種に手間ひまをかけるという点では農耕といえそうだが,そのあと継続しないので打製石斧を用いたジネンジョの管理栽培は農耕にはあたらないことになる。
 いずれにしても打製石斧の量的増加は,根茎類とくにジネンジョの管理栽培を背景としたものと考える研究者が少なくないことがわかる。今村氏が対象とした東日本では中部高地や西南関東を中心に大量の打製石斧が存在するが,西日本では家根氏のいうように桑飼下遺跡と九州中部の阿蘇外輪山の山麓,島原半島でしかみられないので,かなり限られていた可能性が高い。九州後・晩期における打製石斧の急増もジネンジョの管理栽培の盛行を反映したものなのであろうか。今村氏のいうように堅果類との関係はなさそうだが,穀物との関係までは否定できない。弥生中期以降の東日本の畑作地帯や,中国東北部・朝鮮半島北部の雑穀栽培には打製石斧が耕起具として使われているからである。


 根茎類  根茎類が注目されだしたのは小林行雄氏や直良信夫氏からであるが〔小林 1965〕,小林氏は打製石斧との関連で述べたわけではなく,縄文時代の生業について述べた中で,植物採集の一環として,サトイモの栽培の話を宮本常一氏から聞いた話として引用している(8)
 日本列島にはヤマノイモが自生している。しかしこの種のイモを移植したりして管理することは日本の民俗例にはなく自然にはえているものを採集する利用法が一般的であるという。したがってジネンジョを,しかも生殖を管理する栽培という形態で管理した可能性はかなり低いという。イモ類の中で栽培に値するのは熱帯起源の栽培型植物であるタロイモであるが,日本には自生しないことから人間が持ち込まない限り出現しない。ジネンジョは群生せず,しかも大形化するのに数年かかり,いくら採集活動が盛んだったとしても打製石斧の急増現象を説明するだけの対象となりうるのであろうか。やはり根茎類一般の採集活動が盛んになったものと考えておいたほうがよいのではないかと考える。



 4 石器組成の検討


 (1) 石器組成算出の基礎作業

1 器種分類と表現法

 石器組成を算出するには,まず石器の分類をおこない機能別に分ける必要がある。すでに小林康男氏〔小林 1974〕,野口行雄氏〔野口 1985〕,石川日出志氏〔石川 1988〕,平井勝氏〔平井 1991〕,柏原孝俊氏〔柏原 1992〕等による分類があるので,これらをもとに次のような分類をおこなった(表5)(図8)。対象とする時間幅が縄文時代後期中頃から弥生時代中期までと長く,同じ器種でも機能が変化している場合もあるので解決しなければならない部分もあるが,細かいところは別稿に譲るとしてこの分類をもとに縄文以来の剥片石器を含む「その他」を除いた狩猟具,植物採集具(土堀り具と収穫具),調理具,伐採具,木材加工具という6つの生産用具を取り上げた石器組成を考え,標準レーダーチャートを改変したグラフを用いて表現した(9)。このグラフはすでに野口氏が石器に応用しており〔野口 1985〕,また都出比呂志氏も弥生時代中期の土器文様の分析に適用していて〔都出 1984〕,組成を視覚的に理解できるという利点がある。六つの機能はいずれも縄文時代からあるが,収穫具は大陸系磨製石器の出現によって弥生時代以降に存在がより明確化するため,縄文時代から機能が特定されている狩猟具や調理具の対局にくるように,また縄文時代の植物採集活動にかかわる土掘り具と調理具類が近くにくるように配すことで縄文と弥生の石器組成の違いがきわだつように配慮した(図9)。


表5 縄文・弥生時代の石器分類表

用   途石    器
狩猟具石鏃,石槍
植物採集具土堀り具打製石斧,石鏃
収穫具石庖丁,石鎌
食糧加工具調理具石皿,磨石,凹石,敲石
漁撈具石錘,軽石,浮子
木工具伐採具磨製石斧(両刃),太型蛤刃石斧
加工具磨製石斧(片刃),片刃石斧,柱状片刃石斧,偏平片刃石斧,穿孔具
その他加工具石錐,砥石,スクレーパー,礫石,剥片石器,石匙
その他紡錘車,祭祀具,装身具,武器
図8-1 縄文・弥生時代の
石器分類図(1)
〔縮尺1/4〕
図8-2 縄文・弥生時代の
石器分類図(2)
〔縮尺1/4〕
図9 石器組成グラフ


2 石器数の数え方

 基本的に報告書の記述にしたがっている。考察などで石器の数を器種毎に提示しているものは,それをそのまま利用し,それ以外の報告書については観察表や掲載図面をもとに筆者のほうで器種を同定し算出した。

3 対象とした遺跡

 当初は西日本の縄文後期中頃から弥生時代前期までの遺跡を地域や立地毎に選ぶ予定だったが,石器の時期を特定できる遺跡は意外と少なく全部で30遺跡48例にとどまった(表6)。これらは基本的に50点以上の石器が出ている遺跡だが,50点以下の遺跡も12例含んでいる。理解しやすいように時期を大きく縄文後期中頃から晩期末,弥生早期,弥生前期に三大別したが,弥生中・後期までの石器を含む遺跡もある。


表6 石器組成算出遺跡一覧表

遺 跡 名時  期石鏃打製
石斧
収穫具調理具伐採具加工具合計
桑飼下京都縄文後期中葉38
4.19
751
82.89
0
0
78
8.61
24
2.65
15
1.66
906
永井Ⅰ-Ⅳ香川縄文後期中頃25
11.31
41
18.55
97
43.89
55
24.89
3
1.36
0
0
221
永井Ⅰ-Ⅵ香川縄文後期中頃24
18.90
0
0
44
34.65
25
19.69
34
26.77
0
0
127
永井Ⅰ-Ⅹ香川縄文後期中頃~晩期前半26
14.61
67
37.64
50
28.09
34
19.10
1
0.56
0
0
178
永井Ⅹ香川晩期前半9
7.14
70
55.56
30
31.75
7
5.56
0
0
0
0
126
永井Ⅹ全体香川晩期前半3
2.78
69
63.89
32
29.63
3
2.78
1
0.93
0
0
108
柏田福岡縄文後期後半~晩期前半481
84.68
44
7.75
0
0
11
1.94
23
4.05
9
1.58
568
広田福岡縄文晩期前半111
31.53
161
45.74
4
1.14
33
9.38
8
2.27
35
9.94
352
菜畑13下,13,9佐賀縄文晩期末19
38.00
0
0
0
0
12
24.00
19
38.00
0
0
50
礫石原長崎縄文晩期末0
0
24
61.54
10
25.64
5
12.82
0
0
0
0
39
古閑熊本縄文晩期前半10
1.63
155
25.29
0
0
326
53.18
105
17.13
17
2.77
613
天城熊本縄文後期後半~晩期前半3
0.57
415
79.05
19
3.62
58
11.05
30
5.71
0
0
525
麻生田大橋愛知弥生早期159
3.67
1,477
34.05
6
0.14
346
7.98
2,350
54.17
0
0
4,338
沢田岡山弥生早期~前期327
85.38
9
2.35
14
3.66
28
7.31
4
1.04
1
0.26
383
中寺洲尾愛媛弥生早期~前期82
27.89
0
0
187
63.61
20
6.80
2
0.68
3
1.02
294
長行A地区福岡縄文晩期末~弥生前期3
3.13
74
77.08
1
1.04
10
10.42
8
8.33
0
0
96
菜畑9-12層佐賀弥生早期29
64.44
1
2.22
2
4.44
5
11.11
7
15.56
1
2.22
45
菜畑8下層佐賀弥生早期2
9.52
1
4.76
4
19.05
2
9.52
9
42.86
3
14.29
21
曲り田福岡弥生早期158
63.71
0
0
15
6.05
7
2.82
51
20.56
17
6.85
248
有田七田前福岡弥生早期38
54.29
2
2.86
4
5.71
2
2.86
15
21.43
9
12.86
70
十郎川福岡弥生早期53
32.32
4
2.44
29
17.68
37
22.56
24
14.63
17
10.37
164
野多目福岡弥生早期51
80.95
5
7.94
1
1.59
2
3.17
4
6.35
0
0
63
宮の本長崎縄文晩期中頃7
21.21
15
45.45
8
24.24
0
0
3
9.09
0
0
33
朝日愛知弥生前期~後期453
19.09
9
0
34
1.43
1,440
60.68
206
8.68
231
9.73
2,373
長原大阪弥生前期中頃~後半188
93.07
0
0
0
0
14
6.93
0
0
0
0
202
山賀大阪弥生前期52
61.18
0
0
9
10.59
20
23.53
3
3.53
1
1.18
85
永井香川弥生早期~前期5
12.50
13
32.50
21
52.50
1
2.50
0
0
0
0
40
下川津香川弥生前期後半~末22
5.70
68
17.62
243
62.95
48
12.44
5
1.30
0
0
386
中の池香川弥生前期後半~末,中・後期11
6.08
25
13.81
79
43.65
60
33.15
0
0
6
3.31
181
田村Ⅰ高知弥生前期前半27
22.69
1
0.84
8
6.72
45
37.82
12
10.08
26
21.85
119
田村Ⅱ高知弥生前期後半~末28
9.36
7
2.34
56
18.73
143
47.83
43
14.38
22
7.36
299
綾羅木全期山口弥生前期後半~中期前半43
11.62
40
10.81
44
11.89
174
47.03
40
10.81
29
7.84
370
綾羅木Ⅰ山口弥生前期中頃5
11.11
3
6.67
6
13.33
27
60.00
2
4.44
2
4.44
45
綾羅木Ⅱ山口弥生前期後半7
17.07
2
4.88
7
17.07
24
58.54
0
0
1
2.44
41
綾羅木Ⅲ山口弥生前期末~中期初頭30
13.95
30
13.95
23
10.70
97
45.12
23
10.70
12
5.58
215
長行B地区福岡弥生前期後半~後期0
0
0
0
29
72.50
0
0
11
27.50
0
0
40
板付会館第7層福岡弥生前期初頭5
41.67
0
0
4
33.33
0
0
2
16.67
1
8.33
12
板付1区福岡弥生前期22
15.71
0
0
26
18.57
26
18.57
56
40.00
10
7.14
140
板付2区福岡弥生前期~後期22
24.44
0
0
34
37.78
9
10.00
21
23.33
4
4.44
90
板付H-5区福岡弥生前期~中期前葉15
31.25
0
0
12
25.00
3
6.25
14
29.17
4
8.33
48
今川福岡弥生前期中頃~前期後半33
70.21
0
0
0
0
1
2.13
6
12.77
7
14.89
47
比恵25次福岡弥生前期中頃~中期初頭0
0
0
0
33
17.65
83
44.39
460
24.60
0
13.37
187
比恵26次福岡弥生前期後半1
1.67
0
0
11
18.33
12
20.00
25
41.67
11
18.33
60
北松尾口福岡弥生前期後半~中期前半102
59.65
0
0
39
22.81
0
0
13
7.60
17
9.94
171
鹿部山福岡弥生前期末~中期1
1.61
0
0
17
27.42
10
16.13
14
22.58
20
32.26
62
菜畑8上層佐賀弥生前期初頭20
4.39
1
1.22
11
13.41
13
15.85
26
31.71
112
13.41
82
菜畑7下層佐賀弥生前期後半10
26.32
0
0
10
26.32
3
7.89
15
39.47
0
0
38


 (2) 石器組成の算出

 48例の石器組成を標準レーダーチャートに表現した結果,次のような12の典型的な組成を認めることができた(図10)。これは組成の中できわだって突出する石器に注目したものである。

図10 西日本の石器組成

1 縄文時代の石器組成

 i) 狩猟具突出型A  縄文時代後・晩期の福岡県柏田遺跡にみられる型である。柏田の打製石鏃は85%を占め,近畿地方草創期の遺跡の石鏃の比率60~80%にも匹敵する数字である〔家根 1992〕。ただし伐採斧が4%で草創期に比べて高い点が異なっている〔山崎 1980〕。弥生早期以降にも石鏃の比率がきわめて高い例があるが大陸系磨製石器を伴うことを重視して柏田とは別の型とした。
 ii) 土掘り具突出型  打製石斧・扁平打製石斧・打製石鏃等と呼ばれ土掘り具と考えられている石器が70~80%を占めて他の石器を圧倒する型である。京都府桑飼下(83%),熊本県天城(80%),福岡県長行A(77%)など縄文時代後・晩期の遺跡にみられる。
 iii) 収穫具・調理具型A  打製の穂摘み具と考えられている石器,打製石斧・石皿類といった植物採集・調理具が全般的に高く20~40%を占める型である。香川県永井・下川津・中の池,熊本県礫石原,福岡県広田(10)など縄文時代後・晩期と弥生早・前期の遺跡にみられるが,とくに香川県と九州に集中している。香川には横長の器体の左右にえぐりをいれたスクレーパーがあり,弥生の打製石庖丁に類似しているところから穂摘み具と判断されている〔渡部 1990〕。九州には高木正文氏が打製石庖丁,打製石鎌と推定した石器がある〔高木 1980〕。縄文時代のこの種の石器は弥生時代の収穫具との形態的類似性から穂摘み具と考えられているが,まだ機能に関して詳細な調査がおこなわれていないので,使用痕分析や穂摘み実験などが早急な課題とされている(11)
 iv) 調理具・伐採具型A  縄文時代後・晩期の佐賀県菜畑13層,熊本県古閑にみられる型で,調理具が20~50%,伐採斧が17~40%を占める。しかし古閑では横長剥片を素材とする削器が穂摘み具ではないかといわれているので,将来的に収穫具・調理具型Aに包括される可能性もある。
 v) 伐採斧・土掘り具型  伐採具が20~50%,打製石斧が30%を占める型で,東海地方の突帯文土器段階に属する愛知県麻生田大橋・五貫森遺跡にみられる型である。
 以上ii)からv)は本格的な水稲栽培が始まる前の,植物質食糧への依存状況を反映した石器組成と考えるが,いくつかのパターンがみられたことは西日本にも採集対象となった植物の違いや,採集具の種類に違いがあったことを予想させる。

2 弥生時代の石器組成

 次に水稲農耕開始後の石器組成をみてみよう。この時代の石器組成については酒井龍一氏による一連の研究があるが〔酒井 1986・1989〕,これは大陸系磨製石器に限定した伐採斧・加工斧・穂摘み具の比率をみたもので,各地の水稲農耕の特色および推移に主眼がおかれたものだが,石川氏や柏原氏のように縄文系の石器をも含めた石器組成から,弥生時代の生業全体を考えていこうとする研究もすでに始まっている。今回あつかった六つの組成は,酒井氏の指標に縄文以来の土掘り具,調理具,狩猟具をいれることで東日本の畑作地域も含めた検討ができると同時に,弥生時代の生業類型を復原する指標にもなりうるものである。
 vi) 狩猟具突出型B  菜畑9-12層,福岡県曲り田・野多目・有田七田前・今川,岡山県沢田,大阪府山賀・長原,愛知県馬見塚・貝殻山遺跡にみられる。打製石鏃が50~80%できわだつ点では柏田と同じだが,沢田と長原を除いて伐採具が15~20%とかなり高い点に特徴がある。これらの遺跡のうち大陸系磨製石器を出土したのは各地域でもっとも早く雑穀・穀物栽培を始めた遺跡(12)であることを考えあわせれば,石鏃の突出傾向が単に狩猟の比重が高かったことを意味するとは考えられないという点で,柏田とは別の社会背景が反映したことを強くうかがわせる石器組成である。
 vii) 伐採具・収穫具型  菜畑8下層・同上層・7下層,福岡県十郎川遺跡など,北部九州の各地でわりと早く水稲農耕を始めた集落にみられる型である(13)。菜畑9-12層,曲り田遺跡に比べて石鏃の比率が20%台までおち,大陸系磨製石器,中でもとくに伐採具と収穫具が顕著である。また縄文時代以来の調理具も依然として存在するが,打製石斧はほとんどないといってよい。酒井氏の「北部九州型」に相当しようか。
 viii) 収穫具・調理具型B  香川県に多くみられる型で中の池遺跡は環濠集落でもある。代採具・加工具はほとんどみられないものの打製石斧が15%前後みられ高い比率を示す。これは縄文時代の収穫具・調理具型Aとほとんど変わっておらず,収穫具の比率がやや高く土掘り具の比率がやや低い程度の違いしかないが弥生時代に属すということで区別したにすぎない。
 ix) 調理具突出型  山口県綾羅木,高知県田村,愛知県朝日遺跡などにみられる型でいずれもこれらの地域でもっとも古い本格的な農耕集落である。調理具が50%前後でかなり高い共通点をもつが綾羅木では打製石斧が10%近く存在し,田村・朝日では大陸系磨製石器が10%以上の割合で存在する。石川氏が「低地型」と名付けたのは朝日のような石器組成である。
 x) 調理具・伐採具型B  調理具(10~20%)と大陸系磨製石器(20~40%)がきわだつ石器組成で,中でも調理具の比率が一番高い。同じ型のiv)に比べると収穫具の比率が高く定型化している。北部九州の前期農耕集落の一般的な型で,福岡県板付・比恵・鹿部山遺跡など拠点集落といわれている遺跡が該当する。板付の打製石斧は1点だけだが,vii)より石鏃の比率がさらに下がってはいるものの他の石器と比べてやや高いという傾向は継続している。酒井氏のいう典型的な「北部九州型」にあたろうか。
 xi) 狩猟具・土掘り具型  縄文時代以来の土掘り具がかなりの比率を占める弥生時代の石器組成で,愛知県牧野小山,群馬県新保遺跡など東日本にみられる。石川氏が「台地型」と呼ぶ型である。中でも新保は弥生時代中~後期の水田跡や木製農具が検出されて,水稲農耕をおこなっていたことは明らかだが石器組成に水稲農耕より畑作の特徴が強くみられることは,石器組成から明らかにできることの限界を示すものとして注目される。同時に石器組成からは水稲と畑作の比重などは判断できないことも示していて,弥生以降の生業パターンをはかるには他の材質の道具を含めて考える必要のあることを改めて認識させる事例である〔石川 1991〕。
 xii) 狩猟具・収穫具型  福岡県北松尾口,岡山県百間川兼基・今谷遺跡にみられる型である。水稲農耕を基盤とする遺跡はやがてこのような型になっていくと考えられる。その理由はいくつか考えられるが,斧類の鉄器化による材質転換が石器組成に反映したり,水稲農耕の定着に伴い縄文的な採集活動や加工方法の衰退が反映する場合もあろう。今回取り上げた2遺跡は時代が古いこともあって鉄器化の可能性はまだ少ないが,穂摘み具の鉄器化が一番遅れることを考えれば穂摘み具の比率の高さは説明できる。水稲農耕を基盤としていることは確実なので,決して狩猟に大きく依存していたとは考えられず,他の材質への転換が遅い道具が高い比率となってあらわれた組成である。


 (3) 縄文・弥生時代の石器組成の特徴

 以上,縄文時代後・晩期から弥生時代中・後期までの石器組成をみてきたが,広い地域にわたって同じ時期に共通してみられる型や広い地域でみられるが出現時期が異なる場合があるなど,各地の採集・栽培活動に応じて石器組成が異なっていることがわかった。ただ石器組成をつかった生業類型の推定は,木製農耕具や鉄器化の影響を受け材質転換の進んだ部分の生産活動が組成に反映されなくなる弥生時代,とくに中期よりあとになるほど難しくなることも明らかになった。
 12の組成のうち,時代的には縄文時代4,弥生時代8,地域的には西日本全体にみられるものと四国や東海,東日本に偏るものがある。狩猟具突出型Aは縄文時代草創期からみられる狩猟傾斜型の石器組成で山間部の遺跡では時期を問わず存在する可能性はあるが,一般的には縄文時代前期以降の温暖化による落葉樹林・照葉樹林の拡大に伴う,堅果類など植物質食糧の増加に伴って定住化が進み,植物採集活動がシステムとして機能しだすとみられなくなる石器組成である。評価が難しいのは植物質食糧に依存するii)以降である。一応,水稲栽培の開始と共に出現する大陸系磨製石器を含むか含まないかでii)からv)までとvi)からxii)に分けて考える。
 大陸系磨製石器をまったく含まないii)からv)が,植物質食糧に大きく依存した石器組成であることへの異論はないと思われる。野生型植物の利用の場合,一部の生態学者や文化人類学者が提唱する半栽培,管理栽培という行為を農耕と呼ぶかどうかという問題や,いわゆる縄文時代後・晩期に存在したと推測されている雑穀類をどう評価するかといった問題を考えるうえでも,ii)からv)は時期が時期だけに大きな意味をもつ石器組成といえよう。
 基本的に大陸系磨製石器が伴うvi)以降は,イネを代表とする栽培型植物の利用,誰もが栽培と考える生業を基盤とする石器組成としてよいが,生業全体に占める水稲栽培の割合を判断できる情報が含まれていないことはいうまでもない。また畑作の存在を物語る打製石斧や,堅果類の処理に用いた縄文以来の調理具が含まれていることも事実である。したがってvi)以降は生業の中における稲作,畑作の有無,ひいては両者の程度を反映した組成となっている可能性がある。


 (4) 東日本の石器組成との比較

図11 東日本の石器組成

 図11は東北・関東・中部地方の石器組成を生産用具にしぼって示したものである。前期後葉の埼玉県鷲森遺跡(1)は土掘り具突出型で天城や桑飼下とまったく同じ石器組成である。また東京都神谷原(中期)も調理具がやや多いものの同じと考えてよい。したがって渡辺誠氏のいわれるとおり落葉樹林帯の根茎類・堅果類の採集-加工-保存というシステムの存在を反映した石器組成と考えられる。
 野口氏の集計した千葉県内の称名寺・堀之内に属する貝の花,矢作,加曽利遺跡の漁撈具関係を除いた生産用具の組成は,調理具・伐採具型Aの古閑や莱畑13層に近いかたちをみせる。先の土掘り具が表面にでる組成に対して,調理具に代表される堅果類の採集活動が表にでた組成と考えられる。したがってこの二つは野生型植物の採集という伝統的な生産システムを反映したものである。
 次に長野や群馬などの沖積地に立地する晩期後葉の石器組成である。長野県御社宮司・経塚・氷・沖Ⅱは狩猟具と土掘り具が突出する組成で,弥生時代中期や後期の中部・関東地方の畑作の比重が高い遺跡と同じ傾向をみせる。石鏃の多さは東北地方との関連で捉えられているが,氷や沖Ⅱでは水稲や雑穀栽培の可能性が指摘されていることにうまく対応する石器組成である。東北地方の晩期の石器組成も興味深い。青森県九年橋・砂沢,岩手県東裏遺跡は狩猟具突出型Aで大陸系磨製石器が基本的にないという点で岡山県沢田や大阪府長原,愛知県馬見塚遺跡とも非常によく似ている。青森ではソバやコメの栽培が,西日本では水稲の栽培が想定されていて,栽培の対象となった穀物が異なっているものの生業全体の中における栽培の位置づけは共通していたのではないかと考えられる。土掘り具がさほど多く見られないのは根茎類に比べると深耕の必要がないことが破損率を低く押さえる要因となったと考えることもできる。伐採具が少ないのも水田ではなく陸田,もしくは畑と考えれば大量の木材も必要としない。長野や北関東との違いはこのように考えられるであろう。




5 縄文後・晩期から弥生早期までの考古学的変化


 (1) 石器組成の変化

1 調理具・伐採具型A,収穫具・調理具型Aの出現

 山崎氏が指摘した晩期にみられる伐採具の増加と調理具のさらなる増加は,古閑や菜畑13層にみられる調理具・伐採具型Aの出現として捉えることができた。また古閑や礫石原のように台地上の遺跡は植生でもみたように照葉樹林帯の中でも焼畑に適したところにあるが,菜畑13層や永井は沖積地にあるので照葉樹林の種類からみてやや焼畑は不向きである。同じく沖積地上の微高地にある四箇遺跡の石器組成はわからないが,花粉分析と雑草の種類,大陸の製作技法で作られた刃器の増加など焼畑の存在をうかがわせる状況証拠が豊富なので,低地上の遺跡でも焼畑の存在を完全に否定することはできない。

2 打製石斧と収穫具

 雑穀・穀物栽培の存在を考えるには打製石斧に耕起具,収獲具に穂摘み具の機能があったのかどうかが問題となってくる。
 i) 打製石斧  縄文時代前期~中期に西南関東や中部地方で急増する打製石斧は,短冊型がほとんどで長さは20cm以下,刃幅も5cm前後,重量が100g前後で薄く細長く軽いという特徴をもつ(図12-1)。刃部の使用痕は刃に対して直角についているものが多いので,突き棒や掘り棒として深いところまでまっすぐにつきたてるような,まさにジネンジョなどの根茎類の採取に適したものとなっている。またこれとは時期と地域を同じくして急増し,組成上も一定の位置を占め植物採集具の可能性を指摘されているため横刃型石器(図14-1)との関係も気になるところである。桑飼下の打製石斧もほとんどが短冊型でサイズも含めて関東・中部と同じなので,機能的にも従来からいわれているように東日本的な植物採集システムの中で用いられたものである。後期後半の古閑や天城の打製石斧も大形品がわずかにみられる以外は形態・法量とも類似性が高い。


図12 東日本の打製石斧〔縮尺1/3〕
図13 西日本の打製石斧〔縮尺2/3〕
図14 縄文・弥生時代の打製収穫具
〔縮尺1/3〕
図15 縄文後期~弥生早期の
器種構成の変化
図16 深鉢における屈曲型と砲弾型の
比率の変化

 長野県の中・南信地区では晩期後半に打製石斧が再び急増して後期の狩猟具傾斜型から植物採集具傾斜型へ転換する。打製石斧も短冊型から撥形・分銅形主体となり御社宮司では撥形主体となる(図12-3・4)。法量も大きくなり刃幅の広いものが出現してくる。形態の変化や使用法の変化を意味するものとして,中期的な掘り棒や突き棒から鍬的な使用への変化を思わせる。狭く深く掘るから浅く広く耕すへという変化は採集対象物の変化を想像させるが,遺跡が低地へ降りていることや,西日本的な土器の伴出が顕著になること,プラントオパールなどで穀物の存在が確かめられていることなどを考え合わせれば,栽培が生業の一部に取り入れられていた可能性は高い。
 弥生時代になると下伊那地方を中心に打製の石製農具が発達する。縄文後期から存続する短冊形はほとんど変化していないが,刃部が丸くひろがるナスビ形が新たに出現する。長さ15cm以上でかなり大形である(図12-5・6~9)。このように東日本では晩期後半以降,形態の変化や大形化など弥生時代後期にかけて漸移的に変化していくが西日本はどうだろうか。
 晩期の広田や長行は低地に立地する遺跡である。広田は短冊形主体で法量も桑飼下や古閑とほとんど同じである。しかし全体的に扁平傾向が強く認められること,長さ20cm,重さ722gにも達する大形品がわずかに認められること(図13-1),横剥ぎ技法が確立していることなどから小池史哲氏は縄文時代中期の打製石斧とは異なるとみている。短冊形でも長辺に抉り込みが生じて装着法に変化がみられることも東日本の晩期と共通している。同じく横剥ぎ技法で作られ収穫具の可能性がある石刀が伴ってはいるが,抉り込みなどはまだない(図14-4)。しかし東日本的な精神文化を示す遺物も出土しているなど縄文的色彩が色濃く認められる。長行A(図13-2)も広田と基本的に同じであるが籾痕土器が見つかっているので判断が難しい。
 それに対して収穫具が明確な永井の打製石斧も短冊形が主流だが,撥形の比率は桑飼下に比べてやや高い点や大形品がわずかに認められることを除けば,それほどの違いは認められない。永井では晩期になると打製石斧の増加と石皿の減少が説かれドングリ類から穀物への転換が考えられているが,コメなどの製粉する必要のない植物の栽培ならよいが,製粉が必要な雑穀・穀物類を栽培していた場合だと粉食加工具の減少は説明できない。
 突帯文土器単純段階になると鹿児島県大隅半島を中心に有肩石斧(図13-3)や大きく抉りのいった短冊形石斧(4)が顕著になる。北部九州や薩摩半島の西海岸では水稲栽培が始まっているこの時期に,東日本の晩期後葉の石斧に似たものが出現することはこの地域における畑作の開始を物語るものといえよう。宮崎県南部から大隅半島にかけての地域は,突帯文土器の出現前後に孔列文土器を模倣した土器や壺,擦り切りの石庖丁が出現し,プラントオパールからコメが存在したといわれている。したがって松菊里以前のオカボを含む雑穀・穀物文化の情報が伝わっていた可能性があることと関連して面白い事実である。弥生前期以降はほとんどみられなくなるが短冊形と撥形は存在する。このうち撥形は綾羅木のように石鎌やオオムギとあわせて畑作との関係で捉えることができよう(図13-5)。中期以降になると定型化した石鍬といえる有肩石斧が登場する。
 東日本との対比の結果,桑飼下・長行や台地上に位置する古閑・天城・礫石原は東日本の縄文中期との類似性が強いが,晩期の低地に位置する広田・菜畑・永井はやはり東日本と同様に大形品があったり抉りのはいった短冊形の出現など変化がみられる。また突帯文土器単純期の南九州の打製石斧は朝鮮無文土器系遺物やプラントオパールから畑作との関係を確実にいえそうである。逆に南九州との形態的類似性をもつ中部・関東の縄文晩期後葉以降の打製石斧も,これまでいわれているように畑作との関係がかなり強まったと思われる。
 ii) 収穫具(図14)  東日本縄文中期~晩期の横刃型石器(1~3),広田の石刀(4),古閑の横長剥片を素材とする削器は植物採集具と考えられているが,収穫具といえる特徴をもっているのであろうか。穿孔とか抉りなどの工夫は,弥生の例を除くと西日本の後・晩期(5~7),東日本の晩期後葉(2)にはみられるが,縄文中期にそのような工夫はみられない。使用痕分析は今後に期待するしかなく(14),また雑穀・穀物の植物遺存体は,縄文後・晩期の九州・中国・長野・北関東で見つかっているにすぎない。

3 生産用具からみた後・晩期農耕の可能性

 収穫具様石器の中で抉りや穿孔など恒常的に使うのに便利な工夫がみられるものは恒常的に植物採集に使われた可能性は高い。打製石斧も大形化や形態の変化などはみられることがわかった。「縄文晩期以降においてあたらしい評価をなしうる石器の出現が,縄文晩期社会の生産にねざしたものではないだろうか‥‥‥。」という潮見氏の発言はいまだにその重要性を失っていないのである〔潮見 1964:24〕。


 (2) 土器器種構成の変化

1 浅鉢の動向

 すでに山崎純男氏の研究があることは述べた。浅鉢は打製石斧が出現するまえから九州に出現するが(北久根式:後期後半),後期後葉の西平式・三万田式になると急増し40~50%を占めるようになり(図15),打製石斧の爆発的増加と連動している。土掘り具突出型の石器組成を示すすべての遺跡で浅鉢の比率が高いわけではないが,山崎氏のいうように火山灰台地上に立地する土掘り具突出型の天城や古閑は浅鉢も30~70%でかなり高い傾向をもつ。しかし晩期にはいると土掘り具突出型で低地にある宮の本や長行では,浅鉢の比率が20%以下に下がる。後・晩期に限らず土掘り具突出型を示す遺跡は立地によって浅鉢の比率に差が見られ,台地上の遺跡は浅鉢の比率が高く低地に位置する遺跡は低いという傾向がある。しかし同じ低地でも菜畑9-12層のように穀物(水陸未文化稲)栽培をおこなっている遺跡では浅鉢が54%で火山灰台地上の遺跡の比率に匹敵するほど高いことが注目され,栽培をおこなっていても堅果類や根茎類へかなり依存していたことがわかる。渡辺氏のいうように浅鉢が根茎類や堅果類をこねる道具であったならば,浅鉢の比率が低い広田や長行では根茎類や堅果類への比重が低かったことになる。つまり雑穀・穀物を食べることで粉食から粒状食へ転換したことが浅鉢の低下をもたらしたとしても,栽培の位置づけが採集や狩猟に対してより高くならないかぎり,菜畑9-12層のように浅鉢が高いこともありうる。逆にいえば浅鉢の低さが意味をもつのは,栽培を生業の基盤にすえる弥生早期以降になってからなのである。広田や長行の石皿類がそれほど少いとはいえないこともこれを裏付けている。
 早期に浅鉢が全器種に占める割合は,菜畑9-12層:50.9%,宇木汲田Ⅸ層:28.7%,菜畑8下層:25.6%,板付:6.6%である〔横山・藤尾 1986〕。また壺が全器種に占める割合は菜畑9-12層:4.0%,8下層:7.8%,宇木汲田Ⅸ層:12.2%,板付:37.8%で,浅鉢で示した遺跡の順序とはほぼ逆になっていて浅鉢が全器種に占める比率の低下に応じて壺の比率が増大することがわかる。

2 煮炊き用土器の器形差

 縄文後・晩期の煮炊き用土器には多くの器形があるが,大きくは底部にむかって単純にすぼまる砲弾形(A)と胴部が湾曲する屈曲形(B)に分けることができる(図16)。突帯文土器単純段階は,以前示した数字と異なりほとんどの遺跡で砲弾型が多い。これは突帯文土器の甕に粗製深鉢を加えて算出したためだが,突帯文甕にみられた器形の地域差が,粗製深鉢にはみられないことを意味している。粗製深鉢は唐津に多くみられ福岡にはほとんどみられないという地域差もあるので,同じレベルで比較できるのかという疑問も残る。また突帯文土器以前の深鉢は突帯文土器段階に比べて器形のバリアントが豊富なので,このような器形差と機能差の関係についての検討もしないままであるが見通しを述べておきたい。
 後・晩期で注目すべきことは土掘り具が多く屈曲型甕が多い桑飼下,櫛毛川,古閑の浅鉢の比率が非常に高いことである。冷涼化したこの時期に落葉樹がかなり低いところまで降りて来ていた火山灰台地上の遺跡では,コナラ節の堅果類を利用できたと思われるので,アク抜きのための加熱処理をする深鉢を多量に必要とした。このように打製石斧,磨石・石皿,浅鉢,屈曲型深鉢が後期中ごろ以降の収穫具・調理具・煮炊き具(アク抜き,調理)のセットとして完成されたと考えられる。一方で宮の本や広田のように収穫具・調理具・土掘り具を均等にもつ遺跡は砲弾型深鉢が多く浅鉢は少ないという特徴をもち,これなどは水稲栽培開始以降の器種構成と同じである。
 早期になると宇木汲田Ⅸ層で1:20,菜畑9-12層で1:7,8下層で1:2,板付で4:1 で,順に砲弾型の比率が高くなる。唯一板付だけは砲弾型の比率の方が高いことが注目されるが,板付Ⅰ・夜臼式共伴期の突帯文土器の器形差をみるとこの比率は逆転し1:2となる。これは砲弾型の機能が遠賀川式甕にうつることで夜臼の砲弾型の比率が下がったためと考えられる。すると屈曲型の比率は板付Ⅰ式甕が加わっても突帯文土器段階をつうじて板付遺跡では変わらなかったことになる。また板付Ⅱa式以降の九州中・南部を除く地域では遠賀川式土器という砲弾型の甕のみで弥生の煮炊きはまかなわれる。このように早期以降は水稲栽培への比重が高まれば,浅鉢が減少すると同時に壺が増加し,煮炊き用土器は砲弾型の器形へ統一されることがわかる。菜畑9-12層では確実に雑穀・穀物栽培をやっているのに浅鉢が高いので根茎類や堅果類に依存する部分が多かったからと考えたが,それでも屈曲型甕が後期に比べて少なくなっているので調理対象物が変化したことは確実であろう。

図17 縄文時代後・晩期における
深鉢の粗製化の時期

3 深鉢の粗製化

 この現象は西日本の縄文晩期を特徴づける動きとして重要視されている〔家根 1992〕。図17は九州から始まる有文深鉢の粗製化が近畿に及ぶまでの状況を表現したものである。まず後期前半に中九州(右下がりの斜線部)で一次調整が巻貝調整から板工具調整へ変化することで粗製化が始まる。ただしこの段階は土器製作の最終工程で研磨してしまうので,表面では粗製化したことはわかりにくいという。後期後半になると玄界灘沿岸地域でも粗製化が始まり(左下がりの細かい斜線部),晩期初頭~前半の岩田Ⅳ類の段階には西部瀬戸内でも二枚貝条痕や板ケズリ調整が施されるようになると考えられている。そして近畿でも滋賀里ⅢA・B式の段階に粗製化が始まり,中九州はようやく研磨を施さないようになる。中九州はもっとも早く粗製化を始めた地域だが最終工程で研磨してしまう伝統をかなり後まで残す地域で,このような伝統を強く保持する保守性は,突帯文甕を使いつづけ遠賀川甕を容易に受け入れなかったところにもみることができる。


 (3) 狩猟対象動物相の変化

 水稲栽培の普及にともなって狩猟の対象となった哺乳動物相が変化するという〔甲元 1991B〕。甲元氏によれば縄文時代は哺乳動物を網羅的に獲得し特定種に偏ることはないという。菜畑のイノシシとシカの比率をみると,早期が21:7,前期25:17,中期5:3で網羅的な獲得自体に変化は起きてないとし,岡山県門田,香川県下川津,三重県納所も同じ傾向をもつという。ところが曲り田は4:1,福岡県下稗田(前期)が3:1でイノシシに偏り,大阪府池上では哺乳動物ではなくマダイに集中,唐古や朝日でもイノシシに偏る傾向をみせるという。つまり捕獲種が激減し,イノシシの若獣やマダイなどの特定種に集中するようになるという。このように狩猟面における縄文時代と弥生時代の違いは,網羅的狩猟か選択的狩猟かにあるというのである。縄文時代にもサケ・マスの選択的漁撈があるのでこの視点が縄文・弥生の区別になるとは一概にいえないが,少なくとも植物でも動物でも魚でも,ある種類への特定化は大きな意味をもちそうである。この問題については後述する。ただ驚くべきことは,弥生時代になっても網羅的狩猟をおこなっていた門田,下川津,納所遺跡では突帯文系や条痕文系の甕を使い続けているということである。こうなってくると狩猟動物相と水稲・畑作の比率との関係も検討してみたくなるが,これは今後の課題としておきたい。


 (4) ま と め

 以上のように土器組成の変化と石器組成の変化には興味深いものがあって,浅鉢が多くて屈曲型深鉢が多いところは,打製石斧や調理具も多い。また浅鉢が多くて砲弾型が多い菜畑9-12層は雑穀栽培をおこなっていて,狩猟具突出型Bの石器組成であった。そして浅鉢が少なく砲弾型が多く狩猟具突出型Bの板付は水稲栽培中心の生業パターンを示す。以上のことから石器組成と土器組成は関連すると思われる。したがって広田のように浅鉢が少なく砲弾型が多いところは打製石斧にさほどの変化が認められなくても,根茎類・堅果類の採集以外に雑穀栽培をおこなっていた可能性も出てくるのである。
 雑穀・穀物栽培が始まっている菜畑9-12層を目安にその前後の土器の器種構成,石器組成,狩猟対象となった動物相を検討してみると,突帯文土器以前は網羅的な食糧獲得をおこなっていて,雑穀・穀物栽培が加わっていても縄文的枠組みを変更するような根本的な変革は認められないが,山ノ寺式になると大きく変化することが再確認できた。したがって縄文後・晩期における植物採集・栽培は想定できるものの,あくまでもメジャーフードの一つにそれらが加わっただけで,まだメジャーフードとして特定化される段階には至ってなかったということだけはいえそうである(15)。しかし,そこで培われた縄文人達の経験がのちに水稲栽培を始めるにあたって役だった事は想像に難くない。



 6 縄文・弥生時代の生業類型


 (1) 縄文時代後・晩期

 縄文時代は採集・狩猟・漁撈活動をバランスよく組み合わせた経済基盤にあるが,環境に対する適応の仕方で比重のおきかたに差があったことが石器組成からわかった。そこでこれらの生産用具と採集対象物の関係から生業類型を設定する。後・晩期は狩猟と植物採集のどちらにより傾斜していたかが生産用具の構成比に反映するため,狩猟により傾斜していた狩猟傾斜型と植物採集により傾斜していた植物採集傾斜型の二つに分けることができ,さらに後者は採集の対象となった植物質食糧の違いによって細別できる(表7)。


表7 石器組成と生業類型

遺 跡 名時  期備  考生業類型
狩猟具突出型A柏田縄文後・晩期
狩猟傾斜型
土堀り具突出型桑飼下・天城・長行A縄文後・晩期
植物採集傾斜型A
収穫具・調理具型A永井・礫石原・広田縄文後・晩期香川に典型植物採集傾斜型B
調理具・伐採具型A菜畑13層・古閑縄文後・晩期
植物採集傾斜型C
伐採具・土堀り具型麻生田大橋・五貫森弥生早期
植物採集傾斜型C
狩猟具突出型B菜畑9-12層・曲り田
野多目・有田七田前・今川・山賀・長原・馬見塚・貝殻山
弥生早・前期稲作第一世代水稲栽培型
伐採具・収穫具型菜畑8下・上,同7下
十郎川
弥生早・前期稲作第二世代
北部九州のみ
水稲栽培型
収穫具・調理具型B下川津・中の池弥生前・中期第二世代水稲・畑作混合型
調理具突出型綾羅木・田村・朝日弥生前・中期石川の低地型水稲・畑作混合型
調理具・伐採具型B比恵・板付・鹿部弥生前期北部九州拠点集落
酒井の北部九州型
水稲栽培型
狩猟具・土堀り具型牧野小山・新保弥生中・後期東日本畑作地帯
(石川の台地型)
畑作型
狩猟具・収穫具卓越型北松尾口
百間川兼基・今谷
弥生前~後期鉄器普及以後水稲栽培型


1 狩猟傾斜型

 東日本の縄文文化がはいる以前から西日本に存在した生業類型で,石鏃が突出する(狩猟具突出型A)。東日本でも前期後葉以前と中部地方の後期に一般的である。今回は柏田遺跡が該当した。狩猟・採集を経済基盤としながらもより狩猟に依存する部分が多かった生業類型である。

2 植物採集傾斜型

 i) 植物採集傾斜型A-堅果類・根茎類,桑飼下経済類型  根茎類採集用の細く狭く,薄くて軽い短冊形の土掘り具が突出し,ついで磨石や石皿,敲石などの調理具が高い比率を占める。さらに九州の火山灰台地上の遺跡では,収穫物を粉にしてこねる容器として使われた浅鉢の比率が50%近くを占め,屈曲型深鉢の比率も非常に高い傾向をみせる。渡辺氏の桑飼下経済類型は植物採集にメインをおくという意味では西日本全体に適用できるが,土掘り具突出型の石器組成は桑飼下と長行,天城など一部に限られている。後期中頃の気候の冷涼化にともない落葉樹林が西日本の低地まで降りてできた自然環境と,東日本から伝播した落葉樹林帯に根ざした植物採集システムが結び付き,とくに有明海沿岸の火山灰台地上で花開いたものである。したがって火山灰台地上でとれた根茎類や落葉性の堅果類をもとに加工された貯蔵デンプンと,有明海沿岸部の生産性の高い汽水域でとれた海産物との交易によって高度な縄文社会が成立したと考えられる。西日本で後期中頃から晩期にかけて盛行し,突帯文土器の出現期まで散発的にみられる,きわめて伝統的な生業類型である。
 ii) 植物採集傾斜型B  調理具と収穫具が中心になる収穫具・調理具型Aの石器組成で,穂摘み具とされている石器が卓越する点がAと異なる。この石器組成は賀川光夫氏以来の縄文晩期農耕論や,渡部明夫氏の穀物栽培説の大きな根拠となるものであるが,以前からいわれているように穂摘み具と認定するには手続きが不足していたり,栽培型植物(穀物)が特定できない現状ではもう少し検討が必要である。しかし紐かけ穴のような抉りがあらわれたり,幅広で重く大形で中央に抉りこみのはいる短冊形の土掘り具がみられるなどわずかながら変化も認められる。これらの変化は弥生以降のこの地域の穂積み具の製作技術や形態・石器組成ときわめてよく似ていることから,雑穀・穀物栽培をおこなっていた可能性はかなり高いと思われる。また浅鉢が少なく砲弾型深鉢が多いなど土器にも変化がみられる。以上のことから,堅果類・根茎類に雑穀類や穀類などの栽培植物が加わった植物質食糧に依存していた可能性が高い生業類型と理解しておく。今回は永井遺跡が該当する。特定の生業に偏らないという縄文の方針を堅持しながら,生業の一つに雑穀・穀物の栽培を加えた生業類型である。
 iii) 植物採集傾斜型C  収穫具や調理具とならんで伐採斧がかなり多い点に特徴がある。穂摘み具と考えられる石器がはっきりしない菜畑13層は伐採斧につづいて調理具が多いものの,東海地方の麻生田大橋と五貫森は伐採斧につづいて土掘り具が多い。時期はいずれも水稲栽培が始まる直前である。多くの伐採斧の存在は樹木の伐採と木材加工が活発であったことを意味するとして焼畑の可能性を指摘したのは山崎氏である。しかし包含層から多量の炭が出土したことから森林に火がいれられた可能性が指摘され,そのうえ栽培型植物の遺存体(アズキ)までも発見されている四箇遺跡は,穂摘み具の可能性のある石器の存在が想定されているにもかかわらず,伐採斧や加工斧はそれほど多くないので伐採斧の多さと焼畑が必ず結びつくともいえないだろう。
 以上のようにAは伝統的な植物採集型,B・Cは植物採集に雑・穀物栽培が加わり,なかでもCは焼畑の可能性を含む石器組成であるが,BもCも縄文時代に一般的な植物採集中心の経済基盤があって,それに栽培型植物の栽培が加わるものの,単独ではメジャーフードとなり得なかったという点でAと共通する。東日本ではAは前期後葉~中期の中部・西南関東に,Bは晩期後葉の中部・北関東にみられる。なお今回は水産資源の利用を含めていないことをお断りしておく。つぎに弥生時代について考えてみよう。


 (2) 弥生時代

 弥生時代は特定の生業活動を基盤とする時代で,中でも穀物栽培に大きく依存している。

1 穀物栽培型

 雑穀栽培(畑)の存在を反映する石器組成と水稲栽培の存在を反映する石器組成の二つがあり,時期や地域によってさまざまである。弥生時代は基本的に穀物栽培を基盤とする時代で,その中には水稲栽培に偏っていたり畑作に偏っていたりなど多くの変異型があるのは当然であるが,生業全体に占める稲作と畑作の比重を明らかにするにはもう少し別の手続きが必要となる。したがって,弥生時代の穀物栽培はどのように組み合わされていたかという視点で論じてみたい。
 東日本の石器組成のなかに,打製石斧・打製石庖丁・剥片石器の比率が高い組成がみられることはよく知られているため,このような組成は畑作の目安となる。また水稲栽培では木製の杵,臼がコメの脱穀具なので,縄文以来の磨石や石皿類は堅果類やソバなどの粉食加工具(調理具)と考えることができる。そうすると先ほど設定したvi)からxii)までの組成は,水稲栽培色が強くでる型(vi,vii,x,xii),水稲栽培と畑作色の両方がでる型(viii,ix),畑作色が強くでる型(xi)にまとめることができる。何度もいうように三大別は水稲農耕と畑作の比重を示したものではなく,石器組成にこれらの側面がどれだけあらわれたか示すものにすぎない。
 i) 水稲栽培型  畑作色があまりみられない石器組成で,狩猟具突出型B(vi),伐採具・収穫具型(vii),調理具・伐採具型B(x),狩猟具・収穫具型(xii)が該当する。
 狩猟具突出型Bは水稲栽培色が直接はみえないが,狩猟具を除くと伐採具と収穫具が卓越していることがわかる。しかし西日本の水稲栽培開始期の遺跡の狩猟具が突出することの方が大きな意味をもつのである。菜畑9-12層は水陸未分化稲を含む畑作とセットになっているにもかかわらず,板付と同じように狩猟具が突出する事実は,畑作であれ穀物栽培がはじまり生産基盤の中心に位置づけられるとその管理・運営にあたって緊張関係が生じたことがわかる。いわゆる縄文栽培の場合は狩猟具が突出しないこととあわせて興味深い事実である。石鏃を除いた組成は東海と同じく伐採具と調理具が多いが,酒井氏は伐採具の多さを水田を切り開くための森林破壊活動の活発さに求めている。調理具の多さはドングリピットの存在を考えても堅果類の利用が依然として高かったことを意味する(16)。縄文晩期・弥生前期に西日本にみられるドングリピットについては,堅果類の長期保存やアク抜きを目的としていたのではなく生貯蔵を目的としたものと考える渡辺氏と,カシ類の水さらし機能と貯蔵機能を兼ねそなえた施設であり,救荒用作物としての貯蔵も兼ねていたとする寺沢氏〔寺沢ほか 1981〕などの説がある。弥生時代の遺跡から出土する植物質食料はコメよりドングリ類が多いという事実と,西日本のドングリはアク抜きが必要なものが少ないことから考えて,西日本の前期のドングリ類はまだまだ不安定であった稲作に対する救荒用作物であったとする寺沢説は興味深い。
 伐採具・収穫具型は石鏃の比率が狩猟具突出型Bよりも低いだけで,石鏃以外の生産用具の組成は狩猟具突出型Bとほとんど同じである。分布は今のところ北部九州に限られている。最古の稲作集落から一時期遅れる集落にみられる組成である点も興味深い。石鏃が減った分,酒井氏が指摘した典型的な北部九州型の石器組成に近づいている。
 狩猟具・収穫具型は石庖丁によるコメの収穫活動と狩猟活動が強く反映された石器組成で,かなり安定した水稲栽培の存在をうかがわせる。伐採・加工具の鉄器化,堅果類の利用度の低下などが収穫具や狩猟具の高さとなってあらわれたものと考えられる。
 ii) 水稲・畑作混合型  水稲栽培と畑作色の両面がよくみられる石器組成で収穫具・調理具型Bも調理具突出型も土掘り具が10~20%,調理具が10%以上を占め,とくに朝日・綾羅木・田村では調理具が50%以上,香川では打製の穂摘み具が50%以上みられる点に特徴がある。瀬戸内地域の大陸系磨製石器は石庖丁を除いて非常に少ないことは以前から指摘されていたが,新しく水田を開く活動よりも収穫活動が活発であったという酒井氏の解釈だけでは説明しきれない部分がある。綾羅木ではムギ類をはじめ,キビ・モロコシ・アズキなど多くの雑穀・豆類が検出されているので,これらの粉食加工に用いられたことが調理具の高い比率につながったのであろうが,板付や福岡県門田でもムギやアズキが出土しているのに調理具の比率は高くない。これはサンブリングエラーなどではなく,伐採具が多い分,調理具の比率が下がってみえるのかもしれない。田村では前期に水田に近接してソバが栽培されていたが,後期になると水田から離れた地点で栽培されるようになったという〔山中 1986〕。北部九州も瀬戸内も水稲とその他の穀物や雑穀がセットになっていたことにはかわりはないのに,石器組成にこのような違いが出てくるのはなぜであろうか(17)
 板付の水田は湿地から分離された安定的な低位段丘面に500㎡以上の大規模水田を造営し,二級河川(諸岡川)から水路をひっぱり灌漑をおこなうため,森林を伐採して井堰や畔畦用に大量の杭と矢板を製作したであろうことは想像に難くなく,これが伐採・加工具が卓越する組成となってあらわれたのである。それに対して岡山の水田は,大河川(旭川)下流域の微高地につくられたため,度重なる洪水による地形改変に対処するための小区画水田が発達している。百間川遺跡では,水田の土を盛り上げて畔畦をつくったとされており大量の木材が消費された形跡はなく,津島遺跡でも矢板状の柵が土留めとして架構された程度である〔柳瀬 1988〕〔正岡 1988〕。このように低位段丘面に灌漑施設の整った大規模水田を造営し大量の木材を消費する福岡平野と,微高地上の縁辺部に近い微地形のくぼみ部分に小区画水田をつくる岡山の違いが伐採斧の比率にあらわれたものである。これと似たような状況が畑作にも考えられるのではなかろうか。香川における収穫具の比率の高さは,縄文時代の石器組成である収穫具・調理具型Aとほとんどかわるところがない。畑作物がどれだけ検出できているのか調査例がないためわからないが,縄文時代からの植物利用形態をかなり踏襲していることも十分に考えられる。つまり水稲栽培の存在が当然視されている前期の石器組成と,雑穀栽培の決め手に欠ける縄文後・晩期の組成がきわめて類似するという事実は,後・晩期の植物利用形態が穂摘み具を収穫具とする雑穀・穀物栽培に近いものであった可能性も示唆しているのである。
 iii) 畑作型  畑作色のみが石器組成に反映する。打製石斧(20%台)と石鏃(60%以上)が卓越する型で御社宮司などの縄文晩期後葉の東日本にもみられる。牧野小山遺跡には穂摘み具と考えられる石器や石皿などの調理具がほとんどみられないが,台地上に位置することから畑作主体の組成と考えられている。北関東の群馬県橋場遺跡は,石鏃,打製土掘り具,石庖丁が卓越し,畑作用の耕作具と収穫具のセットが揃っている。また同じ石器組成の群馬県新保遺跡では弥生後期の水田や木製農具も見つかっているので,水稲用,畑作用の農具が材質こそ違えそろって確認できる。
 弥生時代の陸耕用耕作具として石製耕作具が取り上げられ,その場合耕作具として打製石鍬を,収穫具として方形の石庖丁をあてて,両者がセットになるとの説がある〔下條 1975〕。このうち石製耕作具は縄文時代の伝統を引くものと考えられているが,なかには大陸との形態的類似性が認められるものもあり,これらは栽培植物,技術ともに大陸からもたらされたものとする意見もあるが〔神村 985〕,中部地方では縄文晩期後葉から弥生後期まで連続的に変化する。
 打製石庖丁は宮崎県と長野県伊那地方(横刃型石庖丁)〔桜井 1986〕,そして瀬戸内海沿岸地域に分布する。後者の分布は瀬戸内甕の分布と一致する。瀬戸内では稲の穂摘み具として認識され〔小林・佐原 1964:81-86〕,伊那地方では使用痕分析の結果,イネ科草本類の穂摘み具と考えられている〔御堂島 1990〕。
 同じく弥生時代の収穫具である打製石鎌には製作技法からみて二種類あるという〔水島 1985〕。縄文後・晩期から弥生前期にみられる短く薄手の石鎌は縄文時代の打製石器の技術基盤でつくられるのに対し,前期末~中期初頭にみられる長く厚手の石鎌は大陸系磨製石器群とともに伝播したと考えられている。後者については,検出された植物遺体からみて火耕を含む陸耕にかかわる農具の一つとして位置づけられているが,前者についてはまだ食用植物遺体がみつかっていないこともあって可能性が指摘されているにすぎない〔春成 1969〕。
 九州後・晩期の打製の石製収穫具と考えられているものに打製石庖丁と打製石鎌がある〔高木 1980〕。阿蘇の火山灰台地を中心に熊本・大分・宮崎・鹿児島に分布するが,圧倒的に熊本に集中している。打製石庖丁は主に緑色片岩などを用いた薄手で軽量という特徴をもち,また薄手であるにもかかわらず,破損度が少ないことから対象物をある程度特定できるとし,手の平におさまることや長軸の一辺が刃部,他の一辺が背部で石庖丁と同じこと,両端の抉りこみに紐を通すと石庖丁の使用法と同じということから石庖丁と同じ収穫用石器と考えられている。打製石鎌はその形態から刈る道具で,また着柄角度が基部の抉りこみからすると鈍角になることから,小型で鈍角という特徴をもつ収穫具と考えられている。これらの石器を出土する遺跡はほとんどが畑作の卓越した段丘上や山麓の台地にあることから畑作用の収穫具と考えられているが決め手に欠けるため,対象となる植物の特定と使用痕分析が早急に望まれる。


 (3) 各地の石器組成

 生産用具に限定した石器組成を時期毎にみると採集・狩猟という網羅的な生業基盤から植物栽培という特定の生業に生業基盤が移っていく過程をトレースすることができる(図18)。

図18 各地における石器組成の変遷

1 第一段階-網羅的生業基盤-メジャーフードの採集と管理

 採集・狩猟・漁撈などのあらゆる生産手段をバランスよく組み合わせた網羅的な生業基盤の段階である。ただしその中にも狩猟傾斜型や植物採集傾斜型のように特定の生業色が強く反映される場合がある。漁撈活動が活発な地域を除けば,狩猟と採集はどちらかが突出すれば片方が低くなるという相対的な関係にある。縄文前期中葉以前は一般に狩猟具突出型Aだが前期後葉の関東地方で落葉樹林帯の堅果類を対象とした採集-加工-貯蔵(保存)システムが完成すると植物採集傾斜型の石器組成が登場し,中期一杯,中部・関東地方で典型的な組成となる。この中には中部・西南関東地方に特徴的な土掘り具突出型(図11-1)や調理具と土堀り具が平均的に高い組成(2~4),調理具が突出する組成(v・vi)などいくつかのパターンがみられる。
 縄文時代後期中葉になると冷涼化に伴う東日本縄文文化の西進によって堅果類の採集-加工-貯蔵(保存)システムが西日本にもたらされた結果,植物傾斜型の石器組成が出現する。桑飼下や中九州には土掘り具突出型,その他の地域でも調理具や土掘り具の比率が高くなる。中部地方では中期に特徴的だった土掘り具突出型がみられなくなり,狩猟具突出型Aが再び主流となる。

2 第二段階-網羅的生業基盤-メジャーフードの一部を栽培

 晩期になると西日本と東日本で植物傾斜型の中にも変化がみられるようになる。西日本では調理具・伐採具型Aと収穫具・調理具型Aが,東日本では晩期後葉の中部・北関東で土掘り具と狩猟具の比率が高くなる(図11-7~9)。収穫具・調理具型Aは雑穀栽培が生業の一つに加えられたことを示し,また土掘り具と狩猟具が高い比率の組成が広田にもみられることは,収穫具と考えられている石器がいずれも存在することからみても,かなり広い範囲で雑穀栽培が取り入れられていたことを示している。

3 第三段階-特定の生業基盤へ-水稲栽培の開始

 弥生早期の北部九州に狩猟具突出型Bが出現するが,その他の地域は第二段階の組成が継続してみられる。狩猟具突出型Bは調理具と採集関係の生産用具の比率が下がったことで狩猟具が際だった組成だが,大量の木材を使って造営される水田構造が伐採具と木製農具加工用の道具の高い比率となってあらわれたものである。つまり水稲栽培の場合は石庖丁以外の直接生産用具は木製農具なので石器組成には出にくく,間接的生産用具の伐採具や加工具と狩猟具の高い比率となって反映されるに過ぎない。ただし石鏃の量が異常に増えるので本格的な穀物栽培の開始が広範囲で緊張状態を産み出すにいたったと考える山崎説は興味深い。瀬戸内(沢田)や近畿(長原)の早期と青森の晩期(九年橋,砂沢)の組成が大陸系磨製石器を伴わない狩猟具突出型Aになるのは,湿地型水田と畑作のために伐採具や加工具を大量に必要としなかったからと考えられるのである。ただ考古学的な見地からみると北部九州は水稲栽培を生業の中心に位置づけていたのに対し,それ以外の地域の水稲栽培や畑作は依然として第二段階の網羅的な生業基盤にあったと思われる。

4 第四段階-特定の生業基盤-弥生穀物栽培のバリエーション

 北部九州の夜臼Ⅱa式以降と西日本の遠賀川式以降,青森の遠賀川系土器以降の石器組成は,穀物栽培を生業基盤の中心に位置づけながら水稲と畑作をどのように組み合わせているかを反映したものである。北部九州では収穫具の比率が上がり狩猟具が下がることで,伐採具・収穫具型となってあらわれる。水田構造の違いと収穫具の増加を意味するのであろうか。
 前期水稲栽培が西日本全体に普及する前期中頃になるとかなり地域色が出てくるようになる。北部九州は依然として水田構造を反映した伐採具・加工具の高い組成であるが,調理具の比率も増してくる。これはイネ以外の穀類の粉食加工が活発であったことを反映して間接的に畑作色が出たものと理解でき,いわゆる酒井氏の北部九州型石器組成にあたるものである。中・四国・東海は収穫具と調理具という畑作色が強く出た収穫具・調理具型Bで,瀬戸内甕という突帯文系土器や打製収穫具を伝統的に用いる地域と一致していることは関連があると思われる。晩期の雑穀栽培にかなり依存する生産基盤とほとんどかわっていないと推測できるのである。近畿は酒井氏によると収穫具が突出するということだが狩猟具や調理具との関係がわからない。山賀の例でみると水田構造が違うとみえて北部九州に比べて伐採具や加工具は少なく,調理具がやや高い点を除けば狩猟具が突出する型となっており今川と同じである。

5 第五段階-鉄器化による石器組成の変化

 直接的生産用具が石庖丁と石鏃を除いて鉄器化するので石器組成はほとんど意味をもたなくなる。狩猟具・収穫具型の出現は,九州では中期後半,西日本で後期,東日本では畑作地帯を除けば後期末までに出現するようである。



 7 生業からみた縄文から弥生


 (1) 東日本型生業の伝播

1 伝播以前の西日本

 滋賀県粟津貝塚の調査によって近畿における土偶・耳栓・漆塗櫛の出現が中期初頭まで遡ることが明らかになったが〔滋賀県 1992〕,従来は中期後半から後期中葉にかけての気候の冷涼化を契機に東から西への集団の移動がおこり,それにともない石棒・浅鉢・注口土器・打製石斧・土器棺墓などの東日本の文化要素が西日本に伝播するといわれてきた〔渡辺 1975〕。
 しかしそれ以前の九州でも植物採集活動は活発におこなわれていたことは確実で,草創期(B.P.11,300±130)の鹿児島東黒土田遺跡では,標高162mの台地上から隆帯文土器に伴う貯蔵穴がみつかり炭化した落葉性の Quercus の堅果類が出土している〔河口 1983〕。この時期は照葉樹林が九州に及ぶ以前で落葉樹林帯がひろがっていて,泉氏のいう東日本的な台地型の集団が存在したと考えられる。この事実はもともと九州に水さらしや加熱処理型のアク抜き技術が存在した可能性のあることも意味している。
 九州に照葉樹林帯が及ぶと早期の南九州では壺が出現し,一定量の調理具(石皿類)を伴う植物採集文化が成立するが調理具の比率は後・晩期ほどの量ではなく少ないという。堅果類や根茎類を採集し貯蔵具としての壺をセットにもつ道具体系が完成したが,喜界カルデラの大爆発にともなう火砕流によって,南九州植物採集文化は壊滅する。その後九州では照葉樹林帯の堅果類に頼る植物採集活動と狩猟・漁撈活動が続けられた。縄文前期の長崎県伊木力遺跡では照葉樹林の堅果類であるカシ類を水さらししてメジャーフードとする採集活動と,大形の石錘を用いる漁撈,イノシシ・シカを対象とした狩猟がバランスよく組み合わされた生業が復原されている〔森 1991〕。また伊木力ではメジャーフードにはならないもののモモやチャンチンモドキが前期から利用されていたことは注目される。曽畑や伊木力など九州でも蔬菜類を対象とした栽培が縄文前期からおこなわれていたことはもはや確実である。
 佐賀県坂の下遺跡や福岡県野多目拈渡遺跡の貯蔵穴からみつかった大量の堅果類には,アク抜きを必要とするものもあったが(コナラ・ミズナラ),圧倒的に多いのは水さらしだけでよいカシ類やアク抜きが不要のシイ類であった。西日本では普段は貯蔵穴にいれておいて使うたびに取り出し,取り出した分だけ破殻と製粉を同時におこなうという東日本とは異なる加工-処理技術が存在したと考えられている〔小林康男 1974〕。

2 伝播後の西日本

 しかし,後期中葉頃の東日本縄文文化複合体の伝播は九州地方の生業活動に急激な変化をもたらすことになる。打製石斧・浅鉢・アク抜き技術という道具と技術体系は,それまで利用できなかった根茎類や堅果類の利用を可能にした。冷涼化にともない西日本の低地にも進出した加熱処理型のアク抜きが必要な落葉性のドングリ類を対象とする一連の採集・加工・貯蔵システム,たとえば製粉技術の導入によるデンプン食糧の長期保存が可能になったのである。


図19 西日本における土偶の時期別分布
図20 縄文時代後・晩期の栽培型植物関連資料と
結合式釣針の分布

 このような広い分野にもわたる東日本の影響をうけ,九州では土器組成の変化,黒色磨研土器の完成,有文深鉢の粗製化,石器組成の変化,遺跡の大規模化と増加が起こる。中九州には土掘り具を用いた採集活動を活発におこなった阿蘇外輪山山麓の他に,森林生態系と内湾性の汽水生態系の接点である有明海を生産の場とする地域が存在した〔赤沢 1983〕。とくに縄文後期末から晩期前半には貝塚が大規模化するが,貝種が単一種で占められていることから,貝のむきみ生産がおこなわれていたと考えられている〔山崎 1982〕。甲元氏は阿蘇外輪山地域と有明海沿岸地域を関連づけて,貝のむきみによってもたらされる塩とデンプン質食糧の河川を通じた交易をとおして,両地域の結び付きが強まっていたと考えている〔甲元 1991A〕。弥生時代になるとこの強度の結び付きが水稲栽培の陸づたいの南進の大きな障害となるのである。中九州のような汽水域と森林域が結び付いた生態系は,異質な生態系どうしの組み合せの中ではもっとも優れているといわれており,食糧資源の供給が季節的に変動することをうまく回避できるという〔赤沢 1983〕。関東地方の縄文後期に隆盛をきわめた東日本型の縄文文化と同じ経済基盤がこの地域には西日本で唯一,存在したのである。
 東日本から伝播したものはこのような経済システムだけではなくこれらの縄文的枠組みを維持していくための第三の道具,すなわち土偶・石棒などもあった。九州における土偶の出現は後期初頭に遡ることが最近明らかになったが,集中するのは後期末から晩期初頭にかけてで,熊本県の北半,福岡県東部,島原半島東部,大分県北東部と大野川上・中流域の台地上の遺跡から多く出土する〔富田 1992〕(第19図)。中九州では打製石斧と浅鉢が急増する地域と土偶の分布は一致する事実がこのあたりの事情を物語っている。しかし別の解釈もある。甲元氏は大陸からの焼畑伝播にともなう異文化に対して,縄文側が精神的紐帯を引き締めるために抵抗したという図式で第三の道具の増加と盛行を説明している。この時期,結合式釣針・石鋸・石銛・サイドブレードなど朝鮮からの影響が強まるのも事実で,結合式釣針の分布が雑穀・穀物の遺存体の分布と一致しているのも興味深い事実である(図20)。
 東日本から西日本へ伝播した打製石斧や浅鉢に対して,打製石庖丁や打製石鎌は西から東へと逆の流れをみせる。縄文時代後期後半に中九州にあらわれ,晩期になると北部九州や南九州の台地部や西部瀬戸内に広まる〔高木 1980〕。この動きはまさしく有文深鉢の粗製化の流れとも一致している。つまり東日本縄文文化伝播による西日本縄文社会の経済システムの転換期に,朝鮮畑作文化の情報伝播があり,両者が交わって新たな西から東への文化伝播の母体となったのではないかと思われるのである。ここでふたたび後・晩期における雑穀・穀物資料の出土状況をみてみよう。


 (2) 雑穀・穀物の伝播

 後期後半から晩期末(黒川式)にかけての玄界灘沿岸・島原半島・中九州では,コメ・オオムギ・エンバク・アズキ・リョクトウなどの栽培型植物の遺存体が検出されている(図20,表8)。先述したように再確認が必要な資料も含まれているが,それ以前にまったくみられなかったものが出現するという事実は,たとえ遺構にともなって出土しなくても十分に考慮する必要があろう。土掘り具や収穫具の出現と調理具である浅鉢や石皿類の急増,有文深鉢の粗製化,遺跡の大規模化と継続型集落の出現は,すべて東日本からのアク抜き技術の伝播に伴う利用可能植物の拡大と製粉技術の導入で説明できるが,それにもまして東日本から伝播した重要なものは,特定の食糧に依存できるのであればできるだけ効率よく収奪して長期保存するためのシステムだったのではなかろうか。トチノキ・クリ・ヒシ・サケ・マスなどの特定種を集中的に大量に加工・保存することは社会を安定させるために必要である。その自然条件から食糧基盤が多種多様な半面,特定の種への依存が難しい照葉樹林帯では,汽水域と森林帯を兼ね備えた生態系をもつ一部の地域を除けば,常に特定の食糧源を求めていたと推測できるのである。そしてそこに伝播したのが雑穀・穀物類ではなかったかと考えるのである。


表8 韓国・日本における栽培型植物関連資料出土遺跡一覧表(縄文後期~弥生前期併行期)

 朝鮮半島には落葉樹林帯を舞台におこなわれた畑作文化があった〔甲元 1991B〕。そこでは磨石と鞍型磨臼の調理具・石鋤・石鎌と石庖丁の農耕具をセットにもちコメ・ムギ・アワ・モロコシ・マメなど各種の畑作物,ブタを飼育しながらも各種の狩猟動物に依存した網羅的な混合農耕をおこなっていたという。櫛目文土器中期以降の智塔里2号住居からはアワ・ヒエを対象にした大形石鋤・磨製石鎌などの農具と鞍型磨臼・磨石などの調理具が,南京31号住居では鞍型石臼が出土し,法量別に分化した深鉢と小形の椀や壺という土器のセットをもつ。二つの遺跡の生業に占める穀物栽培の割合は,高かったという意見や低かったという意見の両方があって評価はさまざまである。いまのところ大同江から南漢江の地域でしかみつかっていないが,これらの落葉樹林帯を舞台にした畑作文化の情報が,縄文前期以来の外洋性漁業をなりわいとする漁民達をとおして櫛目文末期に併行する縄文時代後期後半から晩期にかけて九州に及んでいたのではないかと思われるのである。結合式釣針や石銛の分布と穀物類の出土範囲がほとんど重複しているからである。当時の朝鮮半島の土器はすでに器種分化し,石鍬や石鎌のような農具も打製のものはみられず九州とは大きく異なっている。また鞍型磨臼をはじめとした農・工具なども九州にセットで持ち込まれた形跡がないことから考えれば,水稲栽培の伝播とは異なった伝播形態であったと推測され,むしろ縄文前期におけるヒョウタンやリョクトウの伝播形態に近かったのではないだろうか。したがってアワやヒエが持ち込まれていたとしても縄文人は根茎類や堅果類からなるメジャーフードにこれらの雑穀を加えたにすぎず,雑穀栽培が生業活動の中心になることはなかったのである。本来,朝鮮半島の畑作文化自体が網羅的な食糧大系を特徴とするものであったため,同じく網羅的な生業システムをもつ縄文社会に抵抗なく受け入れられたのではないだろうか。最近増加している籾痕土器やコメの出土もこの流れの中で捉えることができ,実態としては弥生早期に九州から中国・四国・近畿に伝わった水稲栽培の伝播形態に近かったのである。


 (3) 水稲農耕の伝播-コメへの収斂化

1 欣岩里型・先松菊里型農耕文化の伝播

 無文土器時代になると(紀元前10世紀~)コメ栽培が始まり,欣岩里ではジャポニカ型コメ・オオムギ・アワ・モロコシという穀物と雑穀をセットとする農耕がおこなわれ,南京では雑穀をともなう稲作が確認され(18),太型蛤刃石斧・扁平片刃石斧などの農工具のセットと,機能別に器種分化した土器の存在が知られている。今のところ朝鮮半島南部のコメは紀元前6~5世紀頃の検丹里や大坪里がもっとも古いが,まだ遡る可能性はある。
 欣岩里の年代は縄文晩期~弥生早期(黒川式~突帯文土器)にあたり,おそらくコメの情報も九州に伝播していたであろうが,いままでみてきたように晩期には土器の器種構成や石器組成に大きな変化はない。しかし欣岩里式の指標となる孔列文土器を模倣した土器が出土するようになる。これらは黒川式から古手の突帯文土器に伴い,孔列文土器を祖型に縄文土器様式の中に出現したものだが,様式構造において確固とした位置を占めることはなかったという。日本で孔列文を模倣した土器が出土したことは,前期無文土器文化の影響が及んだ結果,水陸未分化のイネを含む雑穀・穀物文化の情報が列島に及んでいたことを意味する(19)。しかしこの伝播も縄文時代の生業構造をつきくずすほどの力ではなく縄文社会の生業基盤に大きな変化はない。


図21 弥生時代早期の栽培型
植物関連資料の分布

 列島でもっとも早く水稲がつくられたのは菜畑9-12層の段階である。このイネは水陸未分化稲で,畑と水田という二形態のコメづくりが想定されているが,稲作に伴う農工具のセット(大陸系磨製石器,木製農具)や,機能別に器種分化した土器群の存在は,稲作栽培が初めて実態として列島に波及したことを示すもので(図21),ここにいたって初めて縄文的枠組みに変動が起きたことがわかる。この動きをもたらしたのが検丹里・大坪里・休岩里などの刻目文土器を指標とする文化で,先松菊里類型ともいわれているものである〔安 1992〕。検丹里の稲作がどのようなものであったのか報告書の刊行を待つしかないが,畑作との混合型と考えられているようで,菜畑9-12層の状況と一致している。コメが水陸未分化稲なのか,コメ以外の穀物の種類は何かなど気になるところである〔鄭・安 1990〕。
 北部九州に根をおろした雑穀と陸稲という特定種に依存するという姿勢が西日本の各地にも波及する。雑穀・穀物栽培が生業に占める割合はまだ低いといっても,それに対して社会の求心力が働くようになったのである〔甲元 1986〕。
 西日本のなかでも東日本的な生態系をもち食糧資源に恵まれていた有明海沿岸地域では,汽水森林型の縄文的生業形態を継続した結果,雑穀・穀物栽培という特定の生業への傾斜を基本的に拒否する。水稲農耕の南進が陸づたいに難しく海まわりで薩摩の西海岸に伝えられたのはこのような事情があるからである。有明海沿岸への水稲農耕の伝播は東日本と同じく,「…それまで維持されてきた伝統的な労働の周期や分業の体制を組み替える必要があった」〔林 1986:119〕ので,容易に受け入れられるものではなかったのである。赤沢氏も,東日本の生業機構が稲作の労働サイクルとは異なるものであったため,稲作を導入するには大きな技術的革新と社会的変革が必要で,稲作の普及に時間を要し,稲作受容後も縄文的伝統を強くとどめることになったと考えている〔赤沢 1988〕。
 それに対して中国・四国や北部九州の縄文人達は,淡水森林型の生態系であったために単に潜在的生産力が低いというばかりでなく,食料の調達という面において季節的なバランスがとれておらず常に食糧資源が季節的に偏っていたという〔赤沢 1988〕。それゆえに縄文時代からつねに新たなデンプン供給源の開拓を希求し,晩期前半の永井や岩田のように収穫具を用いて植物栽培をおこなうという生業もそういう背景のもとに採用されたものである。新たなデンプン供給源として水稲が登場したのはまさにこのような時だったのである。

2 松菊里型水稲農耕文化の伝播
 菜畑9-12層にみられる栽培は欣岩里や検丹里に代表される稲作・畑作文化の最後にあたるものであったが,板付遺跡の状況は松菊里遺跡に代表される水稲農耕文化が文化複合体として北部九州に波及したことをものがたっている。朝鮮半島南部の本格的水稲農耕は紀元前5~4世紀に始まるが,その代表的な遺跡が松菊里遺跡である。朝鮮半島落葉照葉混交林帯を舞台にした水稲農耕と北方雑穀文化からなるこの文化は,コメとシカといった特定種に依存する選択的な農耕文化で,葬送儀礼や各種の儀礼,新たな信仰,世界観なども伴っていた。これらがストレートに板付に伝播し本格的な水稲農耕が始まる〔甲元 1991B〕。


図22 弥生時代前期の栽培型植物
関連資料と結合式釣針の分布

 縄文後・晩期以来,雑穀・穀物の段階,そしてこれらに陸稲が加わった段階を経験することで,草原種子型植物の栽培に関する知識を蓄積していった縄文人は,最初のうちはこれらの植物栽培を採集や狩猟・漁撈より低く位置づけていたが,水稲栽培の高い生産性と渡来人の集団的・組織的な関与を受けて水稲をデンプン供給源の中心に位置づけ,列島は水稲栽培という特定の生業への傾斜を急速に強めていくのである(図22)。しかし朝鮮落葉樹林系の畑作文化を祖型とする網羅的な混合農耕と,朝鮮落葉照葉混交林系の水稲農耕文化を祖型とする特定種に依存する選択的な農耕の違いが,日本の初期農耕文化に見られる二つの型となって反映される。菜畑や綾羅木,西川津に代表される面積の狭い湿田タイプの水稲・畑作・狩猟・漁撈・採集など特定種に偏ることがない網羅的な経済類型と,板付や池上のように広大な灌漑設備を整えた水田を営み,漁撈やイノシシに偏った選択的な狩猟をおこなう選別的な経済類型である〔甲元 1991B〕。これに石器組成をあてはめると網羅的農耕は調理具突出型や収穫具・調理具型Bに,選別的農耕は狩猟具突出型Bや調理具・伐採具型Bに対応する。



 8 いつから弥生時代か

 以前,弥生時代を水稲農耕の時代と規定し,水稲農耕が始まった夜臼Ⅰ式からを弥生時代と考え,弥生時代かどうかの判定は水稲農耕の存在をものがたる複数の指標が出現しているかどうかで決めるべきとの意見を発表したことがある。またその際,水田遺構が検出されれば単独の指標でも弥生時代と判定できるとした〔藤尾 1988〕。この意見に対してさまざまな評価を受けた〔石川 1989〕〔武末 1991〕。このうち武末純一氏からは論理的矛盾を指摘された。前稿は武末氏が指摘するように板付水田が出現した時点に,森貞次郎氏が示した弥生時代の指標〔森 1960〕がすべてそろっているかどうかの検証から出発し,なかでも夜臼Ⅰ式は森氏が示した指標の一つである「定型化した弥生土器」としてみなせるのかどうか明らかにすることに目的があった。検討の結果,夜臼Ⅰ式が定型化した弥生土器として認められたので森氏の示した指標はこの時点ですべて揃っていると判断し,複数の指標が出現するこの時期から弥生時代と考えたもので,森氏の示した弥生時代の認定の方法に準拠して現状を検討した結果,到達した結論だったのである。
 このように伝統的な弥生時代の認定法に対して新しい時代の定義とその認定法が提示されている。「水田を基盤とする農業経済構造が確立した時代」と定義する武末氏や,水田農耕の出現が指標としながらもそれがある程度ひろまり,しかも他の要素が弥生的になる時期を弥生時代と定義する泉拓良氏などである〔泉 1991〕。そしてこれらの定義に適合するかどうかは単独の指標の出現で決めるべきとして,武末氏は環濠集落,泉氏は遠賀川式土器をあげる。
 弥生時代の定義とそれを判定する手続きの二つに分けて考えてみよう。


 (1) 定   義

 筆者を含めて水稲農耕の時代とする立場は同じであるが,武末氏は水稲農耕を基盤とする農業経済構造が確立する段階,泉氏は水稲農耕が普及し他の要素も弥生的になる段階と定義し,生業の一部に水稲栽培が加わっただけでは弥生時代とはいえないという立場である。九州では突帯文土器以前にも生業の一部に水稲栽培が加わっていた可能性があることを考慮したものといえよう。今のところ九州でも突帯文土器以前の水田は確認されていないが,今後発見される可能性が否定できないからである(20)
 武末氏と泉氏の意見も微妙に異なっている。武末氏は分布は問わず水稲農耕を基盤とする経済構造がどこか一カ所でも確立すれば弥生時代とするのに対し,泉氏はやはり水稲農耕が面的に認められなければ弥生時代とは認めない。


 (2) 考古学的手続き

 筆者,武末氏,泉氏の指標を前稿の分類にあてはめると,環濠集落や遠賀川式土器という単独の指標の出現で決める武末氏と泉氏,複数の指標の出現,もしくは水田なら単独の出現でもよいとする筆者である。
 環濠集落が農耕経済構造の確立を示すものと理解するのは,環濠の機能を農民としての意識の確立,すなわち区画と性格づけるところに理由がある。筆者は環濠の機能を稲作の開始や生産地の拡大にともなって生じた緊張状態に備えた防御的なものと考えるので,経済構造の確立を示す指標にはならないのではないかと考える。福岡市那珂遺跡で突帯文土器単純段階の二重環濠が発見されたと報道されているが,もしこれが事実なら水稲栽培の開始と弥生的経済構造の確立は少なくとも現状ではかなり近づくことになり,武末説でも突帯文単純段階は弥生時代ということになる。
 それでは泉説はどうだろうか。遠賀川式土器は水稲栽培がある程度ひろまり他の要素も弥生的になる時期の指標となりうるが,それでは夜臼Ⅰ式はその指標となり得ないのだろうか。環濠集落が突帯文土器単純段階からあるとすれば,他の要素も弥生的になっていることになるため,夜臼Ⅰ式段階はすでに泉氏の条件もみたしているのである。最古の遠賀川式土器である板付Ⅰ式段階における水稲栽培の普及の程度は,板付Ⅱa式以降の分布に比べて著しく狭く夜臼Ⅰ式段階とほとんどかわらない。また泉氏のいう弥生的な要素が具体的に何を指しているのかわからないが,青銅器文化までは含めていないことは内容から明らかなので,遠賀川式土器までにそろう弥生的な要素だけでなぜ弥生時代と認められるのかという根拠は明らかでない。泉氏が指標を遠賀川式土器に求めたのは,もし突帯文土器を指標にすれば水稲栽培をおこなう弥生時代の突帯文土器(船橋,沢田式)と,水稲栽培をおこなわない縄文時代の突帯文土器(滋賀里Ⅳ式,前池式)が生じてしまうのでその混乱を避けるためと,もっとも普遍的な指標である土器を重視して指標とするところからきていると思われる。しかし遠賀川式土器が出土する奄美や沖縄では稲作をおこなっていない事例からもわかるように,遠賀川式土器に求めるのも大なり小なり突帯文土器と同じ問題をはらんでいるのである。


 (3) ま と め

 以上の点をふまえ武末氏の批判も受け入れたうえで次のように考えることにする。
 弥生時代は水稲栽培を社会の経済基盤として位置づけた時代と定義する。この定義を満たしているかどうか判断する考古学的な手続きは,複数の指標の出現で総合的におこなう。前稿のように水田という単独の指標では判断しない。ただし森氏の示した複数の資料のすべてがそろう必要はない。このような立場に立つと現状では,日本列島における弥生時代の開始は,夜臼Ⅰ式に求められるのである。そして玄界灘沿岸地域以外の地域が弥生時代の条件を満たすようになる時期は,遠賀川式土器の成立以降ということになる。



 9 おわりに

 縄文時代後・晩期に中九州にみられる縄文文化の発展が,東日本型植物採集文化を中心とする文化複合体の伝播だけで説明できるのか,大陸からの植物栽培文化の伝播の可能性はあるのかをめぐって検討してきた。その結果,晩期の雑穀・穀物栽培が存在していた可能性は高いという山崎・甲元両氏の意見を追認した。しかしそれらが考古学的な変化として捉えにくい理由を当時の文化伝播の特質に求めた。簡潔に記してまとめとしたい。


 集団の移動を伴う東日本型植物採集文化の伝播によって,当時低地付近まで降りてきていた落葉性のドングリ類の利用が活発になった。これは単にアク抜き技術の伝播による利用可能な植物の範囲が広がったということにとどまらず,中部・関東と共通する台地が発達した地形とクリならクリという同じ樹木が密集する落葉樹林帯の特性に適応した,大量加工・保存・貯蔵という採集・加工システムが伝播したことに意味がある。さらに網羅的な食糧資源の中でも,ある時期には特定種の植物質食糧に依存して貯蔵デンプンとするシステムの伝播は,弥生時代の選別的経済類型につながるものとして注目される。その意味では縄文と弥生の違いは野生型植物の中に特定種をみつけて依存するか,自分達で栽培して特定種とするかの違いでしかないといえよう。
 後・晩期にみられる考古学的な変化には東日本からの影響で説明できるものと説明できないものがある。
 小形・軽量で掘り棒として適した短冊形打製石斧,浅鉢の出現と急増,磨石・石皿・敲石などの調理具や土偶・祭祀遺物の出現と増加,内湾性漁業に適した単式釣針の出現,抜歯技術の伝播は,東日本からの影響で説明でき,渡辺氏や山崎氏が従来から主張してきたとおりである。
 一方,栽培型植物の出現,結合釣針や石銛,石鋸など漁撈民を媒介とした影響度の増大は,朝鮮半島からの影響で説明でき,これも従来どおりである。また抉りのある収穫用石器や大形で重量のある刃幅の広がった撥形打製石斧の登場は,間接的に草原種子型植物の栽培を支持している。西北九州漁撈民の活動をとおして朝鮮半島から栽培型植物がもたらされたのではないかと考えられる。
 いつも問題となるのは東日本縄文文化の伝播が考古学的にも直接的に証明できるのに対し,大陸からの雑穀栽培の影響を直接的に証明できる資料は乏しいことである。その理由を今回は,集団的・組織的な人の移動を伴う東日本型縄文文化復合体の伝播と,人の移動はあっても限定的な情報主体の伝播にとどまった朝鮮畑作文化の伝播形態の違いに求めた。前者のような文化伝播は松菊里型水稲農耕文化の伝播や,遠賀川式文化の東進と同じ伝播形態である。後者は弥生早期水稲栽培の東進,結合式釣針を代表とする漁撈文化の伝播と同じと考えられる。前者は道具自体が置き換わり,精神文化,技術もセットで変化するのに対し,後者は在来の道具が変容するにとどまり精神文化や技術などのソフト部分は欠落する場合が多く,伝わっても不完全なものが多くて部分的な変化しか認められない。
 後・晩期農耕の母体となったと考えられる朝鮮畑作文化は,半島北部の落葉樹林帯を舞台に発達したものだが,その内容は狩猟・採集・植物栽培などに幅広く依存する網羅的な食糧体系を特徴とするものだったので,同じように網羅的な生業システムをもつ縄文社会に抵抗なく受け入れられた。そこでおこなわれた雑穀・穀物栽培は佐々木高明氏のいうような主食糧の大半をまかなうような「初期的農耕」ではなく,食糧供給の大部分を採集・狩猟・漁撈に依存する技術段階の低い小規模な栽培である「原初的農耕」にあたろう。雑穀・穀物栽培によって主食糧の大半をまかなえるようになるのは,次の段階の欣岩里型混合農耕,松菊里型水稲農耕の伝播以降である。
 生産用具の石器にしぼって組成をみると,各地域は時期はずれるものの同じ段階をへて推移することや,弥生時代には水田色と畑作色が微妙に反映されることがわかった。そしてその背景を母体となった朝鮮半島にみられる二つの農耕類型を反映したものと考えた。
 弥生時代は植物栽培を生業の中心に位置づけこれに依存する経済構造の時代で,とくに水稲栽培の占める位置が大きい。したがって弥生時代は夜臼Ⅰ式からと考える。また縄文時代は,採集・狩猟・漁撈・栽培を主たる生業にもつが,特定の生業にかたよらない網羅的な経済構造をもつ時代と考える。


 本稿を1993年春に広島大学を定年退官される潮見浩先生に献呈する。筆者は広島大学に在学中の4年間,先生から非常に多くのことを教えていただいた。この場を借りて感謝申し上げたい。また本館民俗研究部の篠原徹氏には植物学・生態学的な分野全般についてご指導をいただき,また次の方々からもご教示や資料の収集の便宜を受けた。記して感謝の意を表したい。

足立克己,大塚達朗,小林達雄,甲元眞之,設楽博己,武末純一,春成秀爾,林謙作,松井章,家根祥多の諸氏。







(1) 落葉樹林帯とは落葉広葉樹林帯のことを指し,それに対する森林帯を常緑広葉樹林帯というのが本来の使い方であるが,本稿では前者を落葉樹林帯,後者を照葉樹林帯と呼ぶことにする。
(2) 吉良氏の温量指数とは1年のうち月平均気温が5℃よりも高い月を対象に,各月の平均気温から5℃を引いた値の合計で表現される暖かさの指数(warmthindex)である。たとえば札幌は67.8,仙台90.8,水戸101.6,静岡128.7,広島119.2,福岡108.6,鹿児島144.3,那覇207.8となる。
(3) 日本の照葉樹林に三つの基本的な型があることを初めて指摘したのは鈴木時夫博士で,それによると第1は河谷の沖積地や山裾の土の深い台地面などにみられるタブやイチイガシの多い林(タブ型)で三つのうちもっとも大成する。第2は比較的高度の低い山腹の乾性地を占めていたシイ林(シイ型)である。第3はやや湿性ないし高地の斜面にあるツクバネガシ・シラカシ・ウラジロガシ・アカガシ・イスノキなどを主体とするカシ型であるという〔吉良 1985〕。
(4) 高木正文氏が,縄文時代の収穫用石器が出土した遺跡を標高をもとに台地状の畑作という観点から立地区分したものを整理したものである。
(5) 食糧供給の大部分を採集・狩猟・漁撈などに依存する社会で営まれる技術段階の低い小規模な農耕で,縄文前・中期にみつかる栽培型植物のヒョウタン・リョクトウなどを対象としたものである。これを契機として照葉樹林文化に特徴的な南方系の文化要素が持ち込まれた可能性があると想定されている。
(6) 雑穀の具体的な利用法を述べておく。ヒエは水田耕作によってイネの作れない丘陵地の農村や山村で米食にかわる主食用穀類として重要な役割をもっていた。江戸時代には水田といえば稲田か稗田かといったぐらいでとくに中部高地や東北の検地帳にはよくでてくるものだったらしい。ヒエには育成した苗を本田に移植した田ビエと畑に種をまく畑ビエがある。畑ビエが1反あたり2~3.2石採れるのに対し,前者は畑ビエの3倍の収量があるという。また収穫はいずれも根刈りでおこなう。精白すると籾の量の1/3に減少するため,そのままつく「白ぼし」と殻のまま蒸して精白する「黒蒸し」がある。白ぼしは粘り気があってうまいが黒蒸しは味がおちる半面,貯蔵が効くという。ヒエの稈は栄養価にとみ牛馬の粗飼料として利用される〔市川 1987〕。シコクビエは臼でついて精白後,粉に挽き熱湯で練って食べる。ハトムギは粒粥やパンとして食用にする。アワはコメとまぜて炊いて食べる粒状食である。したがって粉食にするのはソバ,シコクビエ,粒状食はアワ,ヒエ,ハトムギとなる。縄文農耕で磨石,石皿の対象となる雑穀にはソバとシコクビエが該当するということになる。
(7) 新聞報道によれば青森県風張遺跡から住居跡の床面より炭化したコメとアワ・ヒエが後期末の土器に伴って出土したという。確実なら遺構にともなう最古の例といえよう。
(8) 大塚達郎氏より文献の提供を受けた。
(9) 当初,「その他」を含めた石器組成を考えたが,「その他」に属する石器の扱い方が報告書によってバラバラで,とくに弥生時代の遺跡に関してはデータが不十分なものも少なくない。このようなデータの不均一性のほかに,「その他」の石器は個体数があまりにも多いこともあって石器組成に占める割合が非常に高くなるので,他の石器との関係をどのように捉えたらよいのか判断しにくい部分もある。今回はこのようなデータの不均一性と評価の難しさを考慮して「その他」の石器を除く生産用具にしぼった石器組成で考えることにした。
(10) 広田遺跡の調査者である小池氏がこの文献に記したところでは穂摘み具の割合が14.5%と調理具よりも高く,打製石斧とあわせて次のiii)収穫具・調理具型に近い組成を示す。穂摘み具と判定しにくい事情を反映したものといえよう。また小池氏は柏田・天城・古閑・礫石原の組成もこの文献中に示している。いずれも筆者のものとは個体数が異なっているが,組成に大きな違いはない。
(11) 打製の穂摘み具といわれている石器には,このような縄文時代の打製石庖丁・打製石鎌のほかに瀬戸内・中部地方の弥生時代中・後期の打製石庖丁がある。しかし,いくつかの手続きを経たうえで機能が特定されているのは弥生時代の収穫具だけで,縄文時代のものについてはまだ十分に位置づけられていないのが現状である。
(12) 大陸系磨製石器を出土した遺跡は唐津(菜畑),二丈(曲り田),早良(有田七田前),那珂(野多目),津屋崎(今川),河内(山賀),尾張(貝殻山)で,各地でもっとも早くコメを栽培した遺跡である。その意味で各地の水稲栽培民第一世代にあたる遺跡といえよう。
(13) 菜畑8下層は9-12層の次の段階にあたり,十郎川は早良地域で有田七田前よりやや遅れて水稲農耕を始めた遺跡である。その意味で水稲栽培民第二世代にあたる遺跡といえよう。
(14) 農具が機能毎に特定化される弥生時代と違って,それほど厳密でない縄文時代は穂摘み具としての機能が特定された石器と考えることは実際には難しいかもしれない。穂摘み以外の作業に用いられるとすれば弥生時代の石庖丁のように刃部に使用痕が観察できない可能性もあるからである。
(15) 青森県八戸市是川の風張遺跡で住居跡の床面から発見されたコメ7粒とアワやヒエの時期は,縄文後期末と推定されている。同じ時期の岡山の籾痕土器といいこの種の発見が増加しているが,九州の有明海沿岸の既出資料ももう一度見直すとともに,調査精度の向上がますます要求されることはまちがいないであろう。これらの穀物の存在がそのまま栽培につながるというものでもないが,西日本においては縄文以来の道具やそれを変容させた道具で,穀物栽培を生業の一つに加えていた可能性は高まったと考えている。この例がこの時期の土器組成や石器組成の変化を伴っているのかどうかは今後の課題だが,在来の道具で栽培していた可能性は十分に考えられる。しかしそのあり方は採集や狩猟にまさるものではなく,無文土器段階以前の朝鮮半島や遼東・遼西にみられるのと同じように網羅的な食糧獲得がおこなわれていた段階なのである。
(16) 酒井氏は伐採斧の多さを開田活動の活発さに求めているが,三好教夫氏によると板付周辺で二次林のマツ属が拡大するのはわずか数百年前からで,その理由としては農地の開発が沖積平野を中心とした低地に限定され,後背山地や山里まで及ばなかったこと,さらに牧畜の欠如がそれに拍車をかけたからとしている。照葉樹林帯は森林の回復力が優勢なので,森林が破壊されたあと二次林が成立するためには,焼畑や牧畜などによる徹底的な破壊が必要である。したがってすくなくとも弥生時代の板付周辺ではそのような徹底的な森林破壊がなかったことが推定できる。夜臼Ⅰ式期の水田は,長大な水路を低位段丘を横切るかたちで掘削したなかに矢板や杭列を大量に用いて区画されているので,これが伐採斧や加工斧の多さを反映したと考えられる。北部九州と畿内の石器組成にみられる差は,可耕地の狭さを背景にした開田活動を反映したのではなく,開田地の地理的条件や水田構造の違いを反映していたのである。
(17) 打製石斧はあまり硬い土壌での耕作はむかず,砂質状の土壌に適した土掘り具なので,畑の土壌の違いが農具の違いとなってあらわれた可能性もある。
(18) 欣岩里遺跡の年代は研究者によって異なっており,紀元前7世紀代とする意見と紀元前10世紀まで遡らせる意見に大きく分かれている。日本との併行関係は,欣岩里が黒川・山の寺・夜臼式,松菊里が夜臼~板付Ⅱa式と考えられているところから〔武末 1987A〕,欣岩里は紀元前4世紀以前,松菊里を紀元前3世紀以前に考えておく。
(19) 鹿児島県榎木原遺跡は,土掘り具と調理具の比率が高い石器組成の遺跡であるが,打製の穂摘み具と想定されている打製石器と孔列文をもつ土器が出土している。欣岩里に打製の収穫具はないが,代用がきく道具は縄文以来の道具を用いることを考えれば不都合はない。榎木原遺跡のような孔列文を出土する遺跡は今のところ東九州に多くみられ,これらの地域では弥生中期初頭まで打製石斧を出土する遺跡もあるので,黒川式段階からの伝統が継続していた可能性もある。擦り切り石庖丁を出土した都城市黒土遺跡や南九州の擦り切り石庖丁を出土した遺跡もこのような背景のなかで成立した可能性がある。
(20) 現在,夜臼Ⅰ式以前の水稲栽培が存在したことを示しそうな資料はコメと籾痕土器しかなく,道具・集落・墓なども縄文時代と大きな変化はない。これは板付で縄文水田がみつかる前から,突帯文土器単純段階における水稲栽培の存在が予想された状況とはまったく異なっているので,少なくとも夜臼Ⅰ式以前に弥生時代の上限を引き上げるような水稲農耕は可能性が少ないのではないかと考えている。




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(国立歴史民俗博物館考古研究部)








Jomon to Yayoi as Seen through Subsistence

Fujio Shin'ichiro

 This paper deals with how the method of plant food obtaining changed from the Late-to-Final stage in Jomon period to the Early stage in Yayoi period in Western Japan. Although it has been continued that the cultivation of minor grains and cereals existed in this period,no decisive evidence has been found in either archaeology or natural science. This is because archaeological changes in this period were not so conspicuous as those which occurred when wet rice cultivation began. Therefore,it is necessary to look into the question of whether or not the archaeological changes in the Late and Final stage in Jomon Period can be explained solely within the framework of the Jomon culture.
  Thus,I took a fresh look at the archaeological changes,focussing mainly on pottery and stone tools,and examined the social background that caused the changes;and I found that there existed something that could not be explained simply by domestic development caused by the transfer of the Eastern Japanese Jomon culture complex,as has been so far maintained. Studies showed that this could be considered to be a change caused by the influence of Korean field farming culture. Since cultural transfers from Eastern Japan might have occurred together with the collective and organizational movement of people,archaeological changes can be recognized in tools,technology,and rite. However,such latter changes were not seen. The reason for this may be considered as follows:Since Korean field farming culture was transfered through exchanges of information between the Continent and Jomon society continuing from the previous period,things like tools,technology,and ideas were omitted. Since the parent Korean field farming culture was a comprehensive mixed agricultural culture,it fit well with the comprehensive food acquisition system of the Jomon period,which did not lean to any specific means of subsistence. Existing tools changed a very little,but the change did not appear in the form of new tools or changes in the composition of stone tools. In contrast to this,the transfer of wet rice agricultural culture, which centered around paddy-rice cultivation,was accompanied by an organizational and collective movement of people,and was thus recognized as a great archaeological change in several aspects,including tools,the composition of stone tools,and spiritual culture.
  Consequently,if cereal cultivation did exist in the Jomon period,it cannot be ranked as the central basis of production,while wet-rice cultivation was selected as a specific means of subsistence in the Yayoi period,and must be considered the central basis of production. The shift from the Jomon period to the Yayoi period is characterized by the shift from a comprehensive system of subsistence,including cultivation,to a selective system of subsistence.



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