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学術創成研究費
「弥生農耕の起源と東アジア−炭素年代測定による高精度編年体系の構築−」

時代区分と弥生文化の範囲

藤尾慎一郎  

 歴博の研究成果から、炭素14年代測定によってさかのぼる可能性が出てきた、水田稲作の始まりは、20年ぶりに時代区分論を活発化させる契機となりそうだ。弥生時代とは何か、弥生文化とは何か、弥生文化の範囲は?残された課題は多い。本稿では筆者の意見を述べる。

 2001年以降、土器に付着した炭化物を試料に年代測定をおこなうことによって、その土器が使われたのはいつかを調べる研究を継続している。その方法の中身や、土器付着炭化物を用いることへの疑問については、昨年刊行された歴史系総合誌「歴博」第120号にも詳細に述べられているのでここではふれない。今回は、年代測定によって得られた較正年代が時代区分に及ぼす影響について考えたい。
 まだ学界の合意も得ていない較正年代が影響する問題について議論するのは時期尚早という意見もろう。時代区分をめぐる問題は1960年代以降、確実に存在していたにもかかわらず、これまであまり取り上げられることなく今日まで来た感がある。しかし弥生時代が一気に500年さかのぼる可能性が出てきたことで、もはや避けては通れなくなってきたと考え、あえて取り上げるものである(図1)。



図1:稲作拡散図(括弧内は従来の年代観)
年代が上がると同時に、拡散する時間が長くなっていることが見てとれる。


 1.時代区分についての基本姿勢
 まず18年前に述べた私の時代区分に対する基本的な立場を再録する〔藤尾1988〕。
 「時代区分はその時代に最も特徴的で普遍化していく、複数の考古資料の組合せの出現で行う必要がある。単独の考古資料としないのは、指標に普遍性・客観性をもたせるためで、また出現で区分するのは、定着・完成で区分した場合、その定着度・完成度・分布が研究者によって問題になってしまうからである。すなわち、内容の程度を問題にすると、研究者個人の様々な時代観が入ってくることになり、客観性を著しく損なうからである」(449頁)。
 当時、1978年に見つかった縄文時代最終末の土器に伴う定型化した水田や水稲農耕技術をめぐり、いつの時代に属するのかをめぐり、議論が巻き起こっていた。二つの代表的な意見があった。
 縄文最終末の土器に伴うのだから、縄文土器の時代を縄文時代とする定義にしたがって、縄文時代末の水稲農耕文化とする考えが九州を中心にあった。一方、佐原真は、弥生時代は水田稲作の時代であり、弥生時代の文化が弥生文化であるという定義〔佐原1975〕にもとづき、この段階を弥生時代と認め、弥生先?期(のちの早期)を設定した〔佐原1982〕。
 この論争は弥生時代にとどまることなく、考古学における時代区分とは何かという議論へと発展した。1985年の考古学研究会は、時代区分論をめぐるシンポジウムをおこない、近藤義郎の見解が示されたのである。
 近藤は時代区分の指標となる考古資料を、その時代を決定づけるもっとも「特徴的で、重要で、普遍化していく考古資料」と定義し、その出現をもって時代を画するとした〔近藤1985〕。
 私はこの見解をもとに、弥生時代の指標を定型化した水田稲作に求めた。ただ水田という遺構が見つからなくても水田稲作の存在を想定しうる具体的な考古資料を提示し、それらの組合せの出現をもって、弥生時代の始まりと考えた。この方針は基本的に変わっていない。

2.較正年代以前の時代区分論
 その後、いくつかの見解が示された。論点は二つである。
 一つは弥生時代の指標を水田稲作という経済的な指標でなく、水田稲作の定着・発展を前提におこる社会の質的変化に求めるべきとして、具体的には環壕集落の出現や戦いの始まりに求める説。
 二つめは、弥生早期を認めると縄文晩期後半とされてきた部分が弥生時代となることについての批判である。九州北部はよいが、東に行くにつれ、縄文文化そのものといえる晩期後半を弥生時代とよぶことについての疑問があった。弥生時代の文化が弥生文化であるという佐原の定義がこの問題を引き起こしている。
 1)出現か定着か
 最初の説は、定型化した水田稲作が弥生時代のもっとも重要な指標の一つであることは認めるものの、経済的指標だけで画していいのかという、何を指標とするのかをめぐる疑問と、経済的指標でもよいが、出現で画してよいのかという疑問に起因している。いずれも水田稲作の定着・普及を重要視する点に共通点をもつ。
 私は、時代区分の指標は単純・明快な方がよいという立場から、考古資料の組合せによって認識しやすい水田稲作が出現した時点をもって、弥生文化の及ぶ範囲は弥生時代にはいったと考える。範囲内の質的な多様性は問わない。
 2)時代と文化
 九州北部以外の地域で縄文晩期後半の文化が弥生時代の文化となることについての抵抗は強いが、この問題がそれほど顕在化することがなかったのもまた事実である。
 図2は、弥生時代と縄文時代の境界の変遷をみたものである。西日本の縄文晩期は東北の大洞(おおぼら)式に併行する土器の時代と定義され、突帯文土器が標識となった。その後、遠賀川(おんががわ)式土器が弥生前期に位置づけられると、最後の突帯文土器である夜臼(ゆうす)式と共伴した板付(いたづけ)?式が弥生時代最古の土器となった結果、晩期の下限が決定する。このとき、九州北部における晩期の下限と、東北における下限は一致しないままであったことが図2の60年代のところでわかる。
 板付縄文水田の発見以降、時代区分の考え方が整理され、九州北部で弥生早期が設定されると、山の寺(やまのてら)式以降が弥生時代となるが、山の寺式に併行する大洞C2式以降は依然として縄文晩期と位置づけられたままであった。そして東北北部で水田が現れる砂沢以降があらたに弥生前期として設定づけられた。図2の80年代のところである。
 時代区分の論理にしたがえば大洞C2式以降は機械的に弥生時代の縄文系文化となるはずだが、そうはならなかった。土器を基準とした時代区分から文化内容を基準とした時代区分へと転換した西日本の弥生研究に対し、水田の開始と大洞系土器の終焉が一致した東日本では東北における弥生文化の始まりと、縄文土器の終末が一致することで、時代の質的な転換をうまく説明できると認識されたのかもしれない。あくまでも東北という枠内で。



図2:縄文時代と弥生時代の変遷


3.較正年代以降
 較正年代によって弥生時代の始まりが500年さかのぼったからといって、時代区分の定義を変える必要はない。時代区分は現代の研究者が目安として決めているものだから、弥生文化の及ぶ範囲(表1・Aライン以下の黄色部分)においては前10世紀後半頃に弥生時代に入ったと割り切ったうえで、九州北部だけは弥生時代と弥生文化の始まりが一致すると考える。ラインより上の青い部分は縄文時代である。
 そして九州北部以外の地域では本格的な水田稲作が始まるまでを弥生時代の縄文系文化とみなせばよい。たとえばBラインに示すように、四国の高知では前9世紀末、岡山や近畿では前7世紀末、南関東は前3世紀から弥生文化になり、それ以前のAとBに囲まれた部分は縄文系文化と理解する。



表1:炭素14年代の較正年代にもとづく縄文〜弥生時代の実年代(*は年代を測定した土器型式)


 この考え方にたつと、大洞A1式は弥生時代の縄文晩期系文化の土器、という聞き慣れない言い回しになり、東北では絶対受け入れられないであろう。しかし高知県居徳(いとく)遺跡から出土した大洞A1式を、弥生前期の縄文系土器と理解せざるを得ないことも事実である。25kmしか離れていない同時期の田村遺跡ではすでに水田稲作が始まっているからである。同一地域内の集団間にもすでにこのような事態が生じている現状では、少なくとも弥生文化の範囲内では弥生時代の縄文系文化と理解せざるを得ない。
 以上は、時代と文化を使い分けるやり方だが、それ以外にも考え方はある。日本独自の時代区分がどれだけの意味を持つのか、という本質的な問題である。そもそも北海道と沖縄は、九州・四国・本州とは別の歴史を歩んできたし、今回、取り上げた東北北部だって、弥生前〜中期にこそ水田稲作はおこなわれているが、中期後葉以降はとぎれて6世紀になるまでおこなわれることはない。こうしたあり方は「普遍化していく」とした近藤定義から外れるため、弥生時代の存在自体にも個人的には疑問を感じざるを得ない。
 続縄文文化は大洞A'式以降の、北海道と奥羽地域における弥生文化に併行する文化なので、砂沢以降を続縄文文化に含めることは研究史的にも可能と考えるがいかがであろうか。

4.時代区分と時代の指標は異なるか
 私は、利根川以北の東日本に西日本型の弥生文化はなかったと考えている。弥生時代が始まる指標は定型化した水田稲作だが、弥生文化となると、水田稲作という経済の質的変化だけでは定義できない。時代区分のところでもふれたように、社会の質的変化に加えて祭祀の質的文化が起きているかを含めた議論が必要となるからである〔藤尾2003〕。
 図3はそれぞれの指標を代表する水田稲作(黄緑)、環壕集落(黄褐色)、青銅器(濃緑)の存在する時期を地域ごとにみたものである。
 この三つがそろわなければ弥生文化とはいわない、というのがもっとも狭義の立場である。三つの要素がかろうじてそろうのは小銅鐸や環壕集落が分布する中部・南関東までである。それ以北になると、水田稲作だけとなり、東北北部ではその水田稲作でさえも中期でとぎれてしまう。この事実をどう捉えたらいいのであろうか。三つの質的変化の及ぶ範囲は南関東・中部までと捉え、その意味でも東北北部は続縄文文化の東北北部類型と理解している。ただ水田稲作が継続する東北中部の仙台を中心とする地域だけは、弥生文化の範囲に当面は含めておくことにする。
 設楽博己や石川日出志は、東北北部を含む東日本全体を縄文系弥生文化とか、東日本型弥生文化と定義して、弥生文化をもっと広義にとらえる。別にどちらかに決めなければならないといっているのではないし、どちらがよいかもわからないが、西日本の目からみるとこういう考え方もあるということを知っておいていただきたい。
 弥生文化のとらえ方次第で時代区分の問題が大きく変わってくることがご理解いただけたであろうか。もっとも狭義の立場である私の説を採れば、利根川を越えると西日本型の弥生文化がないので、これらの地域では縄文晩期の次に続縄文時代がくることになる。さらに東北北部には前方後円墳もないので、続縄文時代のあとに、古代がくることになる。
 このように時代区分論は、較正年代とは無関係に古くて新しい問題が山積しているといえよう。



図3:弥生文化の範囲
日本列島は前千年紀に3つの文化圏に分かれる。
南から赤線で囲った貝塚次代文化、黄色線で囲んだ弥生文化、青線で囲んだ続縄文文化である。
弥生文化は経済的・社会的・祭祀的要素から、ほかの2つの文化圏とは明確に区別できる。



<参考文献>
近藤義郎 1985「時代区分の諸問題」『考古学研究』32-2、pp.23-33
佐原 真 1975「農業の開始と階級社会の形成」『岩波講座日本歴史』1、pp.114-182、岩波書店
       1982『弥生土器?』ニューサイエンス社
藤尾慎一郎 1988「縄文から弥生へ−水田稲作の開始か定着か−」『日本民族・文化の生成』pp.437-452、六興出版
         2003「東日本の弥生的文化」明治大学・早稲田大学合同学会



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