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学術創成研究費
「弥生農耕の起源と東アジア−炭素年代測定による高精度編年体系の構築−」

平章里遺跡の鏡と弥生中期の年代

春成秀爾  

 去る2004年11月13日の福岡研究集会のさいに、考古学的な方法によれば炭素年代はまちがっていると高倉洋彰さんは批判し、その根拠の一つに韓国の平章里遺跡の土坑墓の資料をとりあげました。内容は2003年12月に『考古学ジャーナル』510号で述べてあることと同じでした。高倉さんの主張はあいまいであるので、当時、私は反論しなければならないものとは思いませんでしたが、同じことをくりかえされるのでこの場を借りて取りあげることにしました。
 1987年に全羅北道益山郡王宮面平章里の丘陵上から細形銅剣2点・細形銅戈1点・中細形銅矛1点と幡ち文鏡1面がいっしょに見つかりました。地元の発見者によってすでに掘り返されていましたが、全栄来さんが調査し、土坑墓からの出土であったとみて『馬韓百済文化研究』第10輯(1987年)にその結果を報告をしています。その報文は、『古文化談叢』第19集(1988年)に小田富士雄・武末純一さんの訳・解説が掲載されています。
 平章里遺跡の鏡は復元径13.4cm、厚さ2mm、縁は高さ3mmのヒ面形の断面、文様は「雲文地四葉四ち文」であって、幡ち文鏡でも末期のものに近いもので前漢初めの作と全栄来さんはみています。それをうけて高倉さんは「前漢鏡と判断されているが、首肯できる」といい、平章里の鏡を「弥生時代中期中頃に併行する時期の副葬」とみています。ところが、その文章につづけて、「しかしながら」と断って、「韓国考古学の専門家である武末純一氏は中期前半に併行するとされる。私自身、韓国考古学に関しては、武末氏に教えを得ることが多く、この場合武末説を尊重することにやぶさかではない。武末説をとると新提案では紀元前400年前後の製品となり、私の考えをとっても新提案では200年をさかのぼる。前漢帝国の成立は紀元前202年のことだから、どちらをとっても、前漢鏡が前漢以前に製作されるという珍現象が生じる」と高倉さんはいいます。
 高倉さんは平章里の鏡を前漢鏡であることを認めながら、炭素年代を批判するのであれば、自説を捨てて武末さんの戦国鏡説を採用することも厭わないといっているのです。自説をとっても武末説をとってもよいという立場のようですが、その間には100〜200年くらいの差があります。これでは、考古学の方法にもとづく年代推定の精度はそのていどです、といっているようなものです。
 岡村秀典さんはかつて、幡ち文鏡を?〜?式に分類し、?式を前3世紀後半頃で戦国末から前漢代、?式を前2世紀中頃〜後半を中心とする時期、?式を前2世紀後半〜末を中心とする時期と考定しています(『史林』第67巻第5号、1984年)。高倉さんの批判があったあと、岡村さんに教示を求めたところ、平章里の幡ち文鏡は?式に属し、戦国末から前漢代までさかのぼるとのことです。すなわち、平章里遺跡の年代は前3世紀後半を上限とする時期と考えてよいことになります。
 弥生中期中頃を北部九州の土器型式におきかえると須玖?式(古)に相当します。須玖?式は炭素年代では、前300年〜前200年頃という結果がでています。そして、典型的な前漢鏡を副葬する中期後半〜末の須玖?式(新)の年代は、長崎県原の辻遺跡の6点の炭素年代を測定した結果では前200年〜前40年という測定結果がでています。私たちは「中期前半が紀元前400年前後」とはいっていませんので、武末さんの弥生中期前半説、高倉さんの弥生中期中頃説のどちらを採用しても、平章里の資料と炭素年代との間には大きな矛盾を生じることはありません。平章里の資料を使って炭素年代について批判することはできないと私は考えています。


平章里出土の鏡と青銅器



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