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人は火山に何をみるのか
−池澤夏樹著『真昼のプリニウス』を読む−

寺田 匡宏

 地下鉄の駅で、本を手渡されるということがあった。
 春から神戸を離れることが決まった直後だったと思う。博物館で歴史災害の展示企画のスタッフとして働くという仕事内容を聞いた彼女は、それまでに読んだ本の中からなぜかその一冊を選んだ。佐倉に着き、新しい生活が一段落したころその本を読んだ。それ以来、その本の内容は心にかかってきた。先頃、浅間山に行った。そして改めてその本を読み返してみる気になった。



 池澤夏樹著『真昼のプリニウス』は、人は世界とどう向き合うかをテーマにした小説である。人は自分という存在を取り巻く世界をさまざまな解釈の枠組みを通じて認識している。人は解釈の向こうにある本質とよばれる何かに到達しようとして努力するのだが、どの解釈を選択するかで心を惑わせ、選び取った解釈のし方が正しいのかを疑い、あるいはそもそも本質に到達することができるのかどうかで揺れる。人生は一度しかない以上、どこかでそのためらいの針を振り切ってしまわなくてはならないのだが、選ぶという重荷に直面したとき、人は悩み苦しむ。
 『真昼のプリニウス』の主人公は火山学者である。女性で、若くて(30代半ばだろうか)、独身で、八王子にある大学の理学部につとめていて、その大学では助教授で、いま浅間山で人工地震を起こして地下構造を探るというプロジェクトに取り組んでいて、というと横顔は想像できるだろうか。いや、これではなぜ彼女が小説に登場する必然性があるのか肝心のところを述べていない。彼女は疑いを抱えている。本人にはそうと自覚されていないのかもしれないがそのことは彼女を深くとらえている。
 まず彼女にはつきあっている人がいる。その人とは一時期は一緒に住んだこともあったが、今は分かれて暮らしている。男は写真家で、メキシコ奥地の密林の中の遺跡に滞在して石造物の写真を撮っていて、月一度手紙のやりとりをしている。距離を隔ててたことで彼女は二人の関係を見直すことができたが、かといってこれからどうすればよいのか道が見いだせない。それから第二に研究上の疑問がある。研究そのものはうまくいっているはずなのに、それが現実の火山と全く関係のないもののように思える。もの自体を相手にしているのではなく、その影を相手にしているような思いにとらわれてしまう。彼女は、自己の生活と研究に疑念を生じる状況にはまりこんでいる。
 そういう彼女のシチュエーションを見透かすように、一人の男が姿を現す。男は広告代理店に勤めていて、新しい企画を立ち上げようとしている。その企画は電話による物語サービスというもので、電話にさまざまな神話や物語を登録しておき、利用者はそれを聞きたいときに聞くことができるというシステムである。火山学者である彼女に男はエピソードの提供を求め、彼女はいくつかのそれを提示し、興味を持った二人は接近する。男は、次にシステムをバージョンアップさせ、電話による占いシステム構築を考案する。電話に物語を登録するように、電話による占いを行うという。男のペースに巻き込まれていた彼女は、しかし、次第にその考え方に違和感を持つ。男が物語サービスを考案した根本には世界は物語と神話でしか成り立っていないというタカのくくり方がある。解釈でしか成り立っていない世界の向こうには、事実も真実もない。そういう男の生への態度に彼女は苛立つ。
 これらのもどかしさを持て余していたとき、彼女は天明浅間山噴火の被災者が残した古記録に出会う。大笹村の「ハツ」という女性が書いたそれは、自分の目で見た、浅間山噴火の前兆と爆発の様子、そして泥流が山腹を駆け下り鎌原村をのみこんでしまう過程を自分のことばで細かに記述している。火山学者である彼女は引き込まれるように記録を読み、学者の領域からはみ出てその世界と対話をはじめる。その根底には、「ハツ」はなぜこの記録を残したのかという問いがある。人はなぜ体験を語るのか。怖かったからであり、その怖さをことばにすることで覆い隠そうとしたからだという解答を得、一時的に彼女は納得する。しかし一方、そのようにして、自然の驚異を物語化することで人間は自然の本質から目を背けているのではないかという疑問が彼女を宙づりにする。
 占い師が彼女に予言する。明日の真昼、浅間山で何かが起こる、と。近代科学の徒であるはずの彼女はその予言になぜか心惹かれる。あたかも彼女を取り巻くいくつもの疑問の答えを求めるかのように、彼女は浅間山に登る。占い師は、「何か」が何なのかは言わなかった、爆発なのかあるいは別の何かか、しかしそこに行くとその何かが見えるかも知れない。そして彼女は山頂で真昼を静かに待つ−−。



 単なるあらすじの羅列になってしまったが、この小説には私たちがなぜ災害研究に関心を持つかをめぐる基本的な問いがつまっている。まず第一に災害とは他者の不幸である。あらゆる人々が不幸におちいるのを避けるため、災害研究は行われなくてはならない。これが基本である。しかし、第二に人が災害に関心を持つのは、その不幸の向こうに見えるものがあるからではないだろうか。災害は体験者にとって、世界の亀裂のような時間である。その瞬間、それまで普通に流れているように感じられていた時間が突然とぎれ、何か原形質のような時間が出現するが、その裂け目は手を触れようとすると夕闇におおわれるように、また徐々に見えなくなっていく。災害に遭遇したものは、その時亀裂の向こうに見えたものをかたちにしようとして、ことば、絵画、身体行為などさまざまな手段で表現を試みる。私たちが、災害やその体験者の記録に惹かれるのは、どこかでその瞬間を目にしたいと思っているからであり、そのことが人が生を生きる上で欠くべからざるものだからではないだろうか。『真昼のプリニウス』の中で主人公が災害体験の古記録と対話するシーンはそのことを示している。
 古代ローマ時代、博物学者プリニウスは噴火するヴェスビアス火山に向かって観測隊を進め、命を落とした。私たちも答えの出ない何かを測定しようと過去の災害に向かって問いを重ねている存在なのだろうか。

池澤夏樹『真昼のプリニウス』中公文庫,1993年(原著1989年)、533円。


てらだ・まさひろ 「歴史資料と災害像」共同研究者。国立歴史民俗博物館COE研究員。歴史学。 

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