井上 公夫
山地での崩壊や地すべり,渓流における土砂の流出や堆積、さらに堆積地の再侵食といった土砂移動現象(それによって引き起こされた土砂災害)は、見方を変えれば、地形変化の一断面を見ていることになります(大石,1985,井上,1993)。このような地形変化は、過去から現在に亘り、数十年に一度,数百年,数千年に一度という間隔で繰り返されて来ましたし、今後も同様に繰り返されると考えられます。本来、土砂移動(侵食・堆積)現象は、その土地の持つ環境要素、すなわち、地形・地質・土壌・植生・気候・水理(地表水と地下水)などの諸要素を反映して発生します。特に、大規模な土砂移動現象ほど、このような地形を形成してきた内的・外的因子が多くなるので、現象は複雑となります。その中でも、地形要素は、その土地の持つ自然的性質と変化の歴史を総合的に表現していると判断されます。
言い換えれば、現在の地形は、地表を構成する地質・地質構造、岩石の風化程度・侵食に対する抵抗性、これらに由来する土壌や植生・土地利用を素因として持ち、地震や火山活動などの内的営力と気候・気象(梅雨や台風などの集中豪雨)などの外的営力が長い地学的な時間の中で作用し、相互に関連しつつ形成されてきたものです。しかもこれらの諸作用は、過去から現在まで一様に作用してきた訳ではなく、その関わり方や強弱の変化を繰り返しながら、地形形成に影響を与え続けてきたものです。つまり、現在の地形は、過去の様々な環境要素が働きかけて形成された歴史的産物であるということができます。
したがって、突発的に発生する土砂移動現象に起因する土砂災害を防止、あるいは軽減しようとする場合には、その土地の持つ環境要素、特にそれらが総合的に表現された地形特性を十分に理解した上で、自然の変化に調和的で、防災の目的にかなう対策が実施されなければなりません。特に人為的な地形改変(切土・盛土・ダム湛水・土地利用の変化)の激しい日本では、このような観点から防災対策を見直す必要があります。
防災対策を見直すという実践的立場からは、「将来予想される豪雨や地震・火山噴火時に、対象とする地域にいかなる土砂移動現象が起こるか」という見通しを持つ必要があります。このような地形変化の見通し(将来予測)を持つためには、過去に土砂移動現象を起こした地区(土砂災害発生地点)について、これらの現象と関連する地形(微地形)因子を抽出し、それらが形成されてきた経過や機構を地形発達史の中で位置付けながら、総合的に解析する必要があると思います。
私は、上記のような観点から30年間様々な防災対策調査を実施して来ましたが、これらの調査結果をきちんと整理し、分かりやすく外部の人に説明する必要があると次第に感ずるようになりました。
前書きが少し長くなりましたが、以上が、北原先生から国立歴史民俗博物館の企画展示「歴史資料と災害像−歴史災害から何を学ぶか」の話があり、?)富士山宝永噴火と土砂災害(1707)、?)浅間山天明噴火と天明泥流(1783)、?)島原大変肥後迷惑・眉山の大崩壊(1792)、?)飛越地震と鳶崩れと天然ダムの決壊(1854)などの事例調査と火山部会の幹事役を引き受けることに同意した理由です。
私は、コンサルタント会社に奉職して30年間経過しましたが、防災対策(地すべりや砂防)の調査・計画業務を実施する一方で、各地の土砂災害史の発掘調査を実施しています。最近では、後者の調査の方が多くなりました。
?)1500年頃の姫川,真那板山の大規模崩壊による天然ダムの形成と決壊
?)1586年(天正十三年)の天正地震による中部地方の土砂災害
?)1662年(寛文二年)の豪雨による日光・大谷川流域の土砂災害
?)1707年(宝永四年)の富士山宝永噴火とその後の土砂災害
?)1742年(寛保二年)の「戌(イヌ)の満水」と呼ばれる浅間山南部の洪水災害
?)1751年(寛延四年)の高田地震と上越地方の土砂災害
?)1783年(天明三年)の浅間山噴火と天明泥流などの土砂災害
?)1792年(寛政四年)の島原四月朔地震と島原大変肥後迷惑・眉山の大崩壊
?)1847年(弘化四年)の善光寺地震と信州の土砂災害・天然ダムの形成と決壊災害
?)1858年(安政五年)の飛越地震と鳶崩れ・天然ダムの形成と決壊,富山平野の災害
??)1889年(明治22年)の奈良県・十津川流域の天然ダムの形成と決壊災害
??)1891年(明治24年)の濃尾地震による中部地方の土砂災害
??)1923年(大正12年)の関東地震による関東地方の土砂災害
??)1930年(昭和5年)の北伊豆地震による伊豆地方の土砂災害
??)1953年(昭和27年)の和歌山県・有田川流域の天然ダムの形成と決壊災害
??)1958年(昭和33年)の狩野川台風による伊豆半島中央部の土砂災害
??)1984年(昭和59年)の長野県西部地震と御岳・伝上崩れ
などです。ここでは、上記の中から11月17日〜18日の歴博企画展示・火山部会で現地調査の対象となった?)の土砂災害の問題点について説明します。
天明三年(1783)の浅間山噴火で発生した「鎌原火砕流」は、浅間山北麓の鎌原村を埋没させた後、吾妻川に流入して火山泥流となり、吾妻川や利根川沿いに死者1400名にも上る大規模な泥流災害を引き起こしました(荒牧,1968,81,93,菊池,1980,建設省利根川水系砂防工事事務所,1990,田村・早川,1995,等)。この土砂移動現象は、100km以上も下流まで流下していて、浅間山で発生した他の噴火現象による土砂移動とはかなり異なっています。
「鎌原火砕流」(以後「鎌原」と記す)とは、天明噴火の最末期の七月八日(新暦8月5日)に突然流出して浅間山の北斜面を流れ下り、鎌原集落を襲ってほぼ全滅(高台にあった観音堂を除いて)にした後、吾妻川に流入して「天明泥流」となり、吾妻川・利根川を流下して(利根川河口と江戸川河口まで)、大災害を引き起こした非常に複雑な大規模土砂移動です。「鎌原」→「天明泥流」は、非常に大規模な土砂移動現象であったため、多くの研究者によって研究がなされてきました。しかし、研究者によって、これらの現象の解釈や名称はまちまちで、鎌原火砕流,鎌原熱雲,二次(乾燥)粉体流,岩屑流,岩屑なだれ,土石なだれ,天明泥流,吾妻泥流,二次洪水,異常洪水などと記載され,混乱したままになっています。
「鎌原」→「天明泥流」については、多くの古文書や絵地図が残されており、多くの研究成果が発表されています(特に、萩原,1985-96は古文書を良く整理しています)。この土砂移動現象の発生−流下−堆積の実態を知ることは、この地域での火山砂防計画を検討する上で重要と考えられますので、建設省土木研究所の依頼に基づき、これらの問題を調査・検討しました(石川・他,1992,山田・他,1993a,b,井上・他,1994, 井上,1995)。そして、群馬県と長野県の依頼により、浅間山の噴火と防災に関する小冊子と広報用ビデオの作成業務を手伝いました(群馬県中之条土木事務所,1997a,長野県佐久建設事務所,1999)。また、地元の小学生等に分かりやすく理解してもらえるように、郷土学習の副読本として小学生用の小冊子の作成業務も手伝いました(群馬県中之条土木事務所,1997b)。これらの小冊子や広報用ビデオは、地元の小学校や公民館に置かれ利用されています。
一般に、火山活動に伴って発生する土砂移動は、噴出形態(溶岩流、火砕流、土石なだれ、泥流、降下火砕物)や規模、地形条件によって、流下範囲や流下時間が大きく異なりますので、土砂移動の予測は困難であり、火山災害の回避は難しいと言われています。平成2年(1990)の雲仙普賢岳の噴火以来、火山砂防事業の推進が活火山地域周辺で具体的に推進されています。最近の火山砂防計画では、数値シミュレーションなどによって、火山地域の土砂移動現象を把握しようとする努力が多くなされています。しかし、実際に起こった火山噴火に伴う土砂移動現象をきちんと把握せずに、数値シミュレーションなどが実施され、それに基づき火山砂防計画が立案されている場合が多いように思われます。
ここでは、現地踏査や古文書の解析、噴出物の地質学的分析などによって、浅間山の特に天明三年(1783)の噴火に伴う鎌原火砕流と天明泥流の流下・堆積現象の実態について、現時点までの調査で判明した問題点について説明したいと思います。
「鎌原」は、図-1の1783年浅間山噴火に伴う災害分布図に示したように、山頂から北に4km離れた直径700mの半円形の凹地から30度(山頂からだと18度)と狭い範囲にしか分布しません。分布範囲 (18.1km2)には、巨大な本質岩塊(高温のマグマが噴出したもの)が存在し、古地磁気の測定結果によれば、山頂から70km離れた利根川との合流点付近の本質岩塊(長径15m)までキューリー点以上の高温状態で流下・堆積したことが判明しました。
写真判読と現地踏査によれば、最大の岩塊は長径49m,高さ10m,体積9200立米にも達しており、「鎌原」の分布範囲には、長径5m以上の本質岩塊が194万立米(長径5m以下の本質岩塊を含めると430万立米)存在しました。天明泥流となって流下した分を含めると、720〜1060万立米の本質岩塊が地下から噴出したと考えられます。テストピットなどによる地質観察結果によれば、浅間山北麓の「鎌原」の分布範囲には、平均層厚2.2m(最大4.2m以上)、総体積4700万立米の堆積物が存在することが判明しました。
鎌原観音堂や延命寺付近では、詳細な発掘調査が行われました(嬬恋村教育委員会,1981,94,児玉,1982,大石1986)。鎌原観音堂下の階段や延命寺跡地付近は、5m前後の土砂で覆われていましたが、高温の本質岩塊は少なく、埋蔵物はあまり焼けておらず、非常に新鮮でした。松島(1991)によれば、この堆積物中の本質岩塊の比率は10%以下で、大部分は浅間山の山体を構成していた土塊が、「鎌原」流下時に侵食されて取り込まれ、この地に堆積したものでした。
私達の調査では、6箇所のテストピットのうち、3箇所で本質岩塊の回りから水蒸気が上方に抜けたことを示すパイプ構造が認められました。このことは、流下・堆積当時、高温の本質岩塊の回りには、かなりの水分が存在したことを示しています。絵図や古文書によれば、半円形の凹地付近には柳井沼と呼ばれる湖沼が存在し、周辺にはかつら井戸・用水などの湧水地や沼地を示す地名が多く存在します。現在でも鬼押出しの末端部には、多くの湧水地が分布して嬬恋村の水源地があり、現在でも湿地状となっています。このため、鬼押出しの中腹に位置する半円形の凹地(長野原町営火山博物館内)の中央部で、72.6mの調査ボーリングを実施しました。その結果、地表から64.8mもの厚さで鬼押出し溶岩が存在し、鬼押出し溶岩を取り除くと地表面の形態以上の深い凹地(天明噴火前の柳井沼)が存在することが判明しました。
被害状況の現地調査を行った幕府勘定吟味役の根岸九郎左衛門は、「浅間山焼に付見聞覚書」(萩原?のp.333)の中で、「此度浅間山焼にて、右の通泥石等押開候儀いずれより涌出し候哉の段、右起立の儀承糺候得共、浅間絶頂に御鉢と唱へ候所より涌こほれ候儀にも可有御座、又は中ふくより吹破候とも申候」と記されています。また、図-2に示したように、中腹噴火を描いた絵図も存在します。
この様な状況から判断しますと、「鎌原」は火山体の地下から噴出した高温の本質岩塊が火山体の斜面を高速で移動した時に、北麓斜面を激しく侵食し、そこにあった水分や土塊を取り込みながら、体積を大きく増大させて流下したと考えられます。従って、「鎌原」は通常言われているような火砕流Pyroclastic flowではなく、「高温の本質岩塊(10%以下)と浅間山の山体を構成していた水分を多量に含んだ土塊が柳井沼の水を取り込んで流下した」と考えられます。私達は、岩塊を多く含んでいなかったため、このような現象を土石なだれDebris avalancheと名付けました。
従来の研究では、噴出箇所は山頂火口と考えられてきましたが、絵図、古文書の記載内容、上記の流下・堆積状況、並びに航空写真判読による地形分類図などから、
?) 山頂からの噴出物質が柳井沼に流入し、柳井沼周辺の水や土石と一緒になって流下した,
?) 中腹の凹地(柳井沼付近)から側噴火し、柳井沼周辺の水や土石と一緒になって流下した,
の2案が考えられます。
最近になって、浅間山の火山砂防計画が検討され始めていますが、このような観点から天明の噴火を捉えてはいません。現在、浅間山の北麓には、柳井沼のように大量の水を湛えた湖沼は存在しませんので、「鎌原」のような流動性の非常に高い土砂移動が今後発生する可能性は低いと考えられます。火山砂防計画を検討する場合には、むしろ天仁元年(1108)の噴火のような現象を対象とした方がよいと思います。
天仁の噴火は、天明の噴火よりも大きく、北側(群馬側)と南側(長野県側)の両方に流動性のやや低い追分火砕流を流下させました。天仁元年(1108)の噴火状況や土砂移動の実態は、まだあまり解明されていませんので、詳細な調査を実施する必要があると思います。また、石尊山や柳井沼,小浅間、離山などが存在しますので、山頂噴火だけでなく、側噴火の可能性についても検討しておく必要があると思います。
大規模土砂災害の現地を歩き、古文書や絵図などを調べて行くと、従来の学説とは異なる土砂移動現象に出合うことが良くあります。今回の企画を将来の減災に少しでも役立たせるためには、より実際に近い土砂移動の発生・流下・堆積機構を解明するとともに、その時の地域住民がこのような土砂移動に対し、どう対応(被災から災害復興まで)したかを調査する必要があります。そして、できるだけ分かりやすく展示する必要があると思っています。
荒牧重雄(1968):浅間火山の地質(地質図付),地団研専報,14巻,45pp.
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いのうえ・きみお 日本工営株式会社副技師長 砂防工学 共同研究「歴史資料と災害像」共同研究者