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No.10No.9No.8No.7No.6No.5No.4No.3No.2No.1最新の歴博だより

No.10 銅銭の丸い形と四角い穴

みなさんは、昔の銅銭というと、写真のようなものが頭に浮かぶのではないでしょうか。これらは方孔円銭といいますが、形が統一されたのは、中国で秦の始皇帝の時代(紀元前3世紀)から前漢にかけて作られた「半両銭」にまでさかのぼります。この形は日本を含む東アジア地域に広まり、長く使われました。円形は天を、方孔(四角い穴)は地をあらわしているといわれています。また、銅銭を作る時の最後の工程で、四角い穴に棒を差し込んで固定し、銭の側面を磨いたと考えられます。

半両銭(中国) 南宋銭(中国) 寛永通寳(日本)

2013年12月9日 研究部 齋藤 努

No.9 中世の古文書 (6)織田信長朱印状

企画展示「中世の古文書―機能と形―」(2013年10月8日~12月1日)から、歴史上の有名人などが出した館蔵文書を6回に分けてご紹介します。(〔〕は展示の資料番号です。)

織田信長朱印状

天正9年(1581))9月7日〔193〕

織田信長(1534~82)が、秀吉と共に毛利氏と戦っている尼子氏旧臣の亀井茲矩(かめいこれのり)に対して、戦功によっては尼子氏旧領の出雲国を与える、と約束した文書。実際は、翌年織田信長が死んで、この約束は反故となります。花押の代わりに印を押し、本文の書止めは「候也(そうろうなり)」と命令口調で、この様式は秀吉や家康にも受け継がれました。朱印は、有名な「天下布武(てんかふぶ)」という印文です。

2013年11月7日 研究部 小島 道裕

No.8 中世の古文書 (5)後醍醐天皇宸翰消息

企画展示「中世の古文書―機能と形―」(2013年10月8日~12月1日)から、歴史上の有名人などが出した館蔵文書を6回に分けてご紹介します。(〔〕は展示の資料番号です。)

後醍醐天皇宸翰消息

元弘3年(1333)9月22日〔152〕

後醍醐天皇(1288~1339)が、東寺に対して、仏舎利をたやすく分け与えないように命じた文書。自筆の天皇の文書を「宸翰」と言います。家臣に出す場合は差出も宛名も書かないことが多いのですが、これは花押を書いています。5月に鎌倉幕府を倒し、新政権を樹立したばかりの時に書かれたもので、堂々とした文字が印象的です。紙は、「引合(ひきあわせ)」という最上質の楮紙(ちょし=楮(こうぞ)で作った紙)を用いています。

2013年11月5日 研究部 小島 道裕

No.7 中世の古文書 (4)足利尊氏御判御教書

企画展示「中世の古文書―機能と形―」(2013年10月8日~12月1日)から、歴史上の有名人などが出した館蔵文書を6回に分けてご紹介します。(〔〕は展示の資料番号です。)

足利尊氏御判御教書(あしかがたかうじごはんのみきょうしょ)

観応2年(1351)10月5日〔79〕

足利尊氏(1305~58)が播磨の島津氏に宛てて出した文書。弟の直義との「二頭政治」が破綻し、内戦状態になった際に、軍勢を率いて京都に来るよう命じた文書です。普通の文書の八分の一程度の小さな紙に書かれており、使者がひそかに運んだ密書と思われます。「御判御教書」とは、将軍自身が花押を据えた文書を敬って呼んだもので、これは日付けの下に名前を書いた丁寧な様式のもの。「味方に来てくれ!」というお願いですから。

2013年10月31日 研究部 小島 道裕

No.6 中世の古文書 (3)関東下知状

企画展示「中世の古文書―機能と形―」(2013年10月8日~12月1日)から、歴史上の有名人などが出した館蔵文書を6回に分けてご紹介します。(〔〕は展示の資料番号です。)

関東下知状(かんとうげちじょう)

嘉禎元年(1235)12月24日 〔66〕

鎌倉幕府は第三代将軍の源実朝で源氏将軍の時代が終わり、実権を北条氏が握るようになります。「関東下知状」は、その政治体制に合わせて作られた文書で、鎌倉殿(将軍)の仰せを奉じる形で出されています。この文書は、執権の北条泰時と連署の北条時房が出したものです。差出人の署名を、日付けの下ではなく一行ずらしているのは、相手にへりくだらず、自分の方が偉いことを微妙に示しています。北条氏の立場を示す文書です。

2013年10月28日 研究部 小島 道裕

No.5 中世の古文書 (2)藤原頼経袖判下文

企画展示「中世の古文書―機能と形―」(2013年10月8日~12月1日)から、歴史上の有名人などが出した館蔵文書を6回に分けてご紹介します。(〔〕は展示の資料番号です。)

藤原頼経袖判下文(ふじわらのよりつねそではんくだしぶみ)

寛喜3年(1231)2月24日〔16〕

鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経(1218~1256)が、御家人菅原政光の所領を安堵した文書です。文書の右端(「袖」と言います)に花押(かおう)を書いていますが、署名(花押)はふつう日付けの下に書き、それがへりくだった意味になるので、この「袖判」は、大変尊大な態度を取っていることになります。源頼朝以来、将軍が家臣に所領を与える場合などに使われた様式です。

2013年10月24日 研究部 小島 道裕

No.4 中世の古文書 (1)源義経自筆書状

企画展示「中世の古文書―機能と形―」(2013年10月8日~12月1日)から、歴史上の有名人などが出した館蔵文書を6回に分けてご紹介します。(〔〕は展示の資料番号です。)

源義経自筆書状(みなもとのよしつねじひつしょじょう)

文治元年(1185) 6月28日 〔24〕

源義経(1159~89)が書いた、数少ない全文自筆の書状です。平氏の滅亡後、京都にいた義経が、鳥羽上皇の娘で多くの皇室領荘園を持っていた八条院璋子(はちじょういんしょうし)に対して、伊予国へ使者を派遣しても大丈夫ですよ、と返事をしたものです。用済みとなって廃棄された後、紙の裏が高山寺で仏典の写本に使われたため、裏にもびっしりと文字が書かれています。本の紙背になっていたので、「紙背文書」と呼びます。

2013年10月21日 研究部 小島 道裕

No.3 江戸時代の金貨の色

天保小判(金57%)

万延二分判(金22%)

江戸時代に発行されたお金のうち、金貨は金と銀の合金でした。中心となっていた小判、一分判は発行時期によって金の割合が変わり、金が56%くらいしか入っていないものもありました。また、補助的に使われていた二分判、二朱判、一朱判ではさらに金の割合が低く、金がわずか20%ほどのものもありました。しかし、肉眼でみると、いずれも純金に近い色をしています。これは、色揚げという薬品処理を行い、表面から銀だけを取り除いて、金の割合を高めていたからです。

2013年9月26日 研究部 齋藤 努

No.2 皇朝十二銭の原料

総合展示第1展示室に、和同開珎をはじめとする十二種類の銅銭、「皇朝十二銭」がならんでいます。数%のヒ素(猛毒ですね)を含んでいるのが特徴です。『続日本紀』という昔の文書には、「秩父から和銅(自然銅)が献上されたこと」と「銅銭が発行されたこと」が同じ年のできごととして書かれているため、この和銅が和同開珎などの原料になったのではないかという説もありました。しかし、科学的な分析の結果によれば、その原料は山口県の長登(ながのぼり)銅山などから採れたものと考えられています。

和同開珎 皇朝十二銭 展示の様子

2013年8月29日 研究部 齋藤 努

No.1 縄文時代のウルシの木にみつかった黒い傷

縄文時代には優美な漆塗りの製品がたくさんみつかっています。赤い顔料を混ぜた漆で塗られた漆器は、縄文人の技術と美意識の高さを物語っています。

第1展示室の縄文時代の漆のコーナーに、2011年に黒い線状の傷があるウルシの木を追加しました。縄文人が石器でウルシの木に傷を付けて樹液を採取したこと、遺跡のすぐ近くにウルシ林があったことが分かった貴重な遺物で、東京都下宅部遺跡で初めて発見されたものです。

ウルシは日本では管理・栽培しないとなかなか育たない木です。下宅部遺跡の縄文人はウルシ林を維持・管理して計画的に樹液を採取し、素晴らしい漆塗り製品を作っていたのです。

「でも、ウルシってどんな木なの?」

歴博の「くらしの植物苑」に行ってみましょう。写真は3年目の若いウルシです。このウルシから採取できようになるのはまだしばらく先ですね。いずれ、縄文人の気持ちになって石器で傷をつけてみたいと思います。でも決して触らないでくださいね。触ると皮膚がかぶれる木でもあるのです。縄文人もかぶれてひどい目にあったことでしょう。

下宅部遺跡の出土品の展示
左端がウルシの杭
3700年前のウルシの杭
ウルシの木に3本の黒い線が見えます。石器で傷を付けて樹液を採取した痕で幹をぐるっと1周しています。樹液採取後に枯れたウルシを伐採して、縄文人は杭に使っていたのです。
「くらしの植物苑」のウルシ
2011年に植えたばかりの若い木です。10年後には「石器で傷をつけて樹液を採取」をすることを見越して、3本植えています。
石器でウルシに傷を付ける様子
上の写真は2012年に茨城県の奥久慈のウルシ農家さんに協力してもらい、石器でウルシに傷を付けてみた時の写真です。

2013年7月29日 研究部 工藤 雄一郎