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開催概要趣旨見どころ関連の催し

開催概要

大久保利通とその時代
開催期間2015年10月6日(火)~12月6日(日)
開催期間 2015年10月6日(火)~12月6日(日)
会場 国立歴史民俗博物館 企画展示室A・B
料金 一般:830(560)円 / 高校生・大学生:450(250)円 /
小・中学生:無料 /( )内は20名以上の団体
※総合展示もあわせてご覧になれます。 
※毎週土曜日は高校生は入館無料です。
開館時間 9時30分~16時30分(入館は16時00分まで)
※開館日・開館時間を変更する場合があります。
休館日 月曜日(休日の場合は翌日が休館日となります)
主催 国立歴史民俗博物館

見どころ

・重要文化財 約3000点からの選りすぐり、約160点を実物公開!
・文書、書跡、写真、遺品、書籍など、子孫から寄贈されたばかりの資料を初公開!
・机、煙管、碁石、灰皿、櫛、懐中時計・・・大久保利通という“人”を彷彿とさせる遺愛の品々
・西郷隆盛、木戸孝允、勝海舟 ――。やりとりされた手紙から見える時代を動かした群像
・活字化され史料集に収録されるなど、よく知られていても実物を展示する機会が稀だった資料の数々
・変革と創造の息吹を伝える幕末維新期の“生”の歴史資料

パリで撮影された大久保利通写真 部分(本館蔵)

≪大久保利通≫ [1830~1878(天保1年~明治11年)]
幕末-明治時代の政治家。薩摩(さつま)藩出身。西郷隆盛らと倒幕運動を推進、明治政府を樹立。明治2 (1869) 年維新政府の参議,同4(1871)年大蔵卿を経て,同6年(1873)年内務省設置とともに内務卿に就任。殖産興業政策に取り組むなど、事実上の政権トップとして日本の近代化を強力に推し進めた。西南戦争鎮圧の翌年,不平士族に暗殺された。西郷隆盛,木戸孝允と並んで〈維新の三傑〉と呼ばれる。

大久保利通が使用した金時計(本館蔵)
(新収寄贈資料)

大久保利通の執務机(本館蔵)
(新収寄贈資料)

岩倉使節団の全権大使・副使たち写真(本館蔵)

展示の趣旨

本館が所蔵する大久保利通関係資料は、維新の三傑の一人である大久保利通(1830~78)が遺したものです。うち3,053点は2004年には重要文化財に指定されています。しかし、多くが書簡という地味な資料であったことから、収蔵されてから長い時間が経過しましたが、展示という形で全面的に公開する機会がありませんでした。そこで、今回、あくまで史料的価値に主眼を置き、思い切って展示することとしました。また、今年新たに寄贈された追加資料については速報的にその内容の一部をお披露目いたします。中でも大久保利通が発した書簡、あるいは彼に宛てられた様々な人物の書簡は、幕末から明治初期という時代を切り取った生の記録といえます。資料から広がる大久保の人物像とその時代の歴史像とを是非とも読み取っていただきたいと思います。

【展示代表 紹介】

樋口 雄彦 (ひぐち たけひこ)
【所属】 国立歴史民俗博物館 研究部歴史研究系 教授
【専門】 日本近代史、特に明治期における旧幕臣について
【履歴】
2001年国立歴史民俗博物館助教授、2007年博士(文学、大阪大学)、2007年国立歴史民俗博物館准教授
2011年国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授
【著書】
『旧幕臣の明治維新 沼津兵学校とその群像』(2005年、吉川弘文館)、『沼津兵学校の研究』(2007年、吉川弘文館)、 『静岡学問所』(2010年、静岡新聞社)、『海軍諜報員になった旧幕臣─海軍少将安原金次自伝─』(2011年、芙蓉書房出版)、 『第十六代徳川家達 その後の徳川家と近代日本』(2012年、祥伝社)、『敗者の日本史17 箱館戦争と榎本武揚』(2012年、 吉川弘文館)、『人をあるく 勝海舟と江戸東京』(2014年、吉川弘文館)など

 

展示構成

1 薩摩で育まれたもの

幕末維新期の群像の中で突出した存在となった大久保利通ですが、そもそも薩摩藩が維新に果たした役割を抜きにしては考えられません。薩摩藩はなにゆえ明治維新の原動力になりえたのでしょうか。大久保や西郷隆盛を生み出した背景には、同藩の特質と彼らの主君たる島津斉彬や島津久光らの存在がありました。

《近思録》 
『近思録』は朱子学の入門書であり、若き日の大久保利通が、西郷隆盛・伊地知正治・吉井友実・海江田信義らとともに開いた勉強会で輪読したことが知られる。残存するのは巻之二、六・七、十、十一・十二、十三・十四の5冊のみであり、明治期の大久保邸の火災による焼損が見られる。大久保家では同書を弘化5年(1848)正月に入手した旨が書き込まれている。

2 藩士・志士・策士の顔

大久保利通が藩内の同志とともに誠忠組を結成し、国事に奔走すべく志士活動を始めたのは安政期です。藩主の父島津久光の信用を得るのに成功し、率兵東上(※1)に供奉するなど、藩を挙げての公武合体運動を補佐しました。やがて盟友西郷隆盛らとともに倒幕へと舵を切り、長州藩の木戸孝允や岩倉具視らと結束して、王政復古へと政局を導きました。

※1)兵を率いて、京・江戸に上ること。

重要文化財 《生麦事件について記した 大久保利通日記》
文久2年(1862)8月21日 「夷人生麦村ニ而御行列先キ江騎馬ニ而乗懸、壱人切捨外者逃去候由、神奈川辺別而及騒動候(外国人が生麦村で島津久光の行列を騎馬で横切ったため、1人が斬り殺され他は逃げ去った。神奈川宿周辺は大変な騒ぎになった)」と淡々と記す。大久保も行列の中にいた。

《慶応元年(1865)9月23日付 西郷隆盛宛大久保利通書簡》 
9月21日将軍家茂に長州再征の勅命が下ったことに対し、それを阻止すべく動いていた大久保は大いに失望し、「天下万人御尤ト奉存候而こそ 勅命ト可申候得ハ非義 勅命ハ 勅命ニ有らす候故不可奉所以ニ御坐候」と記した。つまり天下万民が納得する正義のない勅命は真の勅命ではないと言い放ったのである。天皇の権威すら単純には絶対視せず、決して目標を見失わないリアリストの姿を示している。大久保が関白に対し征長反対を猛烈に働きかけていたことは一橋慶喜の耳にも入り、「一匹夫ノ言」によって朝議が左右されるとはけしからんと激怒したという。
(新収寄贈資料)

3 維新官僚として

大久保利通は慶応3年(1867)12月に参与に任命され、王政復古で成立した新政府の指導部に加わりました。翌年1月には大阪遷都の建議を行い、天皇を京都の古い宮廷から切り離し、新国家にふさわしい君主に生まれ変わらせることを主張します。明治2年(1869)には版籍奉還、4年(1871)には廃藩置県を実現させ、中央集権化を押し進めました。

《維新当時の大久保利通写真》 
明治元年(1868)頃の撮影とされる。唯一残された和服姿の写真。
(新収寄贈資料)

重要文化財 《東幸の際に下賜された扇 明治元年(1868)10月》 
明治天皇は9月20日京都を発ち、10月13日東京に到着した。9月27日東京に先着していた大久保は品川で奉迎した。12月には京都還幸に供奉した。

4 外交手腕の発揮

大蔵卿大久保利通は明治4年(1871)から6年(1873)にかけ、岩倉使節団の副使として米欧諸国を視察し、国際社会における自国の客観的な位置を認識する機会を得ました。帰国後は内治優先の立場をとりましたが、7年(1874)、あえて台湾出兵を行い、自らその決着をつけるべく北京で談判を行い、清国との妥協を勝ち取りました。

重要文化財 《明治6年(1873)3月21日付 西郷隆盛・吉井友実宛大久保利通書簡》 
岩倉使節団に加わりパリからベルギー・オランダを経由してドイツのベルリンに滞在中であること、ドイツは他のヨーロッパ諸国と違い淳朴であること、ビスマルク・モルトケといった大先生が輩出していることから、自分の考えに添う国であるといったことを報じている。

《大久保利通書幅》 
奉勅単航向北京。黒烟堆裏蹴波行。和成忽下通州水。閑臥蓬牕夢自平。読み下しは、「勅を奉じて単航北京へ向かう、黒烟堆裏、波を蹴たてて行く。和成り忽ち下る通州の水、蓬牕に閑臥すれば夢自ずから平らかなり」。北京での交渉が妥結した後、明治7年(1874)11月、通州から乗った船の中で作った漢詩。
(新収寄贈資料)

5 国家建設の指導力

明治6年(1873)の征韓論政変後、大久保利通は内務卿に就任し、参議も兼任していたことから政府内で大きな権力を握りました。新設された内務省では勧業・土木・警察・衛生・地租改正などの諸事業を管轄し、近代化政策を強力に推進しました。大久保個人に藩閥意識は薄く、部下には出身藩に関係なく優秀な人物が集められました。



重要文化財 《「内務卿大久保利通印」と彫られた印鑑》

《内国勧業博覧会関係者集合写真》
明治10年(1877)8月から東京上野で開催された第1回内国勧業博覧会の関係者たち。褒賞授与式の日。大久保を中心に、左へ松方正義、河瀬秀治、渡辺洪基、宇都宮三郎、山高信離、右へ前島密、楠本正隆、大鳥圭介、田中芳男、鈴木利亨、武田昌次、多田元吉、大鳥の左後近藤真琴、右端近く伊藤圭介ら、内務官僚や審査官などとして博覧会を支えた人々の顔が見出せる。この写真は『大久保利通伝』下巻に掲載されている。
(新収寄贈資料)

6 盟友西郷隆盛との訣別

征韓論をめぐる対立から西郷隆盛は下野しました。一方、征韓派だった板垣退助らが7年(1874)1月に民撰議院設立建白書を提出し、自由民権論が広がり始めました。同年、やはり征韓論に敗れた江藤新平による佐賀の乱を大久保は断固鎮圧。そして10年(1877)西南戦争の勃発と終結により、かつての盟友西郷と大久保は幽明境を異にしたのでした。

重要文化財 《明治6年(1873)10月23日付 大久保利通宛岩倉具視書簡》                                                  
中で述べられている西郷の辞表とは、征韓論争に敗れることを悟った西郷隆盛が参議等の辞職を願い出たもので、その日に提出されていた。一度は決定されていた西郷遣韓が岩倉によって否定されたのは前日のことだった。岩倉は辞表を一度は差し戻さなければならないのではないかと配慮したが、大久保は陸軍大将の職だけはそのままにして、参議・近衛都督についてはすぐに免職にしてもよいだろうと返事した。辞表は24日に受理され、西郷は下野する。

重要文化財 《明治11年(1878)1月19日付 岩倉具視宛大久保利通書簡》                                                 
「今般之戦争ハ未曽有之刻苦、八ケ月之間櫛風沐雨死中ニ生ヲ得テ一同帰京候事候得ハ、洗例ニ拘らす特別之恩典被為在候而も不可無之と被存候(今回の戦争は未曽有の困難であり、8か月もの間戦場で苦労し、帰京した兵士たちには特別のご褒美を与えてやってもよいと思っている)」と、西南戦争に従軍した将兵に対し十分な慰労をする必要があることを述べている。

7 家庭にて

大久保利通は極めて冷徹な人物というイメージが強いようです。確かに寡黙で、あまり笑顔を見せない人でした。大久保が朝出勤する時、内務省内では雑談や笑い声は消え、水を打ったように静まり返ったといいます。しかし、家庭においては優しい父親でした。碁を趣味としたこと、また非常な愛煙家だったことも有名です。

重要文化財 《大久保利通が使用した碁石》
大久保は囲碁を趣味としたことで知られる。若い頃、権力者島津久光に近づくための深謀遠慮で、わざわざ碁を習ったというエピソードもある(ただし、大久保はそれ以前から碁を習得していいたことが指摘され、この説は否定されている)。

重要文化財 《大久保利通使用の煙管》
大のタバコ好きだった大久保は、喫煙を唯一の贅沢だと言っていた。煙管を昼用と夜用に分けて使用したほどのヘビースモーカーであり、その掃除は家族にとっても大変だった。岩倉使節団で洋行中、大久保が乗る汽車の中は煙で濛々としていたという。

8 その死と追悼

大久保利通は、明治11年(1878)5月14日朝、赤坂仮御所に向かう途中、清水谷(現東京都千代田区紀尾井町)で刺客の襲撃を受け暗殺されました。息子利和は亡父の功により華族に列せられ、17年(1884)7月には侯爵を授けられました。同年10月遭難の地に哀悼碑が、大正2年(1913)5月青山墓地に勅撰神道碑が建立されました。

《大久保利通が所持した拳銃》
アメリカ・レミントン社製のデリンジャー上下二連先折式。 馬車に乗る時には護身用の短銃を置いていたという。

重要文化財 《暗殺時に所持していたため血痕が付いた書簡》
明治11年5月13日付楠本正隆書簡、起業公債発行についての内容。楠本正隆(1838~1902)は大村藩士出身で、当時は東京府知事。

9 息子たちによる顕彰

長男利和は侯爵に列せられました。次男牧野伸顕は昭和期にいたるまで親英米派の重臣として活躍したことで知られます。兄利和の跡を継ぎ侯爵となった三男利武は、鳥取・大分・埼玉・大阪の知事などを歴任しました。兄弟は父の業績を世に残すため、資料収集に熱心に取り組み、『大久保利通日記』『大久保利通文書』の刊行に尽力しました。

《甲東先生遺墨集》
昭和2年(1927)9月刊。財団法人青山会館編、民友社発売。同年5月に開催された五十年記念遺墨展覧会の出品資料をまとめた図録。徳富蘇峰が序文を寄せ、題字は公爵島津久重である。「甲東」とは大久保利通の号。

《青山墓地利通墓前の牧野伸顕・大久保利武ら写真》 
昭和11年(1936)5月14日。前列右端大久保利武夫人、右から3人目利武、5人目牧野伸顕。他は東京高等農業学校(現東京農工大学)の生徒・職員たち。同校は利通が内務卿時代に設立された駒場農学校を前身とし、利武も在学したことがあった。

10 小松帯刀とその資料

小松帯刀(1835~70)は、幕末の薩摩藩で西郷・大久保に匹敵する役割を果たした存在。文久2年(1862)家老となり、島津久光の国事奔走を補佐するとともに、軍制改革を担当、イギリスとの接近をはかるなど藩力増強につとめました。維新後は参与や外国官副知事をつとめたものの、若くして病没しました。大久保家には小松関係の資料が伝来しました。

《小松帯刀の「文久三己亥二月十九日ヨリ 御上京御供中日簿」》
700人余を率いての島津久光の上洛に供奉した際の日記。京都に到着した文久3年(1863)3月14日条には、久光が近衛邸で中川宮朝彦親王・関白鷹司輔熙・一橋慶喜らと対面したこと、小松も召し出され料理を下されたことなどが記されている。当時、将軍家茂も上洛中だったが、朝廷内は長州藩の影響により攘夷急進論が横行しており、久光一行はすぐに帰藩することとなった。

主な展示資料

  • 重要文化財 元治元年(1864)7月9日付 禁門の変直前の状況を伝える大久保利通宛西郷隆盛書簡
  • 重要文化財 慶応元年(1865)10月の条約勅許について記した大久保利通日記
  • 重要文化財 慶応2年(1866)6月10日付 第2次長州戦争について述べた大久保利通宛木戸孝允書簡
  • 重要文化財 明治元年(1868)還幸等に関する意見書
  • 重要文化財 明治4年(1871)8月24日付 東京から鹿児島にいる妻子にあてた大久保利通書簡
  • 重要文化財 明治7年(1874)3月24日付 江藤新平の逮捕に関する岩倉具視宛大久保利通書簡
  • 重要文化財 大久保利通が使用した印章「利通之印」
  • 重要文化財 15年忌に勝海舟が詠んだ追悼歌
  • 重要文化財 大久保利通が使用した歯ブラシ入れ
  • 大久保利通の執務机
  • 岩倉使節団の全権大使・副使たち写真
  • 大久保利通が使用した金時計
  • 大久保利通が使用した陣笠

など(すべて本館蔵)
※資料総点数約240点 うち国指定重要文化財 約160点

企画関連イベント

展示室内では「大久保利通クイズ」をご用意。大久保利通の素顔にせまる知られざる物語付き!

歴博講演会

定員260名、聴講料無料(事前申込不要、当日会場までお越しください)

第383回「大久保利通資料に関するあれこれ」

開催日時 2015年11月14日(土) 13:00~15:00
会場 国立歴史民俗博物館 講堂
講師 樋口雄彦(本館歴史研究系教授)

ギャラリートーク

開始時間までに企画展示室入口に集合してください。
※入館料が必要となります。

日程 時間 担当者
10月17日(土) 13:00~14:00 樋口 雄彦 (当館歴史研究系)
10月31日(土) 13:00~14:00 樋口 雄彦 (当館歴史研究系)
11月7日(土) 13:00~14:00 樋口 雄彦 (当館歴史研究系)

※日時・担当者は予告なく変更する場合がありますのでご了承ください。

図録のご案内

大久保利通とその時代
価格:1,620円(税込) 送料:350円 

図録及び販売物についてのお問い合わせ
財団法人 歴史民俗博物館振興会
電話:043-486-8011(9時30分から17時00分まで)/ E-mail: shop@rekishin.or.jp

他の企画展示等の図録

※内容は変更する場合があります。ご了承ください。