企画展示をより楽しく、より深く鑑賞していただくため、本館の広報担当職員が企画展示の担当者から展示の見どころや作り手の気持ちを取材します。

今回は7月7日から開催する企画展示「ドイツと日本を結ぶもの-日独修好150年の歴史-」の保谷徹代表(東京大学史料編纂所・本館客員教授)にお話をうかがって来ました。
※画像掲載の資料はすべて出展されます。

展示案内「ドイツと日本を結ぶもの-日独修好150年の歴史-」

各回リンク
第1回「プロイセンがやって来た!」 第2回「貴重資料からみる日独外交」 第3回「深まる交流」
第4回「第一次世界大戦~ワイマール共和国時代の日独関係」 第5回「第二次世界大戦以降の日独関係」

第3回 深まる交流

保谷:今回の展示では日独関係の大きな流れを追っていくことだけでかなりのボリュームで、ちょっとした裏話のようなエピソードを入れ込むスペースがなくなってしまいました。そうした中でも、史料編纂所の箱石准教授とパンツァー先生によるフライブルクの軍事文書館での調査の成果は少しお出ししようと思います。シュネル兄弟をご存じですか?幕末に会津藩と通じて兄のハインリヒ・シュネルは平松武兵衛と名乗り、やがて会津藩の軍事顧問になる人物ですが、彼もプロイセン人です。そうした所を通じて、最幕末に会津藩・庄内藩からプロイセンに対して、両藩が持っている蝦夷地の領地をプロイセンに提供するので軍事的な提携をしようという提案が持ちかけられます。提案を受けて当時の北ドイツ連邦の代理公使兼総領事であったフォン・ブラントは海軍基地を蝦夷地につくったらどうかと本国に報告するわけです。


M・フォン・ブラント著『東アジアにおける三十三年間
―あるドイツ外交官の回想』より(当館蔵)

保谷:しかし、宰相のビスマルクは「それはダメだ」と一旦却下するんですね。ところが、他国がその利権を得ようとしているという情報が伝わると、ビスマルクは「この間の計画は続けてよし」と方針転換します。この指示に従って蝦夷地に海軍基地をつくろうとするのですが、実際にはこの段階で戊辰戦争(1868年~1869年)が終わってしまって、この話は立ち消えになってしまいました。そういった水面下でのやりとりの書簡が展示されます。

これは面白いエピソードですね。まさに幕末外交史の裏側ですね。

保谷:面白いんですが、展示場ではすーっと通りすぎてしまうかも知れませんね。全文ドイツ語の資料ですし(笑)。まぁ、そうした秘話のようなものもあります。

この後、日本では廃藩置県(1871年)で大名制がなくなって中央集権政府ができます。奇しくもドイツでも諸国を統合したドイツ帝国が成立(1871年)します。そこからの関係としては、「ドイツから学んだもの」としてドイツに渡った留学生たち、そしてドイツから招聘したお雇い外国人たちについて触れています。数的にはアメリカやイギリスが多かったのですが、ドイツはそれに次ぐ人数の留学や教師の招聘を行っています。特に医学や法学などの分野ですね。 留学生では、歴博が持っている木戸家関係資料から、木戸孝允の養嗣子でドイツに留学した木戸正二郎に関する資料などを展示します。


木戸正二郎の洋行願(当館蔵)

保谷:教師では、ベルツや「君が代」の原型をつくったともいわれるエッケルト、駒場農学校(現在の東京大学農学部)のお雇い外国人、ケルネルをご紹介します。ケルネルは日本に初めて化学分析を持ち込んだ人物の一人です。実験ノートを展示しますが、これは何の分析をしているかというと、下肥(しもごえ)なんです。

下肥って・・・人間のウンチやオシッコで作る肥料の、あの下肥ですか?

保谷:そうです。下肥の分析をして、その効能を説いているというものです(笑)。ケルネルが実験に使った田んぼは「ケルネル田んぼ」と呼ばれて今も駒場にあるんですよ。駒場の駅から吉祥寺よりの方にかなり広い田んぼがあって、今でも筑駒(筑波大学付属駒場中・高等学校)の学生たちが田植えから行って、卒業の時には収穫したお米で餅をつくって食べるそうですよ。

今でも脈々と受け継がれているんですね。

保谷:あと注目すべきは、やはり青木周蔵ですね。


大礼服姿の青木周蔵(個人蔵)

保谷:青木周蔵関連の資料は今回初公開となるものです。ウィーンから西へ180キロほど行くと、リンツというオーストリアで2番目に大きな町があるんですけど、その近くの山にドーンと大きな城館が建っています。そこの伯爵が青木周蔵の子孫なんです。

子孫はオーストリアに住んでいるんですか?

保谷:青木周蔵はプロイセンの貴族の娘と結婚して、生まれた娘もまたドイツの貴族に嫁いで、さらに孫娘もドイツ貴族に嫁ぐんですね。青木周蔵が結婚する時に外務省から出された婚姻許可証なんかも展示します。当時はまだ外国人の結婚が認められて間もない頃で、国際結婚には許可証が必要だったんですね。

青木は、数え方にもよるんですが、実際にドイツで生活していた期間が約20年と、とても長いんですね。だからドイツ語の方がうまくて、家の中でもドイツ語をしゃべっていたそうです。特に初期の日独関係を支えたのは青木で、いろんな留学生の世話や、お雇い外国人の世話であるとか、すべて青木が手配するんですね。非常に長い間駐独公使をやっていましたし、その後外相になって条約改正交渉を行ったりもするのですが、やはり基本はドイツなんです。

日独関係を語る上では欠かせない人物なんですね。

保谷:続いてジャポニスムについてですが、ここは冒頭にお話ししたパンツァー先生がご専門の分野ですね。


『ミカドあるいは3つの課題。
五幕物の日本のおとぎ話』(個人蔵)

保谷:展示では当時の雑誌などに描かれた日本趣味などを取り上げています。結構家庭の中でも日本趣味は流行ったそうですね。あと、まさにパンツァー先生のご研究ですが、川上音二郎と貞奴(さだやっこ)のドイツ公演に関する資料もお見せします。

第4回に続く