企画展示をより楽しく、より深く鑑賞していただくため、本館の広報担当職員が企画展示の担当者から展示の見どころや作り手の気持ちを取材します。

今回は7月7日から開催する企画展示「ドイツと日本を結ぶもの-日独修好150年の歴史-」の保谷徹代表(東京大学史料編纂所・本館客員教授)にお話をうかがって来ました。
※画像掲載の資料はすべて出展されます。

展示案内「ドイツと日本を結ぶもの-日独修好150年の歴史-」

各回リンク
第1回「プロイセンがやって来た!」 第2回「貴重資料からみる日独外交」 第3回「深まる交流」
第4回「第一次世界大戦~ワイマール共和国時代の日独関係」 第5回「第二次世界大戦以降の日独関係」

第1回 プロイセンがやって来た!

よろしくお願いします。

保谷:よろしくお願いします。

まず今回の展示を企画されたきっかけを教えてください。

保谷:そもそも2011年にドイツのマンハイムの美術館で日独150年記念の展示が開催されました。その時に中心になったのがボン大学名誉教授のペーター・パンツァー先生です。私はパンツァー先生とは史料編纂所のプロジェクトでともに共同研究をしていたのですが、そうした中でマンハイムの展示を日本でも開催できないかというお話をいただきました。一方で歴博にも別のルートから150年記念の展示ができないかというオファーがあることを知り、両者の間を私が仲介するような形で今回の展示プロジェクトが立ち上がったわけです。ですので、2011年のマンハイムの展示がもとになっているのですが、その間の研究の進展や日本側の資料も盛り込んで、新たに企画を練り直したものとなっています。


保谷教授

人間文化研究機構が進めている在外日本資料の調査研究(注)の成果も入っているのですか?

保谷:もちろん入っています。ブランデンシュタイン家の調査やベルリンの調査の成果が盛り込まれています。そこがドイツでの展示と大きく違うところですね。

それでは、展示の具体的な内容に移っていきたいと思います。今回の展示では幕末にオイレンブルク伯爵率いるプロイセン使節団が来日したところからスタートしていますよね。


フリードリッヒ・アルブレヒト・ツー・
オイレンブルク伯爵肖像画(個人蔵)

保谷:はい。でも本当のことを言うと、それまでにもケンペルやシーボルトなどドイツ人が来ていないことはないんですよ。ただそれを言い始めるときりがないので(笑)、今回はプロイセンの使節団と条約が結ばれるところから始めて、そこから150年の歴史ということで構成してあります。

プロイセンの使節団は江戸幕府と条約を締結するために派遣されてきたのでしょうか。

保谷:そうです。普通幕末の開国の歴史ではペリーから始まって、安政の五カ国条約(1858年)がアメリカ・ロシア・イギリス・フランス・オランダと結ばれるというところで大体一段落するわけです。しかし実際には、その後江戸幕府はポルトガルと条約を結んで、その次にプロイセンと結ぶことになるのです。実はこのプロイセンと条約を結ぶか結ばないかが、幕末史では1つの画期となるんですね。

ここの部分は少し説明が細くなりますが、当時攘夷運動が出てくる中で、なるべく条約関係を抑えようという動きがありました。ですので、当初はプロイセンとも条約を結ばないようにしようとしていたのですが、一つは他のいろいろな国に対して「日本はもうこれ以上条約は結ばないよ」ということを宣言してもらうこと、もう一つは江戸や大坂、特に朝廷と問題になる兵庫等について開港や開市を先延ばしにする交渉を進めること、の二つを引き換え条件に、江戸幕府はプロイセンと条約を結ぶわけです(1861年)。この江戸・大坂・兵庫・新潟を除いた形で条約を結ぶ方法は最幕末までひとつのパターンとして続いていくので、このプロイセンとの条約締結はとても大きな意義を持っています。この辺りは歴博の福岡准教授の研究にのっとって構成されています。

プロイセンは安政の五カ国条約の国々より遅れてやってきたわけですね。

保谷:そうですね。ここで重要なのは、当時のドイツは分裂国家で約30の国に分かれていて、プロイセンはその中の有力な国の一つでした。そのプロイセンが他のハンザ都市と関税同盟といった国々の委任を受けて「他の国々とも条約を結んでよ」といってやって来るんです。幕府としてはプロイセン一国と条約を結ぶかどうかという議論をしていたつもりが、いつの間にか多くの国々と結ばないといけないという話になってしまうんですね。そのため交渉に当たっていた外国奉行の堀利熙(ほり としひろ)が老中の安藤信正(あんどう のぶまさ)から詰められて切腹したと伝えられています。結果的に条約はプロイセン一国のみと締結し、他の国々とは結ばないということになるのですが、アメリカやロシアとはまた違う形での外交が展開されたことは注目されます。さらに条約交渉でいえば、通訳に当たったヒュースケン(米国公使館書記官)はここで活躍したために攘夷派に恨まれて襲撃され、殺害されてしまいます。つまり、条約締結の陰には関係者が二人も亡くなっているわけですね。

外交交渉で命を落とす・・・壮絶ですね。

保谷:ここでちょっとした小ネタなのですが、切腹した堀が使節団に『三兵答古知幾(さんぺいたくちき)』という本を贈っていて、堀の署名が入った包紙がベルリン国立図書館に残っています。


『三兵答古知幾』(当館蔵)

この本はプロイセンのハインリヒ・フォン・ブラント将軍が書いた戦術書で、当時の日本においても高野長英らによって翻訳され、新しい軍事を取り入れる際の優れた教科書としてよく知られていました。実は使節団の中にその息子のマックス・フォン・ブラントがいて、それを知った幕府の人々は「おお!あのハインリヒ・フォン・ブラント大先生のご子息か!」と非常に喜ぶわけです(笑)。やっぱり江戸幕府は武士の政権なので、軍人には一目置くんですよね。

ちょっと面白いエピソードですね。

(注)日本関連在外資料の調査研究:平成22年度から人間文化研究機構が行っている事業。その中でも特に「シーボルト父子関係資料をはじめとする前近代(19世紀)に日本で収集された資料についての基本的調査研究」の成果が今回の展示に反映されている。

第2回に続く