文字がつなぐ 文字・音声ガイド
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企画展示「文字がつなぐ」文字・音声ガイドへようこそ!

番号のボタンを押して、解説と音声をお楽しみください。恐れ入りますが、音声を聞くときは必ずヘッドフォンをご利用ください。音声が不要の方はボリュームをオフにしてご利用ください。なお、ヘッドフォンは売店でお買い求めいただくことができます。

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1 高句麗(こうくり)広開土王(こうかいどおう)

4世紀末から5世紀にかけての 高句麗(こうくり)の王、 広開土王(こうかいどおう) の功績を記念して、子供の長寿王が414年に 鴨緑江(おうりょくこう) 中流域北岸の集安(しゅうあん) というところに建てた石碑です。高さが6メートル39センチにもなります。 歴博には碑石(ひせき) 発見当時の碑面(ひめん) や文字の状態を伝える原石(げんせき) 拓本があり、今回、その拓本をプリントして大きさを示してみましたが、天井の高さは6メートルですから、実際の石碑はこれよりもさらに高いことになります。 なお、2012年に広開土王碑がある集安から広開土王碑に関連する新たな石碑が発見されています。

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2 日本列島への文字の伝来

プロローグのコーナーの展示品を御覧ください。

日本列島に文字が渡ってきたのはいつのことでしょうか?朝鮮半島南部茶戸里(タホリ)の古墳より文字を記すために使った筆と小刀が出土しており、紀元前1世紀には朝鮮半島南部で文字が使われていたと考えられています。日本列島に住んでいる人が文字を書いたということでは2世紀ないし3世紀頃のものが確認されていますが、文字として書いたのか、記号として書いたのかははっきりしません。東国でのその早い例が千葉県流山市の(いち)()()(みや)(じり)遺跡から出土した墨書土器です。古事記と日本書紀によると、応神天皇の時代に百済(くだら)より()()が渡来し、『論語』や『(せん)()(もん)』をもたらしたとされています。5世紀には銘文を持った刀剣が古墳より出土していますが、それらの製作には渡来人が関わったとの推測がなされています。

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3 新羅(しらぎ)の石碑

内容がわからなくとも、文字が書かれているだけで圧倒される……文字にはそんな力があります。文字を手に入れた支配者はそれを刀や鏡、そして石に刻んだりしました。

新羅(しらぎ)では石碑が多く造られました。ここでは4つの石碑を展示しています。資料1-1は、浦項(ポハン)中城里(チュンソンリ)碑です。2009年に発見された石碑で、501年に制作された現存最古の新羅の石碑です。財産紛争を調停し、その内容を後世に伝えることが記されています。資料1-2は、迎日(ヨンイル)冷水里(ネンスリ)碑です。1989年に発見された503年の石碑です。前、後、上の3面に銘文があり、やはり財産紛争の調停とその後に牛を犠牲として天に捧げる儀式が行われたことが記されています。資料1-3は、(ウル)(チン)(ポン)(ピョン)碑で、524年に立てられた石碑です。新羅が新たに支配下においた旧高句麗(こうくり)の民に対する命令や処罰と、その際に挙行された牛を殺す祭りが記されています。資料1-4は、慶州(キョンジュ)南山(ナムサン)新城(シンソン)碑第1碑です。591年に新羅の都慶州の南山に山城を築いたときの工事碑で、これまでに断片も含めて10の石碑が発見されています。

このように新羅では数多くの石碑が作られましたが、日本でもその影響を受けて7世紀後半から8世紀にかけて石碑が作られました。歴博ではその複製を作って「(いしぶみ)小径(こみち)」というコーナーに展示していますので、あわせて御覧いただければと思います。

石碑のほか、「権威と王命の伝達」のコーナーでは、日本に伝えられた百済(くだら)の刀剣や命令が記された木簡なども展示しています。

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4 (こよみ)を記した木簡

今、私たちは当たり前のように今日が何年何月何日であるかを知っています。しかしそれは誰かが月日の数え方、そしていつから1年が始まるのかなどといったことを決めたから、可能となることです。誰が決めたのか……それは古代の日本列島では天皇でした。「太歳(たいさい)」などといった(こよみ)に使われる言葉の類似により、暦は中国から朝鮮半島を経て日本列島にもたらされたと考えられています。資料1-11は、現在日本で確認されている最も古い暦を記した木簡です。689年の元嘉暦(げんかれき)と呼ばれる暦で、もともとは四角い板のオモテウラにそれぞれ3月、4月の暦が記されていました。使いやすいように役所で板に書き写したと考えられています。今は小さな丸形をしていますが、これは暦としての役目を終えた後、板を再利用するときに加工したものです。

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5 旅をしてきた古代の鐘

童謡にも歌われるように、お寺の鐘は、人々に時刻を知らせる役割も果たしていました。資料1-14は、1971年に成田市で出土した古代の鐘です。銘文によれば、もとは今の佐賀県佐賀市のあたり、肥前国(ひぜんのくに)()()(ぐん)にあったお寺のものでした。

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6 太宰府市国分(こくぶ)松本(まつもと)遺跡木簡

大勢の人間を支配するためには、まず人間の帳簿を作る必要があります。それを「戸」ごとにまとめたのが戸籍です。「籍」の字はもともとフミタとかフムタと読まれていたようで、はじめは木簡だったのではないかと考えられています。実際、資料1-15は中国の楽浪郡(らくろうぐん)で用いられていた人口に関する帳簿ですが、板に記されていました。百済(くだら)新羅(しらぎ)ではまだ戸籍は発見されていませんが、戸籍をもとに記されたと見られる木簡や紙の文書(もんじょ)があります。『日本書紀』によれば、欽明(きんめい)天皇の代に渡来系氏族のイツという人物によってミヤケの田で働く人々の籍を継続的に更新していく技術が導入されたようです。

九州の大宰府に近い国分(こくぶ)松本(まつもと)遺跡からは大宝令(たいほうりょう)以前の戸籍制度を考える上で重要な手がかりとなる、資料1-19の木簡が発見されました。この木簡を日本の戸籍制度の変遷にどのように位置づけていくかが、課題となっています。資料1-20 大宝2年(ちく)(ぜんの)(くに)(しま)(ぐん)川辺里(かわのべりの)戸籍や、資料1-21 大宝2年御野(みのの)(くに)味蜂間郡(あはちまぐん)春部里(かすかべりの)戸籍などと見比べてみてください。

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7 額田寺(ぬかたでら)伽藍(がらん)(ならびに)条里図(じょうりず)

文字は、空間支配にも活用されました。人々に田を分け与える(はん)(でん)制が行われるようになると、田図(でんず)田籍(でんせき)が作成され、土地に関する様々な記録も作られるようになります。額田寺伽藍並条里図は額田寺というお寺の敷地と周辺の土地を描いた絵図で、8世紀後半に描かれました。現在の奈良県大和郡山(やまとこおりやま)市付近です。麻布(あさぬの)に条里の線や道・川・古墳などが記され、大和国印(やまとのこくいん)がおされています。北側の丘に境界を示す石の柱が描かれています。この石の柱は資料1-25のようなものであったと思われます。現状は大変いたんでいますが、もともとは復元複製のように鮮やかに描かれていたと推測されています。

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8 印の権威

印はもともと(ふう)(でい)として封をするために中国で用いられ、それが朝鮮半島、そして日本列島にも伝わりました。後漢(ごかん)光武(こうぶ)(てい)より()国王に与えられた資料1-29 志賀島(しかのしま)の金印や、百済(くだら)より出土した「伏義(ふくぎ)将軍之印」も封泥印です。しかしやがて紙によって文書(もんじょ)行政が進められるようになると、紙の上に直接印が()されるようになり、日本でもその制度が導入されました。ただし(ずい)(とう)では皇帝の印が紙に捺されることは普通ありませんでしたが、日本では天皇御璽(ぎょじ)が律令文書行政の中核に置かれました。天皇御璽、太政(だいじょう)(かん)印、国印、郡印という順で印の大きさは小さくなっていきます。資料1-33は八街(やちまた)市から出土した、8世紀後半の上総(かずさの)(くに)山辺郡(やまのべぐん)の郡印です。白い紙に赤く捺された公印は強い印象を与え、やがて個人で印を使い出す者も現れました。資料1-34がそれです。印章はそれ自体が権威の象徴でもあったのです。

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9 城山(ソンサン)山城(サンソン)と秋田城

(まつりごと)(ぬみ)軍事(いくさのこと)」とは『日本書紀』天武(てんむ)天皇13年条に見える言葉です。軍事(ぐんじ)は古代国家において特に重視され、そのために文字による支配が最も具体的に展開される場でもありました。韓国南部、釜山(プサン)の西に位置する咸安(ハマン)城山(ソンサン)山城(サンソン)遺跡は6世紀の山城で、『日本書紀』欽明(きんめい)天皇22年条に新羅が日本に備えるために城を築いたと記される阿羅波斯(あらはし)山がこの遺跡を指していると考えられています。資料1-35の,城を築く際に運びこまれた荷札木簡は、古い木簡が多く出土している韓国でも最も古く、日本の木簡に与えた影響という点からも注目されています。また出羽国(でわのくに)の秋田城は陸奥国(むつのくに)の多賀城とともに8世紀に築かれた律令国家の東北経営の拠点であり、かつ渤海(ぼっかい)との外交の施設の役割も担っていました。資料1-36の、国司(こくし)であった百済王三忠(くだらのこにきしさんちゅう)の自署がある漆紙(うるしがみ)文書(もんじょ)をはじめ、多くの文字資料が出土しています。

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10 飛鳥(あすか)(いけ)工房と文字資料

飛鳥寺(あすかでら)の南東に位置する飛鳥(あすか)(いけ)遺跡南地区は、金製品・銀製品や富本(ふほん)(せん)、ガラス、漆などさまざまな製品を製造していた7世紀後半の工房でした。資料1-45などのように、金属製品を製作する前には木で模型を作り、それに作る数などを記すことがあったことが知られます。資料1-42や1-46などあわせて出土した木簡からは、もともと()()氏の支配下にあった渡来系氏族の技術者が、645年の乙巳(いっし)の変の後、飛鳥池工房に組み入れられたことなどが推測されます。彼らは「ヒトの支配」のコーナーで見たように、律令制下では雑戸(ざつこ)に編成されることになります。

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11 出納(すいとう)管理と木簡

モノを管理する上で出納(すいとう)管理が重要であることは今も昔も変わりません。そしてその技術が渡来系氏族の文筆能力によって支えられていたことは人や土地・生産の管理と同様でした。近年、木簡の出土例増加により、日本列島と朝鮮半島のクラの管理や出挙(すいこ)制度の共通性が明らかになりつつあります。資料1-52 扶余(プヨ)双北里(サンブンニ)から出土した木簡によれば、7世紀の百済(くだら)においても、役所が利息5割で貸付けをおこなっていたことがわかります。日本の出挙木簡と見比べてみてください。ちなみにキヘンに京都の京と書く字を(クラ)()むことがありますが、本来この漢字にクラの意味はありませんでした。高句麗(こうくり)でクラの意味で使われるようになり、それが伝わったものと考えられます。

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12 正倉院(しょうそういん)文書(もんじょ)の帳簿

物事を運営していくためには様々な情報の管理が必要となります。それにあわせて多くの帳簿が作成されました。具体例が正倉院文書の中に多く残っています。資料1-59は写経をした人たちから提出された手実(しゅじつ)と呼ばれる作業量申告書を貼り継いたものです。これが作業の確認や給料支払いのための基礎帳簿となりました。ただ幕末から明治にかけての時期にその一部が抜き出されて正倉院の外に流出しました。それが資料1-60の手実です。現在見つかっているのはこの3通ですが、その他にも抜き取られたものがあったかどうかは不明です。

巻物となった帳簿は、すぐに探し出せるように題籤軸(だいせんじく)が付けられました。韓国からも題籤軸が出土しており、帳簿などに付けられていたと考えられます。また資料1-64では写経する際に使われた「(はし)(つぎ)」と呼ばれる仮表紙を再利用して帳簿を作成しており、紙の再利用にあたってもいろいろな工夫がなされていたことがうかがえます。

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13 文書(もんじょ)に埋もれて

文書(もんじょ)行政の発達は、大量の文書記録を発生させる一方で、形式化も生み出しました。資料1-66は、役所で機械的に書類が転写されたために、名前が変えられてしまったという例です。資料1-67は平安時代の戸籍ですが、男性に比べて女性が異常に多く、中央に納税する額を減らすためのごまかしが行われているようです。資料1-68は「返抄(へんしょう)」と呼ばれる領収書で、税金の納付書のようなものです。様々な作法を覚えるために(しゃく)にメモを貼り付けたり、暗記するための語呂合わせの歌が作られたりもしました。

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14 東大寺大仏蓮弁(れんべん)線刻図

聖武(しょうむ)天皇によって造られた東大寺大仏は、華厳経(けごんきょう)で宇宙の真理を体現した存在とされる()(しゃ)()(ぶつ)です。大仏の台座には(れん)(べん)一枚ごとに華厳経の教えに基づく蓮華蔵(れんげぞう)世界が彫り込まれました。上段には如来(にょらい)と二十二菩薩が描かれ、中段は横線によって()(しき)(かい)・色界・(よく)(かい)という三つの世界があらわされ、下段には百億世界を象徴する七つの(しゅ)()(せん)が配されています。華厳経は新羅(しらぎ)で研究が盛んにおこなわれ、日本ではそれを取り入れて東大寺大仏が造られたのです。

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15 仏教伝来

6世紀、百済(くだら)から仏教が伝えられることにより、日本列島の文字文化は第二の段階に入りました。それは仏舎利(ぶっしゃり)信仰をともなったものであり、さらに天文・地理・方術・暦など様々な知識技術もあわせて伝来しました。仏舎利信仰については近年、韓国で王興寺(ワンフンサ)など寺院の発掘調査が進み、銘文が記された舎利容器が発見されています。資料2-2『(しゅう)神州(しんしゅう)三宝感(さんぼうかん)通録(つうろく)』には、倭人の僧にインドのアショーカ王が世界中に立てさせたという塔が倭にもあるのかどうか尋ねたところ、しばしば古い塔の露盤などが出土すると答えたことが記されています。飛鳥(あすか)(いけ)遺跡からは7世紀後半の経典や寺院に関する資料2-4の木簡が出土しました。

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16 弔いと文字

資料2-9は百済(くだら)第25代の王である武寧王(ぶねいおう)の墓誌です。武寧王は『日本書紀』にも登場し、筑紫(つくし)で生まれたと伝えられています。また『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、桓武(かんむ)天皇の母親である高野新笠(たかののにいがさ)の先祖であるともされています。その古墳からは、日本列島から持ち込まれたと見られる高野槇(こうやまき)で作られた木の(ひつぎ)が発見されています。王は525年に亡くなりましたが、墓誌のオモテには王の死と埋葬について記され、ウラには墓の範囲を示すとされる図が刻まれています。他にもう1枚墓誌があり、それには王妃の死と埋葬について、また王陵の土地を土地神から購入したことを示す「買地券(ばいちけん)」が刻まれています。このコーナーでは他に8世紀につくられた元明天皇の墓碑や伊福吉部(いほきべの)徳足比売(とこたりひめ)骨蔵器、12世紀高麗(こうらい)の買地券を展示していますが、他のコーナーにも墓誌や骨蔵器を展示しています。あわせてごらんください。

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17 庫外(こがい)正倉院文書

帳簿(ちょうぼ)の管理」のコーナーでもいくつか御紹介しましたが、現在、正倉院の(そと)で保管されている正倉院文書をお目にかけます。資料2-14の1・2は手実(しゅじつ)と呼ばれる仕事内容の自己申告書です。前期に展示される(おうの)(ひろ)麻呂(まろ)、後期に展示される(とう)(たの)(むし)麻呂(まろ)ともに渡来(とらい)(けい)氏族です。漢字を美しく書く技術が求められるため、写経生(しゃきょうせい)の中には渡来(とらい)(けい)氏族(しぞく)出身者が少なくありませんでした。資料2-17は写経生採用試験にあたって提出された答案です。()()と呼ばれるこの答案を書いた村主(すぐりの)(つくり)麻呂(まろ)は、この(あと)の写経事業にも名前が見えないので、残念ながら採用にならなかったようです。資料2-14の3・4は(せい)()()、すなわち休暇願です。現代と同じく休暇をとるときには申請書が必要でした。前期に展示される新羅(しらきの)(いい)()()の請暇解は、よく見ると少し赤い色がついていますが、それは顔料(がんりょう)などの原料(げんりょう)となる()を包むのに再利用(さいりよう)されたためです。

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18 さまざまな写経

ここでは奈良時代の写経を御紹介します。資料2-15 西大寺に伝わる金光明(こんこうみょう)最勝王経(さいしょうおうきょう)百済(くだらの)(とよ)(むし)という女性が亡き両親のために写経したものです。資料2-16の1は大方広仏(だいほうこうぶつ)華厳経(けごんきょう)で、紫の紙に銀で界線が施され、金泥で書写されています。資料2-16の2は釈迦による三回にわたる説法の様を記したお経で、アノクダツ竜王が登場します。次の「仏教をめぐる交流」のコーナーでも写経を展示していますし、総合展示第1室においても奈良時代の写経を展示していますので、ぜひお立ち寄りください。資料2-19はそのようにして書写されたお経が実際に各地で読まれたことを伝える木簡です。

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19 仏教をめぐる交流

近年、古代日本に伝来した新羅(しらぎ)(きょう)の存在が知られるようになりました。その一つが資料2-20 大方広仏(だいほうこうぶつ)華厳経(けごんきょう)です。紙が白いこと、韓国で発見された新羅経と体裁が似ていることに加え、(かく)(ひつ)で新羅語の解読記号が書き込まれていたことが決め手となりました。角筆とはとがった棒で、それを用いて紙をへこませて漢字の読み方などを書き込んでいきます。9世紀に入ると新羅との関係悪化もあって、(とう)から直接仏典を輸入することが多くなりますが、それも新羅人による貿易活動が大きな役割を果たしていました。渤海(ぼっかい)から経典がもたらされることもあったことは、資料2-23 (いし)山寺(やまでら)加句(かく)霊験(れいげん)(ぶっ)(ちょう)(そん)(しょう)陀羅尼記(だらにき) によって知られます。空海は渤海からの使いとも深いつきあいがありました。10世紀には渤海・新羅とも滅び、高麗(こうらい)が起こりますが、引き続き多くの経典が日本に渡ってきました。

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20 龍王(りゅうおう)木簡と九字

文字は人と神仏との対話を取り持つものでもありました。それは呪符(じゅふ)、すなわちまじない札によくあらわれています。近年、韓国と日本で共通の信仰内容を示す呪符木簡が発見されています。ここでは龍王信仰と九字(くじ)について紹介しましょう。農耕社会では雨が作物の生育に大きな影響を与えます。そのため雨をあやつる力をもつ神と考えられていた龍王への祈りを捧げたのでしょう、「龍王」と書かれた木簡が,新羅(しらぎ)でも日本でも出土しています。また九字と呼ばれる横5本、縦4本を組みあわせた記号やそれを省略した井戸の井の字のような記号を記したものが、やはり朝鮮半島や日本で出土しています。もとは中国に由来する信仰ですが、広く東アジアに広まっていたのです。これは古代だけではありませんでした。伊勢志摩地方では、海女(あま)が用いるテヌグイに魔除けとして九字を書くことがあり、また高知の民間宗教いざなぎ流で用いられる小刀にも九字が刻まれています。なお、いざなぎ流については、現在、総合展示第4展示室で特集展示「中国・四国地方の荒神信仰-いざなぎ流・比婆(ひば)荒神神楽-」を開催していますので、あわせて御覧ください。

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21 起請(きしょう)(ふだ)木簡

自分の行いが正しいかどうかを神仏の判定に委ねることは、古くからありましたが、それを文字にして誓約するというやり方が日本列島に出現したのは、今のところ、12世紀前半が最も古いとされています。滋賀県長浜市の神社の遺跡である塩津港(しおつこう)遺跡から最大で2メートルを超える起請文(きしょうもん)を記した木簡が発見されました。そこにはたとえば最初に神仏の名前を列挙し、自分が運送を請け負った荷物をわずかでも失ったら、自分の身体に神仏の罰をこうむってもかまわないといったことが記されています。文字が浮き上がっていることから、実際にある程度の期間、どこかに掲げられていたものと考えられます。

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22 竹野(たけの)(おう)層塔

奈良県明日香(あすか)村の龍福寺(りゅうふくじ)境内にある石塔です。一番下の部分に銘文が刻まれていますが、風化がはげしいため一部しか判読できません。それによれば751年に竹野王(たけのおう)が立てたことがわかります。竹野王は『続日本紀(しょくにほんぎ)』や長屋王(ながやおう)()木簡にもその名が見え、長屋王の近親の女性であったと考えられます。東の面にはインドのアショーカ王が世界中に立てたという石塔についての伝説が記されています。

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23 コロタイプ複製

正倉院文書は、中国の敦煌(とんこう)吐魯番(トルファン)文書とならぶ世界的な文化遺産ですが、それを未来に永く伝え、展示研究にも活用するために、歴博では開設以来、カラーコロタイプ印刷による全巻複製製作に取り組んでいます。通常の網点(あみてん)印刷では原本の再現に限界がありますが、コロタイプ印刷ではゼラチンを塗ったガラス板で原板を作成することにより、原本の色彩の微妙なニュアンスを忠実に再現することができます。また耐久性にすぐれたインキを用いるため、長期保存という点でも他の印刷技術の追随を許さないものとなっています。

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24 年中(ねんじゅう)行事(ぎょうじの)障子(しょうじ)

9世紀末以来、宮中には一年の行事を表裏に記した衝立(ついたて)障子が置かれています。天皇の側に仕える人々の目に触れさせ、宮中行事への関心を高めるためのものでしょう。展示品は18世紀末、寛政(かんせい)内裏(だいり)を造営したときに持明院(じみょういん)(むね)(とき)によって書かれたものです。現在の京都御所清涼(せいりょう)殿(でん)には、1934年に宗時の子孫基揚(もとのぶ)が書いたものが立てられています。

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25 書物の伝来

文字を使うことにより、時空を超えて人々に伝えることが可能となりました。書物の誕生が文化の飛躍的発展をもたらしたと言えます。古事記や日本書紀によれば、応神(おうじん)天皇の時代に百済(くだら)からやってきた()()によって『論語』と『(せん)()(もん)』が伝来しました。『論語』は言うまでも無く孔子の言行録(げんこうろく)であり、『千字文』は千の文字を重複することなく四字一句の韻文(いんぶん)にしたものです。『千字文』が作られたのは6世紀初めとされていますから、応神天皇の代に伝来したとするのは史実ではありませんが、それにしても、文字文化が百済から伝来したということは、奈良時代の人々にとっての常識でした。『論語』を記した木簡が韓国でも日本でも出土しています。棒の形をした木簡に記されていることには意味があるのでしょうか。朝鮮時代に教育の場で使われた論語の指揮棒も同じような形をしています。なお『千字文』は「漢字を学ぶ」のコーナーで展示しています。

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26 宮廷文化の開花

(アナ)()()の名で知られる新羅(しらぎ)の都慶州(キョンジュ)の離宮である月池(ウォルチ)からは新羅の宮廷文化に関わる多彩な遺物が出土し、そのなかには多くの文字資料が含まれています。月池出土の遺物と正倉院宝物のなかに金属製の食器・飲食具・燈火具など、類似のものが見いだされることは以前から注目されています。資料3-6 サハリと呼ばれる銅と錫の合金製の(さじ)は、正倉院では新羅から輸入された状態で未使用のまま伝わっています。月池では宴の場で用いられた一四面体のサイコロが発見されていますが、日本の長屋王邸からは、籤引札(くじびきふだ)とみられる木簡が出土しています。(ばい)新羅物(しらぎぶつ)()文書は交易のために新羅の使節がもたらした品々に対して貴族たちから提出された購入希望申請書で、反故(ほご)紙となった後、鳥毛立女(とりげりつじょの)屏風の下貼などとして用いられたために伝来しました。

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27 和歌を書いた木簡

木簡に和歌を書いたものがあります。従来は万葉仮名(まんようがな)の練習と見ていましたが、最近、典礼(てんれい)の席でうたうためにつくられたのではないかという説が唱えられています。普通の二倍の長さ、二尺の木簡に、一字一音式の万葉仮名で、和歌を一首、一行に書くという特別な形式にあてはまるものがいくつかあるからです。そのなかから三首の声を再現してみました。言葉を古代の子音、母音の音色(ねいろ)で発音し、アクセントを再現して言葉の意味を保ちながら抑揚を付けました。節回しは平安時代の今様(いまよう)と中世の謡曲(ようきょく)を参考にしています。

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28 古今和歌集仮名序(かなじょ)所引(しょいん)なにはつのうた

難波津(なにはつ)に咲くや()の花冬こもり
     今は春べと咲くや()の花 咲くや()の花


木簡に書かれた和歌の半数以上が「難波津(なにわづ)の歌」です。 土器にこの歌を書いたものも多く、習う人が多かったことがわかります。お祝いのときよくうたわれていたのでしょう。 「さくやこのはな」を繰り返すのは、お祝いに集まった人が代わるがわるうたった古い形式をあらわしています。

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29 万葉集巻16-3807番歌

浅香(あさか)山影さへ見ゆる山の()
     浅き心を()()はなくに


滋賀県宮町遺跡から出土した木簡は、おもてに「難波津(なにわづ)の歌」 うらに「浅香山(あさかやま)の歌」が書かれています。 古今和歌集の序文に「うたのちちはは」と書かれている二首です。平安時代に和歌をならうときは、この二つのうたからはじめました。 そういう習慣が紫香楽宮(しがらきのみや)の時代にできていたのかもしれません。

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30 万葉集巻10-2205番歌

(はぎ)下葉(したは)紅葉(もみち)ぬあらたまの
     月の()ぬれば風をいたみかも


京都府馬場(ばば)(みなみ)遺跡から出土した木簡は、 この和歌のはじめと同じ言葉が書かれています。秋の景色をうたった和歌ですが、仏教の行事の席でうたわれた可能性があります。 この遺跡は、たくさんの灯りを仏に供える供養を何度も行った跡があり、土器に墨で「歌一首」 「黄葉(もみじ)」などと書いたものも出土しています。

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31 下田(しもだ)(ひがし)遺跡木簡

奈良県香芝(かしば)市の下田(しもだ)(ひがし)遺跡は古墳時代から室町時代まで一貫して有力者の拠点でした。この遺跡から出土した曲物(まげもの)の底板に記されたメモ書きは、大和の有力者の多角的な活動を物語っています。一面には稲の品種と種蒔きの日程を記し、そのあとに、伊福部(いほきべの)(とよ)(たり)という人物の馬の進上に関する上申書の下書きが記されています。稲の品種については資料3-19から21の種子(しゅし)(ふだ)を御参照ください。ウラ面には稲刈りのことや、鮎をとって売ったことなどが記されています。この他、このコーナーでは十干(じっかん)十二支(じゅうにし)を書いた木簡や九九算の表、それにアイヌが用いた暦なども展示しています。

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32 漢字を学ぶ

漢字は行政運営に必要なものでしたから、朝鮮半島でも日本でも役人たちは漢字の書き方と読み方を熱心に学びました。資料4-6の木簡のように、手習いされた漢字や言葉のなかに官職や位のことが見えるのはそのためでしょう。漢字の読み方は、漢字の(おん)を覚えるのと、漢字の意味にあたる朝鮮半島や日本の言葉をあてて覚えるのと、二つの方法があります。漢字の読み方を学んだ跡を伝える古代の資料は、朝鮮半島にはこれまでほとんどありませんでしたが、近年、仏典を新羅(しらぎ)語で読みくだしたものが知られるようになり、今後の解明が期待されています。

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33 漢字で表す

中国周辺の諸民族や国家では、漢字と漢文の学習がある程度すすむと、自分たちの言語と文化にあわせて改造を施しました。朝鮮半島と日本列島は近いので共通するところが多くありました。まず、資料4-9 新羅(しらぎ)慶州(キョンジュ)月池(ウォルチ)から出土した木簡に見えるように、漢字の音読みを借りて自分の国の言葉を書き表しました。また、カネヘンに益と書く字を(カギ)にあてて使いました。資料4-17や18を御覧ください。この字は中国では重さを表していた字です。文章の切れ目に決まった字を置く例としては資料4-15 西河原(にしがわら)森ノ内(もりのうち)遺跡手紙木簡があります。これも朝鮮半島の漢文の影響を受けたものでした。

万葉集には文字の遊びもあります。たとえば資料4-21では、「二、八十一」の「八十一」を「くく」とよませて「憎く」と読ませたり、助詞の「かも」に鳥の「鴨」の字をあてたりしています。「かも」の例は資料4-19にも見えます。

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34 様々な漢字の書体

資料4-23 『() (こん) 文字讃(もじさん)』とは 雑書体(ざっしょたい) と呼ばれる様々な書体21種を紹介した本です。 空海が(とう) で入手して日本に持帰り、嵯峨(さが) 天皇に献上したもので、長らくその写本の存在は知られていませんでしたが、 近年、調査がなされ、広く紹介されるようになりました。 おそらくはこの書の影響を受けて空海は益田池碑銘(ますだがいけひめい) などの書を記したと考えられます。資料4-24は歌人として名高い藤原 定家(ていか)が記したものです。 定家は40代より読みやすさを心がけてのちに「 定家(ていか)(よう) 」と呼ばれることになる独特の書体で記すようになります。後世、 冷泉(れいぜい)家当主は定家様を用いるようになりました。 資料4-25は文字をデザインに用いた江戸時代の小袖屏風、資料4-27は朝鮮時代に描かれた文字絵です。 文字絵は屏風仕立てにして子供部屋に置かれました。

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35 国字(こくじ)ではなかった「(はたけ)」の字

漢字は組みあわせることによってさらに新しい漢字を創ることができます。そのような漢字のうち、日本で作られた漢字のことを「国字(こくじ)」と言いますが、古代朝鮮半島の文字資料が増えるにしたがい、今まで「国字」と思われていたものがそうではなく、朝鮮半島で生まれたものがあることがわかってきました。たとえば資料4-35の百済(くだら)木簡に見える白に田と書く「(はたけ)」の字です。

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36 木簡のカタチと素材

ここまで展示を御覧になっていただいて、木簡にも様々なカタチがあることがおわかりいただけたでしょうか? 木簡の材料とした木の種類に目を向けると、朝鮮半島ではマツが圧倒的に多いのに対し、日本では 藤原宮(ふじわらきゅう)平城宮(へいじょうきゅう) で出土する木簡はほとんどヒノキ、ついでスギという具合です。ところが同じ日本でも 地方で出土する木簡の場合は手近に手に入る木ですませたようで、ヒノキやスギに限ら ず様々な木が木簡にされています。樹種の調査はまだ最近本格的に進められるようにな ったばかりなので、今後、調査が進むにしたがい、また新たな発見があるかもしれません。

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37 漢字文化の新段階

8世紀初めの大宝(たいほう)律令制定、そして約30年ぶりの遣唐使派遣再開は、文字文化にも大きな変化を与えました。それまでよく見られた「前に(もう)す」形式の木簡は朝鮮半島の影響を受けたものでしたが、8世紀には下火になります。書風という点でも、半島経由で伝来した六朝(りくちょう)風の書体から唐風(とうふう)の書体へと変化していきました。それは「どのように書くか」を自覚的に考え始めた、「書風」そのものの発見でもありました。これまでのコーナーも含めて、7世紀の書体と8世紀の書体を見比べてみてください。

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38 かなと印刷

9世紀以降における日本の文字文化の大きな変化として、ひらがなの誕生があります。 最近、平安京よりかなが書かれた9世紀後半の 墨書(ぼくしょ) 土器が出土し、注目を浴びています。やがて『古今和歌集』 仮名序(かなじょ) に象徴されるように、平安文化にとってひらがなは欠かせない ものとなっていきました。なかには 葦手(あしで) と呼ばれる、文字を絵の中に描き込む手法も生まれます。

これに対して、朝鮮半島の文字文化を象徴するものとして印刷が挙げられます。 中国とともに 高麗(こうらい)・朝鮮では 木版(もくはん) 印刷が盛んに行われました。なかでも11世紀初めに高麗で印刷された 大蔵(だいぞう)(きょう) は、日本にも大量に輸入され、東アジア世界に大きな影響を与えます。 また11世紀半ばには中国で活字が発明されましたが、 その後、13世紀には高麗で金属活字が造られたとの記録が残されており、 12世紀と伝えられる銅活字が出土したりもしています。 朝鮮の活字は、やがて日本にもたらされ、古活字版が生まれることになりました。

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39 高麗(こうらい)船水中発掘

韓国では近年、水中発掘が盛んに進められ、朝鮮半島西側の海域より12世紀から13世紀にかけての船が発掘されています。2007年以降、4隻の船から189点の木簡が出土しており、そのうち100点は竹で作られています。いずれも荷札です。泰安(テアン)船は青磁のみですが、馬島(マド)1号船から3号船にはサバや蟹、アワビなど様々な食料品や加工品が見られます。イガイとみられる「虫ヘンに炎と書く字」やイノシシとみられる「ケモノヘンだけの字」など、朝鮮半島独自の漢字も使用されています。韓国で味噌や醤油を作る材料となる味噌(みそ)(だま)(こうじ)も登場します。胡麻油や蜂蜜は高価な青磁に入れられており、中央の役人への贈り物ではないかと見られます。

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40 新羅(しらぎ)元暁(がんぎょう)と日本

近年の出土文字資料の増加によって、日本列島で作られたと見られる木簡が朝鮮半島で発見されるなど、両地域の具体的な交流のあり方が明らかになりつつあります。

また日本に伝来した新羅(しらぎ)華厳宗(けごんしゅう)の高僧(がん)(ぎょう)の著作『判比量論(はんぴりょうろん)』は光明(こうみょう)皇后(こうごう)の蔵書であったことで知られていますが、これに新羅語による書き入れがなされていたことが明らかとなり、日本の漢文訓読や片仮名の起源が新羅に求められる可能性が高まってきました。元暁の子(せつ)(そう)は新羅語による漢文訓読の方法を考案したとされていますが、その子仲業(ちゅうぎょう)は779年に新羅使の一員として来日します。この時、日本の文人(おう)(みの)三船(みふね)は元暁の孫に会えたことを喜び、仲業を歓待します。おそらく二人は筆談によってコミュニケーションを交わしたのではないでしょうか。漢文が東アジア世界に果たした役割がうかがえます。


2014 国立歴史民俗博物館