企画展示をより楽しく、より深く鑑賞していただくため、本館の広報担当職員が企画展示の担当者から展示の見どころや作り手の気持ちを取材します。

今回は7月15日から開催する企画展示「弥生ってなに?!」の代表者である藤尾慎一郎教授(本館副館長/研究部考古研究系)にお話をうかがって来ました。

展示案内「弥生ってなに?!

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第1回 第2回 第3回

弥生のお父さんとお母さん

ここからは展示の各コーナーについてお話をうかがいたいと思います。

藤尾:まずプロローグですが、最初に誰が見ても弥生、縄文と思えるパネルが展示してあります。例えば弥生ですと東京大学構内で発見された弥生土器1号があります。一方縄文は火焔土器と遮光器土偶。ここの狙いは来場されたみなさんにまずは教科書的な弥生と縄文のイメージを膨らませていただきたいんです。

そして次のパネルではみなさんに疑問を投げかけます。片方には水田と土偶が、もう一方には水田と青銅器が描かれています。どちらも弥生文化?それとも別の文化?考えながら進んでいってください。

弥生文化の復元水田 青銅器の祭りと水田(本館蔵)

次は「弥生文化像を作った先達」ですね。

藤尾:ここでは教科書にある弥生文化像をつくった先達8人を紹介しています。「渡来人」や「農業」といった弥生時代を象徴する言葉を、最初に誰が提唱したのかをおさらいしていただきたいと思います。8人の中には経済的要素をもっとも重視する弥生文化観をつくった当館第4代目館長の佐原眞元館長もいらっしゃいます。

ここで研究史のおさらいをした後に、いよいよ第Ⅰ部ですね。第I部「弥生のDNA」のねらいはどういったところにありますか?

藤尾:弥生文化というのは、基本的には縄文系と大陸系の文化が混じり合ってできたものです。いわば縄文と大陸がお父さんとお母さんで、その子どもが弥生なんですね。ですから縄文・大陸・弥生という3つのDNAがあるわけではなくて、DNA的には縄文と大陸の2つになるわけです。

弥生は縄文と大陸の子どもなんですね。

藤尾:そうです。例えば、銅鐸は大陸から渡ってきたものですが、もともと大陸の銅鐸は弥生のように大きいものではありませんでした。弥生独自の要素として銅鐸を巨大化させていったのです。また、銅鐸の文様は縄文土器から来ています。つまり、縄文と大陸というお父さんとお母さんが一緒になって弥生オリジナルが作られていったということなんですね。

福井 向笠(むかさ) 六区袈裟襷文銅鐸
(本館蔵)

大陸から渡ってきたものには目に見えないものも多いんです。技術、イデオロギー、システム、宗教。そういう目に見えないものの影響が大きいと考えています。例えば鏡は目に見えますが、あくまで祭祀の道具でしかないんです。本当は鏡を使ってどういう風に祭りを行い、何をしようとしていたのかという考え方が鏡と一緒に日本列島に入ってきているはずです。そういった部分を分かっていただければと思います。

縄文的な考え方と大陸的な考え方とでは、どういった点が違うのですか?

藤尾:縄文は平等な社会です。一方で大陸には古代国家が成立していましたから、その系譜を引く弥生社会には身分の差が存在し、平等ではありません。自然観や祖先観、死生観も両者はまったく違ったであろうと考えられています。弥生の特徴は、何かに特化していく点にあります。生業であれば稲作に特化していきます。宗教的なものであれば、最初は五穀豊穣。それが次第に農耕社会から特定個人の信仰につながっていき、最終的には卑弥呼につながっていきます。

弥生の3つの「表情」

続いて第II部「弥生をながめる」についてお聞きしたいと思います。

藤尾:第Ⅰ部が時間的な“タテ”の系譜であったのに対し、第Ⅱ部では“ヨコ”の視点、つまり弥生を生業・社会・祭祀という3つの側面からながめてみよういうものです。イメージとしては、一番下に生業があり、その上に社会があり、さらにその上に祭祀があるという重層的な形になっています。展示では3つの側面について、生業は「水田稲作」、社会は「環壕集落(かんごうしゅうらく)」と「戦い」、祭祀は「祭りの道具」から見ていきます。

それぞれの地域的な広がりを見てみると、水田稲作は九州南部から東北北部までありますが、環壕集落は利根川までしかありません。さらに青銅器の祭りになると、東海から北陸までに分布範囲が限られます。展示では「表情」と「顔」で例えていますが、生業(水田稲作)という表情、社会(環壕集落)という表情、祭祀(青銅器の祭り)という表情、この3つが組み合わさって弥生の顔がつくられるとイメージしてください。3つ揃っているところが最も狭い意味での弥生になります。私の立場としては、生業と社会という2つの表情が揃っていれば弥生の顔が形成されていると考えています。一方、設楽先生は生業という表情だけでも弥生の顔だという意見です。

先ほどの論争がより分かりやすくなりました。

藤尾:生業について言えば、弥生になると畑作も行っているので、その点も展示パネルでご紹介しています。次に社会面では環壕集落と戦いを取り上げています。

縄文では戦いはなかったのでしょうか?

総合展示第1展示室 大塚遺跡模型:
村のまわりに壕と土塁と柵をめぐらせた、
環壕集落の典型的なかたち

藤尾:縄文時代には武器がありません。もちろん弓矢も槍もあるので人は殺せます。しかし、弓矢も槍も人を殺すための「武器」ではありません。剣など人を殺傷することを目的とした武器、そして集団戦が登場するのは弥生からです。

最後に祭祀面ですが、そこでは中部地方の本格的な水田稲作を行う前のアワ・キビ栽培の頃の祭りの道具を展示しています。東北北部ではずっと土偶の祭祀が続くのですが、中部では土偶も使っていたのですが、死者(子供)の骨を納めていたと思われる土偶形容器が出てきます。縄文時代の土偶は基本的には女性で、男女一対にはなりません。ところが土偶形容器は必ず男女一対になっています。つまり、稲作が始まるということは、男女の概念が出てくるということなんですね。東大の設楽先生は土偶形容器についてもはや縄文的な土偶とは異なっていると評価し、中部は前6世紀以降、弥生文化ととらえています。

いわゆる土偶とはちょっと違うわけですね。

山梨県岡遺跡 土偶形容器複製品
(本館蔵。原品は個人蔵)

藤尾:その違いを重視する考え方もあるわけです。しかし、私は「そんなに大きな違いではないでしょう?」という考え方です。そもそも、九州では水田稲作が始まると土偶は無くなります。つまり、水田稲作と土偶の祭りは西日本では相容れないものなんです。東日本で土偶と水田稲作が並存していたということは、弥生的な考え方がまだ浸透していなかったからだと私は考えています。まだまだ縄文気分で、弥生になりきっていなかったんですね。

どこを重視するかで、土偶形容器の評価も大きく異なるんですね。

藤尾:祭祀面のコーナーでは顔を持つ土器が数多く並びます。顔、顔、顔です。おそらくこれらが関東に多い埴輪につながっていくんだと思います。東の人たちは造形で立体的に顔をつくるんですね。いわば3Dです。しかし、関西では絵で顔を描くんです。さらに九州では一部を除いて絵は描きません。

九州ではどうやって表現するんですか?

藤尾:九州は文字です。紀元前2世紀にはすでに文字がありましたから。表現方法も地域によって異なるわけです。フィギュアの関東、絵記号の関西、文字の九州、とでもいいましょうか。

地域ごとの違いが面白いですね。

第3回に続く