企画展示をより楽しく、より深く鑑賞していただくため、本館の広報担当職員が企画展示の担当者から展示の見どころや作り手の気持ちを取材します。

今回は7月15日から開催する企画展示「弥生ってなに?!」の代表者である藤尾慎一郎教授(本館副館長/研究部考古研究系)にお話をうかがって来ました。

展示案内「弥生ってなに?!

ページ インデックス
第1回 第2回 第3回

思っていたより縄文人は稲作を受け入れなかった?

よろしくお願いします。

藤尾:今日は何でも聞いてください。

藤尾慎一郎教授

まずは今回の企画展示のきっかけについてお聞きしたいと思います。

藤尾:きっかけは1999年に開催した企画展示「新弥生紀行」でした。この展示の準備の過程で東北地方の資料を見た際に、「これって弥生なのか?」と不思議に思ったんです。ただ、当時はまだ酒の席での話にすぎませんでした。

ところが、その後当館が「弥生開始年代は500年さかのぼる」という説を発表してから、この疑問はさらに強くなりました。つまり、九州北部で水田稲作が始まってから、日本各地へバーッと一気に稲作が広まったのではなく、弥生文化と縄文文化は800年にわたって併存していたんです。思っていたより縄文人は稲作を受け入れなかったんですね。

稲作はもっとスムーズに広まっていったのだと思っていました。

藤尾:かつては「東北地方の人々も稲作をやりたかったけど、寒くてできなかった」という説明がなされていました。しかし現在は「なぜ稲作をしなければいけないのか?別に必ずしも稲作をする必要はない」という説明に変わってきています。このことは、その地域の人たちの主体性を強調するように学界の風潮が変化してきたこととも関連しています。

そして、やはり弥生開始年代がこれまでの考えよりも500年さかのぼるという新しい年代観の衝撃は大きかったのです。この新しい年代観の登場によって、九州北部で稲作が始まってから最後に南関東で稲作が始まるまでに800年の差が生じるわけです。従来の説ではこの差が300年でした。この500年の違いは大きいですよ。例えば室町時代に九州北部で始まった稲作が、現代になってようやく南関東で始まったと考えてみてください。どうです、長いでしょう?

稲作が広まるには随分と時間がかかったんですね。

初の試み「論争展示」-その争点は?!

さて、今回は「論争展示」という新しい試みがなされるとお聞きしていますが、どういった方法で展示されるのでしょうか?

藤尾:展示パネルに私と論争の相手である東京大学の設楽博己先生が登場し、日本各地の遺跡についてそれぞれ「これは弥生です」「これは縄文です」とコメントしています。九州はお互い「弥生」とコメントしていて、まったく論争にはなりません。ところが中部からは「弥生」なのか「縄文」なのか、あるいは「別の文化」なのかで意見が分かれてきます。

展示パネルに登場する藤尾先生と設楽先生のイラスト

お二人の意見の違いはどういった部分にあるのでしょうか。それぞれのお考えを教えてください。

藤尾:設楽先生は生業を重視していて、本格的な畑作や水田稲作をやっている地域はすべて弥生文化という立場です。一方、私は水田稲作=弥生とは考えていません。逆に言えば、縄文人が水田稲作をやっていてもいいんです。要は、縄文気分でやっているか、弥生気分でやっているかが重要なんです。

気分の問題なんですか!?

藤尾:気持ちのもち方とでもいったらよいのでしょうか。「おれはこれから何があっても水田稲作をやっていくんだ!」というのが弥生人の気質なんです。他のことは犠牲にしても水田稲作にしがみついていくんです。ところが、縄文気分の水田稲作は、途中であきらめてしまうんです。例えば、東北北部の人たちは300年間水田稲作をやるんですが、洪水の被害にあった後、蝦夷(えみし)の時代まで水田稲作を放棄してしまいます。退路を断って水田稲作を行う弥生気分と、途中であきらめて元にもどってしまう縄文気分とでは全然違うんですね。

ですので、「弥生」なのか「縄文」なのかを考える場合、私は生業だけではなくて、社会や祭祀といったことも含めて総合的に考えなければならないという立場です。水田稲作をやっていても、土偶をつかった縄文的な祭祀をしていれば、それは弥生とはいえないと考えています。

砂沢溜池に沈む砂沢遺跡 
水田跡と土偶・土版が両方発見されている

なるほど。生業を特に重視するのか、それとも総合的に判断するのか、という違いがあるんですね。

藤尾:設楽先生には、私が重視している社会のシステムや祭祀の道具はすべて大陸由来のものではないかと言われます。どういうことかと言うと、もともと縄文文化があった日本列島に大陸の文化が入ってきて、2つが混じり合うことで弥生文化が生まれました。ですから、縄文的な要素も大陸的な要素も等しく評価して弥生文化を考えなければいけないのに、私は大陸的な要素ばかりを重視していると批判されているわけです。

厳しい指摘ですね。

藤尾: 確かに大陸から渡って来た人たちに比べて縄文系の人たちの数の方が圧倒的に多いんです。しかし、そこでいつも私が例えるのが「進駐軍はどうか」と。圧倒的に多い日本人の中に少数の進駐軍がやってくるわけですよね。でもご存知のとおり戦後の日本は劇的に変わりました。変えたのは民主主義という考え方であり、政治システムです。弥生時代についても状況はよく似ていて、要するに社会を変えていくのはものの考え方であり、社会システムであり、宗教であるんだ、生業だけではないというのが私の考えです。

数は少なくとも、渡来人の与えたインパクトはとても大きかったんですね。

藤尾:渡来人との接触の機会が多かった西日本の縄文人は大きく変わることができたんです。ところが、東に行けば行くほど情報が薄くなっていき、変化するところとしないところができたと考えています。

第2回に続く