会場マップ 渡来系弥生人 大陸系譜 鳥形木製品 東日本の祭り 水田の立地 古墳との境 日本の木の炭素14年代がずれる,そのわけは? 砂沢遺跡 土器の表面を見てみよう 農耕文化複合と弥生文化 弥生文化と砂沢文化
1 渡来系弥生人
パネルの2体の人骨の顔を比べてみてください。二人とも大陸にもともとの起源をもつ渡来系弥生人なのですが,顔つきがずいぶんと違います。渡来系弥生人は,縄文人よりも彫りが浅く,のっぺりとした顔つきとして一括されますが,実際には細かな地域差があり,様々な顔つきの人がいました。この理由として,それぞれ大陸側における出身地が異なっていたという説も出されています。(山田)
参考文献
・松下孝幸2001『シャレコウベが語る 日本人のルーツと未来』長崎新聞新書。



2 大陸系譜
弥生文化を形作る外来要素には,中国大陸や朝鮮半島など,東アジア由来のものが数多くあります。弥生時代の前期から中期にかけては,「灌漑水田農耕」を中心とした生産を支える石製・木製・鉄製の農工具や,壷・甕・高杯という土器が象徴する新たな生活様式,利器あるいは祭祀・儀礼の道具としての青銅器など,さまざまな「もの」や情報を受容しました。中期後半以後は,権威を象徴する中国鏡や鉄製武器(刀剣)の流入が,弥生文化に新たな局面を生みだすのです。(上野)
参考文献
・甲元真之・寺沢薫編2011『講座日本の考古学 弥生時代』上・下,青木書店



3 鳥形木製品
鳥に対する信仰は,基本的には稲作文化の渡来とともに大陸からもたらされたと考えられます。その意味では大陸系譜ということもできるでしょう。しかしながら,鳥形木製品は文化受容の玄関口となった北部九州からはあまり出土せず,近畿・東海地方から数多く出土する傾向があります。このことから,鳥形木製品を用いた祭祀は,日本に伝わった以降のところで,弥生文化の中で独自の展開をしたと考えることもできます。(山田)
参考文献
・山田康弘1996「鳥形木製品の再検討」『信濃』48-4



4 東日本の祭り
中部地方や関東地方,東北地方中・南部でどのような祭祀が行われていたのか,実はよくわかっていません。ここに紹介した土偶型容器を用いる祭祀は,アワやキビ農耕を生業とする段階のものなので,水田稲作が本格化する前3世紀以降にどのような祭祀が行われていたのか,実は基本的にわかっていないというのが現状です。(藤尾)
参考文献
・設楽博己2005「東日本農耕文化の形成と北方文化」『稲作伝来』先史日本を復元する4,岩波書店



5 水田の立地
横市川流域の水田が,川の流域全面に広がらなかった理由は、この地の沖積丘陵や沖積低地に大雨がふると水が氾濫し,制御が困難だったためだと考えられます。また,シラス台地上に広がらなかったのは,水を得ることが難しかったということが挙げられます。一方,伊那谷の場合は11も段丘があり,水田を展開していく上で,選択の幅がはるかに多かったのでしょう。弥生時代中期の遺跡は氾濫原に展開しますが,その後は段丘上に移動するのも,はじめは「実験的」に水田を作ったのですが水害の危険率が高く,段丘上へと安全を求めた結果だったのかもしれません。
参考文献
・桒畑光博2008「シラス地帯に根づいた弥生農耕−南九州の水田と畑について−」『財団法人大阪文化財センター他2006年度共同研究成果報告書』大阪府文化財センター
・飯田市上郷考古博物館1999『段丘に住む弥生人の土地利用』



6 古墳との境
弥生時代後期には,独自の儀礼や器物によって地域圏の姿が明確になりました。広形銅矛の北部九州,突線鈕式銅鐸の近畿と東海,特殊器台の吉備,四隅突出型墳丘墓の日本海沿岸などです。一方で古墳時代には,こうした地域圏を超えて,儀礼や器物が共有されるようになります。弥生時代と古墳時代を分けるのは日本列島規模の共通性と紐帯ですが,「境目」はその始まりを何に求めるのかによって変わります。近年の議論では,定型化した大型の前方後円墳の登場が必ずしもその答えとはならないようです。(上野)
参考文献
・岸本直文2014「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集
・寺沢 薫2000『王権誕生』講談社



7 日本の木の炭素14年代がずれる,そのわけは?
日本の木のなかには,タスマニアやニュージーランドなど,南半球の木に近い炭素14年代を示すものがあります。北半球と南半球では,大気の交換に時間差があり,炭素14の濃度が少し異なっています。木の年輪が盛んに生育するころ,日本列島は梅雨の季節を迎えます。梅雨前線の影響で,日本には南半球の大気が流れ込んでいると考えられます。日本の木に見られる炭素14年代のずれは,このような当時の環境の様子を表しているのかも知れません。(坂本)
参考文献
・Imamura M., Ozaki H., Sakamoto M., Itoh S. and Mitsuatni T. (2012) Possible correlation between radiocarbon regional offset in Japan and East Asian Monsoon. 21nd International Radiocarbon Conference, Paris.



8 砂沢遺跡
稲作を行うにあたり,渡来系の人々と縄文系の人々のどちらがより主体的な役割を果たしたのか,という論争があります。縄文系で,もっとも主体的だったのが砂沢遺跡の人々です。ムラのすぐそばに水田を造り,土偶の祭りを行った唯一の人々だからです。彼らから見ると福岡県の板付遺跡の人々などは,身も心も渡来系の文化に染まっていると見えたことでしょう。(藤尾)
参考文献
・宇野隆夫 1996「書評 金関恕+大阪府立弥生文化博物館編『弥生文化の成立−大変革の主体は「縄紋人」だった−』」『考古学研究』43-1



9 土器の表面を見てみよう
穀物の圧痕をもつ土器の時期を決めることは,ほとんど文様のない西日本の縄文土器の場合,大変難しい作業になります。日本でもっとも早く農耕が始まった可能性のある九州において,穀物の圧痕をもつ土器の時期が上がらないのは,これが原因の一つです。(藤尾)
参考文献
・中沢道彦2014『先史時代の初期農耕を考える−レプリカ法の実践から−』日本海学研究叢書,富山県観光・地域振興局,国際・日本海政策課



10 農耕文化複合と弥生文化
設楽博己氏は,アワやキビを栽培していれば即弥生文化と言っているわけではありません。穀物栽培が始まり,貯蔵用の壺の割合が1割程度に達していることを目安にしています。これによれば,壺の割合が6%程度の佐賀県山の寺遺跡の最下層や宇木汲田遺跡の第Ⅸ層、あるいは7~8%の長野県松本市石行遺跡は,グレーゾーンということになります。(藤尾)
参考文献
・設楽博己2013「縄文時代から弥生時代へ」『岩波講座日本歴史』1, 原始 ・古代1,岩波書店



11 弥生文化と砂沢文化
藤尾説の難点は,仙台平野の位置づけです。この地域の水田稲作を見る限り,西日本とあまり変わりないからです。そこで注目したのが,水田稲作が縄文的な網羅的生業構造の中に位置づけられていたとする,地元仙台市教育委員会の斎野裕彦さんの説です。いずれ祭りの道具が見つかれば,再考する予定です。(藤尾)
参考文献
・藤尾慎一郎2013『新弥生時代』歴史文化ライブラリー369,吉川弘文館




2014 国立歴史民俗博物館