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私と津波工学日本の津波学防災と歴史研究共同研究と展示に望むこと

私と津波工学

私は今回の共同研究に津波工学の立場から参加していますが、まず私の研究の軌跡についてお話ししましょう。私は1957年に東京大学を卒業して、建設省に入りました。当初は九州地方で、遠賀川という川と松原・下筌ダムというダムの調査や計画を行っていました。1959年9月の伊勢湾台風で災害が発生し、海岸の防災対策が急務になったため、1960年4月からは建設省土木研究所に移り、海岸防災対策の研究に当たることとなりました。

ところが、その60年5月にチリ津波が起り、これを契機として私の津波工学が始まります。まずは現地調査で、当時、舗装されていない凸凹のくねくね曲がった道をジープで走った記憶があります。調査前に当然勉強してはいましたが、なにせ実際の津波は初めてです。この時の調査は二つのことが印象に残っています。一つは津波の水位の変化についてです。ある湾では、なぜか湾の奥に入るほど津波の潮位が下がっているのです。普通考えると湾の奥では津波の高さは高くなるのではないか。測量の間違いかとも思いましたが、どうもそうではない。その事実が謎として残りました。そして、もう一つは、両石湾でおばあさんに聞き取りをしたときのことです。その人は家の1階が水浸しで,壁も壊されていましたが、こんなのは津波ではないというのです。つまり昭和や明治の津波に比べれば大したことはないという。チリ地震津波は総エネルギーとしてはずっと大きいが、津波被害の状況では明治や昭和の三陸津波とは比べられない程小さいということが印象に残りました。

その後、1966年に建設省から中央大学に移って研究を続けました。実は1967年には、チリ津波対策の緊急事業は終りました。当時海岸工学の分野では、津波対策は終わった、次は発電所冷却水の海への放流問題、海岸の浸食問題など重要な問題が沢山あるぞ、という雰囲気でした。しかしそれでも津波の研究を続けようと思ったのは、先程述べたような疑問を解かなければならないと考えたからです。実験にも数値計算にも金がかかる状況でしたから、理論を手始めに少しずつ研究を進めて行きました。

日本の津波学

ところで日本の津波学は現在世界でトップクラスですが、それは70年代以降の研究体制の違いが影響しています。アメリカと対比してみると、60年代はアメリカもハワイやアラスカが津波被害を受け津波学へ資金が投入されました。しかし、その後研究の中心が海洋開発などの分野に移り、ほとんど研究が行われなくなりました。一方、日本の場合は、私達の研究や東海地震予知にかかわる分野での新たな研究などが継続されました。

日本の津波学の特徴は、理論的研究とともに実証的研究が行われていることです。理論では理想的な土地形状などに対してしか答えを出せませんが、実証的研究は現実の地形に即して行われなくてはなりません。丁度電子計算機が発達する時期でしたので、こうした現実の役に立つ方向を向いた研究が、一歩一歩積み上げられてきました。日本の貢献は、国際的なシンポジウム等いくつかありますが、特筆されるものとしてTIME(Tsunami Inundation Modeling Exchange)計画があります。これは「国際防災の10年」における世界の津波研究者の共同事業として、津波数値計算モデルの移転するプロジェクトです。その中味は、東北大学の開発した津波の数値計算モデルを公開し、世界の津波研究に役立ててもらうというプロジェクトで、ユネスコのマニュアルにも取り入れられています。

防災と歴史研究

現在の津波学を日本と海外を比較した場合、理論とサイエンスでは外国は追いついてきたといえます。しかし、防災についてはまだまだで、日本がリードしています。対策には具体的な知識の集積が必要ですが、それが外国では未だ十分とは云えません。

私の場合、1981年度から、政府の総合防災対策を考える二つの委員会の幹事長になり、国の防災政策に携わりました。そこで提言したのは、防災のためには防災施設、防災地域計画、防災体制の三つが必要ということです。たしかに津波防潮堤は有効ですが、堤防より大きな津波が襲ったときには限界があります。むしろ高いところに住むとか、家自体を頑丈にするとか、石油タンクなどの危険物を海岸近くに設置しないなどの津波に強い体質に町を作り変えていくことが必要なのです。さらに、津波予報にしたがった避難行動など、万一の場合の人間の対応といったソフトな対策まで含めて、総合的に対処することが重要です。施設とまちづくりと人間のシステムの3つの側面から防災を考えてゆかねばならない、ということを主張し、受け入れられました。

現場を知ることと過去の事例に学ぶことが、その際必要となってきます。災害は自然の外力と人間社会がクロスしたところに生じる出来事ですが、災害の質と大きさは人間社会の状況に規定されます。現在の災害を考える際に過去の現象を再現することはとても重要で、歴史研究の意義はそこにあると考えています。

共同研究と展示に望むこと

展示とは伝えることですが、災害を伝えることは難しい問題を含んでいます。人間は忘れます。災害にあった社会が「災害が二度と起こらないようにしてほしい」と考え続けるのはおよそ7~8年で、その願いはどんどん薄れてゆきます。この忘却という問題が、災害対策を長続きさせる上で障害となります。しかし、忘れることは悪いばかりではありません。「災害とトラウマ」という問題として捉えると、災害の悲惨な経験は数年のうちに忘れられなければ精神的トラウマになってしまうからです。こうした両面を考慮にいれながら、長期的な災害対策を続けることが大事なのではないでしょうか。

まず私たちにできる一つの手段は、情報の共有でしょう。どの地域が危険かをきちんと知識として知り、万が一災害に出会ったときにその知識が身を守るための知恵として働く。こうなることを願っています。そのためには、今回の展示では、国立歴史民俗博物館以外の会場での展示を考えて頂きたい。災害の危険性がある地域の人に考える場を持ってもらいたい。防災は、災害が実際に起きたときにどうなるか、どうすれば良いかという知識が知恵として働かないと実りません。方法としてはいくつか考えられるでしょう。現地での展示というのも一つでしょう。あるいは中学校、高校で展示をするのも一つです。インターネットを通じての展示ということも考えられるかもしれません。

そしてまた国際的な広がりも必要です。国内外の防災会議と提携するなどの手段も考えられます。そのようにして展示を広がりを持たせた形で行うことを提言したいと思います。 (談、2001年7月2日、岩手県立大学にて)


首藤 伸夫 しゅとう・のぶお 「歴史資料と災害像」共同研究委員、岩手県立大学総合政策学部教授、東北大学工学部名誉教授、津波工学