ぼくはあの震災をまだうまく言葉にできないでいる。

あの震災とは、6年前神戸で起きた地震のことだ。言葉以前のものとしては、歴史そのものに触れた生々しい感情のたかまりのようなものだということはわかっている。だがその先が続かない。大地が動くという人間を超えたものに対する本能的な畏怖、その中で自分が生き残ったという偶然性へのおそれ、社会がそれまでとは全く違った相貌を見せたことへの驚きと期待。このように言葉にしてみるが、どれも少しずつあたっていて、少しずつ違うような気がする。おそらくそれらがない交ぜになったものがぼくにとっての震災なのだろう。あれからもう7度目の夏だというのに、こんなことにこだわっているのはおかしいのかもしれない。でもこれまでもずっと考えてきたことだし、これからも考えてゆくことだ。

2001年4月、神戸から佐倉に来て、国立歴史民俗博物館の研究員として災害史の研究と展示の企画に関わるようになった。2年間という限定された期間とはいえ、仕事として災害史に取り組む機会を与えられたわけだ。震災とは何か、なぜ災害史なのか、本腰を入れて考えなければならない場所におかれてしまったともいえる。仕事は次々と押し寄せる。制度としての歴史学は、立ち止まって考えることを許さない。しかし、そこでたたずんでみようとするとき、思い浮かぶのは神戸のことだ。

ぼくの震災を考える原点にあるのは、神戸・長田にある「震災・まちのアーカイブ」というグループでの体験である。このグループは、震災の資料を保存すること、それを通じて記録と記憶とは何かを考えることをモットーとした活動を行っている。震災で神戸を訪れたボランティア(一説には110万人といわれる)の残した資料を収集し、保管する場(アーカイブ)を作るというのが具体的な内容で、人を訪ねたり、資料カード作ったりという活動をしてきた。震災に関係しているとはいえ、仮設住宅を訪問したり、弁当を届けたりといった、一般的な震災ボランティアとはかなりかけ離れた活動内容である。なぜ人の救援ではなく資料なのか、とからまれたこともあった。しかし、それがぼくの現場だった。

ぼくの中には、先ほどの言葉にならない感情を、どうにかしてかたちにしてみたい、という衝動があった。加えて、この震災を最後まで見届けたい、という思いもあった(でも最後というのは一体いつなのだろう)。そのために選んだのが、「アーカイブ」という活動だったのだ。

活動の中では、震災をめぐる記録と記憶のさまざまなかたちについて知った。それは必ずしも石碑のようなものだけではない。手記をはじめとして、プロアマを問わず写真や映像、絵画、演劇、朗読会、あるいはさまざまなパフォーマンス(鎮魂の舞踊のたぐいから、挙げ句の果てにミノムシのかっこうをしてクレーン車からぶら下がる、という派手なものまで)。それぞれが、それぞれの震災体験にかたちを与えようとしていた。

それは記憶の領域と呼ぶことができるだろう。つまり、今生きている人の内面の問題であり、さまざまな表現はその人が自分の記憶にかたちを与えようとする試みなのだ。そして、それら記憶のかたちを、後世になって構成しなおし叙述したものが歴史となる。そう考えてみると、震災後の神戸で、ぼくの眼前に広がっていたのは、歴史というものが発生する原初的な現場だったということができる

<あの震災はなんであるのか。何度もおもい起こすこと、深く想起すること。私たちは、ここを旅立ちの場所とし、私的な記憶を通路として歩もうとおもう。>

1997年に出版された震災アンソロジーでの、詩人季村敏夫さんの言葉である※。記憶は私的なものである。だが、それが声として表現されることで歴史とつながる。歴史を記憶とのたえざる往還の中で見てゆくこと。仕事として災害史と関わる佐倉での2年間は、この課題を解くための時間として与えられたのだと考えている。

※笠原芳光・季村敏夫編『生者と死者のほとり-阪神・淡路大震災、記憶のための試み』人文書院、1997年。


寺田 匡宏 てらだ・まさひろ 「歴史資料と災害像」共同研究者。国立歴史民俗博物館COE研究員。歴史学。