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企画展示 縄文文化の扉を開くー三内丸山遺跡から縄文列島へー

展示解説

三内丸山遺跡は青森市の郊外にある大きな縄文時代の遺跡で、江戸時代から既に知られていました。野球場建設を変更して発掘調査が続けられ、これまでの縄文時代のイメージを変える大きな成果が出てきています。縄文時代前期から中期にかけて長期に営まれたこの集落遺跡は、普通の集落の遺構だけでなく、広い領域のムラムラの中心となる役割を荷う様々な遺構も見られます。このようなムラムラの結合は、縄文文化の各地域にもできていた可能性が高いのです。三内丸山遺跡の成果を見ながら、この列島に広がった縄文文化を考えてみることにしましょう。

整備が進む三内丸山遺跡の夏の風景


野球場予定地で発掘中の
掘立柱建物跡などのさまざまな遺跡の広がり

広い台地上の遺構の各所で特色ある遺構が地域的なまとまりを示して発掘されました。
大型住居跡の発掘 大型の竪穴住居跡で、最も大規模な例は長径32mにも及び、たくさんの柱穴や炉があり、建て替えもくりかえされています。 人為的に台地上などに土を盛った遺構が注目されました。高く積んだ盛土遺構の断面をみています。土器や石器なども捨てられていました。

丘陵裾部の土壙墓群 子供用の土器棺墓地や道に沿った土壙墓列や配石墓がたくさん調査されていますが、丘陵裾などではこのような土壙墓の集合墓地も発掘されています。 掘立柱の建物が並んで、何度も建て替えられたありさまが発掘されています。東や南からの道が広場に出た所の両側に、2×1間の倉庫風の建物が並んでいたものとみられます。

発掘で厖大な遺物が出ています。まだ使えそうな土器などもどんどん捨てた状況が、北に向う谷間などのゴミ捨場や台地のへり、あるいは盛土中などからも検出されます。玉類や土偶なども盛土遺構などからたくさん見つかり、儀礼などに使用した品々を送ったりしたものと考えられています。

小型土器 祭りの道具と考えられる小型土器もたくさん出土しています。


▲大型土偶 高さ32cmにもおよぶ大型の土偶です。土偶はこれまでに大小1600点余りが、主に盛土遺構で発掘されています。 ▲玉類 ヒスイの玉やその破片の他に、石や土で作られた各種の玉類が盛土遺構から出土しています。ヒスイは新潟県内の原産地から運ばれたものです。
▲円筒形で口縁を飾った中期の土器
▲クルミが入っていた縄文ポシェット
▲骨角製の釣針や銛や針


石器 当時の利器は石器でしたが、機能に合わせて発達した形を呈しています。北海道の黒曜石で作られた石器も混じっています。大半の石器は領域内の石材からこのムラで作られました。土器もこのムラで作ったとみられ、粘土取り穴などもあります。漆器や鈎針や銛などの骨角器、木製の容器や道具、植物質の編物、また編んだ布の破片などまで発見されています。


道と墓
高い掘立柱の建物や大型竪穴住居跡、掘立柱の倉庫列などのみえる広場に向って、幅が12mにも及ぶ大道が発見されたのが他の遺跡で知られていない成果です。この大道は、東にのびる道の他、南にものびる道があり、また各所でその枝道や生活用の細い道も発掘されました。大道の両側には、延々と墓が並んでいて、石などに飾られた大きな墓も所々にあったことがわかりました。ムラムラと三内丸山ムラをつなぐこの大道に祖先の墓が並んで、集まる人々に語りかけていたことでしょう。


復元模型
このムラの元の姿を新しい発掘成果を加えて復元してみました。径800mに及ぶ大集落には広場とそれにつながる大道、道傍に並ぶ倉庫列や記念墓列や集合墓地、道沿いに各々設けられた竪穴住居からなる住居地域、ムラ外れにある共同の地下貯蔵庫など、地域を定めた集落の構造があり、建て替えたり、土やゴミを清掃するなどして維持されていたことがわかります。三内丸山遺跡は大きなムラでもありますが、この地からみえる広い領域の人々が集まり、領域内の集落の結合の中心となる葬祭の役割を果たす遺構を備えた大集落遺跡だったことになるものと思われます。

三内丸山遺跡の他に、縄文列島各地の遺跡のいくつかをとりあげ、縄文文化とその時代を伺って見ることができるように展示しました。