くらしの植物苑観察会

毎月第4土曜日(4月はみどりの日)

13:30に苑内のあずまやに集合
15:00頃までの予定、苑内の季節の植物も観察

  • 3月22日(土) 第60回観察会「梅と桃の文化史」 王 敏(東京成徳大学)
  • 4月29日(火) 第61回観察会「日本の花文化」 辻 誠一郎(歴博)

 (29日のみどりの日はくらしの植物苑の入苑が無料になります)

海をわたったモモ(桃)

  • 執筆者:辻 誠一郎

桃の節句が過ぎ、各地では鮮やかな開花が見られます。モモは本来日本に自生していた植物ではなく、弥生時代初頭に日本に持ち込まれたというのが近年はっきりしてきました。それは、弥生時代になって初めてモモの遺体が見つかるからです。モモの果実の中の堅い部分を核と呼びますが、比較的大きくて目立ち、保存性が高いので、遺跡の発掘調査では見つかることが多いのです。日本でもっとも古いとされる遺体は、長崎県の大村湾に面した伊木力遺跡の縄文時代前期の地層からのものです。その後は弥生時代まで記録がありません。したがって、意図して大量に日本に持ち込まれたのは弥生時代初頭と言ってもよいでしょう。

それでは、モモの原産地はどこなのでしょうか。19世紀、ヨーロッパの多くの研究者はモモの原産地をインドや西方のペルシャあたりと考えていましたが、その中で、中国が原産地であると論破した学者がいました。1883年に『栽培植物の起源』という名著を書いたド・カンドルです。ド・カンドルは植物学だけでなく言語学や歴史学を駆使して、どこがもっとも古いかを明快に論じたのです。その後の研究はド・カンドルの考えを支持し、今では、野生型のモモが自生し、モモの生育によくあった気候に恵まれた黄河上流域とするのが定説になっています。モモの正式な学名は、最初はマルム・ペルシクム(下記※1)とされました。ペルシャのリンゴとみなされたのです。その後、シーボルトとツッカリーニが書いた著名な『フローラ・ヤポニカ(日本植物誌)』では、プルヌス・ペルシカ(下記※2)となり、ウメやサクラと同じ仲間であることが明らかにされましたが、学名には「ペルシャの」という語が残りました。これは名前の先取権によるもので、原産地が分かっても変更することができなかったのです。

中国の黄河上流域に自生する純野生の品種には毛桃と山桃が知られています。毛桃は地元では甘粛桃と呼ばれているものです。ともに寒さにも乾燥にも強く、果実は小さく円形で、果肉は薄くて堅いのでまったく食用にはなりません。しかし、核の中の種子(すなわち仁)は食用となり、小さな球形の核は念珠などに利用されます。

中国では約6000年前から利用されていたようで、いくつかの遺跡から毛桃や山桃とされる核の遺体が見つかっています。日本には弥生時代初頭にイネやムギといった穀類とともに持ち込まれたと考えられます。弥生時代から古代にかけて、日本ではさまざまな形・大きさのモモの核が遺跡から見つかっていますが、黄河上流域での野生品種によく似た小粒で円形に近い形をしたモモの核がしばしば含まれています。おそらく、野生型の品種や、品種改良されたいくらか大粒のモモがいっしょに日本に持ち込まれたのでしょう。大変興味深いのは、古代の『延喜式』には、宮中の農園に植えた雑果樹 460株のうち 100株がモモであること、また、多くの諸国が多量の桃仁を宮廷に献上していたことが記録されています。現在ではまったく利用しない種子すなわち仁を利用していたことが分かります。

 ※文中の学名:1) Malum persicum 、2) Prunus persica