くらしの植物苑観察会

毎月第4土曜日
13:30に苑内のあずまやに集合
15:00頃までの予定、苑内の季節の植物も観察

  • 10月26日 第55回観察会 「菊の文化史」 辻 誠一郎(歴博)
  • 11月23日 第56回観察会「冬の華・サザンカ」箱田 直紀(恵泉女学園大学)
  • 12月21日 第57回観察会「冬至の植物文化史」辻 誠一郎(歴博)

棉から綿へ-「棉の由来」

  • 執筆者:上野祥史(歴博)
  • 公開日:2002年9月26日

棉は白や黄色の花を咲かせ、その花弁の奥に濃紅を秘めて開花する珍しい植物です。10月の声を聞くと、桃の形をした棉の 実がわれて、白、茶、青色をした綿花が開き、これを摘んで糸に紡ぎ、布とされます。棉は日本古来の植物ではありません。今から約1200年の昔、延暦 18(799) 年7月に三河の幡豆郡天竹村(西尾市天竹町)に漂着した異国の若者が棉の種子をもたらしたと言われています。菅原道真が寛平4(892)年に編した『類聚 国史』の中の記事をもとに、徳川光圀が『大日本史』でそのことを伝えています。この異国の若者は、おそらく難破して三河の地に漂着したのでしょう。今はこ の付近は植木の産地です。昔は海浜の砂まじりの土地で、三河湾がこの地に深く入り込んでいた所で、顔も衣服も異なった異国人の漂着に村人は驚きました。自 称天竺人の持っていたツボの中に棉の種はありました。そこで、若者に作り方を教わり、各地で栽培を試みましたが、気候や地味が適さず、一番よくできたのは 太宰府であったようです。そこでも種々の障害があって、栽培には苦労したようです。棉種は絶えたとも言われましたが、各地に配付したことと、その天竺人が 三河の川原寺に住んで親しく栽培法を伝えたので、いつまでも種を絶えなかったと言われます。地棉と言える小形の品種は天竺人のもたらした紀波陀で、そのた め三河、尾張の方言で棉のことを「着波陀」と言っています。また、天竺人の古画像が川原寺の地蔵堂に伝わっています。天竺神社にある「宝壺」は、矢作古川 の堤を改修したときに掘り出した古代の瓶で、その中に棉の種を収めてあった言われています。延暦年間に、天竺人によって伝えられた棉の種子は、それから約 百年の間、貢物として納められていましたが、延喜年間に農民の努力の甲斐もなく絶えてしまったと言われています。

それから 700年後、再度伝えられた棉の種については種々の説があります。明応・永正年間 (1492~1520) に中国か朝鮮から伝えられたとも言い、天正11(1583)年にポルトガル人が豊後の藩主に贈ったとも言われ、また、文禄3(1594) 年に渡来した説と慶安3(1650) 年に朝鮮人文峰が対馬藩士の国分某に贈った種が良質で、これが全国で栽培されたとも言われます。このように何度も棉の種が伝えられたという記録がありま す。度重なる渡来の間に、越後で棉の種が売られ、永正7(1510) 年に三河の木綿が奈良の市場で売られ、熊谷でも売られていた種が三浦半島で栽培されて三浦木綿となったと言われています。

中世から近世にかけての棉作と綿花生産の移り変わりについては、くらしの植物苑だよりの前の号、No.67 を見てください。また、「ワタとその仲間」と題した記事が、No.51 とNo.52 に続けて掲載 されていますから、あわせて参照してください。