くらしの植物苑観察会

毎月第4土曜日(13:30 ~ )毎月第4土曜日(13:30 ~ )
ただし4月は29日のみどりの日、12月は第3土曜日の21日

  • 4月29日〔みどりの日:くらしの植物苑の入苑料は無料になります〕
  • 第49回くらしの植物苑観察会
    会場と時間:歴博くらしの植物苑 13:30~15:30
    プログラム:「シーボルト・チルドレンの紹介」カーラ・テーネ(オランダ国立ライデン大学)
    「花と木の文化史」佐原 真(歴博名誉教授・前館長)
    このあと、苑内の関連植物の案内
    午前10:00~12:00 本館講堂にて『シーボルトと植物』講演会。入場無料
  • 5月25日 第50回くらしの植物苑観察会 「朝顔を育てる」渡邊重吉郎・高橋宏(歴博)

シーボルト

  • 執筆者:辻 誠一郎
  • 公開日:2002年4月23日

シーボルトを知らない日本人はいないであろう、しかしシーボルトを知っているオランダ人は少ない、とオランダの研究者から聞いたことがあります。オラン ダでどこまでこれが一般的かさだかではありませんが、それほどに日本人に親しまれ、日本に深くかかわった人物であることは確かです。

シーボルトは、1796(寛政8)年、ドイツのヴュルツブルクで生まれました。シーボルト一族は医者や大学教授を多数出 した名門でした。シーボルトは大学卒業後、ヴュルツブルク郊外で開業医を営みますが、伯父によって一族の友人であるフランツ・ヨゼフ・ハルバウルというオ ランダ国王ウィルレム一世の侍医に紹介されました。国王はオランダ陸海軍軍医総監でもあり、幸運にも、シーボルトは「オランダ領東インド会社勤務の外科軍 医」という職を得たのでした。1822年、シーボルトはジャワ島のバタビアに向けて出航しました。さらに、バタビアで総督ファン・デル・カーペルレンから 日本に派遣される医師に抜擢されたのです。これが、シーボルトと日本を深く結び付ける契機となったのです。

日本でのシーボルトの使命はたいへん大きなものでした。当時のオランダはフランスやイギリスに占領されるなど、国の財政 は切迫していました。オランダの国旗が上がっていたのが長崎出島だけだったこともあるのです。そのため日本との貿易を進めることは不可欠でした。そこで、 長崎にいた医師は特別に「国家的目的に基づく特別な指令のもとに行動する特別な職」に任ぜられたのでした。それがシーボルトであったのです。シーボルトは また、その才能も買われて、自然科学的な調査も含め、日本の文化・歴史など多方面にわたっての「自然科学的調査の使命を帯びた外科少佐」でもあったので す。

シーボルトの最初の来日は、1823年から1829年、すなわち文政6年から文政12年でした。当時の日本では、医者を 中心に、医学はもとより広く博物学に興味をもつ人々が増加していました。その中にあって、シーボルトは多くの日本人と深いかかわりをもちながら、西洋科学 の普及とともに、日本の植物や文化・歴史に関するコレクションを蓄えていったのです。その膨大なコレクションが、帰国後、日本の植物の集大成である『フロ ラ・ヤポニカ』の出版の基礎となり、また、観賞植物が乏しかったヨーロッパにさまざまな日本の植物を紹介し、日本植物の園芸ブームを起こす源になったので す。日本での西洋科学の普及、日本植物の西欧への普及の主人公だったのです。

シーボルト旧宅のメモリアル