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第336回「奥多摩山村の景観・歳時と写真資料」第335回「カメラがとらえた地域と景観」第334回「古代の都と大宰府・多賀城」第333回「米と長寿の民俗」第332回「『紅宇』伝来の紅板締め資料」第331回「考古学から見た古代の日韓交流」第327回「爆発した前方後円墳信仰」第330回「保護地域(世界自然遺産、国立公園)と民俗」第329回「日本刀の素材と刀匠の技術」第328回「木戸侯爵家の成立と木戸家資料」第326回「戦後民衆史を歩く」第325回「しぐさの民俗」

第336回「奥多摩山村の景観・歳時と写真資料」

開催要項

日程 2011年12月10日
講師 松尾 容孝 (専修大学)

開催趣旨

人が写真を撮るのは記録として残すためです。しかし、後で見返した時には、撮影したときほど時間・空間や意識が鮮明でなく、顕在的でないこともあります。この点は、資料価値の観点からいえば、一級ではないかもしれません。しかし、われわれの日常生活でのさまざまな体験が多くの場合この感覚に近いことを考えるなら、このような写真の在り方がもっとも生活実感を素直に反映したものとして、評価できるのではないでしょうか。厳密な時刻・場所の特定、不変の真実の表象を追求するのではありませんが、それでも地域の時間的変化と今も残る地域の特性を物語っている写真。そのような写真を活用して奥多摩山村を紹介する試みをここでは行おうと思います。そのなかでは、風土記(郷土誌・地域誌)やビデオ映像による補足を加えて、奥多摩山村で繰り広げられてきた四季折々の人々の生活と現在におけるその様子を描くことに努め、写真資料の特色と展望についても考察したいと思います。

第335回「カメラがとらえた地域と景観」

開催要項

日程 2011年11月12日
講師 青山 宏夫 (当館副館長)

開催趣旨

写真は目の前にある風景を一瞬のうちに記録することができます。写る範囲は限られてはいますが、そのなかの風景についてはつぶさに写し撮ることもできます。人びとの生活の舞台となっている地域や景観が歴史を理解するために欠かせないとするならば、かつての風景を記録した写真はかけがえのない優れた歴史資料のひとつにちがいありません。しかし、そのためには少なくともふたつのことがわかっていなければなりません。「いつ」と「どこ」です。本館に寄贈された「石井實フォトライブラリー」におさめられた30万点以上の写真には、ほとんどすべてに撮影日と撮影地の記録があります。これらの写真のなかからいくつかを紹介しながら風景を記録した写真を読解し、そこに写し込まれた地域の動態や景観の仕組みについて考えます。また、「いつ」「どこ」が不明なことの多い古写真をとりあげて、写真の読解や相互比較さらには関連資料によって「いつ」「どこ」を探る事例も紹介します。

第334回「古代の都と大宰府・多賀城」

開催要項

日程 2011年10月8日
講師 林部 均 (当館考古研究系)

開催趣旨

8世紀はじめ、わが国は中国から律令制を取り入れ、律令国家と呼ばれる新しい国家をつくりました。この新しい国家は、列島を中央集権的に支配したといわれています。

そこで、古代の都、とくに飛鳥、藤原宮・京、平城宮・京を紹介します。そのうえで、律令国家の西の支配拠点であり、大陸への外交の窓口であった大宰府、東の支配拠点であり、蝦夷との接点であった多賀城を取りあげ、当時の国家の地域支配の仕組みやその特徴について考えます。

また、大宰府、多賀城の近年の発掘調査を整理して、その成立過程や建物配置、役割を検討して、それぞれがもつ独自性を抽出し、律令国家と呼ばれる中央集権的な国家の中にみられる画一性と独自性を総合的に把握することの重要性を考えてみたいと思います。

第333回「米と長寿の民俗」

開催要項

日程 2011年9月10日
講師 関沢 まゆみ (当館民俗研究系)

開催趣旨

老いには、敬老と棄老という対照性があります。敬老につながるのが養老の滝の伝説であり、棄老の典型は姥捨て山の伝説です。現代の都市型社会では老いの価値が見出しにくくなっていますが、民俗学が長年研究対象としてきた日本各地の村落社会にはそれぞれの老いがありました。ここでは、近畿地方を中心に分布する宮座と呼ばれる、村の氏神の神社の祭祀を担う長老たちの姿を紹介しながら、長寿の意味を考えるとともに現代の長寿社会における高齢者の生き方のヒントを見出してみたいと思います。

長寿の祝いとして、60歳の還暦、70歳の古稀、77歳の喜寿、88歳の米寿などが知られています。なかでも米寿は「米(よね)の祝い」とも呼ばれ、88歳の老人から、米を測る升や一斗升に入れた米を平らにならす斗掻き棒、また杓文字など米に関係する品物が贈られることが多かったのです。米は貴重な穀物というだけでなく、穀霊、稲魂つまり霊力、生命力を内蔵するものと考えられ、誕生から死亡まで人の一生のさまざまな儀礼の場面で用いられてきました。また、正月に餅を食べるのには、米の霊力を「年玉」(生命力)として蓄積していく意味がありました。長寿の人は毎年一つずつ取る「年玉」(米の霊力)をたくさん蓄積し、稀有な生命力をもつ人とみなされてきたのです。宮座の行事のなかでは、長老がその長寿の生命力を自分自身のものとするだけでなく、それを同じ村の新生児たちに特別な餅を介して授ける儀礼が注目されます。

現代社会はもはやそのような長寿と米とが密着していた時代ではなくなってきています。しかし、いまだに根強く伝えられているそれらの伝統行事に注目することによって、長老の地位についた人びとの実際の姿、それは緊張と奉仕、目的と達成感などさまざまな現実がみられる場ですが、そこから老いの生き方として私たちが何を学べるか、考えてみようと思います。

第332回「『紅宇』伝来の紅板締め資料」

開催要項

日程 2011年8月13日
講師 澤田 和人 (当館情報資料研究系)

開催趣旨

紅板締めは型板(模様を彫刻した版木)に生地を挟んで染めあげる染色技法であり、江戸時代後期から明治時代にかけて隆盛しました。主たる生産地は京都でした。その製品は、襦袢・裾除・下着といった女性の内に着る服飾に多用されていました。技法には不明な点が多く、そのため幻の染色とも言われています。

紅板締めが隆盛した時期は、西洋からの技術の導入あるいは製品の輸入によって、染織の技術やデザインが飛躍的に変化していった時期にあたります。紅板締めはその変化に対処しきれず、ついには昭和時代のごく始めに生産を終えてしまいます。

当館は、2005年度に京都の髙野染工場(現在廃業、かつての屋号は紅宇)より、2万枚を超える型板をはじめ、型紙・模様見本帳・締具など、膨大な数の紅板締めの道具類の寄贈を受けました。紅宇は、京都で最後まで紅板締め業を続けていた2軒のうちの1軒です。紅宇伝来の紅板締め資料の整理と研究により、新たに判明したこと、および、今後の展望について議論します。

第331回「考古学から見た古代の日韓交流」

開催要項

日程 2011年7月9日
講師 高田 貫太 (当館考古研究系)

開催趣旨

日本列島固有の墓制と考えられていた前方後円墳が、朝鮮半島西南部の栄山江流域において発見されたのは1980年代前半のことでした。現在では、計13基の前方後円墳が確認されています。また、栄山江流域と百済・倭の関係を示す考古資料も相次いで確認され、前方後円墳の被葬者の性格について論争が本格化しています。その内容は多様で、在地首長説、百済系倭人説、交易により集住していた倭人が築造したとする説などが提起されています。ただし、5世紀後半~6世紀前半の短期間に前方後円墳が築かれたと把握する点も共通しており、考古学的事象の基本的な認識自体は、各研究者に大きく違いはないように思われます。

現在では、前方後円墳への関心の高まりとともに、在地系の高塚古墳や集落、土器窯などの調査・研究が急速に進展しており、在地の運動性の中で前方後円墳を解釈していこうという動きが徐々に進展しています。在地系墓制や集落構造についての韓国側の研究へ注意を払う必要があり、また、日本列島における栄山江系の考古資料の追求と交渉史への展開についても、推し進められるべきであろう今後、以上のような諸研究と前方後円墳研究が互いに融合していくことで、前方後円墳をめぐる論争も新たな段階を迎えるものと考えます。

第327回「爆発した前方後円墳信仰」

開催要項

※ 3月の東北地方太平洋沖地震による臨時休館のため延期となっていました第327回歴博講演会「爆発した前方後円墳信仰」を6月18日(土)に開催しました。

日程 2011年6月18日
講師 杉山 晋作 (当館名誉教授)

開催趣旨

邪馬台国の女王・卑弥呼がなくなってから後、小山のような巨大な墳丘を持つ古墳が大和盆地に出現しました。やがて、日本列島各地でもそれまでの墓とは比べものにならないほど大きい墓が造られるようになりました。前方後方墳もありますが前方後円墳のほうが大きく、年数が経つにつれて、各地の古墳は次第に前方後円墳に統一されていきました。死者が住む墓の形を同じくしたのは、生者は知ることができないけれどもそうすることによって死者同士をつなぐ何かの益が生まれると生者が考えたからであり、そこに信仰と呼んでよい古代人の想いを見ることができます。また、日本列島ほとんどの地で、数は少ないもののその地域では大型の前方後円墳が古墳時代前期のうちに造られました。その動きは、爆発的に拡がった現象の一つです。

爆発的に拡がった現象としては、古墳時代後期の関東地方に集中して中小の規模差をみせて数多くの前方後円墳がなぜか急激に造られたことのほうが特筆されます。巨大と呼べる超大型の前方後円墳は当時の日本列島では近畿地方の大王墓くらいしか造られなくなっていました。後期の関東に出現したこの現象には、前期と同じ信仰に基づかず生者のための変質した集団意識が存在したようです。しかし、急増した前方後円墳造営はなぜかまた急速に停止しました。それらの現象は、爆発的に華々しく増えそして消えるまさに花火のようでありました。

第330回「保護地域(世界自然遺産、国立公園)と民俗」

開催要項

日程 2011年6月11日
講師 柴崎 茂光 (当館民俗研究系)

開催趣旨

世界自然遺産や国立公園に代表される保護地域は、動植物保護や生物多様性保全の場として注目されています。ただし、保護地域が指定されると保護地域内・周辺に暮らす人々に大きな影響を与えることを考える必要があります。たとえば、保護地域の指定によって脈々と行ってきた狩猟活動や、地域住民のレクリエーションの場が奪われるといった問題が生じています。このほかにも、自然景観や植生ばかりに注目が集まり、鉱山・林業開発に伴う貴重な記録が失われてきています。

その一方で、保護地域の指定によって、新たな民俗・産業が誕生しているのも事実です。山岳道路の延伸によって、以前はめったに来訪しなかった場所で、山菜やキノコを採取するようになりました。エコツーリズムと呼ばれる新たな産業がここ10年で大きな成長を遂げていることも特筆すべきものといえます。

こうした現状を踏まえつつ、地域住民が公園計画に実質的に参加できる仕組みをはじめとした保護地域管理のありかたについて考えていきたいと思います。

第329回「日本刀の素材と刀匠の技術」

開催要項

日程 2011年5月14日
講師 齋藤 努 (当館情報資料研究系)

開催趣旨

刀匠が日本刀を作っている場面をイメージする時、多くの人は、鉄を叩き延ばして刀の形に整えていく様子を思い浮かべるでしょう。しかし、刀匠の作業全体の中でみると、その工程にかける時間はほんのわずかなものにすぎません。ほとんどの時間は、素材を用意することに費やされています。その中でも、「皮鉄(かわがね)」という、刀身の表面に使われる鉄の素材を作るのに、全体の6~7割の時間をかけているといいます。

ここでは、刀匠の技術のうち、皮鉄の素材を作る「卸金(おろしがね)」と「折り返し鍛錬」、それから日本刀作りで最も劇的な瞬間である「焼き入れ」の工程に焦点をあてることにしました。各工程の中でいったい何が起きているのか、さまざまな作業にはどんな意味があるのか、刀匠はどのような点に工夫をこらしているのか、などを、自然科学的なアプローチによって明らかにしていきたいと思います。

なお、調査にあたっては、大和伝保昌派の鍛法を日本で唯一継承する、宮城県大崎市在住の九代目法華三郎信房氏にご協力をいただいています(同氏の作業場は幸い東北地方太平洋沖地震による被害を免れたとの由)。

第328回「木戸侯爵家の成立と木戸家資料」

開催要項

日程 2011年4月9日
講師 田中 正弘 (國學院大學栃木短期大学)

開催趣旨

維新後木戸孝允は、新政府の樹立草創期より総裁局顧問・参与に任じ、あるいは参議として政務の枢機に参画、五箇条の誓文、版籍奉還、廃藩置県など明治初期の全ての重要問題に関与し、その施策は思慮周密であり、明治十(1877)年五月、亡くなるまで内閣顧問の任にありました。勿論孝允は、その意見をすべて貫徹できたわけではありませんでしたが、彼ほど国家の大局を認識し、柔軟な思考で政治の方向性を見通す識見を持ち得たひとは少なかったのです。

木戸家の家督を相続した養嗣子正二郎(正次郎)は、亡父孝允の功績によって明治十一(1878)年華族に列し、さらに明治十七(1884)年、華族令制定によって侯爵を授けられました。しかし同年帰国の船中正二郎が病歿、そこで木戸侯爵家の二代目を実兄来原彦太郎が孝正と改名して継承することとなりました。その孝正の長男が、最後の内大臣木戸幸一です。

本講演では、「木戸家資料」の紹介だけでなく、著名な木戸孝允と木戸幸一を架橋する「木戸侯爵」として、余りよく知られていない孝正と正二郎の二人をとりあげ、彼等の波瀾に満ちた幼少期より欧米への留学、そして岩倉使節の副使として渡米・渡欧したときの木戸孝允の指導と影響、木戸侯爵家の相続問題をめぐる伊藤博文・山尾庸三らの長州派人脈の関係を、さらに木戸家内の人間関係にも言及し、「木戸家資料」中の白眉である歴代の日記が、なぜ代々書き綴られたのか、という疑問の史的背景を探ってみたいと思います。

第326回「戦後民衆史を歩く」

開催要項

日程 2011年2月12日
講師 安田 常雄 (当館副館長)

開催趣旨

戦後という時代は、いつ終わったのだろうか。現在の現代史研究では、人によってメルクマールはちがいますが、ほぼ1970年代のどこかで大きく転回したというのが、通説的イメージでしょう。オイルショックがあり、日中国交回復があり、沖縄の施政権返還も実現しました。しかし同時に「終わらない戦後」という問題(たとえば戦後補償)も残っていて、戦争や植民地などに関わる評価とともに、依然として現在の争点を形成しています。

今回の講演会では、昨年3月にオープンした「現代展示」の後半部分である「大衆文化を通して見た戦後日本のイメージ」を題材に、「展示解説」というより、その戦後認識を支える現代史研究のパースペクティブ(視点と遠近法)を軸に、「戦後日本」の基本的骨組みとその意味について、考えてみることにします。ここで「民衆史」とは、人びとの生活をベースに、生きられた戦後、経験された戦後という意味で使います。「現代展示」の戦後認識は、「喪失と転向」「冷戦」「民主主義」「中流階級化」「忘却」という5つの柱で構成されています。こうした問題がいま私たちのなかに、どのような形で残っているのか、戦後それぞれの時期の「大衆文化」を素材に、1945年から1970年代までの時代を歩いてみたいと思います。

第325回「しぐさの民俗」

開催要項

日程 2011年1月8日
講師 常光 徹 (民俗研究系)

開催趣旨

柳田国男は昭和16(1941)年に発表した「涕泣史談」と題した論文のなかで、音声やしぐさに注目することの大切さを説き、「泣く」ということが社会生活において激変したことを論じています。その後、徐々にではありますが民俗学の分野でも声やしぐさに対する関心がもたれるようになってきました。

今回は呪術的な意味を帯びたしぐさを取り上げてみたいと思います。怪異や妖怪に遭遇したときどうすれば難を免れるか、その対処法としての呪的なしぐさが各地に伝承されています。たとえば、漁師たちは、海上で怪しい船に出合ったら「股のぞき」をして見るとよいという俗信を伝えています。股の間から覗き見ると幽霊船かどうかがわかるといい、このしぐさが日常の時空間の外側の世界と結びついていることを示唆しています。また、狐狸の類に化かされそうなときには、指を組んで「狐の窓」をつくり、中央の穴から見ると相手の正体がわかるといいます。こうした呪的なしぐさのもつ民俗的な意味と構造を探ってみたいと思います。

つぎに、クシャミのまじないを紹介します。クシャミにまつわる民俗は実に多彩です。出かかると自らの意志では制御し難いこの生理現象に対する人々の意識がさまざまな形で表出しているのです。その根底には激しく息をはきだすことが霊魂の動揺や逸脱を誘発するのではないかとの不安が読み取れます。クシャミをした直後に発する多様な呪文に注目し、その民俗的な背景について述べます。