データベース概要

日系アメリカ移民データベース

公開年月:2016年3月


 本データベースは、主として日系アメリカ人に関わる写真、文書、モノ資料を対象としている。
 そもそも、日系アメリカ人とは、広く言えば、日本に出自を有するアメリカ在住者ないしその子孫で、太平洋戦争後についていえば、一般的にはアメリカの市民権を有する人びとのことを指す。その数は、太平洋戦争が開戦した時点で、西海岸諸州で強制収容された人びとだけでも約12万人といわれ、ハワイにはこれとは別に約15万人が暮らしていた。もちろん、それ以前に他界あるいは日本へ出国した者、あるいはその後に出生・移住した者を加えると、その数は膨大なものになる。
 この日系アメリカ人の生活模様や歴史は、これまで研究されてきた以上に多様性がある。彼らの世代交代が進むなかで、それぞれの地域の歴史や他のエスニックグループの動向、アメリカのなかの「他者」からのまなざしをも踏まえながら、歴史をより多角的に検討すべき次期に来ている。
 本データベースは、日系アメリカ人をめぐってこれまで蓄積されてきた知見を踏まえつつも、それぞれの図書館・コレクションの性格を表すような資料を織り込んで作成している。現在、シアトルのウィングルーク・ミュージアムと産業歴史博物館に所蔵される資料を掲載している。

シアトル産業歴史博物館 MOHAI (Museum of History and Industry)

博物館の概要

 シアトルの産業歴史博物館は、1952年に開館した、主としてシアトルの歴史をめぐる展示と資料収集を行っている。2012年の移転に伴い、展示を全面的にリニューアルし、シアトルの歴史展示の充実を図った。展示内容は、日本人移民を含む移民の歴史、差別やマッカーシズムといったいわば歴史の負の側面にも配慮したものとなっている。また同館では、シアトルの歴史に関する資料収集に積極的に取り組んでおり、移民に関わる資料も多く収集・所蔵している。

収録したコレクションの説明

 日系アメリカ人ないし日本に関わる資料の一群がある。その中には、日本人商工会など日系人に関わるもの、日本に起源があるとみられるモノ資料などがある。まとまった資料としてここに紹介しているものとして、菓子製造販売のSagamiya関係資料や、太平洋戦争時に Bailey Gatzert Elementary Schoolに在籍していた日系人児童が、強制収容を前にして学校に寄贈していった人形などの一群がある。
 このうちSagamiyaは、1900年にシアトルのJapan Townに開店し、和菓子を中心に営まれてきた。1909年のアラスカ・ユーコン太平洋博覧会での受賞など、着実に実績を積み、事業を拡大したが、太平洋戦争時の日本人・日系人の強制収容により休業を余儀なくされた。戦後になって店は再開され、1978年の閉店まで営業を続けた。
 Bailey Gatzert Elementary Schoolは、Japan Townに住む日系人の子どもたちが多く通っていたが、太平洋戦争下の強制収容により学校を去って行った。これは、全校生徒の45%に当たる。収容される際に携行できる荷物が制限されていたため、子どもたちは人形などを学校に残していき、その一部がMOHAIに収蔵されるに至っている。
 このほかにも、コレクションには多彩な資料がある。日本や日系人に関わるものとして収蔵されている一群の資料は、移民の歴史の証人であるのみならず、シアトルにおける日本・日系人への関心のありようをも示すものである。

ウィングルーク・ミュージアム (Wing Luke Museum)

博物館の概要

 ウィングルーク・ミュージアムは、1967年に、シアトルの移民街に開館した博物館である。館の名称は、ワシントン州の司法次官補を務め、早世した中国系二世のWing Lukeにちなんでいる。常設展示の内容は、シアトルへの移民の歴史、ならびに移民に対する差別の歴史を中心に構成されており、特定のエスニックグループに偏することなく展示が行われている。同館は、設置場所が移民街であることから、商業関係の資料が集まりやすい環境にある。

収録したコレクションの説明

 本データベースには、このミュージアムが所蔵する資料のうち、シアトルに移住した日本人、村上三蔵がはじめたHigo Storeに関わる資料を中心に掲載している。
 村上三蔵は、シアトルに移住した当初、同市内のOlympus Cafeで働き、その後、1909年にHigo 10 Cents Storeを開店した。そして1932年までに、Japan Townと呼ばれる移民街でもあったJackson StreetにJackson Buildingを建設し、店舗を移した。同店では日本からの輸入品も多く扱い、日本人移民・日系アメリカ人にも多く利用された。
 しかしながら、太平洋戦争開戦後、三蔵はいち早くシアトルの移民帰化局に拘留された。その後、妻マツヨ、子のアヤコ(Betty)、マサコ、カズイチがピュアラップ転住所に送られ、その後ミニドカ強制収容所に収容された。三蔵も後にそこに合流した。
 1945年1月に、村上一家は強制収容所を出て、シアトルに戻ったのだが、その8日後に三蔵は他界した。Higo Storeはその後も家族によって、2003年まで続いた。
 本データベースに掲載した資料には、Higo Storeに関するものに加え、三蔵が当初に働いていたOlympus Cafeの資料、強制収容所時代の資料などがある。



※現在のところ、シアトル産業歴史博物館は英語のみ、ウィングルーク・ミュージアムが日本語のみになっています。
※画像等の使用に関しては、所蔵館の許諾を得て下さい。