展示の裏話

展示のそんなこと、あんなこと、裏話をご紹介します


「明治維新と平田国学」展 第14回 明治初年の政治と平田国学 2004/11/22

平田国学は幕府を崩壊させる上で絶大な役割を果した。とりわけ、天皇と幕府の直結をめざし、尊王翼幕の方針をかかげ、攘夷路線をまっしぐらに進んだ水戸尊攘激派が敦賀での大量処刑・大量処罰により壊滅した以降は、平田国学的な国家の位置づけが、格段と説得性を増していったのである。
従って、慶応3年12月9日の王政復古のクーデタは、全国の平田国学者により、神代への復古、領主の横暴さが消え、残酷な刑罰がなくなり、百姓が安穏に家業をいとなむことが出来る時代が到来したと、もろ手をあげて歓迎された。神葬祭の実現、古代でみられた在地指導者が主役となる祭(まつり)と政(まつりごと)が融合したゆるやかな政治体制が実現されると予想したのである。
だが、権力をにぎった薩長二藩のサムライ官僚が目標としたのは、19世紀後半のヨーロッパの中央集権国家と官僚的軍隊組織であった。そのための唯一の財源として、年責は削ることは出来ず、逆に新たな課税対象が求められることとなる。
政府に従うのか、あるいは古道学の信念に従うのか、明治初年の彼等は、この選択を迫られたのであった。その間の事情を示す諸資料が、このコーナーに展示されているのである。



「明治維新と平田国学」展 第13回 『夜明け前』の世界の平田国学 2004/11/22

「明治維新と平田国学」というテーマを掲げる以上、島崎藤村の名作『夜明け前』を欠くことは出来ない。一般の国民は、明治維新期の平田国学を、江戸・東京での気吹舎の活動からではなく、小説『夜明け前』とその主人公青山半蔵から学んできたのである。そして、青山半蔵は「草莽(そうもう)の国学」の代表的人物として歴史学的にもイメージ化されてきた。もしも、この半蔵イメージが小説家島崎藤村の純粋な想像力だけからの産物であるとしたならば、日本の歴史と文化を研究する上では、あまり大きな意味を持つことはない。この小説は、どれほど当時の実態を反映しているのだろうか?
その歴史的検証の結果報告が今回の特別企画の目的の1つなのである。青山半蔵のモデルとなった島崎藤村の父、熱心な平田国学者であった木曽谷馬籠宿本陣当主島崎正樹の思想と行動は、小説の中に実にきちんと反映されている。これが結論である。更に現実には島崎正樹が、小説よりも生き生きと、ダイナミックに、時代の課題にたちむかっていたことが明らかとなった。それは、正樹が学び、生涯の友を得、そして共に国事運動をおこなった中津川国学者たち(小説の中でも頻繁に登場してくる)の資料が、ほぼ完全な形で子孫の家々に伝えられてきたからである。1つ1つの展示品が小説の背後にあった歴史世界を再現する。



「明治維新と平田国学」展 第12回 幕末の変革と気吹舎 2004/11/22

篤胤が日露危機の中に身を置きつつ考えた、西洋に対する日本のあるべき形は、1853年のペリー来航により、全国から強く求められることになった。仏教の故地インド全域は既に英国の植民地とされ、儒教の故地中国は、11年前、英国に大敗をきっしていたのである。将軍と大名、藩主と家臣、家臣と奉公人といった封建的主従関係よりも、天皇・朝廷を軸とした国の纏りの方が大事なのだ、とする平田国学の基本的な考え方は、この時期からは、従来の神職だけではない、各地の武士層から強い関心を持たれるようになり、武士層の入門者が増大する。展示される資料は、西郷隆盛も再三、江戸の気吹舎を訪れた事実を語っているのである。
気吹舎は、このような状況の中で、全国の政治情報がおのずと入ってくる情報センターとなっていった。どのような藩よりも、その量と質はまさっていた。薩摩藩士益満休之助の銕胤宛の手紙(展示されている)が示しているように、大藩薩摩藩の藩士であり、しかも清河八郎など江戸での尊攘過激派グループと深い結びつきをもっていた益満ですら、1861年5月の東禅寺事件の情報を気吹舎に求めざるを得なかったのである。そして篤胤の嫡孫の延胤が、平田国学者の政治的理論的指導者として成長していく。



「明治維新と平田国学」展 第11回 気吹舎の教育 2004/11/17

第7回の本欄で「気吹舎の出版物」というテーマをとりあげたが、このテーマは本日の教育と結合する問題である。江戸・東京の気吹舎や、また全国各地の平田門人が開く国学塾で使用する多くのテキストが、出版物の主要なジャンルとなるからである。普通の塾で習字の教科書とされていた「千字文」にかわって、平田国学塾では生田万のあらわした「古学二千文」が使用されたのは、その一例である。
ところで、篤胤が気吹舎の号を使いはじめるのが1816年、それ以前は真菅乃屋(ますげのや)の号を用いていた。この初期の篤胤塾の資料も展示されている。
それによると、入門の際の束脩金は金百疋(=一分)から二朱(=五十疋)、外に五節句では祝儀金を出すこととされている。正月に発会(ほっかい)、12月に納会(のうかい)は他塾と同様だが、9月には宣長の霊祭(9月29日没)がおこなわれた。平田神社に伝えられている宣長画像はこの霊祭の時に使われたと思われる。
初期の真菅乃屋時代の様子をリアルに伝えるものに、篤胤の雑記帳(展示されている)に書きとめられた多くの川柳がある。能弁な篤胤は、講釈の中でこれらの川柳を交え、受講者の笑いをさそいつつ、ぐいぐいと自己の学問、自己の神道に引きつけていったのである。



「明治維新と平田国学」展 第10回 三河の平田国学 2004/11/17

今回の特別展での重点の1つは、平田国学のひろまりを、気吹舎門人の側から実証的、具体的に見ていこうという点にある。そのため全国の門人の実体を、東北・関東、中部、畿内、中国・四国、九州の5ブロックに区分して多くの資料を展示している。
ただし、その中でも篤胤時代の特別重要地域は、独立させてコーナーを設けた。1つは前回に解説した下総・上総地域であり、あと1つは今回の三河地域である。
第5回目の本欄であげた篤胤のよきパトロン、ヨーロッパ通知識人でもあった竹尾正鞆も三河の国人だが、この地域で最も精力的に平田国学の普及に努めたのは、豊橋羽田八幡の神職羽田野敬雄であった。彼は1827年に気吹舎に入門、その後40名以上の人々を気吹舎に入門させた。三河地域の門人総数は100名、そのうち神職が42名を数えている。
三河地域で注目すべきことは、日本全国をみてもまれな図書館運動がおこなわれた地域だということである。その中心になったのもこの羽田野であった。羽田八幡文庫が建設されたのが1848年、寄贈中心の集書を一貫して継続し、1876年には10357巻にも達した。平田国学は「知の共有化」の課題についても、先駆的な功績を残したのである。



「明治維新と平田国学」展 第9回 篤胤の地盤は下総・上総 2004/11/17

平田篤胤は江戸で国学の塾(気吹舎(いぶきのや))を開き、自分の著作を刊行しようとした。当初は江戸の武士と町人が門人や支持者・後援者となった。このサークルを拡大しなければ自分の学問はひろまらない、このことを痛感した篤胤が選んだ土地は、武蔵(むさし)でも上野(こうづけ)でも下野(しもつけ)でもなく、現在の千葉県の下総・上総の二ヶ国だったのである。何故篤胤がこの二ヶ国を選んだのかは、平田国学を考える場合、最も興味深いテーマの一つなのである。
篤胤が最初にこの地域をまわったのは1816年、この時は船橋・神崎・香取・鹿島・銚子・飯岡と利根川下流地域をめぐり、第2回目の1819年には、これらの地域のほかに八日市場から上総の国に入り、富田・東金・本納・一の宮などを巡っている。篤胤は、この遊歴の中で、のちに著作としてまとめられることとなる「玉襷(たまだすき)」や「古道大意」を講釈し、門人獲得を精力的におこなっていった。この門人やそのまわりの理解者・支持者が、篤胤著作刊行費用の助成者となっていくのである。これら門人は、村の名主・神職・豪商・豪農など、殆どが村落指導者の人々であった。そして天保期に入ると、平田門人の中から大原幽学の村落復興運動に関係する者も出てくることとなるのである。



「明治維新と平田国学」展 第8回 全国四千余の門人たち 2004/11/15

従来は、平田国学や明治維新と平田国学との関連を調べるためには、『平田篤胤全集』が手掛りとされてきた。しかしながら篤胤は1843年に追放先の秋田で病没しており、他方幕末の開始は1853年のペリー来航である。幕末維新期の人々がなにを平田国学に求めていったのかは、篤胤の思想を調べたところで、直接解答は出にくいのである。ところが、今回の調査で、幕末維新期の全国各地の門人からの手紙が豊富に存在することがわかってきた。平田国学を社会思想・政治思想から知ろうとするならば、むしろ、このような多くの手紙から、彼等が何を質問し、どんな出版物を求めていたのか、という基礎的な実証研究から始めなければならないのである。
また門人研究も、これまでは、「門人帳」や「誓詞帳」しか利用できなかった。そのため紹介者や入門の年月日まではわかるものの、入門以降の彼等の気吹舎との接触、交流の実態は全く不明のままだったのである。しかしながら、今回の調査により、ほぼ全期間、気吹舎日記が存在していること、更に1840年代からは日々の書籍売上げ高など諸収入がわかる「入金覚」すら作成されていることが判明した。幕末維新期という、全国的規模でダイナミックな運動が展開される時期での平田国学の全体像を知る手掛りが、ここに確保されたのである。



「明治維新と平田国学」展 第7回 気吹舎の出版物 2004/11/15

もし世間から孤立し、世間に受けいれられなかった思想家を研究するのではなく、世の動向に影響されつつ思考を重ね、そして世の動向に大きな影響力を与えつづけた思想を社会思想として研究しようとするならば、篤胤・銕胤(かねたね)・延胤三代の国学塾たる気吹舎(いぶきのや)の思想は研究対象として最適なものの一つだろう。そして気吹舎は、塾教育とむすびつけながら、きわめて多種多様な出版物を刊行していったのである。何年に刊行したのかが総てわかるし、何部販売されたかも総て判明する。どのような著作がどのくらい読まれたか、これも新発見の資料として展示されている。社会思想としても出版文化としても、これほど完備している資料は、近世後期から明治初年にかけては、他に存在はしてはいないのである。
と同時に、気吹舎は、特定の本は、あえて刊行せず、写本としてのみ少量を流通させていたかも明らかとなった。儒学が国定のイデオロギーであり、仏教が事実上の国教である以上、この問題には細心の注意が必要とされていたのである。この結果、幕末期には、社会的需要が多く、しかも気吹舎が刊行を拒んでいた「出定笑語」などは、木活字本で海賊版が出されることとなる。



「明治維新と平田国学」展 第6回 見えぬ世を見る方法 2004/11/15

19世紀初頭の日本の学術と文化は、ヨーロッパの科学とその基底をつくり出してきたキリスト教をはっきりと意識しながら、それに対抗しうる日本的なものはなにかを模索しはじめた。篤胤の解答は一つの提案だった。それがいやなら自分で納得するものを、自分で見い出さなければならなかった。ことは人の問題ではなく、自分自身の問題だったからである。
篤胤が『霊能真柱(たまのみはしら)』で問いかけた第二の問題は霊魂の行先きについてであった。仏教の六道輪廻(りくどうりんね)や極楽往生でも、儒教の鬼神論的説明でも、また宣長の黄泉国(よみのくに)への消滅でもない、父祖の霊、祖先の霊はみじかな「幽世(かくりよ)」から我々の家の繁栄と郷里の安穏を見守っている、「幽世」からは「現世(うつしよ)」を見ることは出来るが、その逆は不可能だとの篤胤理論により、日本人は、ここにはじめて仏教的説明も儒教的説明も必要としない、しかも親しみやすい霊魂論を得ることが出来た。仏教と寺院に支配されていた神職と神社は求めていた理論をここに獲得した。復古神道の基礎はここに据えられた。見えぬ世を見るために、異界に赴いた例外的な経験が貪欲に記録され始めた。展示品には篤胤そのようなフィールドノートも陳列されているのである。



「明治維新と平田国学」展 第5回 地動説と記紀神話 2004/11/10

「篤胤って「古事記」なり「日本書紀」の神話を信じていた人だろう、儒教的合理主義と国学的非合理主義っていわれているよ」と、大学の先生の講義を思い出す学生も少なからずいるのではないだろうか?
だがことはそう単純ではない。篤胤が江戸で学んだことは、これまで真実だと思ってきた儒教的“知の体系”が大きく誤っており、ヨーロッパのそれが実証的で科学的だという、恐ろしい真実だったのである。儒学が前提とし、仏教的世界観も当たり前だとしてきた天動説ではなく、地動説が正しいとすれば、この宇宙の起源とはいかなるものでなければならないのか?1813年に刊行された篤胤の主著『霊能真柱(たまのみはしら)』の第一の問いかけは正にこの問題だったのである。
展示品の一つに、三河の神職で篤胤のパトロンでもあった竹尾正鞆(まさとも)の篤胤宛の手紙がある。そこで正鞆は、仏教的宇宙論の正しさを主張し、全国で仏教暦普及運動をすすめていた円通が今江戸にいっている、彼はコペルニクスのことも知らない馬鹿な僧侶だ、厳しく論争したらどうかと勧めている。この正鞆も、世界地理学の最新成果を集め、天体観測を自身でおこなっていた三河屈指のヨーロッパ通知識人だったのである。儒教や仏教に対する篤胤の批判の鋭い武器がこの地動説だった。だが、ことはそれほど単純ではないことを知らない大学の先生はまだ存在している。



「明治維新と平田国学」展 第4回 織瀬との恋 2004/11/10

篤胤の国学は本居宣長の国学とよく比較される。宣長は「源氏物語」を愛し、もののあわれを論じた。他方篤胤は恋歌をよまず、門人にも、そのようなことは国学の趣旨に合ないといいつづけた。だから、篤胤国学は文学を理解できないものの国学、武張った学問とされやすいのである。
しかし、篤胤のこのような態度は、男女の感情の機微に鈍感だったためである、と結論づけることに、新史料は“待った”をかけている。
その一つが、著名な備中の国学者藤井高尚の篤胤宛礼状である。高尚は「伊勢物語新釈」を執筆中、第14段の「夜も明けばきつにはめなでくたかけの」の歌の「きつ」の解釈に苦しんでいたが、伴信友より篤胤のユニークな解釈を伝えられ、貴説を使用したいと感謝かたがた断りを入れている。篤胤は恋物語の名作「伊勢物語」もじっくりと研究していたのである。
男女の機微を学問的に研究したどころではない。篤胤は沼津藩士石橋清左衛門の娘織瀬(恐らくかぞえで18歳)と深く愛し合う仲となった。国学者としてこのような切実な実体験をしたのは彼一人だろう。だが織瀬は某旗本の奥に勤め、篤胤は同家のしがない武家奉公人。佐竹藩を脱藩、みよりもなく流浪人でしかなかった篤胤が、この恋をいかに着実に筋道をつけ実現させていったのか、その史料も展示品の一つなのである。



「明治維新と平田国学」展 第3回 ロシア語辞書をつくった篤胤 2004/11/10

現在では、あらゆる学問が細分化されてしまった。大学で日本史や日本文化を専攻するのは、きらいな語学がないからだ、などと公言する学生もめずらしくない。
日本の古代の歴史や文化を研究する篤胤が、なんでまたロシア語なぞを学ぶために、自分で辞書まで編集するのだと、展示品の二册の篤胤編ロシア語辞書を見て、驚く人が多いのではないだろうか。
篤胤は1776年、秋田の城下町で百石取りの大和田家の四男に生れ、1795年、20歳の年に脱藩、無一文に近い状態で江戸に出た。
この時篤胤は国学を学ぶために出府したのではない。本居宣長の業績に接したのは1803年のことなのである。篤胤が学ぼうとしたのは、江戸での最新の学問、西洋の医学・地理学そして天文学であったと思われる。
なぜそうなったのか?1792年、ラクスマンがエゾ地に来航、日本に通商を求めて以来、日露関係が時代の最大課題となってきた。秋田はエゾ地に近い北国である。この時以降、日本は西洋と正面から向き会うことを強制される。篤胤は幕府内の極秘文書まで、どうやってか入手し、日露問題の推移と問題の本質を知ろうとした。だが、この強圧に対し守るべき日本の価値とは何か?このような自己への切実な問いかけがあったからこそ、国学に出合うことになるのである。



「明治維新と平田国学」展 第2回 篤胤の将門信仰 2004/11/04

平田篤胤ほど固定イメージをいだかれている人物も少ないのではないか?平田国学の話をすると、ほとんどの場合、廃仏毀釈の張本人ではないか、とか、戦前諸宗教の上に君臨した国家神道の創唱者ではないのか、といった意見や批判が出てくる。
また性格的にも偏狭で、国粋主義的な国学者の立場から、僧侶や儒者にガミガミ攻撃的な非難をあびせた、といったイメージをもたれているらしい。
しかし、今回の展示品の中に、篤胤が大事にしていた新井白石肖像画があるように、学者としてすぐれ、実証的に論理的に学問をおこなう人物に対しては、相手が儒者であれ、深い尊敬の念をいだき、自己をその域に達しようと日夜努力したのである。
また国家神道の親玉といったイメージをもっている人々には、展示されている平将門神像をみて、びっくりするにちがいない。この平将門像は、1825年、常陸国から江戸の篤胤宅に持ってこられたものであり、篤胤の信仰あつく、平田家に今日迄伝えられてきたものである。
国家神道の立場からすれば、将門は天皇への反逆者以外のなにものでもないのに、なぜ篤胤がこれほど深く信仰したのか、このあたりの謎解きから、平田国学や篤胤の説いた復古神道への理解が始るのだろう。



「明治維新と平田国学」展 第1回 今なぜ篤胤か? 2004/11/04

10月13日から12月5日までの約2ヶ月間、国立歴史民俗博物館では特別展示「明治維新と平田国学」を開催している。
平田国学とは、平田篤胤が樹立し、その養子の銕胤(かねたね)、孫の延胤によって維持発展された学問であり、明治維新の際には非常に大きな役割を果したのである。 しかしながら、平田篤胤は、その名前だけはよく知られているにしても、実際なにをした人物なのか、ということは明らかになってこなかった。また戦時中には、篤胤の思想なるものが軍部その他の戦争推進者たちに一面的に利用されたため、60代以上の人々には、篤胤に対する拒否感も少なからず存在している。
歴博の研究グループは、2001年10月より、東京代々木の平田神社に伝えられた平田家三代の平田家資料の整理をおこない、今年の初頭迄に全資料の一点目録作成を終了した。その中で続々と新資料が発見され、これまで流布している固定的なイメージでは全く理解不可能なことがわかってきた。戦時中につくりあげられた一面的な篤胤像ではなく、18世紀末から19世紀初頭にその青春をむかえ、時代の根本課題から立ちむかったリアルタイムの篤胤像とその思想の行末を、具体的な当時の諸資料から再構成することが、今回の特別企画の目的である。



私は見た! 展示の裏側 2004/08/05

現在、歴博では企画展示「海をわたった華花」が開催されています。
これは開催わずか数日前の状況を写した写真です。資料の搬入や演示が行なわれつつあります。これから密度の濃い時間が立ち込めます。展示担当の職員にとっては一刻たりとも気を抜けない時間が続き、完了するまで緊張の連続で、時間の観念も薄らいでしまいます。
いままで、数年に渡り研究・検討を行なった成果を、展示のプロジェクトを立上げ眼に見える形で表した集大成です。あれもこれも展示したいが、限られた空間でどう表現したら展示趣旨・研究成果を伝えることができるか。展示できるのは資料の一部 だけです。
展示には全て意図があります。展示室に足を踏み入れたときから研究者とあなたの対話が始まっています。ただ歩いているだけでは対話は成り立ちません。なぜこれがここにあるのか、立ち止まり良く見て、周りを見回して考えてみてください。
古いことから学び、現代でも実践・応用できるような新しい発見があなたを待っているかもしれません。   (ほ)




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