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1.義民の世界 佐倉惣五郎伝説

東山桜荘子 嘉永四(1851)年、歌舞伎に新しいヒーローがうまれた。
「東山桜荘子」(ひがしやまさくらのそうし)の主人公浅倉当吾こと佐倉惣五郎がその人である。
百姓一揆がテーマであるこの作品は、関係者の予想をはるかに超えるヒットとなり、またたく間に日本中に広まった。

東山桜荘子 各地の農村では、この物語を受け入れる素地ができていたのである。
幕府が作られてから250年、数多くの百姓一揆が発生し、義民を顕彰する活動も十八世紀後半から活発になっていった。
明治以降も惣五郎歌舞伎は頻繁に上演され、佐倉義民伝として定着した。


東山桜荘子 また講談・浪花節などでも積極的に取りあげられた。
福沢諭吉や自由民権活動家は、彼らの主張の先駆者として惣五郎をとりあげた。
また昭和恐慌や戦後改革の時期などに、惣五郎の物語は新たな解釈を伴いながら思い起こされた。
西暦2000年の今、惣五郎物語は何を語ってくれるのだろうか。

図版:東山桜荘子 国立歴史民俗博物館蔵




佐倉藩と"惣五郎一揆"
惣五郎一揆を証明しうる史料はない。
彼が行ったとされる将軍直訴の年代も、いくつかの説がある。
ただ公津台方(こうづだいかた)村に惣五郎という百姓がいたことは、地押(じおし)帳、名寄(なよせ)帳の記載から確かである。
この惣五郎が藩と公事(くじ:訴訟)して破れ、恨みを残して処刑されたこと、その惣五郎の霊が祟りを起こし、堀田氏を滅ぼしたことがあり、人々は彼の霊を鎮めるために将門山(まさかどやま)に祀ったという話が、公津村を中心に佐倉領内の人々に伝えられていった。

惣五郎物語の成立
宝暦二(1752)年は惣五郎の百周忌にあたる。
延享三(1746)年、山形から入封した堀田正亮(正信の弟正俊の家系)は、惣五郎を顕彰するために口の明神を遷宮し、涼風道閑居士と謚した。
藩が認めた惣五郎の話は、十八世紀後半に一挙に体裁を整えた。
『地蔵堂通夜物語』・『堀田騒動記』という惣五郎物語が完成した。
この物語は、苛政→門訴(もんそ)→老中駕籠(かご)訴→将軍直訴→処刑→怨霊という筋を持ち、化政期から幕末にかけて盛んに筆写された。

歌舞伎の惣五郎
東山桜荘子 「東山桜荘子」は嘉永(1850年代)の大ヒット後、幕末から昭和初年まで頻繁に上演された。
外題は改作にともない「花雲佐倉曙(はなぐもりさくらのあけぼの)」、「桜荘子後日文談」などと変化するが、明治30年代ごろから、「佐倉義民伝」として定着する。
見せ場は宗吾と叔父光然の祟りと、歌舞伎で挿入された甚兵衛渡し・子別れという宗吾の苦悩、甚兵衛の義心である。
嘉永のヒットの要因は祟りの場であったが、明治以降次第に減少し、甚兵衛渡しと子別れが物語の中心となる。
図版:東山桜荘子 国立歴史民俗博物館蔵

ひろがる惣五郎
歌舞伎の成功により講談や浪花節などでも惣五郎物語が取りあげられ、各地で物語が写本された。
幕末から明治初年の一揆では、その組織化に惣五郎物語が取り入れられることもあった。
自由民権家は惣五郎を民権の先駆者としてとらえ、その偉業を受け継ごうとした。
惣五郎物語は数多く出版され、日本の代表的な物語として外国語に翻訳されたりした。
東勝寺は宗吾霊堂として多くの信者を集め、全国に惣五郎を祀る神社などが建立された。
(保坂智 企画展示「地鳴り山鳴り−民衆のたたかい三百年−」図録より転載)


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